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| 年 代 | 年齢 | 代表作品 | 事 項 | 世 相 | |||
| 1653 | 承応 3 | 1 | 越前藩杉森市左衛門信義の 次男として福井に生まれる。 *越前は幸若舞の盛んな土地 → 近松作品に影響。 ・本名 :杉森信盛 (幼名 :次郎吉) ・通称 :平馬 ・別号 :平安堂・単林子・不移山人 |
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| 1657 | 明暦 3 | 5 | 江戸大火事(振袖火事)。 | ||||
| 1664 | 寛文 4 | 12 | 父の浪人に伴い京都に移住する。 | ||||
| 1671 | 寛文11 | 19 | 貞門俳書『宝蔵』に <しら雲やはかなき山の恥かくし> の句が入集する。 この頃、俳諧師・山岡元隣と交流し 一条恵観等の公卿に仕えたといわれる。 |
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| 1677 | 延宝 5 | 24 | 宇治嘉太夫は受領して 加賀掾宇治好澄に改名。 |
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| 1678 | 延宝 6 | 25 | 坂田籐十郎が 大阪において 「夕霧名残の正月」を上演。 |
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| 1680 | 延宝 8 | 27 | 徳川綱吉、5代将軍就任。 | ||||
| 1683 | 天和 3 | 31 | 「世継曽我」 | 時代物 | 宇治座 | 最も早い近松の確実作と言われる作品 | 江戸大火(お七火事)。 |
| 1684 | 貞享 1 | 32 | 竹本義太夫、 道頓堀に竹本座創設。 |
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| 1685 | 貞享 2 | 33 | 「出世景清」 | 時代物 | 竹本座 | 「出世景清」は義太夫の依頼に 応えて書き与えたものであり、 この作品を分水嶺として 本作以前を<古浄瑠璃>、以後を <当流浄瑠璃(新浄瑠璃)> と 称するようになった程、 画期的な作品であった。 |
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| 1686 | 貞享 3 | 34 | 「(遊君)三世相」 | 竹本座 | |||
| 「佐々木先陣」 | 時代物 | 初めて正本に <作者近松門左衛門>の署名が記される。 |
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| 1687 | 貞享 4 | 35 | 父・信義没、京都・本圀寺に葬る。 | ||||
| 1693 | 元禄 6 | 41 | 「仏母摩耶山開帳」 | 歌舞伎 | 坂田籐十郎とのコンビによる初の確実作 これより元禄16年までの 10年間は歌舞伎作者として活躍する。 |
8月10日、井原西鶴没。 (享年52歳) |
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| 1694 | 元禄 7 | 42 | 10月12日、松尾芭蕉没。 (享年51歳) |
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| 1695 | 元禄 8 | 43 | 「傾城 阿波鳴門」 「水木辰之助餞振舞」 |
歌舞伎 | 早雲座 | 大らかな明るさと悲劇の萌芽とを 巧みに調和させた元禄歌舞伎の 代表作を次々に上演する。 |
籐十郎、都座座元となる。 |
| 「姫蔵大黒柱」 | 都 座 | ||||||
| 1697 | 元禄10 | 45 | 「大名なぐさみ曽我」 「百夜小町」 |
歌舞伎 | 都 座 | ||
| 1698 | 元禄11 | 46 | 「一心二河白道」 | 歌舞伎 | 都 座 | ||
| 1699 | 元禄12 | 47 | 「傾城仏の原」 | 歌舞伎 | 都 座 | 義太夫は受領して 竹本筑後掾藤原博教に 改名。 |
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| 1701 | 元禄14 | 49 | 「傾城富士見る里」 | 歌舞伎 | 都 座 | ||
| 1702 | 元禄15 | 50 | 「傾城壬生大念仏」 | 歌舞伎 | 都 座 | ||
