思い出話(1)
*幼年期・古き良き時代
1.海水浴など(阪神間の海) 昭和の初期、今の神戸市東灘区、当時は武庫郡御影町に住んでいた。
当時の海岸は現状からは想像も出来ないほど自然豊かで美しいものだった。
夏は殆ど毎日、妹や弟を連れて家から10分位の海岸へ遊びに行った。
美しい白浜が広がっていたが所々には波打ち際近くに石垣が続き、その上の幅30米位の広場には大きな酒造りの樽が干され、沢の鶴や金盃や白鶴の酒蔵が並んでいた。
広い砂浜には漁師の船がここに五艘あちらに三艘といった具合に引き上げられており、その日影で水着に着替えて泳いだ。
お昼には家に帰るが食事を済ませたら又濡れた水着を着て夕方まで遊び真っ黒に日焼けしたものだ。

海は遠浅で波静かな日には、2,3センチの縞鯛の子供が泳いでいたり、足で探って3、4センチのカレーの子供を捕まえたりした。
一日に2,3回鰯の地引網が引き上げられる。十数人の漁師たちが「えーんやこーりゃ・・・・」と掛け声上げて網を引いているのを子供達が一寸手伝ったりするとピチピチ跳ねる鰯を小さなバケツなどに掬って呉れた。
9月の台風シーズンになるとうねりが大きく、土用波が打ち付けてきてもう泳げない。
その代わり秋から冬にかけては投げ釣りが楽しめる。子供でもハゼやがっちょ(てんこち)なんか直ぐ釣れる。大人は沖に飛ばして大きなカレーを釣っていた。
所々沖に向かって2,30米の石組の突堤があり、その先では竿釣りでカレーやあいなめが釣れたし、大人達はチヌを釣っていた。
御影から東へ同じような砂浜と酒蔵の海岸が住吉、魚崎、青木と続き、芦屋の浜には背は低いが枝振りの良い松の林が広がっていた。伝馬船を借り父と一緒にハゼ釣りに行ったこともあった。
すっかり埋め立てられコンクリートの岸壁ばかりの海岸には子供達は危険で近寄れない。
もう高度成長も終わったことだし、そろそろ子供達に海を返す親水域を整備して行く時代だと思う。
2. トンボつり 昭和初期の御影は未だあちこちに畠や広っぱがあった。夏から秋にかけては「ヤンマ」を捕った。昆虫網などを振り回し先ず雌の銀ヤンマを掴まえる。そして腰のあたりに1米位の糸を括り付け1米くらいの竹の棒の先に結ぶ。雄の青ヤンマがいると棒を振り廻す。雄はメスに惹かれて飛んできて番になるところを地上に降ろして網で捕まえる。雌が捕まらない時は雄で代用したが結構騙されて絡まってくる。
昔の誰かの俳句に「トンボつり、今日は何処まで行ったやら」というのがあるが、10歳前位の子供には堪らなく面白かった。真っ黒に日焼けして駆けまわった。
3.お正月 あの頃の正月は子供達にとって楽しいものだった。「もういーくつ寝るとお正月・・・」なんて歌があるが本当に待ちわびたものだ。 勿論暮れには家中で掃除をし門や玄関前には松門立て、注連縄を飾り、床の間にはお鏡餅を飾り、日が暮れると神棚と仏壇床の間に蝋燭を灯し、皆で年越しソバを食べる。そしてお風呂に入り新しい下着などを枕もとに並べて布団に入る。
元日の朝は父が先ず起きて井戸の水を汲み、それから皆起きてくる。お雑煮が出きると皆揃って食卓の前に揃う。その上には裏白を敷きお飾りの干し鰯を2匹と年の数の大豆を置き、烏帽子見たいに斜めに切った大根を飾った皿がめいめいに置かれる。食卓にはお重が並んでいる。
先ず梅干を入れたお福茶を頂く。そして父から順順にお屠蘇の盃が廻ってくる。そしてお雑煮である。
お餅は年の数食べろなんて言われて五つも六つも食べた。
