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このページでは、現在でも歌舞伎の舞台で
よく目にする名作を世に送り出した人気狂言作家
河竹黙阿弥の人となり等を見ていこうと思います。




 




年 代 年齢 事 項 世 相
1816 文化13 1 2月3日、江戸日本橋式部小路に生まれる。幼名は吉村芳三郎。
 ・父 越前屋勘兵衛
 ・母  まち
 
1820 文政 3 5   滝亭鯉丈『花暦八笑人』初編刊。
1829 文政12 14 遊蕩が過ぎて勘当を受け八笑人的生活に入る。 幕府よりシーボルトに帰国命令。
1832 天保 3 17 銀座の貸本屋好文堂の手代となり読書に耽る一方、
芝居楽屋出入りの機縁となる。
鼠小僧次郎吉死刑。
1834 天保 5 19 2月、父・勘兵衛死去。弟が家督相続をする。  
1835 天保 6 20 3月、市村座に<勝諺蔵(カツゼンゾウ)>の名で
作者見習いとして出勤する。
 
1838 天保 9 23 <勝諺蔵>として河原崎座に出勤し、序開きを書く。  
1840 天保11 25 9月、弟の死により家業に専心するため、退座する。  
「勧進帳」の初演に際し無本で後見を勤め
7代目市川団十郎に認められる。
 
1841 天保12 26 河原崎座の要請を受けて<柴晋輔>の名で河原崎座に復帰する。 天保の改革開始。
1842 天保13 27   7代目団十郎(当時:海老蔵)、
奢侈の罪で江戸十里四方追放。
1843 天保14 28 11月、河原崎座の立作者となり<2代目河竹新七>を襲名する。  
1846 弘化 3 31 11月、浅草の茶道具商・大和屋源兵衛の三女琴と結婚する。  
1848 嘉永元 33 長男・市太郎誕生。 滝沢馬琴没。
1849 嘉永 2 34 4月、母・まち死去。 3代目菊五郎没。
7代目団十郎に赦免の申渡し。
1850 嘉永 3 35 長女・糸誕生。  
「有難御江戸景清」
 *赦免された団十郎のために執筆する。
 
1853 嘉永 6 38   ペリー、浦賀に来航。
1854 嘉永 7 39 「忍ぶの惣太」
 *補筆訂正をしたこの作品で
4代目小団次に認められる。
   この出会いが幕末劇壇の黄金コンビを生むことになった。
8代目団十郎自殺。
1855 安政 2 40   安政の大地震。
1856 安政 3 41 地震による河原崎座の廃座で市村座へ出勤する。   
1859 安政 6 44    7代目団十郎没。
1861 文久元 46 小団次の守田座出勤の伴い、兼任する。  
1862 文久 2 47 「弁天小僧」
 *13代目羽左衛門(後の5代目菊五郎)のために執筆する。
   大変な好評を博す。
 
1864 元治元 49 「切られお富」
 *3代目田之助のために執筆する。
 
1866 慶応 2 51   4代目小団次没。
1868 明治元 53 小団次の養子・左団次の役を巡って市村座を退座する。 江戸城開城。明治維新。
1872 明治 5 57 現代劇「国性爺姿写真鏡」
 *3代目田之助引退興行のために執筆する。
守田座、新富町に移転し
新富座と呼ばれるようになる。
1876 明治 9 61   新富座、火災により全焼。
1878 明治11 63 新富座の洋風新築開場式に燕尾服で参列する。
(生涯に1度の洋装だったといわれている。)
 
1881 明治14 66 11月、新富座において引退を披露し、河竹新七改め
<河竹黙阿弥>を名乗る。
3代目瀬川如皐没。
1886 明治19 71 演劇改良会からの黙阿弥批判に対して
坪内逍遙から反論・激励を受ける。
 *「読売新聞」に朧月庵主人の名にて連載された。
    <河竹黙阿弥翁に告ぐ>
    <河竹翁よ乞う世間の好尚に媚る勿れ>
    <河竹翁よ乞う脚色を重んずる勿れ>
    <河竹翁よ乞う外形を重んずる勿れ>   等。
 
