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青森県 十和田市+十和田湖町=十和田市 (新設合併、05年1月1日)
青森県中部にある十和田市と、十和田湖に接する十和田湖町が合併して、1つの市になりました。
この地域では02年1月、三沢市・野辺地町・七戸町・横浜町・上北町・東北町・天間林村・六ヶ所村を含む10市町村で、合併の研究を開始しました。
02年5月に、この研究はいったん終了し、枠組みの議論が始まりました。十和田市・十和田湖町はこの時点で2市町の枠組みを選択。「新市まちづくり検討会」
による新市のまちづくりの方向性検討や、財政シュミレーションなどを経て、03年3月、任意協議会が設置されました。任意協議会では「新市将来構想」の策定や
住民意識調査などが実施され、03年11月、法定協議会に移行します。
十和田市の人口が約6万3千人であるのに対し、十和田湖町は約6千人。通常であれば編入合併になりそうですが、合併の方式は新設合併としました。
新市役所の位置については、一部に分庁方式をとってほしいという要望はあったものの、異論無く十和田市役所に決まりました。なおその後庁舎の機能分担に
関し、分庁舎方式は採用しないものの、観光交流部と経済部畜産林政課を旧十和田湖町役場に設置することを決めています。
新市の名称については、議論が紛糾しました。まず会長(十和田市長)は、「十和田市・十和田湖市のいずれかにしたい」と提案しました。
協議会は「十和田市」「十和田湖市」の2論で真っ二つに分かれました。
十和田市案を推す根拠としては、
・経費面で有利
・現在の十和田市域は湖から遠く、「十和田湖」だけがこの地域の特色を示すものではない。
・十和田湖市とすると、道路標識で「十和田湖」とあるのが「十和田湖市の市街地」なのか「十和田湖畔」なのか分からなくなる。
・「湖」の名前を「湖」の文字まで含めて市の名称とした例は無い。
十和田湖市案を推す根拠としては、
・観光面でのインパクト
・もともと十和田市も、十和田湖から名づけられたもの
・秋田県に「十和田湖市」を取られないためには、先に名づける必要がある。
などが挙げられました。
協議会で幾度も議論されましたが、結論が出ず、委員から首長・議会議長・議会特別委員長による6者会談で決着を付ける案が提示され、了承されました。
そもそもこの地域の自治体名は、複雑な経緯を経ています。昭和30年、合併前の十和田市は「三本木市」として誕生。当時、合併前の十和田湖町は十和田町と
いう名前でした。同じ昭和30年、秋田県に「十和田町」(昭和47年に合併し「鹿角市」に)ができました。昭和31年、秋田に「十和田」のブランドイメージをとられる
と危機感を感じた当時の青森県十和田町長は三本木市長に、「十和田市」への改名を要請。三本木市長は快諾し、名称を「十和田市」に変更しています。そして
昭和50年に、十和田市と十和田町が隣接していたことから、十和田町が「十和田湖町」に町名を変更しました。
すなわち、十和田市側にとっては「十和田湖町に協力して市名を変えた」という意識があり、十和田湖町側にとっては、「十和田はそもそも十和田湖から来ている
のだから、十和田湖市でもいいのではないか」という意識があるのです。
6者協議でも議論は紛糾しましたが、4度の調整を経て、「十和田は国立公園名にもあるように、八甲田・奥入瀬を含む広域名称として新市名にふさわしい」
「三本木市から十和田市に変更した信頼と協調の歴史的背景を尊重」の2点を理由に「十和田市」とすることで決着。協議会でも承認されました。
議員の任期の扱いについては、長期間にわたる調整の結果、「2年の在任特例適用、特例終了後の定数は26」という案が事務局から提案されました。
現在の議員の任期が07年4月であることから、法定の上限まで在任特例を適用しました。また定数については、法定上限は30なのですが、現在の十和田市の
定数が22であるため、2市町の人口比からしてそんなには増やせないため、26としました。協議会では異論無く承認されました。
04年5月に全ての協議が終了。7月に合併協定書に調印しました。
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栃木県 黒磯市+西那須野町+塩原町=那須塩原市 (新設合併、05年1月1日)
栃木県北部にある黒磯市と周辺にある2町が合併して新しい市になりました。
この地域は、合併の枠組みでかなり混乱しました。
もともと黒磯市は、那須町を含む4市町での合併を志向していました。一方で大田原市を中心に、4市町に大田原市・黒羽町・湯津上村を加えた広域7市町村での
合併を求める声もありました。
01年6月、黒磯市などは那須町を含む4市町で「ステップアップ研究会」を設置。02年9月には合併研究会を立ち上げました。02年12月、3市町は法定協議会
設置に動き出しますが、黒磯市との2市町での合併を考えていた那須町は、この動きに加わることを断念。03年1月、3市町で法定協議会を設置しました。
一方、設置後も黒磯市内の住民の一部や、大田原市などは広域合併に向けた動きを続けます。栃木県知事も、広域合併を支持する姿勢を示し、この動きを
側面から支援しましたが、流れを変えるには至らず、03年11月に大田原市が黒羽町・湯津上村と3市町村で法定協議会を設置すると、7市町村合併の動きは
縮小していきました。結局、那須町は当面単独自治を続けることになり、大田原市など3市町は05年10月の合併を目指すことになりました。
新市の名称については、3市町の住民を対象に公募を行いました。公募の時点で、3市町村の名前は候補から除外しています。
<公募結果上位>
1位 那須塩原 752票 2位 那須野ヶ原 197票 3位 那須野 191票 4位 なすの 172票 5位 那須 138票
協議会では、公募の得票数は公開されず、幹事会が選んだ13候補をもとに投票にかけることになりました。候補は以下の通り。
「磯野原」「北那須」「新那須」「那須」「なす」「那須高原」「那須塩原」「なすしおばら」「那須野」「なすの」「那須野が原」「那須野ヶ原」「みどり」
なお「那須」「なす」については、那須町側から「紛らわしいので採用しないで欲しい」という趣旨の要望がなされていました。しかし、協議会はこれを候補から
除外しないまま、投票を実施しました。
<投票結果>
那須塩原 15 那須 7 なすの 3 (その他の候補は得票なし)
以上より、「那須塩原市」に決定しました。新幹線の駅名で、かつ両方の観光地(ただし那須温泉は那須町にある)を織り込んでおり、公募でも圧倒的な1位
でしたから、妥当な選択といえましょう。
新市役所の位置については、合併後に新庁舎を建設することを前提に議論することになりました。そして3市町の協議の結果、以下の通り提案されました。
・新庁舎建設までの間は、現在の黒磯市役所を本庁とする。
・西那須野町に支所、塩原町に支所・出張所を置き、総合支所方式を採用する。
・将来の新庁舎は那須塩原駅周辺に建設する。
那須塩原駅周辺は、黒磯市内ではありますが、黒磯市と西那須野町の両中心市街地の、ほぼ中間点にあり、3市町域からの交通の便が良いことから、広域拠点
として整備することになっている地域です。なお、合併時の市役所の位置を黒磯市としたのは、人口規模の差(黒磯約6万、西那須野約4万5千)、敷地面積・延床
面積で広い点などを考慮しています。3市町で最も新しい庁舎を持つ西那須野町の委員から異論が出たものの、大方の同意は得られ、承認されました。
(なお、現在の黒磯市役所は、合併後は、本庁の位置づけのほかに旧黒磯市域の総合支所の役割を果たすことから、黒磯市役所も他の町役場同様、支所となる
ことを明記すべき、という意見があり、上記提案は、「現在の黒磯市役所に本庁及び支所を置く」と修正されています)
議員の任期の扱いについては、黒磯市議会の意見は「在任特例1年以内、特例終了後の定数は法定上限の34」、西那須野町議会の意見は「在任特例2年以内、
特例終了後の定数は30」、塩原町議会の意見は「在任特例は2年以内、特例終了後の定数は34、旧町村ごとに選挙区を設置」という形でまとまりました。
民間の意見は、「在任特例不適用、特例終了後の定数は25〜30」というのが大勢でした。この回ではまとまらず、継続協議となりました。
次回の協議会では、黒磯市議会が特例終了後の定数を32に譲歩。西那須野町議会は、特例終了後の定数を32とし、在任特例期間は再検討中。塩原町議会は
在任特例1年以内、特例終了後の定数を32、選挙区は設置しないと譲歩しました。この時点で、3市町の議会は特例終了後の定数32と、選挙区を設置しないこと
では一致していることになります。しかし、民間委員の主張は変わらず、これでもまとまりませんでした。
最終的に民間委員の意見と議会の意見を調整する場が設けられ、以下の調整案がまとまり提案されました。
「4ヶ月の在任特例適用」「特例終了後の定数は32」「その後の定数は新市で協議」
住民側に在任特例への反対論が強い中で、期間が大幅に短縮されての決着でした。協議会ではこの調整案通り承認されました。
なお、国民保険税・手数料の2点に関して、いったん決定した事項について、西那須野町議会が変更を要望。それを踏まえ再修正(国民保険税・手数料の引き下げ)
がなされる一幕があり、この協議を最後に、04年5月、全ての協議が終了。6月に合併協定書に調印しました。
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群馬県 伊勢崎市+赤堀町+東村+境町=伊勢崎市 (新設合併、05年1月1日)
群馬県南部の伊勢崎市が東に広がる3町村と合併して、1つの市になりました。
01年11月頃から、伊勢崎市と佐波郡の4町村(玉村町含む)は、合併に向けた研究を始めました。高崎市にも隣接する玉村町は、高崎市などとの合併も視野に
両にらみの姿勢をとっており、伊勢崎市との合併にはあまり本腰を入れませんでした。02年11月に4市町村で任意協議会を設置しましたが、玉村町はオブザー
バーとしての参加にとどまりました。この間、玉村町長は、「第1段階として伊勢崎市などと合併、その後に政令指定都市を作る大同合併」という2段階合併論を
提唱したりしていましたが、03年2月の町民5000人アンケートで、「現状維持」が多数となったことから当面の合併を断念、任意協議会から正式に離脱しました。
この時点で、4市町村の枠組みが確定します。03年6月、東村は合併の是非を問う住民投票を実施、賛成60.7%、反対39.3%となりました。ほかの市町でも
住民アンケートが実施され、いずれも合併に前向きな結果となったことから、03年8月、法定協議会に移行しました。
合併の方式については、任意協議会で新設合併とすることで合意が得られていたため、異論無く決まりました。伊勢崎市の人口が新市の約65%を占めるの
ですが、編入合併とはなりませんでした。
新市役所の位置については、異論無く伊勢崎市役所とすることで決まりました。
新市の名称については、全国公募が行われました。結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 伊勢崎 6202票 2位 日鶴 1229票 3位 いせさき 692票 4位 佐波 116票 5位 新伊勢崎 107票
小委員会で、2段階で候補を絞り込み、以下の5つを協議会に提案しました。
「伊勢崎」「いせさき」「日鶴」「佐波」「伊佐波」
公募2位にもなっている「日鶴」は、群馬県の形が鶴に似ていることから付けられたそうです。
協議会では、境町や赤堀町の委員からも「伊勢崎市」でよいという意見が出て、異論無く「伊勢崎市」に決まりました。
議員の任期の扱いについては、各市町村議会議員が集まった「伊勢崎佐波議員行政研究会」という組織の中で調整され、議会側から「1年4ヶ月の在任特例、
特例終了後の定数は法定上限の34、議員の報酬は伊勢崎市の現行水準に合わせる」という案が提示されました。これに対し、境町では自治組織の代表
である区長会から、在任特例とその間の報酬に関し反対する意見書が出されました。これらを踏まえて、報酬については、「合併後に第三者期間等で検討協議
する」ということで先送りする修正案が示されました。現在の伊勢崎市議の水準を上限として、報酬を複数設ける(旧市議と旧各町議の報酬を分ける)ことを含めて
検討するというものです。なぜ合併前に決められないのか、という異論もありましたが、この修正案通りで承認されました。
04年3月に全ての協議が終了。7月には境町で合併の是非を問う住民投票が行われ、賛成74.1%、反対25.9%となり、4市町村の合併が事実上確定しました。
同じ7月に合併協定書に調印しました。
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埼玉県 飯能市+名栗村=飯能市 (編入合併、05年1月1日)
埼玉県南西部にある飯能市が、西に接する名栗村を編入しました。
飯能市の人口が約8万2千人であるのに対し、名栗村はわずか約2500人であり、救済合併の色彩が強い合併です。
02年11月、名栗村は飯能市に合併研究会の設置を依頼しました。その申し入れを受けて、2市町は12月から合併研究会を5度にわたり開催。03年7月に
法定協議会に移行しました。
合併の方式については、現実に規模の差が著しいことから、名栗村から編入合併でよいとの提案がなされ、飯能市も異論無く、決定されました。
新市の名称については、編入合併であることから、そのまま飯能市に決定しました。
新市役所の位置については、合併方式の如何を問わず飯能市役所とすることが提案されており、編入合併に決まったことから、異論無く飯能市役所に
決まりました。
なお、名栗村役場については、出張所とすることになりました。支所と異なり、窓口業務のみを行う機関です。飯能市にはかつて合併した地域に連絡所を
置いており、基本的にはこれと同様+αの内容とするとのことで、一般的な支所よりは権限が狭くなります。
議員の任期の扱いについては、飯能市議会議員の任期満了日である05年5月4日までの在任特例とすることを提案、承認されました。合併前の飯能市議は
26名、名栗村議は10名なので、4ヶ月強の間、議員数は36名となります。なお、合併後最初の選挙では特例を適用せず、選挙区も設置しないことになり
ました。合併後の最初の選挙について、旧名栗村域に定数1の特例区を設ける(定数特例)案もあったのですが、合併協議会としては、これを採用しませんでした。
04年3月に全ての協議が終了。4月、両市村で住民意向調査が実施され、両市村とも合併に賛成する意見が多数を占めました。5月に合併協定書に調印しました。
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新潟県 上越市+安塚町+浦川原村+大島村+牧村+柿崎町+大潟町+頸城村+吉川町+中郷村+板倉町
+清里村+三和村+名立町=上越市 (編入合併、05年1月1日)
新潟県西部にある上越市が、周辺の13町村を編入しました。04年11月10日に施行された改正合併特例法に基づき、初めて「地域自治区」を設置する
ことになった記念すべき合併です。
「地域自治区」とは、地方自治法の改正(同じく11月10日施行)により設置された法人格の無い地方自治組織です。市町村の判断で置く事が出来、議会に
相当する「地域協議会(ただし構成員は市町村長が選任)」と市町村の事務を分掌する「区の事務所」を設けるものです。そして合併特例法は、この「地域
自治区」の特例として、さらに「特別職の区長(市町村長が選任)を置くこと」「住所に区の名前を冠すること」を認めています。
ちなみに同時に「合併特例区」制度の新設も施行されています。「合併特例区」は合併から5年以内に限り設置できる、法人格をもった組織で、特別職(市町村
長が選任)の区長と、「合併特例区協議会(予算決定権あり、構成員は市町村長が選任)」を設けるものです。なお、合併特例区についても住所には区の名前を
冠することになります。
さてこの地域の合併も、枠組みが二転三転しました。
当初から上越市との合併を目指していたのは清里村ぐらいで、東頚城郡に属する安塚町・浦川原村・大島村・牧村は、松之山町・松代町と郡単位での合併を
めざし00年12月に任意協議会を設置していましたし、西頚城郡に属する名立町は糸魚川市・青海町・能生町と01年4月に勉強会(02年7月には任意協議会
に改組)を設置していました。
また中頚城郡のうち、柿崎町・大潟町・頚城村・吉川町・三和村の5町村も01年4月に勉強会を設置していました。板倉町と中郷村は01年4月に新井市・
妙高高原村・妙高村と5町村で設置した勉強会に属していました。このような状況の中で、01年10月、上越市と牧村・名立町・清里村・三和村は任意協議会を
設置します。5市町村からのスタートですが、うち3町村は別の枠組みもにらんでの参加です。
その後、徐々に枠組みが広がり始めます。
まず02年2月、板倉町が新井市などとの枠組みから離れ、3月に上越市などの任意協議会に加入。4月には、浦川原村・大島村が郡単位の任意協議会と重複
加入ながらも、加入しました。東頚城郡の任意協議会は、これと前後して松之山町・松代町も十日町市などとの合併を目指して離脱し、事実上崩壊していきます。
(02年10月解散)。5月には安塚町と、新井市などとの枠組みから離脱した中郷村も加入。この時点で任意協議会の構成市町村は10市町村に膨らんでいます。
02年10月には名立町が糸魚川市などとの任意協議会を離脱、上越市との枠組みに一本化しました。
03年3月6日、10市町村は「上越地域法定合併協議会準備会」を設置。柿崎町・大潟町・吉川町もオブザーバーとして参加しました。第1回準備会では、
たたき台として、「合併の方式は編入合併(ただし対等・平等な立場で協議)」、「合併期日は05年1月1日」「新市役所は上越市役所」「合併特例法の地域審議会
にとらわれない地域組織を置く」などの事項が示されました。なお、議会の任期の扱いについては、定数特例か在任特例を採用することとしています。
同月のうちに、柿崎町など中頚城郡5町村が設置していた研究会(02年5月に勉強会を改組)が解散。3月末に行われた第2回準備会から、柿崎町・大潟町・
吉川町が正式に参加。頚城村もオブザーバーとして参加しました。第2回準備会では、合併の方式・合併期日・新市役所・議員の任期の扱いなどが議論されま