暫くすると年賀のお客がやって来る。玄関には赤い毛氈を敷いて名刺受のお盆が置いてある。
太鼓と笛の音と共に獅子舞いが来る。数分玄関先で舞うのをみんなで見て、何がしかのお金を包んで渡すと出て行く。
表に出ると羽織袴に山高帽子、黒のマントに足袋と下駄の紳士や、鳥の羽が付いた円い帽子をかぶり肋骨みたいな飾りの有る正装に勲章を幾つもぶら下げサーベル下げた陸軍将校達が年始に廻っている。
近くの神社に皆揃って初参りして、午後女子供は晴れの着物に下駄、表では羽根突が始まる。男の子は独楽廻しだ。広っぱでは凧も揚げる。
夜は向こう三軒両隣の同じような家族が今日は内、明日はお宅と集まり、大人は百人一首のカルタ会。子供も子供のカルタや双六で遊ぶ。
勿論TVもステレオも無く(ラジオだけ)みんなが集まって楽しんだ。
二日は書初めや芸事始め。7日は七草粥、11日はお鏡開きでぜんざいを食べる。
そして15日にはどんど焼きでお飾りを燃やしてしまう。
4.小学校 私の小学校は家から歩いて6、7分の国道(今の2号線)沿いにあった。木造2階の旧館とその後ろに鉄筋コンクリ3階建ての新館があった。生徒は建物の入り口で靴を下駄箱に入れると、構内は運動場もどこも裸足だった。だから朝礼では毎日五分ほど全員で小石拾いをする。冬でも裸足で入り口横の足洗いの水溜りをジャブジャブ通ってから後者に入る。
冬は薄氷が張ったが皆元気に足を洗った。弁当は教室の石炭ストーブの横にある金網の棚に並べて暖めた。
校庭の隅には菊の紋がついた屋のようなご真影の奉安殿があった。廻りに植木がありいちいち頭を下げるようなことは無かったが、何か厳かな雰囲気があった。
2月11日の紀元節や4月29日の天長節、11月3日の明治節などには講堂で式があり、校長先生が恭しく教育勅語の巻物を捧げ持って厳かに 「朕思うに我が皇祖皇宗国を思うこと深遠に国を建つること・・・・」と読み上げると我々は皆俯いて内容は良く判らない難しい言葉をかしこまって聞かされた。しかし修身の時間には噛み砕いて教えられたもので当時の皇室崇拝の点を除けば今の世でも通用する人倫の基本が説かれていると思う。
★中学時代
1.服装 カーキ色の綿の制服(詰襟)に制帽と皮の編み上げ靴。足にはゲートルを巻く。冬服は綿の裏があった。下着は冬でも白のメリヤスの長袖一枚。スボン下は無し。靴下は白の木綿。頭は丸坊主。
鞄は無く、白い木綿の風呂敷で本やノートを包み左の小脇に抱える。
右手は上級生に敬礼する為空けてある。育ち盛りの5年間そう言うスタイルだったので今でも背骨がやや右の湾曲して左肩が上がっている。
この風呂敷は遠足や行軍の時は弁当を包み背中に負ぶって肩から斜めにして前で結ぶ。
水筒は斜めに十字に掛ける。
この制服も15、6年頃からはべらべらの化繊になった。
靴には底に大きな金の鋲を打ち、ちびてくると靴屋で底皮と一緒に貼りかえる。それで校内には靴屋が常駐していた。
2.弁当 私の中学は神戸の名門であったが、変な習慣?があった。昼食は校庭で立ったまま食べる。教室は神聖で飲み食いする場所ではないと言うことだ。皆器用に左で弁当箱を持ち食べ,しかも食べながらサッカーしたり遊んだりしていた。
冬は小雪や寒風吹く中で凍った飯を振るえながら食べた。
そして食後のお茶は無く、皆蛇口からじかに水道水を飲んだ。
私の弁当は日の丸に漬物と卵焼きが多かった。飯はどか弁でぎゅっと詰めてあった。
3.教練