1889 明治22 74 次女・島死去。
黙阿弥は「俺の生き葬いだ」と生涯一度の催事として盛大な葬儀を出す。
 
1892 明治25 77 喜寿の祝をし、真の引退を披露する。  
1893 明治26 78 1月22日、脳溢血のために死去。
「本葬は出し申しまじく。」との遺言通り葬儀は仮葬だけにとどめられ
浅草本願寺御添地源通寺(現:中野区上高田)に葬られる。
<法名:釈黙阿居士、院号はなし>
 







 黙阿弥作品は総数で360種類を数え、最大の理解者であり支援者である坪内逍遙をして
「江戸演劇の大問屋」といわしめた程でした。
江戸の息吹を伝える作品は現在の歌舞伎においても上演頻度が高く、その数は50篇を越えています。
黙阿弥の歌舞伎への貢献度が如何に高いか、の証明ともいえそうです。


= 作風 =
 黙阿弥作品は以下のような特徴を持っています。
  1.常に、
「座元に親切・役者に親切・お客に親切」 を旨とした狂言作家としての姿勢が
    人の心を打つ作品を創り上げている。
  2.因果応報・性善の思想が全体を通じて流れているため、人の心に入り込み易い一面を持っている。
  3.江戸の洒落を、愁嘆場・縁切り場・強請場・殺し場・濡れ場・だんまり等 に余すところなく描き出し
    人情の機微に触れた名作が多い。
  4.竹本をはじめ清元・富本・常磐津等の多用、道行浄瑠璃や余所事浄瑠璃が持つ音楽美の採用、
    七五調の華麗な台詞廻し等を駆使しているため、舞台を総合的に楽しめる作品となっている。
  5.当時流行の講釈や人情噺に題材を求めたことからその時代の庶民感情を捉えることに成功している。

   当時流行った事象を題材にしている分、普遍性には欠ける面があり
           時の移ろいと共に舞台背景や登場人物の心情が、現代人には理解し難くなってしまった作品もあるため
           「そこに黙阿弥の限界がある。」 と評される点は否めないようですが……。




= 作品群 =
 今なお舞台生命を持つと思われる作品の幾つかをジャンル別に列挙してみました。
…親しみのある作品ばかりで少なからず驚き!?…。


ジャンル 初演月日 作品名
正式名称 フリガナ 通称・別称
時代物
活歴物
1850  3 有難御江戸景清 アリガタヤオエドノカゲキヨ 岩戸のだんまり
1852  7 児雷也豪傑譚語 ジライヤゴウケツモノガタリ 児雷也
1853  2 しらぬい譚 シラヌイモノガタリ  
1860  3 加賀見山再岩藤 カガミヤマゴニチノイワフジ 骨寄せの岩藤
1869  8 桃山譚 モモヤマモノガタリ 地震加藤
1870  3 樟紀流花見幕張 クスノキリュウハナミノマクハリ 丸橋忠弥・慶安太平記
1871 10 四十七刻忠箭計 シジュウシチドキチュウヤドケイ 一二時忠臣蔵
1873  3 太鼓音智三略 タイコノオトチュウノサンリャクク 酒井の太鼓
1874  3 夜討曽我狩場曙 ヨウチソガカリバノアケボノ 実録曽我
1875  1 扇音音大岡政談 オウギビョウシオオオカセイダン 天一坊
1876  5 牡丹平家譚 ナトリグサヘイケモノガタリ 重盛諫言
 6 早苗伊達聞書 ホトトギスダテノキキガキ 実録先代萩
1877 12 黄門記童幼講釈 コウモンキオサナコウシャク 黄門記
1884 11 北条九代名家功 ホウジョウクダイメイカノイサオシ 高時
 
