山梨文学講座 山口素堂
1、素堂が生きた江戸時代 江戸の火事『むさしあぶみ』より引用。(1)
寛永十八年 1641 正月廿九日子の刻桶町より出火、八千余軒を焼亡し、翌朝日夜戌の刻に止む。 (町数九十七丁。武家屋敷千百二十四軒) この火事は日本橋桶町(南槙町と南大工町の間、現在の中央区八重州四丁目の辺り)から出火し、二日二夜燃えつづけ、江戸開府以来の大火となった。なおこのとき、町奉行加々爪民部少輔忠澄が殉職したともいう。
明暦 三年 1657 正月江戸大火(本郷丸山) 江戸時代最大の火事、本郷丸山の本妙寺から出火し、俗に「振袖火事」ともいい、焼死者十万七千余人戸伝えられる。
明暦 四年 1658 正月 十日御茶の水より出火し、新橋一丁目に至る。丁数二百九丁半、家数四千四百二十一軒類焼
万治 三年 1660 正月十四日湯島天神前より出火し、霊岩島に至る。この年正月より三月二十五日迄に出火およそ百五度という。
万治 四年 1661 正月十九日 二十日
寛文 八年 1668 二月 朔日(素堂27才)
寛文 十年 1670 二月 朔日午の刻牛込榎町酒井修理太夫邸より出火し、芝金杉海岸に至る。未の刻本郷御茶の水より出火し日本橋に至る。
寛文 十年 1670 二月 四日巳の刻、四谷与力町より出火し品川に至り丑の刻に鎮火す。 申の刻に下谷寺町より出火し、永代島に至る。
寛文 十年 1670 二月 六日午の刻に小日向より出火し。飯田町に至る。
延宝 四年 1676 十二月廿六日江戸大火、寅の刻筋違橋より出火。
天和 二年 1682 十一月廿六日巳の刻、牛込川田窪竹町より出火し、芝札の辻に至る。巳の刻、川田窪竹町より出火し、四谷、赤坂に至り、同刻麻布上杉弾正大弼屋敷より出火し、芝札の辻に至る)
天和 二年 1682 十二月廿八日末の刻本郷追分より出火し本所三ツ目に至る。 註…この火事を八百屋お七の放火によるものとされているが、実はこのとき既に、お七は伝馬町につながれ、御仕置を待つ身であった。
天和 三年 1683 十二月 五日亥の刻、通塩町壱丁目より出火。
天和 三年 1683 二月 八日未の刻四谷石切り伝馬町より出火し、芝金杉海手に至り、寅刻に鎮火す。万石以上八十七軒、千石以上四十二軒、寺三百七十三ケ寺、町数三十町余、町屋六万七千四百五軒。 註…この火事に、紀伊大納言別邸も焼失せり。
元禄 八年 1695 十二月廿六日数寄屋橋より出火し、新橋辺東西二十町、南北八町余焼失す。
元禄十一年 1698 九月 六日南鍋町新橋より出火し、千住掃部宿に至り、長さ三里余、横四十町焼失す 註…この時、東叡山御仏殿炎上す。
元禄十一年 1698 十二月 十日石町二丁目より出火し、佃島に至る。長さ二里余、横二十町焼失。
元禄十二年 1699 四月 四日日本橋釘町より出火し、神田見付に至る。長さ二十七町、横十五町。
元禄十五年 1702 二月十一日辰の刻、四谷大木戸より出火し、品川に至る。長さ二里余、横十一町。 註…申の刻鎮火し、この時、麻布御殿、品川御殿炎上す。
元禄十六年 1703 十一月十八日午の刻四谷北伊賀町より出火し、芝札の辻に至り、戌の刻鎮火す。 註…この時、紀伊殿並びに鶴姫君御守殿炎上す。
元禄十六年 1703 十一月廿九日戌の刻、小石川水戸邸より出火し、深川永代島八幡後に至る。この時、湯島天神祠、神田明神祠、昌平坂大成殿、筋違橋郭門焼失す。
宝永 三年 1706 正月十四日神田連雀町より出火し、浜町に至り、七十丁余を延焼す。
宝永 四年 1707 正月十五日申の刻、浜町新同心より出火し、南本所業平塚に至り、寅の刻に鎮火す。
