花籠部屋 & 親方紹介

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  (部屋の歴史)
平成4年10月1日、旧二子山部屋から5番目の
分家として、山梨県上野原町に部屋を再興。
平成8年12月現在地に移転する。
花籠部屋が名門となったのは、第32代横綱 玉錦
の弟子 大ノ海が、昭和27年に引退後初代若乃花
を弟子として、ニ所ノ関部屋から分家独立したこと
にはじまり若乃花、若秩父、大豪を育てた第一期
黄金時代と、輪島、魁傑、荒勢による第二期黄金
時代を築いたことによる。
年寄名跡としては、三杉磯、大ノ海、輪島、花乃湖
らの後を継承し、現親方で15代目となる。
 
(親方の経歴)
元関脇 太寿山 (本名 坂爪 忠明) 新潟県出身
生年月日 昭和34年4月8日 40才
昭和50年二子山部屋(師匠 元横綱 若乃花)入門
同年春場所初土俵 同期には松ケ根親方(元大関
若嶋津)、陸奥親方(元大関 霧島)がいる。
現役時代の身長180cm体重150s
幕内通算成績431勝501敗28休
殊勲賞1回、敢闘賞3回
「ここ」で真っ直ぐに当たるんだよ

昭和50年春場所 本名の坂爪で初土俵 一番出世 (入門時 身長179cm、体重110kg)

昭和50年夏場所 序ノ口

昭和50年名古屋場所 序二段

昭和51年名古屋場所 三段目

昭和52年初場所 大寿山に改名

昭和53年初場所 幕下

昭和55年初場所 新十両(当時、現役最年少関取) 十両昇進までの成績 111勝85敗(勝越20場所負越8場所)

昭和55年秋場所 新入幕

昭和56年九州場所 新関脇

昭和59年秋場所 太寿山と改名

平成3年夏場所 現役引退 (引退相撲で披露された太寿山を讃える相撲甚句歌詞)

平成4年10月2日 山梨・上野原で土俵開き、師匠の二子山相談役(当時)、二所一門の関取衆21人による
連合稽古で花を添えた。

平成8年12月 東京都両国に部屋を移転する

平成18年九州場所終了時点
(記 録)   通算出場回数 1202回 (56位) ※平成16年九州場所終了時点   
    通算勝ち星数 585勝 (87位)  
    幕内在位場所数 64場所 (30位) ※平成16年九州場所終了時点
関脇3場所 小結4場所
 
    幕内出場回数 931回 (29位)    
    幕内勝ち星数 431勝 (56位)  
    幕内連続出場 720回 (20位) S.58.7〜H.3.5
※平成15年九州場所終了時点
 
三賞受賞回数 4回 (83位) ※平成15年九州場所終了時点
    金星獲得回数 7個 (21位) ※平成12年九州場所終了時点   

 

愛情と厳しさを込めて胸を出す花籠親方
この期待に応えて大きくなれ!花籠力士たち

(所在地) 東京都墨田区緑3丁目21番10号 (JR総武線両国駅東口より徒歩10分)

(地方場所宿舎)   大阪場所   大阪市西淀川区百島1−3−29 岩見豊明工場内
    名古屋場所   名古屋市天白区音聞山1324 仏地院
    九州場所   筑紫野市原田427 善隣教

(後援会案内) 問い合わせ先 東京都渋谷区広尾1−10−5 日興パレス606 рO3−5423−7039

(おかみさん)


坂爪 洋子さん (旧姓 山中) 福岡県久留米市出身 ピアノの先生

昭和59年5月6日 夏場所初日婚約発表 「親方が発表したこと全然知らなかった。場所後だと思っていた」
もちろんこの場所は発奮して、初日から5連勝で11日目には早々に勝ち越しを決めた。
結婚式は9月30日 ホテルニューオータニにて。しかし、その日は玉輝山の引退相撲と重なってしまい、午前中に挙式、午後から花相撲、披露宴はまたその後でという超過密スケジュールであった。

長女 美秋ちゃん、次女 冬美香ちゃん、三女 夏苗ちゃん、四女 春菜ちゃん

(花籠親方語録)