世話物
散切物
1854  3 都鳥廓白浪 ミヤコドリナガレノシラナミ 忍ぶの惣太・桜餅
1856  3 夢結蝶追 ユメムスブチョウニトリオイ 雪駄直し長五郎
 9 蔦紅葉宇都谷峠 ツタモミジウツノヤトウゲ 宇都谷峠・文弥殺し
1857  1 鼠小紋東君(着)新形 ネズミコモンハルノシンガタ 鼠小僧
 7 網模様燈籠菊桐 アミモヨウトウロノキクキリ 小猿七之助
1859  2 小袖曽我薊色縫 コソデソガアザミノイロヌイ 十六夜清心
1860  1 三人吉三廓初買 サンニンキチサクルワノハツカイ 三人吉三
 7 八幡祭小望月賑 ハチマンマツリヨミヤノニギワイ 縮屋新助・美代吉殺し
1862  4 青砥稿花紅彩画 アオトノゾウシハナノニシキエ 弁天小僧・白浪五人男・弁天娘女男白浪
 8 勧善徴悪覗機関 カンゼンチョウアクノゾキカラクリ 村井長庵(巧破傘)
1863  8 茲江戸小腕達引 ココガエドコウデノタツヒキ 腕の喜三郎
1864  2 曽我綉侠御所染 ソガモヨウタテノゴショゾメ 御所の五郎蔵
 7 処女翫浮名横櫛 ムスメゴノミウキナノヨコグシ 切られお富
1865  1 粋菩提悟道野晒 スボダイゴドウノノザラシ 野晒悟助
 5 忠臣蔵後日建前 チュウシングラゴニチノタテマエ 女定九郎・蝮のお市
1866  2 船打打橋間白浪 フネヘウチコムハシマノシラナミ 鋳掛松
1867  1 小春穏沖津白波 コハルナギオキツシラナミ お静礼三・小磯ヶ原
1869  7 吉様参由縁音信 キチサママイルユカリノオトズレ 湯潅場吉三
1873  6 梅雨小袖昔八丈 ツユコソデムカシハチジョウ 髪結新三
1877  4 富士額男女繁山 フジビタイツクバノシゲヤマ 女書生
1878 10 月日星享和政談 ジツゲツセイキョウワセイダン 延命院日当
1879  2 人間万事金世中 ニンゲンバンジカネノヨノナカ  
1880  3 天衣紛上野初花 クモニマゴウウエノハツハナ 河内山・三千歳直侍・雪夕暮入谷畦道
 6 霜夜鐘十字辻筮 シモヨノカネジュウジノツジウラ  
1881 10 極付幡随長兵衛 キワメツケバンズイチョウベエ 湯殿の長兵衛
11 島鵆月白波 シマチドリツキノシラナミ 島鵆
1883  5 新皿屋舗月雨暈 シンサラヤシキツキノアマガサ 魚屋宗五郎
1885  2 水天宮利生深川 スイテングウメグミノフカガワ 筆屋幸兵衛
11 四千両小判梅葉 シセンリョウコバンウメノハ 四千両
1886  3 盲長屋梅加賀鳶 メクラナガヤウメカガトビ 加賀鳶
 
舞踊劇 1859  9 日月星昼夜織分 ジツゲツセイチュウヤノオリワケ 流星
1861  5 連獅子 レンジシ  
1865  9 滑稽俄安宅新関 オドケニワカアタカノシンセキ  
1867  2 質庫魂入替 シチヤノクラココロノイレカエ  
1881  6 土蜘蛛 ツチグモ  
1883  4 茨木 イバラギ  
1885 11 船弁慶 フナベンケイ  
1886  1 初霞空住吉 ハツガスミソラモスミヨシ かっぽれ
1887 10 紅葉狩 モミジガリ  
1890 10 戻橋恋廻角文字 コドリバシコイノツノモジ 戻橋
1893  1 奴凧廓春風 ヤッコダコクルワノハルカゼ 奴凧
1901  7 戎詣恋釣針 エビスモウデコイノツリバリ 釣女





 

1)肉親家族
   若い頃の遊蕩や幕末維新の激動のあおりを受けたといえる受難大きかった黙阿弥ですが
  その中にあって生涯現役といえる作者人生を全うできた要因の一つは
  健全で理解ある家族に囲まれた破綻なき私生活にあったといわれています。
                   ↓
    ・遊蕩息子を表面上は勘当しても生活を護り遠くから見守った寛大な両親・兄弟
    ・松平家に御殿奉公した経験がありながら、芸妓上がりのように粋で気働きの利いた妻・琴
    ・家業の質屋を相続し経済的に支えた長男・市太郎
    ・作者の道を継いだ長女・糸、画師の才能に富んだ次女・島