宝永 四年 1707 三月 日亀井町より出火し、永代島に至る。
宝永 四年 1707 八月 朔日隆(立)慶橋より出火し、小石川に至る。
宝永 七年 1710十二月十九日 未の半刻、神田小柳町より出火し、霊岸島に至る。長さ二十五町、幅三、四町より七、八町に至る。
正徳 元年 1711 正月 四日未の刻、芝土器町より出火し、海辺に至り、夜の入りて鎮火す。
正徳 元年 1711 正月十九日和泉町より出火し、霊岸島に至る。
正徳 元年 1711 十二月十一日申の刻、神田連雀町より出火し、霊岸島に至り、寅刻に鎮火す。
正徳 二年 1713 二月 八日浅草観音裏より出火し、本所四ツ目に至る。長さ三里余、幅十三丁。
正徳 三年 1714 十二月廿二日辰の刻、下谷池の端より出火し、長さ一里十八町、幅十三町を焼き丑の刻に鎮火す。千 三百余家を焼亡す。(この時の死者三百人という)
正徳 五年 1715 十二月 晦日夜八つ時、大名小路より出火し、芝口に至り翌正月元日未の刻鎮火す。
享保 元年 1716 正月十一日酉の刻、下谷池の端より出火し、霊岸島に至る。
享保 元年 1716 正月 十八日午の刻浅草吹分所辺りより出火し、本所、深川に至る。
2、素堂翁関連記事 素堂が生きた江戸時代の災害 江戸の災害(素堂翁の生きた江戸時代 関連)
延宝八年(1680) 素堂翁 三十九歳。
延宝八年八月六日水災では、正午から二時頃までに台風による風害で約三四二○戸の倒壊があった。ぢかし満潮時の午後二時頃南風が強いなかを津波が本所(隅田区南部)深川(江東区西部)芝(港区東部)築地、八丁掘、浜町(中央区東部)に寄せてきたため、溺死者七○○人を出している。この時は横須賀に至るまで被災した。『玉露叢』には、「高潮のあぐること所により家の床より四尺五尺、或は七尺八尺、又は床の上五寸三寸もあり、前代未聞の沙汰なり。」とあって最大二メ−トル以上も冠水した。
台風(『江戸・東京の地震と火災』山本純美氏著)
明暦二年(1656) 八月二十二日 台風 素堂翁十五歳。宝永元年(1704) 素堂翁六十二歳。
宝永元年七月五日 大雨 七月五日水災では、利根川と中川の堤防決潰があった。『武蔵通志』には「葛西本所の辺に漲して大に水害を蒙る」とある。七月五日以来の大雨で七月一日は隅田川永代橋と両国橋は危険となって渡橋は禁止された。七月三日の利根川猿が股堤防決潰で葛飾一帯は冠水した。当時の聞き書き記録である『月堂見聞集』には「津波の如く一面大川に成り」とある。七月五、六日は本所・深川で床上六尺(1620メ−トル)に増水したうえ、大地震が頻発したため、その恐怖は想像に余りある。云々
地震(『江戸・東京の地震と火災』山本純美氏著)
素堂 六歳。正保四年(1647)五月十四日 江戸川東京湾地震帯
素堂 八歳。慶安二年(1649)六月二十日 江戸川東京湾地震帯(大地震) 七月二十五日 地震帯不明 この地震では江戸城の石垣が崩れ、上野寛永寺にあった大仏は頭部が割れて落ちた。民家の被害は大。
素堂 六十一歳。元禄十年(1697)十月十二日 鎌倉大地震
元禄十六年十一月二十二日、 関東地方の江戸から小田原にかけて被災た。この時、『月堂見聞集』という伝聞記録によると、江戸中の土蔵は残らず崩壊し、数寄屋橋見附門の倒壊で死者四十人を出した。津波も江戸橋まで押し寄せている。関東一帯での死者は五千二百三十三人と伝えられる。震源地は房総半島であった。
素堂 六十四歳。宝永三年(1706)九月十五日 江戸川東京湾地震帯 |
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