した。構成市町村が多いため、6つのグループに分けて討議が行われましたが、各々について「編入合併」「05年1月1日」「上越市役所」「定数特例適用」が大勢
となり、まず「合併の方式は編入合併」「新市役所は上越市役所」を全会一致で、「合併期日は05年1月1日」を賛成多数で承認しました。
03年4月の第3回準備会から、正式に頚城村が加わり、14市町村の枠組みが固まりました。第4回準備会で、新市の名称について議論がなされました。
事務局からは「新市の名称は合併前に協議を行わない。ただし合併後において、市民や議会から強い要望があった場合は、変更を検討する」という提案がなされ
ました。編入合併の原則通り、合併時は「上越市」とする、というものです。しかし、「協議しない」という姿勢には、町村側から反発の声が上がりました。収拾が
つかないことから、「編入合併ではあるが、新市の名称について、他の合併協議と並行して協議する」と修正して承認されました。
5回の準備会を経て、03年8月、法定協議会に移行しました。
まず準備会での議論通り、「合併の方式は編入合併」、「新市役所の位置は上越市役所とし、各町村役場は支所とする」ことが承認されました。
また合併の期日についても、1名の棄権はあったものの、「05年1月1日」で承認されました。
議員の任期の扱いについては、定数特例を適用し、定数を48(法律通り、上越市 30、 柿崎 3、 大潟・頚城・板倉 各2、 その他 各1)とすることでは、
全市町村が合意しましたが、その特例を合併時の上越市議の任期(08年4月まで)とするか、さらに次の選挙まで継続するか(12年4月まで)とするかで、
対立が解けませんでした。上越市と大潟町は前者を主張。その他の12町村は後者を主張しました。両論のいずれをとるか、小委員会で議論することになりました。
小委員会では、上越市と13町村が対峙する構図となりましたが、上越市側が最終的に折れる形で、定数特例を12年4月まで適用することで合意、協議会に
報告されました。協議会では小委員会報告通り承認されました。
新市の名称については、「合併に合わせて市の名称を変更する場合、上越市議会が条例を制定することになるから、最終的な判断は上越市がする」ことを
前提に、小委員会で調査・審議することになりました。小委員会は審議結果として「変える」・「変えない」の意見を両論併記し、それぞれの内容を以下のように
まとめました。
<「変えない」とする意見>
「上越市には35年経過した重みがある」「歴史的由来(上越後)を尊重すべき」「名称の由来が異なるJR上越線と一緒に議論するのはおかしい」
「編入合併で名称を変えた例がほとんどない」
<「変える」とする意見>
「JR上越線との混同を招く」「ネームバリューも弱い」「編入であっても気持ちは対等という観点から変更すべき」「名称変更が市民の一体感醸成につながる」
「合併後に変更するとコストがかかるので、合併時に変更すべき」「将来を見据えた名称に変えるべき」
その上で、アンケートやシンポジウムなどの手法で判断すべきとしています。
しかし、結局のところ、上越市側は市の名称を変更する必要性を感じておらず、この後も具体的な動きはありませんでした。事実上「ガス抜き」に終わった感があります。
地域の自治組織については、合併特例法の地域審議会ではなく、地方自治法に基づく市長の付属機関として「地域協議会」を設置すること、合併後も含め
法改正を踏まえた地域自治組織についても検討すること、が提案されました。合併特例法の地域審議会は、市長の諮問した事項しか審議・意見陳述ができま
せんが、ここで置こうとする「地域協議会」は、諮問した事項以外でも自主的に意見陳述が出来る点がポイントとなっています。また設置期間も、合併特例法の
地域審議会のような10年という制限(明文規定は無いが、適当とされる上限期間)はありません。この案については小委員会で議論されましたが、小委員会は、
地域自治組織の検討時期を、廃置分合議決後(すなわち合併前)に前倒しする点を修正したうえで、原案通りで協議会に報告、協議会で承認されました。
04年6月、全ての協議が終了し、7月に合併協定書に調印しました。しかし、合併への賛否が拮抗していた大潟町議会は7月31日、合併議案を審議未了で一旦
廃案にしてしまいます。しかし直ちに臨時議会が開かれ、翌8月1日、大潟町議会は合併議案を可決しました。大潟町長は混乱の責任をとって辞職しました。
これにて全ての市町村での議決がそろい、事実上、合併が決定しました。
その後に、地域自治組織についての協議が行われ、9月に改正合併特例法に基づく「地域自治区」を設置することを決定しました。これにより、旧町村は、それ
ぞれ旧町村名を冠した区(安塚区、浦川原区など)になることになりました。これにより、合併協議で設置が決まっていた「地域協議会」は、地域自治区の機関として
の改正地方自治法の「地域協議会」として位置づけられることになります。なお、地域協議会の構成員は、最終的には市長が選任することになりますが、候補を
選挙で選ぶことが決まっています。
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福井県 南条町+今庄町+河野村=南越前町 (新設合併、05年1月1日)
福井県中部、武生市と敦賀市の間にある南条郡の3町村が合併して、1つの町になります。
人口は南条町が約5800人、今庄町が約4800人、河野村が約2100人で、3町村合わせても約13000人という小規模な合併です。
南条郡の3町村は、01年10月に「南条郡合併問題研究会」を設置。合併した場合のシミュレーションなどの研究や、講演会などを行いました。
そもそもこの地域の合併には、大きな問題がありました。南条町と今庄町は、北陸本線や国道で強固に結びついていますが、両町と河野村を結ぶ道路(林道を
除く)が無いのです。河野村はむしろ国道8号線で武生市と強く結びついています。また南条町と河野村は、商圏などで武生市への依存が強く、武生市を含む
枠組みも検討の対象に上ってきました。
しかし研究会の報告書は、
・武生市との合併では編入合併になる公算が強いこと、
・原発の周辺市町村に交付される電源三法交付金は、今庄町と河野村に集中して交付されており、原発から遠い武生市域に分け前を取られるのは避けたいこと、
・合併支援事業が武生市街地に重点配分される疑念がぬぐえないこと、
などの理由から、武生市を含めた合併については消極的な立場を取りました。
02年8月、南条郡内の住民アンケートで、合併したほうがよい20%、合併はやむをえない49%となり、枠組みを問う設問でも3町村が60%を占めたことから、
9月末に3町村は任意協議会を設置、02年11月に法定協議会に移行しました。
なお、02年11月には、河野村の住民から武生市との法定協議会設置を求める住民発議が出されました。河野村議会では否決しましたが、武生市議会が可決
したため、村長は住民投票の実施を決断。03年1月に投票が行われ、賛成35.5% 反対64.5%となり、武生市との法定協議会設置は阻止されました。
合併の期日については、04年10月1日・05年1月1日・05年3月1日の3つの案を事務局が検討した結果、協議期間に余裕が取れ、かつ年度末の混乱も避け
られる「05年1月1日」を提案、異論無く承認されました。
新町役場の位置については、河野村からの距離がポイントとなりました。現在の武生経由でも、南条町と河野村を結ぶ「ホノケ山トンネル(国道305号線)」が
開通した後でも、いずれにしても河野村からは南条町役場の方が近いのです。また南条町が人口でも最多であることから、南条町役場を新町役場とすることを
提案し、承認されました。また河野村がトンネル開通までは交通不便であることを鑑み、総合支所方式(管理部門以外は、各町村役場が従来通りの機能を維持)を
採用することも確認されました。
新町の名称については、全国公募が行われました。その結果を踏まえ、以下の5候補が協議会に提案されました。
「南越前」「越前日野」「越南」「ホノケ」「三郷」
「越前日野」は南条・今庄を流れる日野川や日野山に由来し、ホノケは3町村の接点にあるホノケ山に由来しています。
協議会では、「越前日野」は南条町立日野中学校(現在の南条中学校)のイメージが強く、南条寄りの名称ではないか、とか、「越南」はベトナムのことを意味しな
いか、などといった意見が出ました。また「南越前」や「三郷」を支持する意見も多く出ました。
最終的に投票で決することになりました。
<投票結果>
南越前 14 三郷 6 越南 2 ホノケ 1 越前日野 1
以上により、「南越前町」に決定しました。
議員の任期の扱いについては、まず議員側が調整した結果として、「在任特例1年4ヶ月」を提案しました。新町の計画が本格的に反映される06年度の予算
審議まで見届けたいというものです。ちなみに、合併時の議会の定数は、南条14・今庄12・河野10で計36、新町の定数の法定上限は22になっています。
これには、住民側から反発が出ました。近隣の越前町(2月1日合併予定)が特例不適用としたこともあり、在任特例に対する住民の姿勢は厳しいものでした。
協議会では収拾がつかないため、議会議員と民間委員同数の小委員会を設置し議論することになりました。
小委員会では、在任特例適用については意見が一致したものの、特例適用期間は見解が分かれました。民間委員と今庄町議会は「期間10ヶ月」を提案(今庄町
議会は当初案の集約時点から10ヶ月を希望)、南条町と河野村の両議会は「期間1年4ヶ月」を主張しました。また特例終了後の定数についても、河野村議会は20、
南条町議会は18〜20、今庄町議会は18という案でした。3町村議会は最終的に「1年4ヶ月」で意見集約、民間委員も同意しました。また町域が広大であること
などから定数も20とすることで意見集約。「在任特例1年4ヶ月、特例終了後の定数20」で協議会に提案、承認されました。河野村に配慮した結論と言えましょう。
03年12月、全ての協議が終了し、04年3月、合併協定書に調印しました。
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長野県 長野市+大岡村+豊野町+戸隠村+鬼無里村=長野市 (編入合併、05年1月1日)
長野市が周辺の4町村を編入しました。
人口は、長野市が36万人余りに対し、豊野町が約1万人、戸隠村が約4500人、鬼無里村が約2000人、大岡村が約1500人となっており、かなり規模の差が
あります。
02年10月、住民アンケートでの支持を受けて、豊野町が長野市に合併協議を申し入れます。12月、2市町は任意協議会を設置します。一方、大岡・戸隠・鬼無里
の3村も住民アンケートで長野市との合併支持が大勢となり、03年3月にそれぞれ長野市に合併協議を申し入れ、4月に豊野町とは別に、4市村での任意協議会を
設置します。大岡村は、西山地域(信州新町・小川村・中条村)や更埴地域(現在の千曲市)との枠組みも検討していましたが、長野市との合併に絞りました。
長野市と豊野町の任意協議会では、合併の方式(編入合併)、新市の名称(長野市)、新市役所の位置(長野市役所)は難なく決まりました。豊野町役場を
支所とすることも決めました。
長野市と3村の任意協議会でも、合併の方式・新市の名称・新市役所の位置については、上記と同じく決定しました。3村の役場を支所とすることも決めています。
議員の任期の扱いについては、2つの任意協議会の合同会議を開催し、合併時の長野市議の任期満了(07年9月末)まで定数特例の適用を提案しました。
合併前の長野市議会の定数は42のため、各町村に定数1の選挙区を設けて合併時に増員選挙を行うことになります。ちなみに在任特例を適用すると、議員数は
96名にもなります。これも異論無く原案通りで承認されました。
03年11月に任意協議会の議論は終了。同月末に大岡村は、最終的に合併の是非を問う住民投票を実施、61.1%が合併に賛成。豊野町や戸隠村でも、これと
前後して住民アンケートを実施し、合併支持が多数を占め、この枠組みが固まりました。
03年12月、5市町村で法定協議会を設置しました。
法定協議会でも、任意協議会の合意を踏襲。「合併の方式は編入合併」、「新市の名称は長野市」、「新市役所は長野市役所」「議員の任期の扱いは定数特例」
「旧町村役場は支所とする」ことなどが決まりました。
04年5月に全ての協議が終了し、合併協定書に調印しました。
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三重県 松阪市+嬉野町+三雲町+飯南町+飯高町=松阪市 (新設合併、05年1月1日)
三重県中部にある松阪市と周辺の5町が合併し、新しい市になりました。
この地域も合併の枠組みが流動的でした。01年11月、松阪市・嬉野町・三雲町・飯南町・飯高町・明和町・多気町・勢和村・大台町・宮川村の10市町村で、
「松阪地方市町村合併検討会」が設置され、5回の協議が行われました。一方、同じ01年11月、嬉野町と三雲町は、津市など10市町村と「合併問題協議会
設立準備会」を設置。嬉野・三雲両町はいったんこの枠組みから離脱しますが、嬉野町は02年4月に津市を中心とするこの枠組みの任意協議会に加入。
嬉野・三雲両町は、一志町・美杉村とも任意協議会を設置し、松阪地域と津地域の両にらみの体制を構えます。しかし、02年11月に嬉野町と三雲町は、
最終的に松阪市との枠組みを選択、ようやく合併の枠組みが固まっています。
02年4月、松阪市は三雲・飯南・飯高の3町と任意協議会を設置。5月に嬉野町が加入し、5市町での議論が始まりました。
合併の方式については、人口が松阪市が約12万6000人であるのに対し、4町は合計でも4万1000人程度ですが、新設合併とすることに決まりました。
新市役所の位置については、現在の松阪市役所が手狭であるなどの問題はあるものの、松阪市内に市役所を置くことについては異論がありませんでした。
新市の名称については、住民説明会でアンケートをとったところ、各市町とも「松阪市のままでよい」が多数(5市町全体で84.5%)となり、「松阪市」と
することで合意しました。しかし読みを「まつさか」とするのか「まつざか」とするのかでは意見が分かれ、法定協議会に結論を持ち越しました。
03年4月、法定協議会に移行しました。
新市の名称については、合併前の松阪市同様、読みは「まつさかし」とすることで提案しました。そもそも合併前の松阪市が「まつさかし」となったのは、江戸・
明治期に濁音を嫌う風習があったためとされています。しかし松阪市民はともかく、全国的には「まつざか」と呼ばれることが多く、市当局は通常「まつさか」を
使っているというだけで、正式に「まつさか」でなければならないと決まっているわけでも無いようです。1人の委員から異論はありましたが、大勢は「まつさか」
を推し、「松阪市(まつさかし)」とすることで決まりました。
新市役所の位置については、新庁舎の建設が問題になりました。現在の松阪市役所が1969年築で手狭であることから、早期に建設すべき、という声も
ありました。事務局は「現松阪市庁舎とする」と提案しましたが、「当分の間、現松阪市庁舎とする」と修正の上、承認されました。
議員の任期の扱いについては、「1年4ヶ月の在任特例、特例終了後の定数は法定上限の34」とすることが提案されました。5市町の議員は合計で82人
にも上ります。また報酬については、旧松阪市議は現状維持とし、旧4町議は4町の中で最も高い嬉野・三雲両町議の水準とする」という案でした。
これに対し民間委員は、在任期間の長さと報酬に差を設けることに疑問を呈しました。また三雲町議会は、もともと在任特例期間は9ヶ月程度、報酬は統一
するという案を持っていたことから、議会側も一枚岩ではありませんでした。また在任特例そのものに厳しい意見が住民から上がっていることも報告されました。
一方で飯南町・飯高町にとっては、合併の直前に改選を迎えることから、在任期間が無いと最後の議員の成り手がいない、という問題も提起されました。
この提案は結局棚上げされ、継続協議となりました。
2ヶ月後の協議会で再度提案されました。「1年4ヶ月の在任特例」は変わりませんでしたが、報酬は旧市町議の報酬を据え置くという案に修正されました。
しかし、松阪市民を中心に、「在任特例期間が長すぎる」という声が強まり、この案での合意はできませんでした。三雲町は6〜8ヶ月の在任特例が妥当では
ないか、との意見を出しました。
最終的に、行政側と民間委員で、議会議員を抜いて成案を出すことになりました。その結果、「7ヶ月の在任特例」「特例終了後の定数は34」「報酬は旧松阪
市議の水準に統一」とする案がまとまりました。各議会の反応は、飯南町・飯高町の両町議会は、「在任期間が短すぎる」「報酬増は住民の理解が得られない」
としてこの案に反対し、嬉野町議会は同様の理由で反対ではあるが法定協議会の決定に委ねるという姿勢、三雲町議会は在任特例7ヶ月は賛成であるが、
報酬増は反対。松阪市議会は賛成、という状況でした。
議論は平行線をたどり、採決に掛けられました。町議会側が反対する中、18人中賛成13人でこの案が可決され、承認されました。
上水道料金・下水道料金については、三雲町が両方、嬉野町が下水道、飯南町が上水道が、いずれも値上げになることから、議論になりました。最終的に、
ともに5年間をかけて段階的に統一することでまとまりました。
04年2月に全ての協議が終了、合併協定書に調印しました。
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滋賀県 今津町+マキノ町+安曇川町+高島町+新旭町+朽木村=高島市 (新設合併、05年1月1日)
滋賀県の湖西地域北部にある高島郡の6町村が合併して新しい市になりました。
人口を見ると、安曇川町が14000人強、今津町が14000人弱、新旭町が11000人強、高島町が7000人強、マキノ町が6000人強、朽木村が約2500人
となっています。
この地域では01年1月に合併問題懇談会が開催され、合併への動きが始まり、02年4月に任意協議会が設置されました。02年7月、任意協議会の席で、
朽木村長から、村民の意向や、他の自治体との格差などを総合的に判断し、法定協議会への参加を見送る旨、表明がありました。
なお、合併の方式は新設合併とすることを決めたほか、新市役所の候補地として、今津・安曇川・新旭の各役場を選定しました。