2)友人・劇界関係者
 1.遊蕩第1期
   この時期は黙阿弥自身が若いこともあり、小金のある若旦那衆との交流を深めて後々まで心許す関係を築いています。

  
・鶴屋孫太郎 (後の5代目鶴屋南北)
     踊りの師匠・沢村お紋が黙阿弥の踊り下手を見かね、作者入りを奨めて孫太郎を紹介しました。
    これによって黙阿弥の狂言作者としての人生が始まった事実を前に、
    …黙阿弥が踊り上手であったら、『弁天小僧』や『三人吉三』、『連獅子』等は
     生まれなかったかもしれない… と思うと、…人生、何が幸いするか分からないわ!…
    と希望も持てる気が致しました。

  
・4代目市川小団次
     嘉永7年(安政元・1854)の
「忍ぶの惣太」で二人は肝胆相照らす仲となり、
    翌年の
「宇都谷峠」で関係を不動のものとし幕末の劇壇を制覇するに至りました。
    慶応2年(1866)の小団次の死までが、黙阿弥にとっても作者として人間として
    脂の乗り切った最良の歳月だったといえるようです。

  ・その他
     〜 7代目市川団十郎、4代目清元延寿太夫、初代花柳錦之輔、
        3代目豊国、2代目松林伯円、金原亭馬生、三遊亭円朝 etc. 〜



 2.遊蕩第2期
   この時期になると交流は町民ながら第1級の文化人を擁するようになります。

  
・津国屋籐次郎 
     代々に亘る新橋・山城河岸の桝酒屋であった上に、諸侯出入りの金貸しで巨万の富をなして
    「今紀文」と呼ばれながら、一代にしてその富を蕩尽した江戸における最後の豪商です。
    小団次は「ご隠居」と呼ばれて贔屓にされ、黙阿弥は「老兄」・「老師父」とまで尊称されて
    廓通い等の粋な遊びを愉しみ、芸妓と艶聞が立って仲間から妬まれたこともあったそうです。

   …いつの時代も殿方のなさることに変わりはない!?… と思ったのは私一人でしょうか!?。
        まあ、そうでなければ艶っぽい名作の数々を世に送ることなど出来なかったんでしょうけれど…。
        …生きる世界が私達とは違っている… ということなの?? とも思ったりしたのですが
        「でも黙阿弥自身は確かな家庭を持っていたんだから!」となると…、これは難しい問題です!?。
        (黙阿弥が人として男として妬みを買うほど幸せな境遇に生まれていたことだけは確かなれど…)

  ・その他
     〜 柳下亭種員、仮名垣魯文、花所隣春、落合芳機、桜田左交、3代目瀬川如皐、綾岡輝松 etc 〜.



 3.明治期
   明治維新による欧化の波に翻弄された黙阿弥ですが、文化人との交流は少しも色褪せなかったようです。

  
・坪内逍遙 
     かねてから黙阿弥の渇仰者だった逍遙は維新を迎えて活歴劇の制作にも学者が介入するようになり
    正史正学を持たない黙阿弥が苦境に立たされると、「読売新聞」に黙阿弥を擁護する一連の評論を掲載し
    
  − 明治19年 読売新聞−「河竹黙阿弥翁に告ぐ」等 朧月庵主人 −
    黙阿弥のことを、
<明治の近松・当今のシェイクスピア> とまで称して激励しています。
    実際に会話したのは2度ほどでしたが、逍遙は黙阿弥の謹直堅実な人柄に感服する一方、
    黙阿弥の方も43歳も年下の逍遙を「先生」と呼んで尊敬しました。
     逍遙と黙阿弥家との親交は黙阿弥亡き後も続き、明治34年の『弁天小僧』無断上演事件の裁判勝訴に尽力したり
    門下生の市村繁俊を養子となして河竹家の存続を図るなどの後援を惜しみませんでした。

  ・その他
     〜 関根只誠、幸堂得知、餐村篁村、河鍋暁斎 etc 〜.





  

  明治10年代前半、「無知無学の旧弊者!」との非難令罵を浴びた黙阿弥は明治14年・66歳を機に引退を決意しましが
 しかし、巷の欧化の嵐が過ぎれば元の現役作者に戻ろう、との気概が窺える次の一文より命名したものと思われます。

  
・…以後は何事も口を出さずだまって居る心にて黙の字を用ひたれど
    又、出勤する事もあらば、元のもくあみとならんとの心なり…


  黙阿弥の予測通りにやがて欧化の波は収まり、生涯現役を貫いています。