「山梨時代は冬になると道路が凍結するほどで、早朝に弟子を上野原駅まで乗せて行っていたが今思えば恐いことだった」 「今までは国技館へ行って帰るだけで4時間、ウチの部屋だけ一日は20時間で終わっていた」

「若いうちは結果じゃなく、うれしくて稽古くやしくて稽古。本場所については最後の一番を大事にしろ。みんないいものを持っているのだから、くじけずに頑張って欲しい」

「部屋を興してまもなくの頃に弟子の廃業が続いたとき、朝、稽古場へ降りて行くと弟子がいないんじゃないかと思うときもあった」

「ライバルを持つことが励みになる。出稽古に力をいれて、いっぱいくやしい思いをさせて、そこからまた頑張らせたい」

「ちゃんこの味付け?ちゃんこ番の若い衆のこれに限るよ」と、頭や尻をかくまね。(お客さんへの定番あいさつ)

「こんな関取もいない若い衆ばかりの部屋を応援していただいて、若い衆も励みになります。ありがとうございます」

現役時代からサインを求められた場合の座右の銘は"一心"。相撲一筋で稽古に打ち込んだ親方の精神を力士全員が受け継いで欲しい。

親方は現役時代に、弟弟子の隆三杉(現 藤島親方)と競り合いエビスコ強いことでも有名だった。入幕当時の会話で、「ステーキ2kgにどんぶり飯3杯と、でかいサラダポウルに生野菜。帰ってからも寿司を食べた」とのこと。

現役時代、テレビのおたのしみ歌比べで歌ったことがあるが、なんと放送ではカットされた経験がある。「あれは気分悪くしたな」 隆三杉いわく「一番上手いから最後だと思っていたら終わっちゃった」

現役時代の好きなタイプの芸能人として、秋吉久美子と岸本加代子が好きだった親方。大竹しのぶはだめなタイプだったらしい。

昭和57年秋場所は、初日に横綱 北の湖、二日目に横綱 千代の富士と続けて破り、初の殊勲賞を獲得した思いで深い場所である。当時、三賞の賞金と懸賞金の使いみちについて聞かれ、「懸賞金?いつの話?もう全部食っちゃいましたよ。賞金も全部食っちゃいます。それが楽しみですから」と親方らしい返事。

昭和58年春場所は、初日に右足首をネンザ(全治2ケ月)して初土俵以来初めての休場した場所である。
このケガの原因として、「出番前に佐田の海と闘竜で冗談ばかり言って集中力が欠けていた」ことと、
「前年末の九州巡業中に霧島神宮に参拝を終えた帰りの階段で、無意識におならが出てしまった。そうしたらケガにあってばかり。今年の九州巡業中に霧島神宮にちゃんとお参りしてきた」ことらしい。

蔵前国技館最後の場所だった昭和59年秋場所で、大の字に "、" を増やして太寿山と改めた。けがが続いていたいた為、親方が字画を占ってもらって変えたとのこと。当事者の親方曰く、「オレはどっちでもいいけどね」

永年の土俵生活で、力士の職業病ともいえる肘の関節を傷め、昭和60年代に入って三役も遠ざかり一進一退を続けていたが、ついに昭和61年名古屋場所前に右肘の手術に踏み切り、かつての相撲が蘇った。

幕下誕生を公約した1999年だったがあと一歩で果せなかった。三段目10枚目あたりに3人が上がった初場所を控えた2000年の所信として、「今年は絶対幕下。一人でも二人でも三人でも幕下を経験する。そんな年にしたい」と並々ならない決意表明であった。早々に春場所には公約実現。部屋初の幕下力士太萌山が誕生。

2000年の目標であった一人でも二人でも幕下経験者をも、大きく上方修正を余儀なくされた。秋場所では太萌山と力龍山がともに幕下で勝ち越し。太萌山は幕下中位にまで進出。さしづめ新目標は「幕下でさらに上を目指せる力士を最低でも3人」といったところか。

初日の2日前は稽古を休む部屋があるが、ウチは前日も含めて休まないよ。個人的に休むヤツはいるかもしれないけど、ハハハ。

出稽古は「行ったらヤルぞ」の気持ちがないとダメ。「なんでオレだけ」という行かされている思いでは意味がない。
「親方もあとから出稽古先に行きますか?」に対して、「行かないよ。腹が立つから」