各校に配属将校と言うのがいて週1回ほど軍事教練がある。皆38歩兵銃を持ち、腰には薬盒(30発の弾が入る・勿論からっぽ)が二つ付いた皮ベルトで牛蒡剣を吊るす。
「整列」「教官殿に敬礼」から始まって「横向け横!」「前え進め!」と行進したり、「腕立て伏せ」「匍匐前進」などなど
専ら集団行動訓練が主体だった。
年に2,3回は演習訓練がある。その時は皆紅白の敵味方に分かれ、空包を3発貰い、郊外え出かけて1泊の戦争の真似事演習をする。空包は撃ってもポンと音だけで煙は出るが全く反動は無い。夜はテント張って飯盒炊爨し、面白い戦争ごっこのつもりでやったものだ。
苦しいのは行軍。それも6キロ行軍と言って時速6キロ半分小走り。重い背嚢と銃をを背負っているからよくばてる。
教官は一種の閑職だから若いのは来ない。お腹の出た少佐とか大尉とか何時も浮かぬ顔して元気がなかった。
学生だからビンタなんてものは1度もなく、私なんかは体育の一種と思っていた。
この銃は菊の紋章が入り、使用後は分解して掃除し油を引いておく。敗戦近くになると勿論全部持って行かれたそうだ。
戦時中
1. 徴兵けんさ 昭和19年4月から学徒勤労動員で長崎のM造船へ行った。朝8時から5時まで船台周辺で鉄板に穴を開ける作業をした。別のクラスは船台の上でリベット打ちをしていた。私は満で20才になり徴兵検査受験の通知が来た。3日程の休暇?で本籍地で現住所の熊本へ帰った。栄養不足と過労と風邪気味でしんどかった。友人に聞いていたヒロポン(今の覚せい剤)の小瓶を薬局で買い、白く小さな錠剤を一つ飲んで検査に向かった。城内の第六師団司令部の講堂みたいなとこであった。
集まった100人ほどは越中褌一つで整列し順番に身長体重視力などの検査を受ける。
そして土嚢こう挙と言って20kgほどの土嚢を或る時間で何回持ち上げられるかのテストがあった。今朝はあれほどだるかったのに身体がしゃんとして軽く、すいすいと土嚢を持ち上げてしまった。後から友人がお前は砲兵に廻されるぞと言っていた。
最後は簡単な衝立の陰の軍医の前に進み、褌の前を横にずらすと軍医が一物を握って検査する。次ぎは後ろを向いて四つんばいになり痔のけんさで終わる。その付近には白い割烹服に愛国婦人会のたすきを掛けたおばちゃんたちが十人ほど見物していた。
服を着て整列すると一人ずつ前に呼ぶ出され、私は検査官から良い体をしておるが近眼だから第一乙種と言い渡された。
(尚私は国立大の工学部へ進学したので、卒業まで徴兵猶予があり、大学1年の終わりに終戦となった)
2.勤労動員-1
昭和19年4月から半年は長崎のM造船所に勤労動員された。
当時我々は未だ普通高校生で技術は無い。それで単純労働に駆り出された。
1年上で大学工学部にいた先輩は技師並の待遇で設計室などで働いていたが。
長崎市の南端の新戸町には即成の粗末な2階建ての寮がズラリ並んでいた。聞くところではここに徴用工(例の強制連行と騒がれる朝鮮半島からの人もいたと思う)と動員学生が計2万人いた。五島中学の生徒なんか私達より屈強だった。
関門連絡船がここに回航されていて我々を毎朝夕対岸の立神岸壁へ運んだ。
工場の作業は朝7時から夕5時までである。
私のクラスは船台横で鋼板にリベット用の穴開けをした。これは割と軽作業であったが、他のクラスは船台の上や船内でリベット打ちをやらされた。炎天下熱い鉄の上で真っ赤に焼けた炉を前にして鋲を焼き、エアハンマを操作する仲間に鋲を放り投げる。騒音と熱気は凄まじい。エアハンマで指を失ったものもいたしクレーンで運ばれる鉄板に打ち当てられて怪我するものもいた。