02年10月、朽木村を除く5町は法定協議会を設置しました。
まず合併の方式を新設合併とすることが決まりました。
議員の任期の扱いについては、特例を適用せず、合併時に法定上限の30を定数として選挙を行うことが提案されました。これについて、民間委員から
「合併後最初の選挙に限っては、選挙区を設けて、人口比例でなく均等割で定数を定めてはどうか」、「議員定数は26ぐらいにすべき」など様々な意見が
出ました。
協議の結果、「定数を26とする」という修正案が出されましたが、賛成12 反対12で、2/3に達せず否決されました。さらに旧町単位の選挙区を設けると
する修正案も提起されましたが、賛成6 反対18で否決されました。これを受けて、原案が採決にかけられることになり、賛成18 反対6で可決され、
原案の通り承認されました。
新市役所の位置については、小委員会で議論することになりました。まず新庁舎の建設位置について、5町の町長間で意見を集約することとし、今津町の
候補地(近江今津駅の南東)を適地とする案が出されました。地理的な中心であること、官公庁が多いこと、交通の便が良いこと、いわゆる「迷惑施設」である
火葬場やごみ・し尿処理場などが今津町にあること、土地がすべて町有地であることなどから、判断されたものです。小委員会もこの町長間協議の結果を
追認しました。また、新庁舎建設までの仮庁舎については、延床面積や築年数を考慮し、新旭町役場とすることとし、協議会に報告しました。
協議会では、現在広域連合で議論されている、「公立高島総合病院の建替場所」について結論が出るまで、新市役所の位置決定は保留すべきだという動議が
出されました。病院も市役所も地域の重要施設であり、片方の位置だけ決めるとバランスを失するという趣旨と思われますが、病院の候補地は安曇川か高島
であり、必ずしも直接的に結びつくとも思えません。結局この動議は賛成少数で否決され、原案の採決が行われました。賛成20 反対5で小委員会報告の
通りで承認されました。
新市の名称については、全国公募を実施しました。結果は以下の通り。
<公募上位>
1位 高島 246件 2位 西近江 191件 3位 西びわこ 128件 4位 近江高島 73件 5位 近江湖西 60件 6位 たかしま 41件
小委員会は、この公募結果を踏まえ、以下の5点を選定し、協議会に報告しました。
「近江湖西」「近江高島」「高島」「西近江」「西びわこ」
協議会では投票に掛けられました。
<第1回投票>
高島 11 西近江 10 西びわこ 7 近江湖西 0 近江高島 0
さらに上位2点で決選投票となりました。
<決選投票>
西近江 15 高島 13
以上より、03年3月、協議会は新市の名称を「西近江市」といったん定めました。
しかし、その後、住民から激しい反発の声が上がります。住民組織「『高島市』に改名を求める会」は、03年9月から12月にかけて、25340人もの署名とともに、
「高島市」への改名を求める要望書を提出しました。
協議会で、この取り扱いにつき協議したところ、「決定に瑕疵はなく、変更すべきでない」という意見がある一方、「住民の意向を問うべき」とする意見もあり、見解が
分かれました。03年12月に会長が再協議を提案、2回の協議会での議論を経て採決が行われ、32名の委員のうち22名が賛成し、新市名称の再協議が行われる
ことになりました。04年1月、6町村(朽木村が03年12月加入)の住民を対象とした住民意向調査を行うことが決まり、同年2月に実施されました。結果は以下の
通り。
<住民意向調査結果>
新市の名称としてふさわしいものは
高島市 32013通 西近江市 5808通
以上を踏まえ、04年2月に協議会で協議が行われ、再度協議会委員による投票を実施しました。
<再投票>
高島 25 西近江 7
以上により、新市の名称は「高島市」とすることが決定されました。
なお、上記にも触れましたが、03年11月に朽木村で合併の是非を問う住民投票が実施され、賛成が76.8%を占めたため、朽木村は協議会に加入を申し入れ
ました。12月に、これまでの協議結果を全て追認することを条件に、加入が認められ、6町村の枠組みが固まりました。
04年4月に全ての協議を終了。6月に合併協定書に調印しました。
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鳥取県 岸本町+溝口町=伯耆町 (新設合併、05年1月1日)
鳥取県西部の2町が西伯郡と日野郡の郡境を越えて合併し、1つの町になりました。人口は岸本町が約7000人、溝口町が約5000人という、小規模な合併です。
この地域も合併の枠組みが揺らぎました。岸本町は当初米子市を中心とした広域合併を志向しつつ、岸本・溝口・旧西伯・旧会見の4町の枠組みも検討していま
した。一方、溝口町は4町での枠組みのほかに、日野郡の日野・江府・日南の3町との枠組みも検討していました。02年11月、溝口町は岸本町との2町合併の
方針を決めましたが、岸本町は米子市・境港市など広域での対等合併を推進することを決めました。しかし、翌12月、境港市が単独での存続を表明。広域での
対等合併が困難になると、岸本町は2町合併に方針を転換。03年4月、2町で法定協議会を設置しました。(旧西伯・旧会見の2町は04年10月に合併し、
「南部町」に)。
新町の名称については、まず全国公募を行いました。公募結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 伯耆 66件 2位 西大山 43件 3位 伯耆富士 33件 4位 清流 29件 5位 ほうき 16件 5位 日野川 16件
小委員会は、公募結果の中から、22の候補を選定し、協議会に報告。協議会委員が投票を行い、更に絞込みました。
<第1回投票結果上位>
1位 伯耆 18 2位 秀峰 12 3位 伯峰 9 4位 西大山 7 4位 伯陽 7 4位 日野川 7 7位 花咲 6
4位が3候補あったため、決選投票を行いました。
<第2回投票結果>
伯陽 18 日野川 13 西大山 11
以上により、「伯耆」「秀峰」「伯峰」「伯陽」「日野川」の5候補が選定されました(なお、公募結果及び協議会での絞り込み経過については、住民アンケート
終了まで非公開)。
この5候補について、住民を対象としたアンケートを行いました。結果は以下の通り。
<住民アンケート結果>
1位 伯耆 35.2% 2位 伯陽 21.2% 3位 秀峰 16.8% 4位 伯峰 14.9% 5位 日野川 9.9%
以上により、伯耆町に決定しました。
その後、新町の名称に「西大山」を支持する住民団体が、再協議を求める要望書を署名を付して提出しましたが、再協議は行われませんでした。
新町役場の位置については、小委員会で議論されました。まず合併時までに新庁舎を建設することは無理として、2町役場のいずれかを新町役場とすることに
決めました。さらに両庁舎を同格とすることが可能な「分庁方式」を採用することとしました。そして両町の役場を基準を定めて評価した結果、岸本町役場が優位
となり、岸本町役場を本庁舎とする案を協議会に報告し、承認されました。なお、溝口分庁舎には教育委員会や農業委員会などが置かれることになりました。
議員の任期の扱いについても、小委員会で議論されました。小委員会は当初「特例不適用、定数15〜16(法定上限は22)」という素案を作りましたが、議会
から「選挙は春の方がよい」「町長不在の間、議員がいる必要がある」などとして在任特例の必要性が主張されました。議論の結果、岸本町議会は「特例不適用」に
理解を示しましたが、溝口町議会は在任特例を主張。なかなか意見がまとまりませんでした。小委員会は、ここで突然、協議会に「合併期日を05年3月まで延期
して欲しい」という申し入れをします。実際のところは、05年3月に合併期日を延期すれば、両町議会が設置選挙(特例不適用)に応じる見通しがついたためなの
ですが、「降雪期の選挙を避ける」「協議に必要な時間を確保」などの理由も付けられました。しかし、協議会長は、2町の町長・助役で話し合った結果、この申し
入れを拒否。
小委員会は、結局「4ヶ月の在任特例適用、特例終了後の定数は16、選挙区は設置しない」という案をまとめ、協議会に報告しました。降雪期の選挙を避け、
首長と議会がともに不在となるのを避け、かつ05年度の予算審議に両町議が関われるようにする、などが根拠とされました。
この小委員会の案に協議会長である岸本町長は、新聞紙面で異論を唱えましたが、結局、小委員会の案通りで承認されました。合併前の2町議計30人が4ヶ月だけ
在任することになりました。
なお、新町がどの郡に所属するかについては、岸本町民から西伯郡とするよう強い要望がありました。溝口町側がこの要望を受け容れるかが焦点でしたが、
最終的に溝口町議会で、「所属郡はこだわらない」とする意見が大勢を占め、西伯郡とすることを県に要望することが決まりました。(後に正式に西伯郡所属が決定)
04年8月に全ての協議が終了し、合併協定書に調印しました。
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島根県 頓原町+赤来町=飯南町 (新設合併、05年1月1日)
島根県中南部の2町が合併して1つの町になりました。赤来町は人口約3200人、頓原町も約2900人と少なく、過疎の町どうしの合併です。
03年2月、この2町で合併する枠組みが固まり、任意協議会が設置されました。地区説明会を開催したり、合併の方式を新設合併とすることを決めるなど
して、03年4月、法定協議会に移行しました。
新町の名称については、全国公募を行いました。公募結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 飯南 277件 2位 琴引 153件 3位 南出雲 25件 4位 琴弾 22件 5位 ことびき 16件 6位 奥出雲 14件
飯南は飯石郡の南部の意。琴引・琴弾・ことびきは両町境にある琴引山(琴弾山)にちなんでいます。
小委員会は、以下の5点を選定し、協議会に報告しました。
「飯南」「琴引」「琴弾」「南飯石」「南出雲」
まず、同じ意味を持つ「飯南」「南飯石」から「飯南」を選定。「琴引」「琴弾」から「琴引」を選定しました。
これで、「飯南」「琴引」「南出雲」の3点になり、投票にかけられました。
<第1回投票結果>
飯南 9 南出雲 8 琴引 3
<決選投票結果>
飯南 10 南出雲 10
以上より、投票では決着が付かず、継続審議となりました。
次回の協議会で、まず会長・副会長の協議に委ねることが了承されました。協議の結果、公募の応募数が多い「飯南町」を選定。協議会に提案し、
承認されました。
新町役場の位置については、小委員会で延々と議論が行われました。人口はほぼ同じで、面積が広いため、両町の綱引きがなかなか収まりません。
現在、頓原町には役場(頓原)と支所(志々)、赤来町にも役場(赤名)と支所(来島)があります。
小委員会では、総合振興センター(本庁舎)を1箇所、地区振興センター(窓口業務)を4箇所に置く案を議論。地区振興センターに現在の4つの役場・支所を
あて、総合振興センターは新たに建設することとし、候補地を「頓原病院周辺」「赤来町民グランド周辺(憩いの郷 衣掛前)」の2箇所に絞り込みました。
この総合振興センターの位置について、小委員会では議論を重ねましたが、いっこうに決めることが出来ませんでした。そこで、当面の町役場の位置(両町役場の
いずれか)と総合振興センターの位置の両方を合わせて議論する(この2つを両町に振り分ける)ことにしましたが、それでも決まりません。総合振興センターの
位置として、両町境に近い来島地区とする折衷案も出されましたが、結論はまとまらず、小委員会は04年3月の第14回委員会で約1年の活動を終結。
協議会に総合振興センターの位置は確定できなかった旨報告しました。
そこで協議会は、幹事会と協議会委員の中から新たに選出した8名の委員で調整会議を設置し、調整案を練り直すことにしました。調整会議は、当面の町役場に
ついては分庁方式をとることとし、総合振興センターの建設は言及を避ける案をまとめました。
調整会議の結果をふまえ、両町長の協議で、新庁舎(総合振興センター)の建設について、文言が追加されました。
そして、協議会に調整案を提示しました。主たる内容は以下の通り。
・現頓原町役場を飯南町頓原庁舎とし、現赤来町役場を飯南町赤名庁舎とする。
・当分の間は分庁方式とし、新町役場の位置(条例上の本庁舎)は赤名庁舎とする。
・合併後、行政の効率化を図るため本庁方式とする。実施にあたっては、財政状況も考慮するとともに住民のニーズを見捉えながら、島根県中山間地域研究
センター周辺を含めた総合的な観点から検討する。(この項は両町長の協議で追加)
・志々と来島に新町の支所を置く。
同時に、両分庁舎の機能も提案されました。
・頓原庁舎に新町の産業・建設の主たる部門を置く。
・赤名庁舎に新町の総務・総合振興・住民生活の主たる部門を置く。
・保健福祉センター、教育委員会は頓原町に置く。
協議会では、この新庁舎の位置について、異論が出ました。島根県中山間地域研究センターは、赤来町内(来島地区と赤名地区のほぼ中間)であり、
場所を特定するような文言を入れるのは妥当でなく、新町で決めるべきとするものです。
これを受けて再度調整会議が行われ、調整案のうち、新庁舎の部分は、「本庁方式への移行にあたっては、住民の利便性や財政状況を考慮し、住民の
合意が得られる位置を総合的な観点から検討」という文言に差し替えられました。新庁舎の建設位置を合併後に棚上げした格好です。
この修正案を協議会は承認し、ようやく決着が図られました。
議員の任期の取り扱いについては、事務局から、「7ヶ月の在任特例、特例終了後の定数は14(法定上限は18)、最初の選挙は旧町ごとに選挙区を設置し、
定数は7ずつ」という案が示されました。協議会では、「選挙区の設置は不要」「定数は16が妥当」などの意見が出ましたが、大勢は了承し、承認されました。
しかし、その後行われた住民説明会で、在任特例や選挙区設置に反対する意見が出ました。
協議会はこれを受けて、結論は変えませんでしたが、「新町の議会運営にあたっては、新町建設計画に基づく住民サービスの充実を第一に考え、財政面なども
十分考慮し、議会の活性化を図る」という文言を合併協定書に盛り込むことで合意しました。この文言は、ある意味では当然のことを言っているに過ぎないの
ですが、住民の声を踏まえ、在任特例や選挙区設置が意義あるものとなるよう、協議会が姿勢を示したものと言えます。
04年4月、全ての協議が終了し、5月に合併協定書に調印しました。
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愛媛県 松山市+北条市+中島町=松山市 (編入合併、05年1月1日)
松山市が北東に接する北条市と、瀬戸内海に浮かぶ中島町を編入しました。
北条市は人口が3万人を切っており、住民の中にも松山市との合併に賛成する声が多くありました(02年1月の住民アンケートでも、合併に賛成多数。枠組みは
松山市との合併が最多)。02年7月、北条市は松山市に合併を申し入れ、03年6月に任意協議会を設置しました。
一方、中島町も02年4〜5月に住民アンケートを実施。約60%が合併に賛成し、枠組みは「松山市・北条市・中島町」が90%を占めました。これを受けて、
02年7月、中島町は松山市に合併を申し入れ、03年10月に任意協議会を設置しました。
松山市は02年5〜6月に市民意識調査を実施。合併の相手については、旧重信町、砥部町、松前町などが上位を占め、北条市や中島町との合併を望む声は
比較的少数でした。しかし、旧重信町は旧川内町との合併をめざし、02年7月に任意協議会を設置(その後04年9月に合併し、東温市に)。松前町は03年7月に
伊予市などと法定協議会を設置しました(04年3月に解散)。砥部町は最後まで広田村との2町村合併か、松山市との合併かで町内が二分されていましたが、
03年4月の住民アンケートで、広田村との枠組みを支持する意見が過半数となり、松山市との合併はなくなりました(砥部町と広田村の合併については次項参照)。
以上の経緯から、松山市は北条市・中島町との合併を進めることになります。
松山市・北条市の任意協議会では、まず合併の方式(編入合併)、新市名称(松山市)、新市役所の位置(松山市役所)を異論無く決定。
議員の任期の扱いについては、小委員会で議論されました。松山市議会の当時の議員数は46。北条市議会の議員数は18ですので、在任特例を適用すると
64となり、一方定数特例では北条市域を選挙区とし定数3の増員選挙を行うことになります。当初は北条市側から在任特例を求める声がありましたが、
小委員会は財政面や住民の意見を踏まえると、在任特例適用は困難として、定数特例を1回(合併時)適用することで意見集約、協議会に提案しました。
なお、この過程で地域審議会の設置や、特例終了後の定数・選挙区設置などの配慮について、北条市側から要望が出されました。
任意協議会は、小委員会の報告を受け、「定数特例を1回適用」を決定。ただし、特例終了後の定数や選挙区設置は、合併後に検討することにしました。
松山市・中島町の任意協議会でも、合併の方式(編入合併)、新市名称(松山市)、新市役所の位置(松山市役所)は異論無く決定しました。
議員の任期の扱いについては、中島町議会の議員定数は14でしたが、在任特例の適用を求める声は無く、定数特例を1回適用し、中島町域を選挙区とし
定数1の増員選挙を行うことで合意しました。なお中島町議会からは、特例終了後の選挙は松山市全域1区とし、選挙区は設けないとする意見が出されましたが、
北条市との合意事項を踏まえ、特例終了後の定数や選挙区設置は合併後に検討することになりました。
04年2月、2市1町の法定協議会を設置。3市町が同じテーブルにつくことになりました。
法定協議会では任意協議会での結論を追認し、地域審議会の設置も決めています。なお、現在の北条市役所・中島町役場は松山市の支所となることが
決まりましたが、松山市の既存の支所とは異なり、「各種申請・届出等の受付等の窓口事務」、「広聴・相談対応事務」、「地域審議会に係る関係事務」、などに
ついても取り扱うこととしています。北条市側からは、助役から支所長に直結させ、一定の独立性をもたせる「基幹支所」とできないかとの意見がありましたが、