| 1703 | 元禄16 | 51 | 「曾根崎心中」 | 世話物 | 竹本座 | 近松初の世話浄瑠璃作品 「曾根崎心中」の大当たりによって 再び浄瑠璃界で活躍する。 |
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| 1704 | 宝永 1 | 52 | 2月、初代市川団十郎没。 (享年45歳) |
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| 1705 | 宝永 2 | 53 | 「用明天皇職人鑑」 | 時代物 | 竹本座 | 竹本座の座付き作者となる。 | 竹田出雲、 竹本座座元となる。 |
| 1706 | 宝永 3 | 54 | 「心中二枚絵草紙」 「卯月紅葉」 「堀川波鼓」 |
世話物 | 竹本座 | ||
| 「本領曽我」 「加賀曽我」 |
時代物 | ||||||
| 1707 | 宝永 4 | 55 | 「卯月の潤色」 「五十年忌歌念仏」 「心中重井筒」 |
世話物 | 竹本座 | ||
| 「松風村雨束帯鑑」 | 時代物 | ||||||
| 1708 | 宝永 5 | 56 | 「雪女五枚羽子板」 「傾城反魂香」 |
時代物 | 竹本座 | ||
| 1709 | 宝永 6 | 57 | 「心中刃は氷の朔日」 「淀鯉出世滝徳」 |
世話物 | 竹本座 | この頃の作品はキリスト教の 影響があるともいわれる。 |
徳川家宣、第6代将軍就任。 11月1日、坂田籐十郎没。 (享年63歳) |
| 1710 | 宝永 7 | 58 | 「心中万年草」 | 世話物 | 竹本座 | ||
| 「傾城吉原染」 「酒呑童子枕言葉」 「碁盤太平記」 |
時代物 | ||||||
| 1711 | 正徳 1 | 59 | 「薩摩歌」 | 竹本座 | この時期になると、 ささやかで純粋な愛情や善意が 複雑な人間関係の中では却って 挫折を余儀なくされてしまう 哀感を描き出す世話物や、 深刻な状況の中で自己犠牲とも いえる行動が事態の打開に 効力を発揮する開放感に富む 時代物を数多く残し、 近松が確立した独自の 悲劇的方法に基づく弱い人間の 誠意・愛情・自尊心等が 生み出す人間性溢れる 感動的な物語を展開させるに至っている。 |
1月21日、宇治加賀掾没。 (享年77歳) |
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| 「今宮の心中」 「冥土の飛脚」 |
世話物 | ||||||
| 「曽我扇八景」 「百合若大臣野守鐘」 「大職冠」 |
時代物 | ||||||
| 1712 | 正徳 2 | 60 | 「夕霧阿波鳴戸」 「長町女切腹」 |
世話物 | 竹本座 | ||
| 「嫗山姥」 | 時代物 | ||||||
| 1713 | 正徳 3 | 61 | 徳川家継、第7代将軍就任。 | ||||
| 1714 | 正徳 4 | 62 | 「当流小栗判官」 | 時代物 | 竹本座 | 絵島生島事件にて 江戸・山村座断絶。 9月10日、竹本筑後掾没。 (享年60歳) |
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| 1715 | 正徳 5 | 63 | 「大経師昔暦」 「生玉心中」 |
世話物 | 竹本座 | ||
| 「国姓爺合戦」 | 時代物 | 3年越し17ヶ月のロングランを記録し 竹本座の維持に成功する。 |
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| 1716 | 享保 1 | 64 | 5月に弟・岡本一包、9月に母没。 | 徳川吉宗、第8代将軍就任。 享保の改革、開始。 |
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| 1717 | 享保 2 | 65 | 「鑓の権三重帷子」 | 世話物 | 竹本座 | ||
| 1718 | 享保 3 | 66 | 「博多少女郎波枕」 | 世話物 | 竹本座 | ||
| 「日本振袖始」 「曽我会稽山」 |
時代物 | ||||||
| 1719 | 享保 4 | 67 | 「平家女護島」 | 時代物 | 竹本座 | ||
| 1720 | 享保 5 | 68 | 「心中天の網島」 | 世話物 | 竹本座 | ||
| 「井筒業平河内通」 「双生隅田川」 |
時代物 | ||||||
| 1721 | 享保 6 | 69 | 「女殺油地獄」 | 世話物 | 竹本座 | ||
| 「津国女夫池」 「信州川中島合戦」 |
時代物 | ||||||
| 1722 | 享保 7 | 70 | 「心中宵庚申」 | 世話物 | 竹本座 | ||