我々は戦時標準船の1万tタンカーを造った。横の船台では2万トン級の空母(名前は忘れたが、後に撃沈された)が建造中だった。又数100トンの小さな海防艦も横で建造中だったが、その鉄板の薄いこと。
タンカーの船内は区画が多く複雑で、その物陰でひょろひょろに痩せた捕虜(オランダ兵)がサボっていて警備兵に見付かり、大きな棒で殴られているのを見たことがあるが、戦後は戦犯で処刑されたかも知れない。
工場の食事は大豆入りのご飯に煮魚などが付いていた。
寮の食事は米の丼飯だったが副食は惨めだった。或る時なんか手のひらほどのキャベツの葉っぱの煮た物が一枚乗っているだけ。それをめくったら指ほどの青虫がいた。
過労と栄養不足で皆ガリガリになっていた。腹も良く壊した。その時は梅干とお粥だけ。
布団はスフ(ステーブルファイバー)と言う人絹みたいな生地に分けの判らん綿?みたいなものが詰められていたが、一方の端に寄ってしまって実質は生地2枚。
8月のある夜、突然空襲警報が鳴った。皆裏山に避難していたら敵機が飛んできて何処かに爆弾を落とした。照明弾や高射砲弾が炸裂して一面明るく花火をみてるようだった。
翌朝通勤の途中に壊れた民家があったが対岸の高射砲弾がそこに落ちたとか。
以後昼間でも時々空襲警報が出た。私は空母の下に潜り込んでいた。
大陸の成都からのB29だったが殆どは北九州へ向かっていた。
勤労動員-2 その前年の18年やs17年頃は熊本郊外や阿蘇の農村で5月には麦の、10月には稲の収穫に1週間程駆り出された。徴兵されて男手の無い農家に1、2人ずつ分宿するが、皆歓待してくれお腹一杯食べさせてくれるので楽しかった。
しかし18年夏の長崎諫早・南風崎の埋め立て土木作業の動員は辛かった。
炎天下もっこ(土を入れた籠を天秤に掛け運ぶ)作業やトロッコ推しの重労働だった。幸い10日ほどの短期だった。
3.空襲 家が神戸にあり大学は大阪だったので両方でしばしば空襲に遭った。
昭和20年に入るとサイパンからのB29がしょっちゅう日本の何処かを襲っていた。
2月頃は航空機工場などを狙う昼間の高空爆撃だった。
冬の昼間1万mの高空を編隊で飛ぶB29は美しい飛行雲を引き銀色の小さな「しらみ」みたいに見えた。
夜は1機か2機だが1トン爆弾などを落として行くので空襲警報が出ると皆防空濠に入り、睡眠不足と寒さで風邪引いたりした。
朝登校途中にそう云う被爆した横を通ることがあったが、1トン爆弾の穴は50Mくらいある。
勿論周囲はバラバラ。
★3月になると様子が変わり焼夷弾による夜間の都市空襲になった。
神戸は16日にやられた。
警報が出て轟々とB29の爆音が聞こえてくると、家族皆庭に作ってあった防空濠に避難した。
やがて「ジャー」「ドンドンバチバチ」と云う異常な音が空に響き渡った。頭上のトタンの上に高いと所から砂利を撒いたらあんな音がするのではないだろうか。首を出して見ると空一面が照明弾サーチライトや高射砲弾の炸裂や落下する焼夷弾の火で明るくなり、300Mほど離れた阪急電車の軌道上ではカメラのマグネシュウムみたいな真っ白な火が銀の火花を吹き上げて燃えていた。
「ジャー」と言う音は焼夷弾が落下する時の音だ。
音が身近に迫ったので耳を塞いで濠の中で小さくなっていた。