松山市が以前に合併してきた地域とのバランスや、指揮命令系統が複雑になるなどの理由で、受け容れられませんでした。
04年6月に全ての協議が終了、7月に合併協定書に調印しました。
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愛媛県 砥部町+広田村=砥部町 (新設合併、05年1月1日)
松山市の南西に位置する砥部町と広田村が合併して1つの町になりました。砥部町の人口が21000人余りであるのに対し、広田村はわずかに1000人余り。
通常であれば編入合併になりそうですが、新設合併の形式をとりました。
砥部町は前項にも記した通り、合併の枠組みで揺れ動いていました。広田村との2町村合併を進める町長や町議会に対し、松山市との合併を求める住民は、
町長・町議会のリコール運動を開始。町長は辞職し、02年12月には町議会のリコールも成立しました。この混乱の中、町は合併の枠組みを問う住民アンケートを
実施。以下の通りの結果となりました。
<住民アンケート1回目>
「松山市・砥部町」 30.3%、 「砥部町・広田村」 27.9%、 「伊予市・伊予郡」 16.1%、 「砥部町・広田村・小田町」 14.7%、 合併しない 11.1%
いずれも過半数に達しなかったため、上位2つの枠組みで決選アンケートを実施しました。
<住民アンケート2回目>
「砥部町・広田村」 57.4% 「松山市・砥部町」 42.7%
以上により、砥部町は広田村との合併を選択、03年5月に任意協議会を設置しました。
合併の方式については、砥部町も異論が無かったことから、新設合併に決まりました。
新町の名称(砥部町)、新町役場の位置(砥部町役場)については、2町村の規模の差を踏まえ、広田村も異論はありませんでした。
03年9月、法定協議会に移行しました。
法定協議会では、まず荷に協議会で決定した上記項目を追認しました。
議員の任期の扱いについては、小委員会で議論することになりました。合併後の新町の定数の法定上限は26で、合併前の議員数は、砥部が18・広田が10
です。砥部町議会は「特例不適用、定数は18か16」という意見が強く、広田村議会は「在任特例適用」か「定数特例を適用した上で選挙区を設置し、定数は
砥部17・広田3の計20」という意見でした。まず旧町村ごとの選挙区設置を合意。在任特例については、広田村議会にやや異論はあったものの、大勢は
不適用でまとまり、村議会も譲歩しました。問題となったのは定数でした。まず広田村議会は「砥部17・広田3の計20」を要望。それに対し、砥部町議会は
「砥部16・広田2の計18」を提示しました。砥部町として合併前より議員数を増やすのは、住民の理解を得るのが困難という見解でした。広田村も最終的には
折れ、定数は「砥部16・広田2の計18」で合意。以上の内容を協議会に報告しました。協議会でも、多少の議論はありましたが、そのまま承認されました。
04年5月に全ての協議を終了、7月に合併協定書に調印しました。
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愛媛県 内子町+五十崎町+小田町=内子町 (新設合併、05年1月1日)
愛媛県西部、大洲市の東にある喜多郡の2町と上浮穴郡の小田町が合併して、1つの町になりました。
人口は内子町が10000人余り、五十崎町が6000人弱、小田町が約3500人となっており、JRの特急も停車し、和ろうそくなど観光でも知られた内子町が
最多となっています。
まず内子町と五十崎町の2町は、住民説明会やアンケートを経て、02年9月に法定協議会を設置しました。
新町の名称と新町役場の位置については、協議会設置前に首長間で、「町名は内子町」「町役場は五十崎町役場」のセットでまとまっていました。理由
は、観光で全国的な知名度がある「内子」の名を残し、庁舎は新しい五十崎をとる、というものですが、事実上のバーターと考えてよいでしょう。この案で議会の
了解も得ており、住民説明会や住民アンケートも、この案を前提に行われていました。第1回の協議会で提案され、民間委員などから異論や継続協議を求める
声もありましたが、「既に決まったこと」という意見が大勢を占め、そのまま承認されました。
議員の任期の扱いについては小委員会で議論され、合併目標期日「04年10月1日まで」(第1回協議会で確認)を前提に、「05年4月末まで在任特例適用」
「特例終了後の定数は18」「選挙区は設けない」と意見集約。協議会に報告されました。2町が合併した場合の法定上限は22。一方合併前の町議会議員は、
内子16、五十崎14の30名です。小委員会にも在籍した委員1名が「在任特例期間を50日以内」「特例終了後の定数は18より増やす」という対案を提示し、原案に
反対しましたが、採決をとり反対1名で原案通り確認されました。
03年6月になって、上浮穴郡内の合併(04年8月に合併した久万高原町の枠組み)と、内子町などとの合併の、2つの枠組みで揺れ動いてきた小田町で、住民
投票が行われました。結果は「内子町・五十崎町との合併」51.9%、「上浮穴郡内の合併」46.3%、「合併しない」1.8%となり、小田町は内子・五十崎両町
との合併を選択、協議会加入の申し入れを行いました。
内子町はこの申し入れに前向きな姿勢でしたが、五十崎町の議員などから反対の声が上がりました。結局、五十崎町は小田町加入の是非を問う住民投票を
実施して、結論を出すことにしました。03年10月に投票が実施され、賛成が58.8%、反対が41.2%となり、03年11月、小田町が加入しました。
小田町の加入に伴い、「合併の期日」「議員の任期の扱い」など4項目については再協議を行うこととしましたが、他の項目については、2町の協議会の協議結果を
そのまま踏襲することとしました。
まず合併期日は「04年10月1日まで」を目標としていましたが、「05年1月1日まで」に3ヶ月延期しました。
議員の任期の扱いについては、3町を合計すると、00年の国勢調査人口では2万人を超え、法定上限が22人から26人に変わることを受けて、「特例終了後の
定数を22」に変更することが提案され、承認されました(在任期間は05年4月末までで変わらず)。
なお、町役場については、五十崎町役場を本庁とし、内子町役場を分庁舎、小田町役場を支所として位置づけることにしました。内子庁舎には議会・農業委員会・
教育委員会関係などと、総合窓口センターを置くことにしました。
04年5月、全ての協議が終了し、6月に合併協定書に調印しました。
なお、合併後の新・内子町は、喜多郡に所属することになっています。
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愛媛県 広見町+日吉村=鬼北町 (新設合併、05年1月1日)
愛媛県南西部、宇和島市の東にある2町村が合併して、1つの町になります。人口は広見町が約11000人であるのに対し、日吉村は2000人弱となっています。
この2町は、「鬼北地域」と呼ばれる地域に属しています。「鬼北地域」を構成する4町村(広見・日吉・三間・松野)は01年12月末までに4町村で合併した場合の
シュミレーションなどをまとめた報告書を作成しました。しかし、三間町は宇和島市との合併を進めることになり、広見・松野・日吉の3町村で、02年6月、任意
協議会を設置、02年10月に法定協議会に移行しました。
まず、合併の方式については、松野町が人口5000人弱であったこともあり、3町村での新設合併と決めました。
議員の任期の扱いについては、まず検討する小委員会を設置するか否かで議論が白熱。結局、小委員会は設置せず、協議会の中で議論されることになりました。
この時点では合併目標期日は04年10月1日となっていました。委員からは05年度予算審議のため、6〜7ヶ月(05年3〜4月まで)の在任特例適用を求める
声があり、また特例終了後の定数は法定上限の22とする意見が出されました。ちなみに、各町議会の合併予定時の議員数は、広見18、松野14、日吉10の
計42となっています。まず、特例を適用するか否かで採決を行い、賛成少数で特例不適用案を退けました。そして、全員の意見を集約したところ、在任特例7ヶ月
(05年4月末まで)が22、定数特例適用が1、その他(特例不適用)が6となり、「05年4月末までの在任特例」で決定しました。
なお、特例終了後の定数については、法定上限の22を求める声があったのですが、18で提案。また特例終了後最初の選挙に限り、旧町村単位の選挙区を
設置することも提案されました。
新町の名称については、3町村の住民を対象に公募を行いました。公募結果を踏まえ、小委員会は以下の5候補を選定し、協議会に報告しました。
「きほく」「三郷」「広見川」「水豊」「川筋」
「広見川」・「水豊」・「川筋」は、いずれも3町村を流れる広見川にちなんで付けられたものです。
協議会では投票にかけられました。
<第1回投票結果>
きほく 16 水豊 6 広見川 4 三郷 3 川筋 1 (棄権1)
上位2点の「きほく」「水豊」の2点で決選投票となりました。
<決選投票結果>
きほく 19 水豊 11 (棄権1)
以上により、「きほく町」に決定しました。
新町役場の位置については、小委員会で議論が行われました。新庁舎を合併後5年以内に広見町内に建設することを前提に、当面の間は「広見町役場を
本庁とし、ほか2町村の役場は支所とする」「総合支所方式(管理部門のみ本庁に統合、他は従来通り)を採用する」ことを決めました。また新庁舎の建設位置に
ついては、広見町内の4箇所(永野市、近永、出目、興野々)を候補地として選定しましたが、小委員会では4箇所から絞り込むことは出来ませんでした。
以上の案が協議会に報告されましたが、新庁舎の部分に異論が出ました。そこで協議会は、まず新庁舎の部分を除いて原案を確認しました。
小委員会で再協議した結果、新庁舎の建設時期を「合併特例債活用可能な時期内」と修正(具体的には合併後10年以内となる)して、協議会に再提案されました。
新庁舎の候補地については、4候補のまま絞り込まない形で提案されましたが、既に広見町内に絞込みの動きがあるとして、松野町の一部委員が反発。しかし、
提案自体は候補地を絞り込んでいないことから、修正案通り承認されました。
ここまで、激しい議論はあったものの、とりあえず各項目について協議がまとまってきていたのですが、03年9月になって、松野町議会で合併調印費用の
負担に、反対の態度が示され、調印が不可能になってしまいます。理由としては、広見町が新庁舎の建設候補地の1つ(近永地域)を取得する計画が明らかに
なった問題などで、広見町に対する不信感が強まったことが挙げられています。10月の協議会は、この問題が議論されましたが、松野町は12月に予定されていた
調印式を延期するよう強く求め、議論は平行線に終わりました。11月に入り、松野町は協議会からの離脱を表明。協議会は11月の臨時会をもって休止状態に
入り、事実上3町村での合併はなくなりました。
この事態を受けて、広見町と日吉村は2町村での合併を決意。04年1月、2町村での法定協議会を設置します。
合併の目標期日を05年1月1日に変更したほかは、合併の方式(新設合併)、新町の名称(きほく町)、新町役場の位置(当初は広見町役場、広見町内に
新庁舎を建設、候補地は4箇所)については、これまでの協議を継承することを提案しました。
このうち、合併方式・新町役場の位置については、提案通りで承認されました。しかし、新町の名称については、新たに定めることにしました。
議員の任期の扱いについては、合併期日が延びたことにより05年6月までの6ヶ月の在任特例とすべきとする意見や、特例不適用の意見も出されましたが、
大勢は合併期日の変更に関わらず「05年4月末まで」の原案通りとすることを支持。特例終了後の定数については、16とする意見が多数を占めました。また、
選挙区の設置については、日吉村からも設置不要との意見が出て、大勢は「設置しない」とする意見でした。
この議論を踏まえ、「05年4月30日までの在任特例」「特例終了後の定数は16」「選挙区は設置しない」という案が出されました。日吉村議会からは、
選挙区設置を求める意見も出ましたが、賛成多数でこの案通り承認されました。
新町の名称については、再度住民を対象とした公募を行いました。結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 鬼北 109件 2位 きほく 97件 3位 広吉 66件 3位 広見 66件 5位 吉見 41件 5位 見吉 41件 7位 広見川 23件
小委員会は、この結果を踏まえ、以下の5点を協議会に候補として報告しました。この時点で「きほく」は候補から外れています。
「鬼北」「広吉」「吉見」「見吉」「美郷」
協議会では、「鬼北」を支持する意見が多数を占め、異論無く「鬼北町」に決定しました。
04年7月に全ての協議が終了、8月に合併協定書に調印しました。
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高知県 高知市+鏡村+土佐山村=高知市 (編入合併、05年1月1日)
高知市が北に接する2村を編入しました。
この地域では01年8月以来、本山町、大豊町、土佐町、大川村、本川村を含む8町村で、合併の枠組みの検討を進めてきました。02年2月に、8市町村と3市村
(高知・鏡・土佐山)の2つのパターンで同時に検討することを決め、それぞれのパターンごとに合併検討協議会を組織しました。02年6月に春野町が3市村の
パターンに加わる意向を示し、4市町村のパターンの検討が開始されました。02年8月、高知市長は4市町村のパターンを推進することを表明。8市町村パターンは
無くなりました。02年12月、4市町議会は行政側の提案で法定協議会設置案を審議。鏡村は可決しましたが、春野町が否決したため、高知市と土佐山村は議案を
撤回しました。一方、春野町の住民も4市町での法定協議会設置に向けた住民発議を行いました。こちらは行政側の提案と異なり、議会で否決されても住民投票で
賛否を問うことができるのですが、3市村はこの住民発議を議会に付議しないことを決めました(住民発議は、発議した自治体以外の首長が議会に付議しない限り
成立しない)。この時点で、春野町を含めた4市町村での合併は困難となりました。
03年2月、3市村での法定協議会が設置されました。
鏡村も土佐山村も、人口は1200〜1500人程度の規模なので、吸収合併となるのはやむをえないところです。
合併の方式(編入合併)、新市役所の位置(高知市役所)については異論無く決定しました。また新市の名称についても、住民アンケートで約85%が「高知市の
ままでよい」とする回答だったことを受け、「高知市」に決まりました。
議員の任期の扱いについては、「定数特例を2回適用し、合併時に各村定数1の増員選挙を行い、次の通常選挙でも各村定数1の選挙区を設ける」ことが提案
されました。この案が出されるまでの調整過程では、定数特例の適用回数を合併時のみの1回とするか、合併時と次の通常選挙(旧高知市議の任期満了は07年
5月1日)の2回とするかの両案が検討されましたが、結局2回適用で意見集約されたのです。協議会ではこれも異論無く決定されました。
この合併で最大の問題は、土佐山村の前収入役による公金横領事件の後始末でした。この事件に関し、四国銀行と土佐山村との間で、互いに訴訟が提起されて
いました。四国銀行は2億5000万円の貸金の返還を求める一方、土佐山村はこの横領事件の背景には四国銀行の違法な公金取り扱いがあったとして、
5億円の損害賠償を求めました。この事件は前収入役が勝手に村の名義で借金をしたことと、村の財産を引き出したことの2面を持っています。土佐山村は、
貸金返還請求と、不正な引き出しに応じた責任を相殺しようとしたのです。土佐山村は、村の主張が認められれば債務は発生しない旨を主張しましたが、
高知市と鏡村は、合併前に決着を付けることを要求しました。
これについて、協議会は
・土佐山村は、合併までに訴訟が終結するよう努力する。
・合併までに訴訟が終結しない場合は、(敗訴になったときも旧高知市や旧鏡町の負担とならないよう)、一定の財源を引き継ぐ。
ことを決めました。
04年1月に全ての協議が終了、4月に合併協定書に調印しました。
なお、春野町では03年11月に住民投票が行われ、3市村との合併支持が過半数を占めました。これを受け、03年12月に春野町は合併協議を申し入れましたが、
時期既に遅く、高知市と春野町との合併は、3市村の合併後に先送りされています。
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佐賀県 唐津市+浜玉町+厳木町+相知町+北波多村+肥前町+鎮西町+呼子町=唐津市
(新設合併、05年1月1日)
佐賀県北部の唐津市と、東松浦郡9町村のうち7町村が合併して、1つの市になりました。
この地域では、今回の合併に加わらなかった玄海町と七山村を加えた10市町村で、94年2月から「合併懇話会」を組織し、検討を進めてきました。99年11月、
懇話会は任意協議会に改組されます。
そして、99年9月、唐津市で10市町村の法定協議会設置を求める住民発議が出されました。00年9月、議会の審議にかけられ、9市町村が可決しましたが、1町が
否決し、この時点では法定協議会は設置されませんでした。
02年6月、今度は行政側から10市町村での法定協議会設置議案が提起され、02年7月、10市町村での法定協議会が設置されました。
合併の方式(新設合併)、新市役所の位置(唐津市役所)については、異論無く決まりました。
新市の名称については、公募すべきという意見もありましたが、大勢は唐津市でよいとする意見であり、「唐津市」に決定しました。
問題になったのは、玄海町の基金の扱いでした。玄海町には九州電力の原子力発電所があるため、交付金や寄付金で財政が豊かであり、多額の基金を
持っていました。協議会は「玄海町域の振興に相応の額をあてる」方針を示しましたが、振興策の具体案で行き詰まり、なかなか結論が出せないでいました。
一方、その最中に玄海町は合併の是非を問う住民アンケートを実施。賛成が24.1%、反対が59.3%となり、住民が合併に懐疑的であることが判明しました。
この結果を受けて、玄海町は03年6月、法定協議会離脱議案を議会に提案、可決され、協議会に対し離脱を表明しました。離脱の理由としては、「上下水道の