| 1723 | 享保 8 | 71 | 心中物上演禁止令発令。 | ||||
| 1724 | 享保 9 | 72 | 「関八州繋馬」 | 時代物 | 竹本座 | 体の不調を訴え辞世文を認める。 11月22日、没。(享年72歳) |
大坂大火により、 竹本座・竹豊座類焼。 |
近松の作品は大きく分けると<世話物>と<時代物>に大別できます。
以下のような特徴を持っているといわれています。
※浄瑠璃 <時代物> : 操芝居の伝統 …… 時代浄瑠璃
*空想的 ・ 歴史的 → 竹田出雲等への継承<世話物> : 近松による創始 …… 歌舞伎狂言 − 世話浄瑠璃 − 時代世話物
*現実的 ・ 文学的 → 近松門左衛門による完成
=最後の到達点=
しかし、どちらも<近松文学>は死を選ぶ物語が圧倒的に多く、
・当来世の成仏を信ずる。
・悪は人の罪ではなく境遇によって生じるものであるから、如何に重罪を犯した悪人であっても
未来にあって救われる。
といった来世に希望を託する仏教思想が生きており、人生の困難を前にしては解決しようと努力するよりも
運命と諦めて死を選んでしまう、といった近松自身の人生観が顕著に表れているともいえます。
特に 1) 世話物 : 若い男女の情感の解放・純粋な恋愛の追求が世間と矛盾してしまうことから
生ずる人生の破滅に伴う死
2) 時代物 : 曽我兄弟等の武士道に基づく死
に、よく描かれています。
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<近松文学>の特色として挙げられる 「仏教思想」 の影響からか、
登場人物は<弱い主人公>として描かれることが多いようです。
また、その人物像は近松の作家活動に伴って変化を遂げています。
* 弱い主人公 : 肉体的な弱さ − 女性
身分的な弱さ − 庶民・奉公人・女郎
内面的な弱さ − 環境や運命に翻弄されてしまう人間
第1期 延宝〜貞享期 デビュー〜歌舞伎作家 女性の主人公による「恋愛・好色を巡る葛藤」が描かれる。 第2期 元禄期 第3期 宝永・正徳期 世話浄瑠璃の確立
浄瑠璃作家への復帰(1)弱さの徹底化
弱い立場にある者が神仏の加護にすがるといった
他の力に頼るのではなく、自分でその状況に
立ち向かおうとするあまり、自分自身を傷つけるという
「自虐的な行為」を起こす人物が描かれる。
← 他に働きかける力さえなくした人間が最後のあがきとして
自分自身を否定し傷つける行動に出る。
∴ 自殺・心中・我が子を身代わりに殺してしまう親
※三段目の悲劇 : 残るものは自身の誠意・誠実のみ
・来世での成仏に結びついていく。
・捨て身の自己否定が却って逆説的に状況を打開していく。
→ 人間の真の価値や力を見いだしている。
(2)弱さの変質
社会と矛盾した恋愛感情や現実の困難に押し潰されてしまった
人間の 社会規範から逸脱してしまった時に生まれてくる
体面意識が描かれる。
*人間としての自尊心
「これを失ってしまったら自分は人間としておしまいだ!」 といった
最後の拠り所であり、ダメな人間だからこそこだわる体面といえる。
→ 内面に潜む人間としての美を反映している。
(例) 『冥土の飛脚』 梅川
自分は端女郎であるからこそ笑われることを
してはならない、という意識第4期 享保期 晩年 悪に対する認識の変化
従来であれば善の側にいるはずの人間の内部に悪が忍び入り
悲劇を生んでしまう主人公として描かれるようになる。
← 運命のいたずら : 悪は人によってではなく境遇による、
という近松の罪悪への認識
※三段目の悲劇
〜 一段目:恋 二段目:修羅 三段目:愁嘆 四段目:道行 五段目:問答 〜
竹本義太夫の音曲理念としての五段組織の三段目を指します。
提携者であった近松は義太夫の意を汲んで、この五段の音曲上の理念を戯曲構成の理論として努力を払いましたが
「三段目の悲劇」 は 〜 三段目:愁嘆 〜 の具体化であり、この三段目の善の側の悲劇的な犠牲が
悪の勢力を衰退させるといった展開を生む形式を完成させました。
↓
(犠牲死) 弱者 − 妻・家臣・従者・恋人・家臣の妻子
・貴人の危難を従属者が替わって蒙るといった古代思想の表れ
・死が絶望に終わらず、来世に輪廻転生していくといった仏教思想の表れ
・庶民の主人公への起用 − 歴史を動かすキーパーソンとしての役割りを担わせようとした近松の試み
− 周辺に存在した人々 −
ここでは、近松の周辺に存在して影響を与えた人々を取り上げてみようと思います。
・宇治加賀掾(嘉太夫) −『門弟教訓』より−
寛永12年(1635)〜正徳元年(1711)
本姓・徳田氏、和歌山宇治の生まれ
17歳で音曲修行を志し謡曲を修めようとしましたが家柄が問われる旧態依然とした世界に失望して浄瑠璃に転じ
井上播磨掾の播磨節を規範に研鑽を重ね、延宝3年(1675)、京都に出て興行師・竹屋庄兵衛と結び