整備などを計画通り進めたい」「基金を町の発展に活用し、後世に受け継ぎたい」「住民アンケートでも合併反対の意見が多数」の3点をあげました。
これを受け、03年8月、玄海町を除く9市町村で、協議を再開しました。
議員の任期の扱いについては小委員会で議論されました。在任特例を使うとなると、148名(玄海町離脱後)のマンモス議会となることから、大勢は特例不適用と
いう意見でしたが、6ヶ月程度の在任特例を推す声もありました。この2案でなかなか決着が付きませんでしたが、最終的に、特例不適用(定数は法定上限の34名)
が大勢を占めたが、在任特例の意見もあった、という両論併記の形で、協議会に報告しました。
協議会でも、在任特例を支持する意見と特例不適用を支持する意見に分かれ、結局まとまりません。そこで再度小委員会に差し戻すことになりました。
小委員会で再度協議が行われ、結局「在任特例は適用しない」ことで意見集約が図られました。
さらに調整を進めた結果、在任特例を主張していた意見にも配慮した形で、最終的に以下の内容で協議会に提案されました。
・在任特例は適用せず、合併時に選挙を行う。
・新市の議員の定数は34とするが、合併時の選挙は定数特例を適用し、定数48とする。
・合併時の選挙のみ選挙区を設け、定数は、唐津市24、他の8町村各3とする。
定数は、郡部にも配慮して人口比例とせず、唐津市と郡部で半分ずつとし、郡部の各町村は一律配分としました。郡部の中でも人口の多い浜玉町にとっては、
単純に人口比例で配分すると、四捨五入で4人となるだけに、若干不満が残る結果です。浜玉町は最後まで「特例不適用(定数34)、選挙区設置せず」を主張
しましたが、最後は浜玉町と8市町村という構図になったため、やむなく合意しました。
協議会は、多少の議論はあったものの、この小委員会の原案通り承認しました。
04年1月、この議員の任期の扱いを最後に、全ての協議が終了。2月に9市町村で合併協定書に調印しました。
しかし、ここから、さらに紆余曲折が始まります。
9市町村は、04年3月から4月にかけて、合併議案を審議しました。厳木町は町議会の特別委員会では否決したものの、本会議では可決。しかし、七山村は
合併議案を否決。協議会からの離脱を表明しました。
これを受けて、七山村を除く8市町村は、七山村の離脱を各議会で承認し、04年5月に協議を再開。
議員の任期の扱いについては、定数特例に関し小委員会で再協議が行われました。「唐津市21、郡部21」という案も出ましたが、原案に対し、七山村の分を
そのまま削った「定数45、うち唐津市24、7町村各3」でまとまり、協議会に報告、承認されました。
合併の期日も当初予定の04年10月1日を2ヶ月延期し、05年1月1日とすることが承認されました。
以上を踏まえ、04年7月、再度8市町村で合併協定書に調印、各市町村議会も可決し、8市町村の合併が確定しました。
一方、七山村議会に対し、住民のリコール請求がなされ、7月の住民投票の結果、賛成が多数(59.6%)を占め、リコールが成立しました。8月の出直し選挙の
結果、合併賛成派の議員が議会の多数を占めました。しかし、今度は七山村長が合併後の「新・唐津市」との合併に難色を示したため、住民は村長に対しても
リコール請求を行う構えを見せました。この状況を踏まえ、七山村長も合併推進に方針を転換(しかし、その後にリコールが成立)。新・唐津市と七山村の合併
協議が行われ、06年1月1日に合併することになりました。
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佐賀県 白石町+福富町+有明町=白石町 (新設合併、05年1月1日)
佐賀県南部の有明海に接する3町が合併して1つの町になりました。
人口は白石町が13000人余り、有明町が9000人弱、福富町が約5500人となっています。
この地域では、北方町・大町町・江北町を含む杵島郡6町(山内町除く)での合併協議が進められてきました。02年4月に任意協議会が設置され、02年7月には
6町で法定協議会が設置されました。
6町の法定協議会は、新市の名称を「杵島市」に決めるなど、04年10月の合併に向けて協議を進めてきましたが、03年9月の協議会で白石町が協議会から離脱
する意向を表明しました。人口が最多である白石町の離脱表明を受け、同月、6町の法定協議会は解散することを決定。同月末で法定協議会は廃止されました。
白石町は、協議会解散を受け、福富・有明町との3町合併を目指します。10月には協議会発足準備会議を組織。翌11月に3町での法定協議会を設置します。
(一方の北方町・大町町・江北町は、04年4月に3町で任意協議会を立ち上げますが、7月に解散しています)。
新町役場の位置については、3町長が協議した結果として、「新庁舎は現白石町内とし、合併後速やかに建設に取り組む。新庁舎建設までの間は、現有明町
役場を町役場とし、現白石町役場・現福富町役場は支所とする」ことが提案されました。白石町役場が昭和32年築の木造で、しかも手狭であることから、最も
延床面積が広く、かつ比較的新しい有明町役場を、新庁舎建設までの本庁としたものです。協議会では、異議無く承認されました。
議員の任期の扱いについては、6町での法定協議会でも「特例不適用」としていたことから、その結果を継承し、「特例不適用、定数は法定上限の26人以内、
選挙区は設けない」と提案されました。この提案に対し、白石町議会はほぼ異論はありませんでしたが、福富町議会は在任特例適用を主張しました。6町の法定
協議会でも議員の任期の扱いでかなりもめた経緯があり、また議論が長引くかに思われましたが、継続審議となった次回の協議会で、福富町・有明町の両議会
とも原案に賛成する方針を決めたことが発表され、原案通り確認されました。なおその後、定数は26で確認されました。
新町の名称については、住民を対象に公募を行いました。公募をするにあたって、3町の名前を対象とするかどうかで議論がありましたが、結局、「現在の3町の
名称でも差し支えないが、できる限り新しい名称を公募する」という限定付ながら、3町の名前も対象にして公募が行われています。
<公募結果上位>
1位 白石 141件 2位 杵島 43件 3位 歌垣 31件 4位 有明 25件 5位 しろいし 24件 6位 有福 12件 7位 新白石 10件
白石町内では「白石町」が圧倒的多数、福富町内では「杵島町」がトップ、有明町内では「有明町」がトップでした。公募前に懸念したとおりの結果となりました。
協議会の幹事会は、3町の名前以外の候補から、以下の4候補を選定しました。
「明杵(あすき)」「歌垣」「杵島」「三和(みつわ)」
「歌垣」は、春と秋に男女が山に集まり、歌を詠み合って求愛する民俗行事の一つですが、日本三大歌垣(他は大阪の能勢町と筑波山)の一つに、白石町の
杵島山が挙げられていることから、名づけられたものです。
しかし、幹事会としては、この4候補ともあまり新町名にはふさわしいとは考えていないようで、3町の名称も含めて議論すべき、という見解を示しました。
協議会でも、「明杵は読みにくい」「杵島は6町の法定協議会を引きずる印象」「三和は他の地方にもある」など幹事会選定候補に異論が出ました。結局、白石町
など3町の名称も検討の対象に加えることにしました。
7つの候補で議論しましたが、決着が付かないため、投票にかけることにしました。過半数を得た候補があれば、それに決定することは決めましたが、
票数は公表しないこととしました。
投票の結果、1回目の投票で「白石町」が過半数を占め、「白石町」に決定しました。
04年2月に全ての協議が終了。3月に合併協定書に調印しました。
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熊本県 芦北町+田浦町=芦北町 (新設合併、05年1月1日)
熊本県南部、八代市の南にある2町が合併して1つの町になりました。
人口は芦北町が約16000人に対し、田浦町は約5000人で、3倍程度の規模の差があります。
この地域では、水俣市・津奈木町を含めた4市町の枠組みで01年7月に研究会が設置されました。02年5月に津奈木町で行われた住民アンケートで、合併反対
が賛成を上回るなどする中、02年6月に研究会は解散。02年7月、芦北・田浦2町で任意協議会を設置しました。03年1月〜2月、田浦町は住民アンケートを実施。
合併に賛成が47.3%を占め、反対の17.1%を大きく上回りました(他に議会・行政の判断を尊重16.3%など)。
03年4月に法定協議会に移行しました。
新町の名称については、住民を対象に公募を行いました。
結果、1位は芦北の152件、2位は芦田の17件で、他に10件以上の応募があったのは、葦北、あしきた、七浦、野坂の浦、芦浦、うたせでした。
田浦町は、「芦田町」を強く主張しましたが、伝統的な広域地名として、郡名でもある「芦北町」に決定しました(郡名の表記は葦北)。
議員の任期の扱いについては、田浦町が1年10ヶ月の在任特例を要望。一方芦北町は特例不適用を主張し、議論は平行線をたどりました。折衷案として、
まず合併時の選挙のみ選挙区を設置する案が協議会に参考意見として示されましたが、田浦町議会は協議を拒否し退席。協議は中断しました。
次回の協議会で、「1年3ヶ月の在任特例、特例終了後の定数は22(法定上限は26)」とする第2の折衷案が提案され、各町が持ち帰り協議した結果、
ようやく決着しました。
新町役場の位置については、2度にわたり継続協議とされた後に、「芦北町役場を本庁舎とし、田浦町役場を基幹支所とする」ことで決定しました。人口や
利便性、延床面積など、どれを取っても芦北町役場を本庁舎とすることが当然の結果のように思われますが、受け容れる時間をとったという感じです。
03年8月に全ての協議を終了、9月に合併協定書に調印しました。
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大分県 大分市+野津原町+佐賀関町=大分市 (編入合併、05年1月1日)
大分市が南西に隣接する野津原町と、北東に隣接する佐賀関町を編入しました。
この地域の合併協議は、02年4月に佐賀関町が大分市に合併を申し入れたことに始まります。佐賀関町は当時から「町立病院問題」を抱えていました。
佐賀関町立病院は、1959年築の旧製錬所病院の施設を使っており、老朽化が進んでいて、建て直しの計画がありました。しかし、大分市はこの病院の改築に
公費を使う考えはありませんでした。02年9月に設置された準備会で、大分市は「町立病院を市立病院とする考えはない」という考えを示しました。
02年11月、佐賀関町はこの大分市の見解に同意。03年3月、03年度の新病院建設予算を凍結しました。
一方、02年11月、野津原町も大分市に合併協議を申し入れました。
03年3月、大分市は、野津原町・佐賀関町の各々と2つの任意協議会を設置しました。
03年5月、佐賀関町と大分市との間で開かれた病院問題についての検討会で、佐賀関町が「計画通り、新病院の建設を進める」と表明。大分市は反発し、
協議がストップしました。6月には町長が、新病院建設予算の凍結解除の意向を議会に示しました。しかし、7月、佐賀関町は一転して病院の民営化の推進を
表明。大分市の理解を求めるとともに、「民設民営で努力するが、やむを得ない場合は町で建設した上で民営化する」という計画を示しました。しかし、大分市からの
計画の見直し(規模の縮小)要請については拒否しました。その後町の執行部が町議会に「町で建設して民営化」という案を説明するなど、方針が揺れ動きました。
これに対し、大分市は、「民営化するためには、民間での経営が成り立つ規模への改築計画の見直しが必要」と改めて見直しを主張。「仮に現計画で進めるので
あれば、民営化の受け皿を明らかにすべきだ」と迫りました。そして、佐賀関町に対し、以下の内容につき03年8月末までに回答を求めました。もし納得いく回答が
示されなければ、協議の全面中断、さらには合併協議を白紙に戻すことも検討すると、事実上の「最後通告」を行いました。
<大分市が佐賀関町に回答を求めた事項>
1.あくまで町で建設し、民間に譲渡する方式でいく場合には
・病院の譲渡先、譲渡条件、譲渡時期を書面にて回答すること。
・譲渡の条件は建設費をすべて回収できる譲渡であること。
・病院職員の処遇問題は町の責任において決着すること。
2.民設民営を目指す場合は
・民設民営の具体的な方向性と相手方に提示する条件を明らかにすること。
・民設民営の提示条件は、あらかじめ大分市と協議すること。
・病院職員の処遇問題は町の責任において決着すること。
03年9月、佐賀関町は、「民設民営方式」を選択する旨、大分市に説明。受け皿は現在の佐賀関病院の医師団とすることを明らかにしました。しかし、病院職員の
処遇問題は決着が付いておらず、協議の全面的な再開には至りませんでした。
03年11月の協議会で、04年6月30日限りで佐賀関病院を廃止し民営化することで病院職員と合意したことが説明され、合併協議がようやく正常化しました。
03年12月、合併の方式(編入合併)、新市の名称(大分市)、新市役所の位置(大分市役所)について合意しました。
一方、大分市と野津原町との協議は順調に進み、03年7月には、合併の方式(編入合併)、新市の名称(大分市)、新市役所の位置(大分市役所)などが
決まりました。しかし、議員の任期の扱いでもめました。合併前の大分市議の任期満了が05年3月9日であることから、約2ヶ月間について在任特例を適用するかと、
05年2月の選挙に定数特例(両町に選挙区を設け、いずれも定数は1)を適用するか否かが争点になります(任期が残り少ないことから、合併時の増員選挙は
ありません)。大分市が「在任特例不適用、05年2月の選挙に定数特例」を主張。野津原町は「在任特例と05年2月の定数特例を併用」を主張。なかなか意見が
まとまりませんでした。最終的に野津原町側が折れ、地域審議会を設置することを条件に、在任特例を適用せず、05年2月の選挙で定数特例を適用することで
合意しました。
これを受けて、大分市と佐賀関町の任意協議会も、議員の任期の扱いについては、野津原町と同じ内容で合意しました。
この間の03年5月、大野郡内7町村で構成する法定協議会に属していた犬飼町が、合併の枠組みを問う住民投票を実施。大分市との合併支持が56.8%に達し、
大野郡7町村での合併支持を上回りました。これを受けて、犬飼町は03年6月、大分市に合併協議を申し入れました。しかし、大分市は色よい返事はせず、犬飼町
議会は03年7月に7町村の法定協議会から離脱する議案を否決。大分市との合併は困難となりました。その後も犬飼町長は大分市との合併に意欲を示しますが、
03年9月に大分市は、拒否回答をしています。
04年4月、3市町で法定協議会が設置されました。
法定協議会では、任意協議会で合意した内容が正式に承認されました。地域審議会については、任意協議会で事務局から示された「10人程度で5年間設置」を、
「12人以内で10年間設置、最初の2年間は15人」に修正のうえ、提案されました。両町の意向を汲んだものです。佐賀関町からは合併前の議会議員数(16人)
程度にすべきという意見がありましたが、結局、修正案通りでまとまりました。
04年6月、全ての協議を終了、7月に合併協定書に調印しました。
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大分県 臼杵市+野津町=臼杵市 (新設合併、05年1月1日)
大分市の東に接する臼杵市が、南西にある野津町と合併して、新しい市になりました。
野津町の属する大野郡は、郡内8町村での合併も検討していました。02年4月、野津町は大野郡の他7町村とともに、任意協議会を設置します。一方、野津町は
臼杵市との合併協議も並行して進め、準備会を経て02年7月、2市町で任意協議会を設置します。この時点で野津町は両にらみの態勢をとることになりました。
02年12月、大野郡の任意協議会は、野津町に大野郡8町村での合併を選択するよう要請しましたが、03年2月、野津町は臼杵市との合併を選択し、大野郡の
任意協議会を離脱しました(大野郡7町村は、05年3月末に「豊後大野市」として合併予定)。
03年3月、臼杵市と野津町の2市町で法定協議会が設置されました。
まず合併の方式(新設合併)、新市役所の位置(臼杵市役所)が決まりました。庁舎は分庁舎方式をとることとし、合併前の臼杵市役所を「臼杵庁舎」、野津
町役場を「野津庁舎」と呼称することにしました。野津庁舎には、農林振興課や農業委員会などが置かれることになりました。
議員の任期の扱いについては、小委員会で議論され、在任特例を適用しないと、最後の野津町議の任期が1年以内になってしまうことなどを踏まえ、在任特例適用
の方向を打ち出し、在任特例終了後の定数は法定上限の26とし、最初の選挙は旧市町単位の選挙区を設ける方向で議論が集約されました。
小委員会は、「06年4月26日までの在任特例、特例終了後の定数は26、最初の選挙は旧市町単位の選挙区を設置」という案を協議会に提示。承認され
ました。
新市の名称については、住民を対象に公募を行いました。公募1位は「臼杵市」でした。
公募結果などを踏まえ、小委員会は以下の5候補を選定し、協議会に報告しました。
「臼杵」「いなば」「うすき」「うすきの」「臼杵野」
「いなば」は両市町がかつて「稲葉藩」に属したところから来ています。
小委員会では、この5候補について住民アンケートを実施。臼杵300、臼杵野119、うすき68、いなば45、うすきの22という結果でした。野津町には臼杵野を
推す意見が強くありました。
協議会では、全会一致で臼杵市に決めてはどうか、という意見も出ましたが、野津町の委員から、住民を納得させるため投票してほしいという要請があり、投票に
かけることにしました。ただし、票数は非公表としました。
投票の結果、圧倒的多数で「臼杵市」に決まりました。なお、旧野津町域は、「臼杵市野津町○○」と表記することが決まり、野津の地名は残ることになりました。
04年1月に全ての協議が終了、合併協定書に調印しました。
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長崎県 長崎市+香焼町+伊王島町+高島町+野母崎町+三和町+外海町=長崎市 (編入合併、05年1月4日)
長崎市が、周辺の6町を編入しました。
各町の人口は、最大の三和町でも12000人弱で、40万人を超える長崎市には遠く及びません。
6町の属する西彼杵郡15町は、長崎市との合併是非で揺れ動いていました。まず、西彼杵半島の北部にある西彼町・西海町・大島町・崎戸町の4町は、
長崎市との合併は行わないことを決め、01年10月、大瀬戸町と外海町を含めた6町で準備会を設置しました。
00年から、上記の4町と多良見町を除く西彼杵郡10町は長崎市と合併に向けた研究を進めていました。01年4月に、11市町は検討委員会を設置。検討委員
会になった時点で、多良見町がオブザーバーとして参加しました。01年12月に、更に準備会に改組。多良見町も正式に参加し、12市町の枠組みとなりました。
なお、多良見町は01年4月に諫早市など6市町で設置した任意協議会にも並行して参加していました。
02年1月、12市町は任意協議会を設置。一方、西彼・西海・大島・崎戸・大瀬戸・外海の6町も02年2月に任意協議会を設置しました。
02年7月、まず多良見町が諫早市などとの合併を決め、12市町の任意協議会から離脱。諫早市など5市町の法定協議会に加入しました。
02年9月、外海町が長崎市との合併の意志を固め、西彼杵半島の6町任意協議会から離脱。一方、8月に大瀬戸町で実施された住民アンケートで、西彼杵郡
北部各町との合併が55%を占め、長崎市などとの合併45%を上回ったことが明らかになりました。長与・時津・琴海の3町も11市町の任意協議会から離脱し、
3町での合併を目指すことを決定。三和町は住民の意思が固まらず、法定協議会への参加を保留しました。
02年10月、長崎市と香焼・伊王島・高島・野母崎・外海の5町は法定協議会を設置しました。
まず、合併の方式(編入合併)について承認しました。新市の名称(長崎市)・新市役所の位置(長崎市役所)については、協議項目にも挙げられず、自動的に
決定しています。
この間、三和町で法定協議会への参加を求める住民発議がなされ、それを受けて各町議会が三和町の加入を議決。02年12月から三和町が参加し、現在の
枠組みが成立しました。
03年3月、大瀬戸町で長崎市などとの法定協議会設置(加入)の是非を問う住民投票が実施され、反対が多数(56.9%)を占めました。これにより、大瀬戸町は
西彼杵半島5町の枠組みで合併を進めることになりました(その後05年4月1日に、西彼町・西海町・大島町・崎戸町・大瀬戸町の枠組みで合併し、「西海市」
に)。
一方、法定協議会に参加したはずの三和町内には、まだ野母崎町との2町合併を求める声がありました。野母崎町は長崎半島の先端にあり、三和町によって
長崎市とは隔てられています。仮に三和町が長崎市との枠組みから離脱すると、飛び地合併を選択するか、三和町との合併を進めるかの二者択一を迫られる
ことになります。03年4月、2町での法定協議会設置の是非を問う住民投票が両町で行われました。野母崎町は反対が圧倒的(75.8%)でしたが、三和町は
僅差で反対多数(55.4%)となり、とりあえず、三和町・野母崎町とも長崎市との合併を進めることになりました。
協議では、議員の任期の扱いが最大の争点になりました。長崎市議の任期満了(07年5月)まで、在任特例をとるのか、定数特例をとるのか。任期満了後の
選挙に定数特例を使うのかが、争点になります。仮に在任特例を使いますと、合併前の長崎市議44人に6町議の80人が加わり、124名ものマンモス議会に
なります。一方、定数特例を採用すれば、各町ごとの選挙区から1名ずつ増員選挙で選出することになり、議員数は50人になります。
この問題は、議会議員で構成する小委員会と民間委員で構成する検討懇話会の2つで議論されることになりました。まず民間委員の検討懇話会の議論は、
定数特例採用に集約されました。ただし、適用期間については、「合併時のみ適用」と「合併時と任期満了時の2回適用」の2つの意見に分かれました。なお、
住民の意見を反映するため、地域審議会の設置を求める意見もありました。
これを踏まえ、小委員会での実質的な審議が始まりました。まず、香焼・伊王島・外海の3町は在任特例適用を主張。高島町は定数特例2回適用を主張。野母崎・
三和の2町は定数特例1回適用を主張しました。これを受けて長崎市議会は「定数特例1回適用」で意見集約しました。なお、地域審議会については、高島・野母崎
の2町が設置を主張、長崎市も同調しました。議論を続けましたが、なかなかこの溝が埋まらないため、小委員会委員長がたたき台として「定数特例2回適用、
地域審議会を07年5月まで設置し、旧議員が地域審議会の委員となる」という案を示しました。これでも、まだ各町の意見はばらばらでしたが、6町が協議し、
統一見解として「定数特例2回適用。地域審議会のような諮問機関ではなく、能動的に市に対し提言できる特別の機関(旧議員が非常勤の特別職として構成)
の設置」を示しました。この時点で、在任特例は無くなり、議会に代わる地域自治機関の内容に議論が移りました。これに対し、長崎市議会は、地域審議会の設置
で十分という姿勢で、地域審議会に代わる機関の設置は認めがたい、という見解でした。結局、地域審議会を設置して合併前の町議のうち、市議にならな
かった旧議員で構成する小委員会委員長案の通りでまとまり、協議会に報告されました。協議会では、小委員会の報告に特に異論は無く、地域審議会の設置を
含め承認されました。
結局のところ、旧町議に対して、議員としての地位を認める在任特例の代わりに、同一期間「地域審議会委員」としての地位を与えたことになります。議決権はあり
ませんが、旧町域の問題に集中できるメリットがあります。また報酬が旧町議の半額程度(教育委員会並み)としたことから、財政の負担も軽くなっています。
地域審議会の本来の目的や想定されている使われ方からは外れますが、「落とし所」としてはありうべき選択肢だと思います。
03年10月、概ね協議が終了しました。
まず 三和町では、合併の是非を問う住民投票が03年11月に実施され、賛成が52.9%と、反対を僅差で上回り、ようやく長崎市と合併する民意が固まりました。
一方、香焼町では合併反対の住民運動が盛り上がりを見せていました。04年1月、合併を推進する町長と議会のダブルリコールの是非を問う住民投票が実施
され、議会はリコール不成立となったものの、町長のリコールが成立しました。
これを受け、協議会は合併協定調印式を当初予定の2月から1ヶ月延期。香焼町の民意を確認することになりました。
翌2月、香焼町長の出直し選挙が行われ、リコールされた前町長が返り咲きました。これにより、香焼町の民意も合併で固まりました。
04年2月、最後まで残っていた水道事業の協議(水道料金の統合に関する経過措置について、外海町が5年の原案を拒否して継続協議となっていたもの。外海
町のみ9年の経過措置を設けることで合意)を終え、全ての協議が終了。3月に合併協定書に調印しました。
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秋田県 秋田市+河辺町+雄和町=秋田市 (編入合併、05年1月11日)
秋田市が、東に接する2町を編入しました。
02年12月、2町は秋田市に合併協議を申し入れ、03年2月に任意協議会が設置されました。6月の第3回任意協議会で合併の方式(編入合併)などに
ついて合意。そして03年7月に法定協議会に移行しています。
合併の方式(編入合併)、新市の名称(秋田市)、新市役所の位置(秋田市役所)は、異論なく決まりました。
議員の任期の扱いは問題になりました。当初は在任特例を主張する意見もあったようですが、河辺・雄和の両町域で増員選挙を行うことでまとまりました。
問題はその定数でした。事務局は各議会などと調整を図り、以下の案を提示しました。
・河辺、雄和の両町議(各18名)は合併時に失職する。
・合併後に、地方自治法第91条第5項の規定に基づき、条例を改正し、議員の定数を46人とする。
・公職選挙法施行令第8条第1項の規定により合併前の秋田市、河辺町および雄和町のそれぞれの区域ごとに選挙区を設け、同令第9条第1項の規定により
これらの選挙区の議会議員の定数を、旧秋田市選挙区42人、旧河辺町選挙区2人、旧雄和町選挙区2人とし、旧河辺町・旧雄和町で増員選挙を行う。
・増員選挙で選出された議員の任期は、公職選挙法第260条第2項の規定により、合併前の秋田市の議会議員の任期である平成19年5月1日までとする。
まず、「地方自治法91条5項」とは、合併の際に著しい人口の増減があった場合は、任期中でも議会議員の定数を上限の範囲内で変更できるとするもので、
これを適用して、現行の42人から法定上限の46人まで定数を増やします。
「公職選挙法施行令8条」は、合併により定数を変更した場合は、任期中でも新たに選挙区を設けることを認めており、「同令9条」は、この場合は人口に比例
しない定数を定めることが出来るとしています。
仮に合併特例法の定数特例を適用しますと、各町に選挙区を設けて増員選挙をするのは同じですが、人口比例で定数を定めることになるので、定数は
各町とも1人となります(この場合、増員選挙後の秋田市議は44人となります)。
なお、07年5月の任期満了後の選挙は、定数を削減し、全市1選挙区とすることで、2町も同意しています。
これに対しては、
・地方自治法の定数上限46人は「30万人から50万人の市」に適用されるものであり、約33万6000人の新・秋田市の定数を上限まで引き上げるのは
問題ではないか。
・地方自治法91条5項のいう「著しく人口の増減」に、今回の合併があたるのか不明確である。
・定数特例を適用せず、各町の選挙区の定数を2としたのは、1票の格差の点で問題である。
などの意見が出されましたが、原案を否定するまでの意図は無かったため、原案通りで承認されました。
04年5月に全ての協議が終了。7月に合併協定書に調印しました。
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三重県 亀山市+関町=亀山市 (新設合併、05年1月11日)
三重県北部の亀山市と西に接する関町が合併して、1つの市になりました。人口は亀山市が4万人強であるのに対し、関町は約7千人。規模の差はありますが、
編入とはならず、新設合併を選択しました。
02年11月に2市町は研究会を設置。合併に向けた検討を開始しました。新市のビジョンや財政シュミレーションなどを取りまとめ、03年4月に法定協議会に
移行しました。
新市役所の位置については、異論無く亀山市役所に決まりました。
議員の任期の扱いについては、在任特例を適用すべきという意見が大勢を占めていました。合併前の亀山市議・関町議の任期はいずれも07年4月〜5月まで
あり、特例を適用しても任期が延びるものではないこと、合併直後が年度末にあたるため、特例不適用で全員失職となり議会活動が止まるのは避けたいこと、
などが理由でした。また関町議会は、特例終了後の定数については法定上限の26、報酬も亀山市議に合わせることを希望しました。しかし、コストの面からも、
この要望を全て受け容れることは困難でした。
議論がなかなか収束ないため、議員各2名、民間各3名の計10名を2市町の委員から選出し、小委員会を構成して結論を出すことになりました。
小委員会では、以下の通りで意見集約され、協議会に報告されました。
・1年10ヶ月の在任特例を適用する(05年度決算の審議が終わる06年10月まで)。
・特例終了後の定数は22とする(合併前の亀山市の定数20を人口比例で新市にあてはめると23.5となるが、それより減少させる)。
なお、報酬についても、合併前の報酬を基礎とした1市2制度(旧亀山市議と旧関町議を分ける)とすることを要望しました。
協議会は、在任特例と特例終了後の定数について、小委員会報告通り決定しました。
報酬は、新市発足後の報酬審議会に図ることとしましたが、1市2制度を基本とすることで合意しました。
新市の名称については、2市町の住民を対象に公募を実施しました。結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 亀山 301件 2位 亀山関 33件 2位 亀関(きせき) 33件 4位 亀関(かめせき) 23件 5位 かめやま 18件
公募結果を踏まえ、小委員会は以下の5候補を選定し、協議会に報告しました。
「亀山」「亀関(きせき)」「かめやま」「西鈴鹿」「新亀山」
小委員会でも、「亀山市」支持が多数でしたが、あえて5候補を選定した、という感じでした。
協議会でも、一部に異論はありましたが、関町の委員も「亀山市」やむなしの感が強く、全会一致で「亀山市」に決まりました。なお、旧関町域については、
加太地区の一部を除き、「亀山市関町○○」と表記することにし、関町の名も地名として残りました。
04年2月に全ての協議が終了、4月に合併協定書に調印しました。
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兵庫県 緑町+西淡町+三原町+南淡町=南あわじ市 (新設合併、05年1月11日)
淡路島の南西部にある三原郡の4町が合併して、1つの市になりました。
人口は南淡町が最多の約18700人、三原町が約16400人、西淡町が約11900人、緑町が約6200人と続きます。
淡路島には、もともと島全体を1つの市にすべきだという意見があり、この4町も、98年4月に「三原郡4町」「洲本市を含む1市4町」「淡路島全体」の3つの枠組みで
検討を開始しました。00年2月に三原郡4町は、「洲本市を含めた1市4町での合併」に方針を固めます。一方、洲本市は淡路島全体での合併を志向していたこと
から、00年12月、「津名郡の自治体から参加要請があれば受け容れること」を条件に合併協議に応じると4町に回答。4町は淡路島全体の合併には否定的だった
ことから、洲本市との協議は不可能と判断。01年4月、4町で任意協議会を設置しました。10月〜11月には住民説明会も実施し、法定協議会設置への準備が
出来つつありました。
このタイミングで、緑町内で混乱が発生します。緑町には洲本市との合併を求める声がもともとありました。02年1月になって、洲本市が、当時津名町・五色町と
設置予定だった法定協議会(02年2月に設置、その後解散)への加入を、緑町に要請しました。緑町内の洲本市との合併推進派も、これに同調。洲本市との合併
是非(または合併の枠組みの選択)を問う住民投票の実施を要求しました。
しかし、02年3月、4町議会は法定協議会設置議案を可決。02年4月に法定協議会を設置しました。
これを受け、洲本市との合併推進派は、緑町長のリコールを求める運動を開始、6月には法定数を上回る署名を集め、リコール投票が必至の事態となりました。
7月になって当時の緑町長は辞職を表明。8月に出直し選挙が行われ、わずか41票差で前職は落選し、洲本市を含む淡路島全体の合併を目指す候補が当選
しました。他の3町は4町での協議継続を求めましたが、新町長は住民投票の実施を掲げ、平行線に終わったため、3町は緑町を除いた法定協議会を設置する
意向を固めました。緑町議会は曲折の末、「三原郡4町」「洲本市と津名、五色、一宮との合併」「合併しない」の3択方式で住民投票を実施する議案を可決。
11月に投票が行われ、「三原郡4町」1975票、「洲本市・津名・一宮・五色」1776票、「合併しない」294票となり、「三原郡4町」が最多となりました。この結果を
受けて、緑町長も4町での合併に方針を転換。他3町は「緑町を除く3町での法定協議会」の設置議案を取り下げました。
この時点から、ようやく具体的な協議に入ることになりました。
新市の名称については、全国公募が行われました。
公募結果を受けて、小委員会が19の候補を選定し協議会に報告。協議会でまず以下の4候補が選定されました。
「淡路みはら」「おのころ」「南あわじ」「南淡路」
この4候補で投票を行い、以下の通りの結果となりました。
<投票結果>
南あわじ 17 南淡路 7 おのころ 3 淡路みはら 2
以上により、「南あわじ市」に決定しました。
新市役所の位置については、当初から地理的中心に置く方針が決定していました。地理的中心は三原町にあたりますが、三原町役場ではなく、合併協議会も
置かれていた三原郡生活文化会館(三原町市善光寺18-27)を中央庁舎とし、市長室や議場を置くことになりました。その他の部局は各町役場に分散させる
分庁舎方式をとり、三原庁舎に市民生活部や農業関係部門・農業委員会を置き、南淡庁舎に企画部門や上下水道部、西淡庁舎に産業振興部・都市整備部・教育
関係部門・教育委員会、緑庁舎に健康福祉部を置きました。まさにばらばらといった印象です。中央庁舎には実務部隊がいない(総務・議会関係のみ)という形は
きわめて珍しいケースです。
最ももめたのは、議員の任期の扱いでした。「06年7月末までの在任特例(約1年7ヶ月)、特例終了後の定数は28(法定上限は30)」という案が出されましたが、
異論が出ました。緑・西淡の両町議会は原案を支持しましたが、南淡町議会は協議会での結論を尊重するとしながらも、特例不適用を主張。三原町議会は1年4ヶ月
の在任特例を要望しました。緑町内の住民団体は在任特例に反対する運動をおこないました。長期にわたり調整が続けられた結果、「10ヶ月の在任特例、特例終了
後の定数は28」とする案が提案され、賛成多数で承認されました。
03年9月、この議員の任期の扱いを最後に全ての協議が終了。12月に合併協定書に調印しました。
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愛媛県 大洲市+長浜町+肱川町+河辺村=大洲市 (新設合併、05年1月11日)
愛媛県西部にある大洲市が、北に接する長浜町と、南東に接する肱川町・河辺村と合併し、新しい市になりました。
大洲市は人口約39000人、長浜町は約8600人、肱川町は約3000人、河辺村は約1100人であり、3町村合わせても、大洲市の1/3に及びません。
大洲市と旧内子・五十崎両町を含む喜多郡の5町村は、01年度から合併に向けた検討を進めてきましたが、02年8月に各町村の方向性が固まり、02年10月、
4市町村は任意協議会を設置。03年1月に法定協議会に移行しました。(旧内子町と五十崎町については、1月1日の「内子町」の項参照)
合併の方式については、任意協議会での申し合わせもあり、新設合併を提案。異論無く承認されました。