宇治嘉太夫を名乗って、新作 「大磯虎遁世記」 を語り好評を得ました。
その後も次々と新作を送り出し、延宝5年(1677)12月1日には受領して宇治加賀掾となり
上方の浄瑠璃界にあってはたおやかな美しさを特徴とする古浄瑠璃・軟派の代表として活躍したといわれています。
家柄や門閥にとらわれない人材登用を実践し、近松門左衛門や竹本義太夫等の発掘に尽力したことは
つとに有名です。
正本の出版にあたっても大きく貢献し、曲節を公刊したり丸本八行本を手掛けるのと同時に
謡曲にも傾倒して長所を取り入れ、浄瑠璃の曲節の改善向上や古浄瑠璃の集大成を図り
それまで低俗な傾向の強かった浄瑠璃に文学性を持たせたり歌舞伎で評判をとった傾城事を導入して
戯曲性を高める等、浄瑠璃普及と質の向上に大きな役割を果たしました。
・竹本義太夫
大阪天王寺村、百姓・五郎兵衛
当時流行の浄瑠璃を好み自身が素質にも恵まれていたことから、大阪を風靡した
井上播磨掾の高弟・清水理兵衛について播磨節を通して金平節を洗練した硬派の浄瑠璃を学び、
理兵衛が道頓堀で「上東門院」 を語った時にワキを勤めて初舞台を踏んだ後
延宝5年(1677)1月、宇治嘉太夫に抱えられて「西行物語」 のワキを語りその名を知られるようになりました。
貞享元年(1684)には34歳で大阪・道頓堀戎橋南詰に竹本座の櫓をあげ、竹本義太夫を名乗って
浄瑠璃界の中心人物となっていきました。
義太夫の語り口は<表嘉太夫 裏播磨>と称されるように軟派・硬派のどちらの味も併せ持っていたことから、
その妙味はたちまちの内に大評判となって第一人者にのし上がっていったといわれています。
義太夫が新浄瑠璃を大成させるために自らに課した創意工夫の一端として以下のような一文が残っています。
*『はなわらひ』
… つらつら思ひけるは、我が語るところの井上氏の流は地節長うして音を表とし節を裏に語り、
又、宇治氏の流は地節短かうして音を裏にかくし節をこまかに語り、両流ともいまだ節章句さだかならず…
いでや井上の長きをちぢめ、宇治の短きをのばし、音の表裏をそなえ節の長短をまじへ、序破急を定め、
一箇の流を立て語るに諸人甚だ悦ぶ…
・坂田籐十郎 −『耳塵集』より−
正保4年(1647)〜宝永6年(1709)
京の座元・坂田市左衛門の一子
※元禄期の代表的な名優で、「和事」と呼ぶ演劇形式を完成させた重要な人物
20歳頃から花車方の名人・杉久兵衛の教えを受けて<男>の芝居に専念すると同時に
中川金之丞というおかしみのある演技に達した名人からも教えを受けて、「をかしきことが実事なり。」という
和事の持つ重要理念を導き出しました。
その後、夕霧劇の藤屋伊左衛門を出世役として世に出て、元禄8年(1695)からは
都万太夫座の座元も勤めて絶頂を極めました。
特に元禄12年(1699)〜元禄15年(1702)が頂点といわれています。
宝永年間に入って病弱となってからは大和山甚左衛門に伊左衛門役で着用する紙子を譲る仕種を舞台で見せて
その芸を伝え、継承させようと伝えられます。
籐十郎の芸術上の功績は以下に集約されるといわれています。
(1)−写実主義の確立−
籐十郎が目指した写実主義は形式や技巧だけに止まらず精神まで及び、
「身ぶりは心のあまりにて、喜び怒る時はおのづからその心、身にあらはるる」 −『耳塵集』−
「歌舞伎役者は何役を勤め候とも、正真をうつす心掛より他なし」 −『賢外集』−
といった姿勢を貫き、日頃から観察・体験をすることを怠りませんでしたが、
一方、「乞食の役をつとめ候はば、顔のつくり着物等に至るまで大概にいたし正真のことにならざるようにすべし」 と
芸術性を強調し
「歌舞伎芝居は慰みに見物するものなれば、随分物事華美にありたし」 と美的様式を説く等
写実性の中にも独自の美学による芸術化を志し、俳優は趣味の涵養によって演技の肉付けをしなければならない、
といって高い教養を目指すと共にその生活は華美を極めたといわれます。
(2)−和事の芸の完成−
近松門左衛門とコンビを組んだことで「傾城買狂言」 のヒットを連発し、
遊里に遊ぶ客の言語動作・恋の手管・遊び心等遊女を相手にする男性の姿態や行動・
心理を芸術にまで高めて<和事芸>と称しました。
従って<和事>は遊里の写生から生まれた独特の上方風演技であり、
情痴にひたる男女の姿が傍目には滑稽な印象を与えることから
「をかしみ」を眼目におき、【やつし】・【濡れ事】・【口説】の3つを柱とした芸風となっていきましたが、
籐十郎はまさにこれを得意とていたといえます。
(3)−戯曲の尊重−
俳優中心であった当時にあって、
「全く籐十郎を見する芝居にあらず 狂言を見する芝居なり」 と発言して戯曲を尊重し
その姿勢が近松との緊密な連携を生み、近松を大きく育てることになりました。