議員の任期の扱いについては、03年4月という早い段階で、幹事会がたたき台として「在任特例の適用、特例終了後の定数は法定上限の30、最初の
選挙は選挙区を設置」という案を示しました。しかし、これには「拙速にすぎる」と反発があり、この案は棚上げされてしまいます。
03年6月になって、各議会の意見が出揃いました。大洲・肱川・河辺の各議会は「在任特例適用、特例終了後の定数は30、最初の選挙は選挙区設置」という、
当初の幹事会案の線でまとまり、長浜町議会も特例終了後の定数や選挙区については結論を留保したものの、在任特例適用の希望は変わりませんでした。
一方民間委員からは、在任特例に否定的な意見や、在任期間は最小限にすべきという意見が出ました。また肱川町長は特例不適用を主張しました。
意見がまとまらないため、投票にかけることになりました。まず在任特例適用の是非について投票が行われました。結果は以下の通り。
<投票結果>
在任特例 19 特例不適用 14
以上により、在任特例適用で決着しました。
次に特例終了後の定数と、初回の選挙の選挙区設置について、協議が行われました。各議会は、「定数30、選挙区設置」で意見がまとまっていました。
他の委員からも特に異論は無く、「特例終了後の選挙は、定数30で選挙区を設置」で承認されました。
在任特例の期間については、各議会の意見が分かれました。大洲市と河辺村は10ヶ月を主張。肱川町は約1年、長浜町は約2年を要求しました。
各議会で調整の結果、10ヶ月とする案がまとまりました。
定数30の各選挙区(旧市町村単位)への振り分けについては、議会間で議論が行われました。まず4市町村に1ずつ配分し、残りの26を人口比で配分した
案(大洲19、長浜6、肱川3、河辺2)という案が出ましたが、長浜町から、3町村の中で人口が最多であることを配慮して欲しいという意見が出ました。調整の結果
大洲市から長浜町に1議席を回すこととし、「大洲18、長浜7、肱川3、河辺2」という案がまとまりました。
協議会では、上記の案通り、10ヶ月の在任特例と、選挙区ごとの定数配分が承認されました。
新市役所の位置については、小委員会で議論されました。
まず合併時の本庁の位置は大洲市役所とすることでは異論はありませんでした。また庁舎の設置方式についても、一部に総合支所方式を求める声もあり
ましたが、本庁方式としつつ、支所機能を充実させることで意見が一致しました。新庁舎の建設の是非については意見が分かれましたが、「新庁舎建設については、
市民の意見を踏まえ、交通事情や利便性を考慮し、長期財政計画との調整を図りながら新市において検討する」こととし、事実上棚上げしました。
以上の結果が協議会に報告され、特に異論は無く承認されました。
新市の名称についても、小委員会で議論されました。
まず、現行の4市町村名から選定することを決め、「大洲」「肱川」「河辺」「おおず」「ながはま」「ひじかわ」「かわべ」の7候補を選び(長浜は滋賀県の長浜市と重複
するため候補から除外)、協議会に報告しました。
協議会では、決定経緯に疑問が投げられ、住民の意向を聞くべきだとする意見も出ました。そこで、いったん小委員会に差し戻すことになりました。
小委員会で再度協議を行った結果、4市町村の住民を対象に、「大洲」「ながはま」「肱川」「河辺」の4候補から新市の名称にふさわしいものを選択(他の名称の
記載も可)するアンケートを実施することを決めました。結果は以下の通り。
<アンケート結果>
大洲 7690 肱川 668 ながはま 309 河辺 50 4候補以外 368 (喜多51、大喜51、ひじかわ26など)
肱川町では「肱川市」が多数を占めましたが、他の3市町村では「大洲市」が最多でした。
小委員会はこのアンケート結果を踏まえ、「大洲市」を候補として協議会に報告。協議会でも異論無く承認されました。
04年5月に全ての協議が終了、合併協定書に調印しました。
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熊本県 山鹿市+鹿北町+菊鹿町+鹿本町+鹿央町=山鹿市 (新設合併、05年1月15日)
熊本県北部の山鹿市と、隣接する鹿本郡のうち4町が合併して、新しい市になりました。人口は山鹿市が約32000人に対し、4町の合計が約26000人と
なっています。
当初は、同じ鹿本郡に属する植木町を含めた6市町での合併も検討していましたが、植木町は02年5月、広域合併に難色を示し、この枠組みから離れました。
(その後、植木町は鹿央町との2町合併を検討するも断念。熊本市との法定協議会設置を求める住民発議もありましたが、設置に至らず。結局、単独自治を
維持することになりました。)
5市町で02年8月に任意協議会を設置。03年1月に法定協議会に移行します。
議員の任期の扱いについては、小委員会で議論されました。各市町議会も含め、在任特例を求める意見は少なく、特例不適用と定数特例に意見が分かれました。
議論の末、「特例を適用せず、法定上限の30で合併時に選挙」を行う方針を決定。旧市町単位に選挙区を設置することの是非が争点となりました。
最終的に、「山鹿市14人、各町4人の計30人で合併時に選挙を行う」ことで意見集約。協議会に報告しました。なお、定数30を単純に人口比例で配分すると、
「山鹿市16人、菊鹿・鹿本の両町4人、鹿北・鹿央の両町3人」となりますが、各町の定数を対等にすること、各市町の合併前定数から同程度の削減数にすること
を踏まえ、上記の結論に落ち着きました。郡部への山鹿市側の配慮が見られます。協議会でも原案通り承認されました。
新市役所の位置についても、小委員会で議論されました。「合併当初の取り扱い」と「将来の取り扱い」に分けて議論が進められました。
まず合併当初については、合併前の山鹿市役所に本庁を置き、総合支所方式(総務部門を中心に本庁に集約、その他は存置)をとることで合意。しかし、山鹿市
役所は老朽化していることから、合併後3年以内に新庁舎の建設に着手することとし、位置としては山鹿市内の「国体道路」沿いに適地を求めることで合意し
ました。その上で、合併後10年をめどに、総合支所方式から本庁方式(主要機能を本庁に統合)に移行することとし、以上の内容を協議会に報告しました。協議会
でも原案通り承認されました。
新市の名称については、一般公募が行われました。
公募結果を踏まえ、まず11種類(読みは15種類)の候補を選定、さらに、「鹿本(かもと)」「山鹿(やまが)」「熊北(ゆうほく)」の3候補に絞り、協議会に報告
されました。協議会では、山鹿市と鹿本町の委員が、それぞれ「山鹿」「鹿本」を推し、こう着状態が続きました。鹿本町側には、他の3町の賛同も期待して、投票
での決着を求める声がありましたが、山鹿市側はこれに反発していました。04年4月になって、鹿本町側が折れ、5市町の首長と議長に一任することで合意。
首長・議長が協議して、「山鹿市」を提案、全会一致で承認しました。
この新市の名称を最後に、概ね協議が終了。04年6月に合併協定書に調印しました。
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熊本県 三角町+不知火町+松橋町+小川町+豊野町=宇城市 (新設合併、05年1月15日)
熊本県中部、宇土半島の南岸と付け根にある5町が合併して、新しい市になりました。
人口は最多の松橋町が約25000人、小川町が約14000人、三角・不知火両町が10000人弱で、豊野町は5000人弱となっています。
この地域では、01年2月に宇土市・宇土郡(三角・不知火)・下益城郡(松橋・小川・豊野・城南・富合・旧中央・旧砥用)の10市町で合併の検討が始まりました。
県が合併パターンの例として示したのは、これらの地域を「宇土+富合+城南」「三角+不知火+松橋+小川」「豊野+旧中央+旧砥用」の3つに分割する案
でした。当初はこれに沿う形で、豊野町は旧中央町・旧砥用町との合併を検討していましたが、01年11月に三角町などの枠組みに加わる意向を示しました。結果、
「宇土+富合」「三角+不知火+松橋+小川+豊野」「旧中央+旧砥用」の3つの枠組みに収斂されました。(城南町は熊本市との合併を検討するも断念。宇土と
富合は合併協定調印まで行くも、富合町議会の反対で頓挫。旧中央町と旧砥用町は、04年11月に合併し美里町に。)
5町は02年1月に任意協議会を設置。02年4月に法定協議会に移行しました。
新市役所の位置については、小委員会で議論が行われました。当初、三角町は三角と不知火の中間地点を希望し、小川町は小川町に置くことを主張しましたが、
松橋・不知火・豊野の3町は当初から松橋町に置くことが妥当との意見でした。人口が最も多く、庁舎も最も新しく、かつ延床面積が広い松橋町役場を本庁とする
のは、端から見ても自然かと思われます。まず小川町が折れ、松橋町までの距離が最も遠いため、最後までこだわった三角町も、最後には4町に押される形で
合意。松橋町役場を本庁とし、他の町役場を支所とすることで意見集約し、協議会に報告しました。協議会も原案通り承認しました。
その後の調整の結果、06年3月までは事実上総合支所方式(一部機能のみ本庁に集約し、他は存置)を採用することになり、その後段階的に本庁方式に
移行する(本庁への機能の集約を進める)形になっています。
議員の任期の扱いについても、小委員会で議論されました。小川町は特例不適用を主張しましたが、他の4町は在任特例を主張。小川町もこだわらない姿勢を
示したため、在任特例適用の方向が固まりました。在任期間については、三角・松橋・豊野の3町が1年3ヶ月を主張。不知火町は1年9ヶ月を希望しました(小川
町は結論を留保)。ここでは不知火町が折れ、1年3ヶ月の在任特例適用で合意しました。まずこの在任特例について協議会に報告。承認されました。
特例終了後の定数については、小委員会で議論した結果、法定上限の30とする意見が多数を占めましたが、合併後2回目の選挙(2010年)では定数を削減
すべきとの意見が出ました。小委員会は「在任特例適用後の定数は28人とするが、特例適用後の最初の選挙に限り30人とする」案を協議会に報告。
協議会も承認しました。
新市の名称については、一般公募(既存の町名は除外)を行いました。結果は以下の通り。
<公募上位>
1位 宇城 354件 2位 中九州 189件 3位 うき 60件 4位 西宇城 54件 5位 肥後 53件 6位 あけぼの 48件
「宇城」は、宇土郡・下益城郡の地域の総称として既に定着しており、最多の応募となりました。
小委員会は以下の10候補を選定し、協議会に報告しました。
「宇城」「うき」「中九州」「肥後」「あけぼの」「宇城西部」「火の国」「熊南」「きらら」「五福」
協議会では、まず、この10候補のうち、小委員会で5町が一致して推薦した「宇城」「うき」「中九州」「肥後」の4候補に絞りました。5町がこの4候補から、
一つずつ選定し、持ち寄ることにしました。その結果、三角・不知火・豊野が「宇城」を、松橋・小川が「中九州」を推し、この2つで協議をすることとなりました。
宇城を推す意見は、公募結果を根拠としました。一方、中九州を推す意見は、宇城を「うき」と全国で読んでもらえるか、中九州の方が全国に分かりやすいという
点を主張しました。人口の多い2町が、協議会の中では少数派(協議会は各町同数の委員で構成)であり、投票での決着は禍根が残ることは避けられませんでした。
「5町の町長に一任する」という意見もありましたが、それでも決めかねるという結論になり、協議は難航を極めました。議論の末、小川町の委員から、「協議会で主張
した時点で町民への説明責任は果たせたから、大勢に従いたい」という意見が出て、流れは決まりました。最終的に、協議会の会長が「宇城市」に決定することを
提案、全会一致で承認されました。
04年1月に全ての協議が終了、3月に合併協定書に調印しました。
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愛媛県 今治市+朝倉村+玉川町+波方町+大西町+菊間町+吉海町+宮窪町+伯方町+上浦町
+大三島町+関前村=今治市 (新設合併、05年1月16日)
愛媛県北部の今治市と四国の本土にある5町村、及びしまなみ海道周辺の島からなる6町村の、合計12市町村が合併して1つの市になりました。
今治市が人口11万6千人余りであるのに対して、11町村は全部足しても約6万人(最も多い波方町でも1万人弱)であり、規模の差はあるのですが、
新設合併を選択しました。
01年頃から、関前村を除く島しょ部の5町(吉海、宮窪、伯方、上浦、大三島)は合併に向けた検討を進めていましたが、02年1月に今治市は、旧弓削町・旧岩城村・
旧生名村・旧魚島村(4町村は04年10月に合併し上島町に)を含む15町村に合併を呼び掛けました。島しょ部の5町、関前村、本土の5町村の順に、今治市に合併
協議の申し入れが行われ、12市町村は02年7月に準備会を設置。8月には任意協議会を設置しました。
任意協議会では、
まず合併の方式について議論され、今治市以外の町村が一致して新設合併を希望し、今治市も最終的に同意しました。
新市の名称については、今治市を推す声が大半でしたが、玉川町は法定協議会で決すべきとする声が強く、菊間町は回答を留保しました。
新市役所の位置については、今治市役所とする意見が大勢でしたが、菊間町はこれについても回答を留保しました。
菊間町は、町内に3町での小規模合併を志向する意見を抱えており、法定協議会への移行には慎重でした。ここで結論を留保したのも、そのことが背景にあります。
02年10月の最後の任意協議会で、合併の方式(新設合併)、新市の名称(今治市)、新市役所の位置(今治市役所)を決定しました。
続いて法定協議会への移行の是非が議論されました。菊間町から、住民アンケートで合併に慎重な意見が多数に上り、議会の賛同も得られる見通しがつかないこと
から、法定協議会への加入を見合わせる意向が示されました。他の各市町村は法定協議会への移行を了承しました。
02年11月、菊間町を除く11市町村で法定協議会が設置されました。
合併の方式、新市の名称、新市役所の位置については、任意協議会の決定通り、承認されました。
この法定協議会設置直前の11月10日、菊間町は住民説明会を開催。議会の協議会も開いて、今治市との合併に方針を転換。11月末、正式に協議会への加入
申し入れを行いました。しかし、今治市などからは、住民アンケート時点と民意が変わったといえるのか不明確であり、住民の意向をよく確認すべきという意見や、
各市町村との信頼関係の回復が必要だとする意見が出て、直ちに加入とはなりませんでした。03年2月の協議会に菊間町長と菊間町議会議長が出席し、これまでの
菊間町の言動について「深く反省し遺憾の意」を表し、「今後は町益のみをを思考するのではなく」、友好に協議を進めたいので、参加をお願いしたい、という旨の文書を
提出、釈明を行いました。これを受けて、協議会は菊間町の加入を了承。議会の議決を経て、03年4月に菊間町も協議会に加入しました。
議員の任期の扱いについては、小委員会で議論されました。仮に在任特例を適用すると172人ものマンモス議会になることから、現実的ではないとの認識があり、
在任特例案ははやばやと消滅しました。協議会にまず「在任特例は適用しない」旨が報告され、承認されました。続いて、定数特例を適用すべきか否かが議論され、
小委員会で採決をとった結果、「特例不適用17、定数特例6」となりました。以上を踏まえ、「特例不適用、定数は法定上限の34、選挙区は設置しない」という
調整案を策定。小委員会は調整案を「賛成21、反対2」で可決し、協議会に報告しました。
協議会では、人口が少ない関前村や、今治市から遠い上浦町から異論が出ました。定数特例や選挙区設置を検討すべき、とする意見です。意見がまとまらず、
協議会でも採決となりました。結果、原案に「賛成38、反対6」となり、2/3を超える多数で原案通り承認されました。
この後、地域審議会について協議が行われました。事務局の原案は、権限を一般的な地域審議会の権限(市長の諮問に対する答申、必要と認める場合は意見
具申)としていました。これに対し、関前村などは地域審議会の意見を市長が尊重することを明記すべきと主張しました。議員が出せない可能性があるため、地域の
声を生かすには、制度的な担保が必要という意見です。今治市議会には異論もありましたが、「尊重する」条文を追加することで合意しました。
市役所の組織については、「旧町村の各役場を支所とする」「当面、総合支所方式(管理部門や総合調整機能のみ集約し、他は従来通りの機能を支所に残す)を
基本とし、将来的には本庁方式に移行する」方針が提案され、承認されています。
04年5月に全ての協議が終了、6月に合併協定書に調印しました。
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静岡県 小笠町+菊川町=菊川市 (新設合併、05年1月17日)
静岡県中西部、掛川市の南東に位置する小笠郡の2町が合併して新しい市になりました。
人口は菊川町が32000人弱、小笠町が16000人弱で、菊川町が小笠町のちょうど2倍となっています。面積も同じく菊川町が小笠町の約2倍です。
02年3月、小笠郡5町(旧浜岡町含む)は、掛川市との合併を望む大須賀・大東の2町と、郡内合併を目指す小笠・菊川・旧浜岡の3町に分かれました。
しかし、02年7月、旧浜岡町は3町の枠組みから離脱し、御前崎町との合併(04年4月、御前崎市に)を目指すことを決定します。
02年8月、小笠・菊川の両町は2町での合併を基軸に検討を進めることで合意しましたが、同年9月には相良・榛原・吉田の榛原郡3町が広域合併の協議を申し
入れ、一方掛川市・大須賀町・大東町の枠組みも共同研究を申し入れました。これに対し2町は、榛原郡3町には2町の作る任意協議会への参加を呼びかけ、
大須賀・大東の2町に対しては掛川市を除く枠組みでの協議を申し入れました。いずれの話も実らず、03年1月に2町で任意協議会を設置しました。
任意協議会設置後も、小笠・菊川両町内の住民から、掛川市などを含む枠組みを望む声がありましたが、結局は2町の合併に落ち着いています。
任意協議会では、まず合併方式を新設合併と決めました。
議員の任期の扱いについては、小笠町の議会選出委員からは、「特例不適用と在任特例適用で議会の意見は二分」、菊川町の議会選出委員からは、
「特例不適用と在任特例適用の2つの意見があるが、やや特例不適用が多い」という報告がありました。また民間委員の意見も「1年の在任特例適用」「特例不適用」
と分かれました。しかし、大勢は特例不適用の声が強く、挙手採決を行いました。採決は3回繰り返され、1回目と2回目の挙手採決では少数の反対がありましたが、
3回目の採決で全員が賛成し、「特例を適用しない」ことに決めました(「合併時期が3月となると、お茶の栽培の繁忙期と重なる」という点から最初の採決では
反対の意見もありましたが、合併時期の前倒しが可能であることが判明し、賛成意見に変わりました)。定数については、法定上限は26ですが、人口2000人当たり
1名の計算で22が妥当という案、合併時の急激な削減は民意の反映などの点で問題として、とりあえず24にしてはどうかという案、最初の選挙は24とし次回の選挙で
22に削減するという案など、様々な案が出ました。議論の末採決となりましたが、両町議会議長が22とする案を推したこともあり、22とする案が20名の賛成、24とする
案が7名の賛成となり、22で決定しました。
また、新市の名称について、2町の住民などを対象に公募を実施しました。
その結果を踏まえ、任意協議会の小委員会は、以下の10候補を選定し、任意協議会に報告しました。
「小笠」「おがさ」「菊川」「きくがわ」「小菊」「茶野香(さやか)」「遠江(とおみ)」「東遠州」「牧之原」「みどり野」
ちなみに公募1位は「菊川」でした。
この時点で、03年10月、法定協議会に移行します。
合併の方式、議員の任期の扱いについては、任意協議会の決定通り承認されました。
新市役所の位置については、人口が多く、駅やインターにも近く、延床面積も大きく、比較的新しい、などあらゆる点で菊川町役場の方が有利なため、すんなり
菊川町役場に決まりました。
新市の名称については、任意協議会で出された10候補から投票で絞り込むことになりました。ただし、「小笠」「菊川」については、それぞれ仮名とするか漢字と
するかは絞込み後に決定することとしたため、8候補での投票になりました。その結果、上位3点の「小笠(おがさ)」「菊川(きくがわ)」「牧之原」に絞り込まれました。
さらに協議の結果、小笠町側からも菊川市が順当という意見が上がり、全会一致で「菊川(きくがわ)」を選択しました。表記についても漢字表記とすることが決まり、
「菊川市」に決定しました。なお、由来としては、小笠町に配慮し、両町を流れる河川である菊川を前面に出しています。
なお、地域審議会については、事務局案は一体感醸成の阻害要因になるとして「設置しない」というものでしたが、小笠町側から、「議員が減る中で何らかの民意を
吸い上げる機関が必要」「周辺部となる地域の不安を解消する仕組みが必要」などとする意見が上がりました。協議の結果、合併特例法の地域審議会(旧町ごとに
設置)ではなく、地方自治法上の付属機関として審議会を1つ設置し、両町から同数の委員が参画するということで決まりました。
04年3月に全ての協議が終了、5月に合併協定書に調印しました。
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茨城県 那珂町+瓜連町=那珂市 (編入合併、05年1月21日)
茨城県水戸市の北にある那珂町が、北に接する瓜連町を編入し、市になりました。
那珂町の人口は47000人弱、あと3000人いれば単独で市に移行可能という大きな町です。一方の瓜連町は8800人余り。人口・面積とも那珂町が瓜連町の約6倍
と規模の差があります。
02年6月に両町の町長が2町での合併推進を表明。7月から、事務レベルの協議を開始するとともに、両町で住民説明会や住民アンケートを実施しました。
03年1月に任意協議会を設置します。
任意協議会では、まず合併の方式が問題となりました。
那珂町議会は編入合併方式を主張。その内容が報じられたこともあり、瓜連町内に不安が広がりました。瓜連町議会は、当初は編入も検討していましたが、
町民の声に押される形で新設合併方式を主張することになり、対立が鮮明になりました。しかし、最終的に瓜連町が「編入やむなし」で意見集約。編入合併と
することで合意しました。新市の名称・新市役所の位置なども、当初は任意協議会で議論される予定でしたが、合併の方式でもめたため、法定協議会に
議論は先送りされました。
03年10月に法定協議会に移行しました。
まず合併の方式については、任意協議会での結論通り、編入合併としました。
新市役所の位置については、那珂町役場とすることで異論無く決まりました。
議員の任期の扱いについては、那珂町側から、在任特例を適用し、那珂町議の任期(08年3月)まで旧瓜連町議12名を含む38名が市議となり、その後
法定上限の30人以内とする案が出されました。瓜連町側も特に異論はありませんでしたが、議会選出委員から、瓜連町議会選挙が目前に迫っていることから、
改選後の議員に判断して欲しいとして、継続協議にしてもらいたいという意見が出ました。那珂町側は、那珂町議も瓜連町議の約2ヶ月後に選挙があることから、
これを認めれば決定が非常に遅くなってしまう、と主張し、早急な決定を求めました。両町の町長・議会議長・副議長の6者で協議が行われましたがまとまりません
でした。議論は険悪な雰囲気に陥りましたが、議会選挙直前の協議会で、瓜連町議会議長から、在任特例を適用する那珂町案に同意する旨の発言がありました。
同町議会の副議長は依然選挙後の決定を求めましたが、大勢は決し、在任特例を適用する案が承認されました。
新市の名称については、編入合併の場合は、通常編入する側(那珂町)の名称をそのまま引き継ぐことになるのですが、この協議会では両町の住民を対象に
公募を行うことにしました。結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 那珂 521件 2位 白鳥 83件 3位 那珂瓜連 76件 4位 ひまわり 41件 5位 なか 28件 6位 新那珂 21件
那珂町側は公募1位の「那珂市」が順当という見解でしたが、瓜連町側は「那珂瓜連市」を推しました。那珂町側は、瓜連町民の応募状況でも、1位の那珂瓜連が
50、2位の那珂が47と拮抗しており、両町の住民とも「那珂市」を推していると判断して差し支えないのでは、と主張しました。議論の末、協議会議長(那珂町長)が
「那珂市」を提案、全会一致で承認されました。
04年5月に全ての協議が終了、7月に合併協定書に調印しました。
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福岡県 福間町+津屋崎町=福津市 (新設合併、05年1月24日)
福岡県北部の宗像市と古賀市に挟まれた2町が合併して、1つの市になりました。
人口は福間町が42000人弱、津屋崎町が14000人強と、約3倍の開きがあります。
この地域では当初、宗像市を軸とした合併の検討がなされてきました。宗像市と旧玄海町は、福間・津屋崎・大島の各町村との将来的な合併も視野に、00年4月に
法定協議会を設置。03年4月に合併しました(現在の宗像市)。しかし、02年7月、津屋崎町内で福間町との2町合併を求める住民運動が起こりました。8月には
法定協議会設置を求める住民発議が出され、11月に両町議会は法定協議会の設置を議決。02年12月に法定協議会が設置されました。残された形の大島村は
03年7月に宗像市と法定協議会を設置しますが、当初の新・「宗像市」構想は、2つの市に分かれる結果になりました。
合併の方式については、異論無く新設合併に決まりました。
津屋崎町は、住民発議を行った側なのですが、福間町との合併に賛否両論を抱えていました。03年3月に住民投票条例が可決され、6月には、04年2月に住民
投票を行う旨を告示しました。内容としては、まず福間町との合併について賛否を問い、もし福間町との合併に反対の意思が示されたならば、枠組み(宗像市、
福間町、合併しない)の選択について問うこととしています。
議員の任期の扱いについては、03年10月になって、「2年の在任特例適用」「特例終了後の定数は20とするが、最初の選挙のみ22とする」と提案され
ました。在任特例を最大限適用する代わり、法定上限の30を大幅に下回る定数を設定しています。なお、在任期間中の議員数は36(旧福間町議20、旧津屋崎
町議16)となります。協議会では原案通り承認されました。
新市役所の位置については、福間町役場を本庁とし、旧福間町役場を「福間庁舎」と、旧津屋崎町役場を「津屋崎庁舎」とそれぞれ呼称することとしました。
なお、分庁舎方式をとることとし、両庁舎に機能を分散することを決めました。具体的には、総合政策部(総務・企画関係)・市民部(税金・年金住民登録関係)・健康
福祉部などが福間庁舎に置かれ、地域生活部(産業振興関係)・都市整備部・教育部などが津屋崎庁舎に置かれます。
04年2月、津屋崎町の住民投票が実施され、福間町との合併に賛成が66%を占めました(枠組みの設問は合併賛成多数のため開票せず)。これで、ようやく
2町の合併がほぼ確定しました。
新市の名称については、住民投票が終った04年3月から4月にかけて全国公募を実施しました。結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 宮地 557件 2位 宮地嶽 314件 3位 福津 250件 4位 みやじ 142件 5位 宮地岳 114件 6位 福間 106件
両町長など幹事会のメンバーが協議し、まず10候補を選定し、協議会に提出しました。
「福津」「宮地岳」「宮地」「北筑前」「福間」「福浦」「東福岡」「福崎」「玄界灘」「筑浦」
この中から、1人3点以内で協議会委員が投票を行いました。結果は以下の通り。
<第1次投票>
福津14 北筑前14 宮地8 東福岡7 福間6 宮地岳4 福浦3 福崎3 筑浦1 玄界灘0
「福津」と「北筑前」の2つに絞り、日を改めて更に投票が行われました。
<決選投票>
福津 13 北筑前 8
以上により、「福津市」に決定しました。
04年5月、新市の名称を最後に全ての協議が終了、合併協定書に調印しました。
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岐阜県 揖斐川町+谷汲村+春日村+久瀬村+藤橋村+坂内村=揖斐川町 (新設合併、05年1月31日)
岐阜県西部・大垣市の北にある揖斐郡に属する8町村のうち、大野町・池田町を除く6町村が合併して、新しい町になりました。
人口は揖斐川町が約18500人あるものの、他は谷汲村が約4000人、春日・久瀬の両村が1500人前後、藤橋・坂内の両村は500人前後と、
過疎の村の救済の色彩が強い合併と言えそうです。
01年4月に大野町・池田町を含む揖斐郡8町村は、「揖斐郡町村合併問題研究会」を設置し、合併に向けた研究を開始しました。02年4月には「揖斐郡町村
合併推進研究会」に改組し、引き続き検討を行ってきました。
ここで揖斐郡の最も南に位置する池田町で動きがありました。池田町は大垣市を中心とする10市町で構成する「西濃圏域合併研究会」にも所属しており、
北の揖斐郡と合併するか、南の大垣市などと合併するかで、もともと町内の意見が二分されていました。池田町は02年5月に住民アンケートを実施。
「合併は必要」と答えた世帯(回収世帯の57.5%)のうち、希望する枠組みは、「大垣市など西濃圏域」57.0%、「揖斐郡」20.7%、「池田町+神戸町」15.1%
といった比率でした。
02年9月、揖斐郡との合併を推進する住民団体は、2200人余りの署名を付して揖斐郡8町村の法定協議会設置を求め、住民発議を行いました。これに対抗して
大垣市などとの合併を推進する住民団体も、02年10月に6800人余りの署名を付して大垣市との法定協議会設置を求め、住民発議を行いました。02年11月、
合併の相手方として指定された、揖斐郡7町村と大垣市はいずれも協議会設置議案を可決。町長は、住民アンケートの結果を踏まえ、大垣市との合併に前向きな
姿勢を示しました。池田町議会の動向が注目されましたが、11月末に池田町議会は両議案とも可決。2つの法定協議会が設置されることが決まりました。
この結果として、02年12月、大野町・池田町を含む揖斐郡8町村の法定協議会が設置されます。
03年2月には大垣市周辺の9市町(池田町を含む)で法定協議会が設置(後に関ヶ原町が参加し、10市町に)されました(大垣市と池田町の法定協議会は03年
3月に廃止)。
揖斐郡の法定協議会は、まず合併の方式を新設合併と定めました。しかし、池田町は大垣市などとの合併を選択し、揖斐郡の法定協議会から離脱を表明。
03年7月、揖斐郡8町村の法定協議会を解散し、池田町を除く7町村で新たに法定協議会を設置しました。
合併の方式については、前の協議会の結論を踏襲し、新設合併とすることにしました。
なお、この時点では大野町(人口約24000人)を含む枠組みだったため、新自治体は「市」であることを前提に議論していました。
新市の名称については、住民を対象に公募をすることになりました(池田町含む8町村の協議会では全国公募の予定だったが変更)。結果は以下の通り。
<公募結果上位>
1位 揖斐 370件 2位 揖斐川 196件 3位 いび 119件 4位 いび川 72件 5位 西美濃 45件
小委員会は、以下の5つの候補を選定し、協議会に報告しました。
「揖斐」「いび」「揖斐川」「いび川」「いびがわ」
音としては「いび」「いびがわ」の2種類で、表記違いで5候補になっています。協議会は、この5候補から投票で選定することを決めました。
新市役所の位置については、小委員会で議論されました。まず当分は新庁舎を建設せずに、分庁方式や総合支所方式を念頭に検討することになりました。本庁舎の
位置については、延床面積が最も広く、築年数も比較的浅い大野町役場を推す意見と、県の出先機関や警察署など他の官公庁が近い揖斐川町役場を推す意見の
2つに分かれました。事務局は、大野町役場と揖斐川町役場を分庁舎とし、その他の村役場を窓口機能を持つ振興事務所とすることを提案。小委員会もこの案を
了承しました。本庁舎の位置については、揖斐川町役場を推す意見が多数となりましたが、大野町役場を推す意見もあり、まとまりませんでした。
議員の任期の扱いについても、小委員会で議論されました。まず在任特例では議員数が72名にも及ぶことから、在任特例は適用しない方針を決めました。
この点を協議会に報告したところ、議会選出の委員から在任特例を適用すべきという声が上がりました。しかし揖斐川町議会の委員は、議会選出委員も、在任特例
ではなく定数特例を適用する方向で検討している旨、協議会前に小委員会から報告を得て了承しているはずと発言。とりあえず、この場は収まりました。
次の協議会でも、小委員会が再度結論を変えなかったため、大野町の委員が「定数を先に決めて、それから特例の適用有無を議論しないと、議員数は多くなる。
定数特例で4年間多い議員数でやるより、在任特例を短期間適用した上で、少ない議員数で選挙する方が割安のはず」と主張。小委員会はきちんと再検討をして
いない、と述べました。議論は紛糾しましたが、結局在任特例は適用しないことを、協議会として了承しました。
続いて定数特例を適用することを前提に、定数と選挙区の設置について協議しました。小委員会は、定数は31から35の間で設定(法定上限は30)し、旧町村ごとに
選挙区を設ける方針を決め、具体的な配分案として、2案を審議しました。第1案は、定数を35とし、各町村に2議席ずつ配分した上で残りを人口比例配分とするもの
で、具体的には大野11、揖斐川10、谷汲4、春日3、久瀬3、藤橋2、坂内2となります。第2案は、定数を31とし人口比例配分を行い、1に満たない村も1を配分
するもので、具体的には大野14、揖斐川11、谷汲2、春日1、久瀬1、藤橋1、坂内1となります。なお、特例終了後についても旧町村ごとに選挙区を置き、定数25
(大野11、揖斐川9、谷汲2、春日1、久瀬1、藤橋+坂内1)とすることとしました。
この段階まで進んだ03年12月の協議会の終盤で、大野町長が発言を求め、議論が平行線をたどる中、このまま協議を進めるのは困難として、離脱の意向を
表明しました。大野町は本庁舎の位置は大野町役場、議員定数は24か25を主張し、他の町村は本庁舎の位置は揖斐川町役場、議員定数は35を主張していた
ため、その溝が回復できなかったということです。
04年2月末をもって、大野町が協議会から離脱。6町村で法定協議会を継続することになりました。
この時点で、6町村の合計人口は3万人を割ることから、合併後の自治体は、「市」ではなく、「町」となることが決まりました。
合併の方式については、新設合併のままとすることで確認されました。
新町の名称については、7町村での協議内容は白紙に戻し、改めて小委員会で協議することになりました。その結果、「揖斐」「揖斐川」の2候補があがり、「揖斐」は
郡名で残ることや、揖斐川の知名度などを踏まえ、「揖斐川町」とすることで意見集約、協議会に提案しました。協議会でも異論無く承認されました。
新町役場の位置についても、異論無く、揖斐川町役場に決まりました。旧村役場は振興事務所としましたが、揖斐川町役場のスペースの都合から、谷汲村役場に
本庁機能の一部を分けることにしました。
議員の任期の扱いについては、法定上限が26となったことから、特例不適用とし、旧町村単位に選挙区を設けることとし、初回の選挙については、公職選挙法
施行令9条による人口に比例しない定数とし、揖斐川11、谷汲5、春日3、久瀬3、藤橋2、坂内2とする案が出されました。7町村での協議会の第1案(定数35)を
ベースとしつつ、揖斐川町が谷汲町に1議席譲った形になっています。協議会は原案通り承認しました。ちなみに、純粋に人口比例で配分すると、例えば揖斐川18、
谷汲3、春日2、久瀬1、藤橋+坂内1といった配分が考えられます。
その後は協議が順調に進みました。最後に谷汲村が決定済みの使用料について修正を求める緊急動議(歩道を占用する日よけの占用料を1500円に引き上げた
ことにつき、谷汲寺参道の商店から反発があり、段階的引き上げに変更を求める案)が出る一幕もありましたが、この件についても了承され、04年5月に全ての協議
が終了。6月に合併協定書に調印しました。
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