後は我が家の周りで燃えている火を消したり、4,5軒隣で燃えている家の消火を手伝ったり、煙の中走り回っていて詳しくは記憶に無い。
幸い我が家には直撃無く、隣保では近くの棟続きの2軒が全勝。人には被害は無かった。
我が家は山手にあり周囲の被害は少なかったが、南の方は一面焼け野が原。
翌日は後始末だ。火に追われ大きな酒樽の防火用水の中で死んだ人を警防団員が2,3人で引き上げていた。硬直した死体は両手を広げた奴凧みたいな格好で上がってきた。
道にも女の人が倒れていたが私の気付かぬ内に誰かが何処かえ運んだ。
私の家から10mほどの防空濠は直撃を受けていた。皆がシャベルで掘り返したら中から女性と赤ん坊の死体が出てきた。
上半身は燃えて無くなっており、砂に埋まった下半身は何ともない。脂に濡れてべとべとの〒通帳が帯の間から出てきた。見ると1キロほど南の町の名前があった。ねんねんこで負ぶった赤ん坊も半分は無かった。
山手へ避難途中弾が落ちてきたので通りがかった濠に入っていたらしい。
その通帳を持って私はその町の警防団に届けに行ったので、後の始末は誰がどうしたのか今記憶がない。
焼夷弾は3種類あった。直径7,8センチ長さ50センチほどの六角型筒の油脂焼夷弾。これは何10発か纏めてモロトフのパン籠と言うものに詰められ落下途中に開いてばら撒かれる。お尻に油脂のついた布が付いていてこれが燃えながら落下する。中身の油は糊状になっていて飛び散るとべったり付いて燃える。
もう一つはエレクトロ弾でマグネシュウム弾。直径3,4センチ長さ40センチほどの六角筒。高熱で燃える。
後は大型の油脂弾でこれは直径2、30センチ長さ1Mくらい。小型のドラム缶みたい。普通の爆弾状だが破裂しても破片は飛ばずなかみの油脂が飛び散る。これも近くの道に落ちていた。濠を直撃したのはこれだ。
★5月の半ば、昼間に警報が出た。何時もと様子が違う。しばらくすると轟々とB29の爆音が聞こえてきた。慌てて壕に入った。「ガラガラ!!ガー」と大きく異様な物凄い音(鉄道が通る土手の下に造った道などで頭上1Mか2Mのところを電車が通るような)が響いたと思ったらぐらぐら地面がゆれるのと一緒に「ダンダンダンダダーン」と爆弾の音が響いた。
今日は焼夷弾でなく爆弾だ。2,3の編隊が爆弾を落して通り過ぎてから恐る恐る壕から出てみると辺りは無事だが南の空は真っ黒な煙に覆われていた。妹が代用教員で行っている小学校がその近くに在る。無事かどうか様子を見て来いと父に言われて飛び出した。石屋川の西岸を2,300M走っていると又爆音がしてきた。道路脇の幅深さ30cm程の溝に横になったが、幸い爆弾は落ちなかった。更に2,3分走ると石屋川に懸かる国道の橋が見えてきた。辺りには未だ煙が立ちこめ薄暗く電線が何本もぶら下がり、材木や破片が散乱している。幸い小学校は無事らしいのでそこから引き返すことにした。
ふと10mほど向こうの川岸を見ると道路に真っ黒な人形みたいなものが仰向けに転がっている。両手両足を天に向かって伸ばしているが炭化して真っ黒。睾丸は野球のボールほどに膨らんでいた。
この時は5、6キロ東のK航空機工場がやられたが一部の編隊が住宅街を誤爆したらしい。
友人の家がやられ母上が亡くなった。
★その頃大阪が夜空襲された。翌日は講義があると思って当時京橋にあった大学に行った。周りの町並みは未だ焼けて燻っていたが学校は無事だった。廊下に入ると薄暗い所に筵を被せた1Mほどの高さで5,6mほどの何かが置いてあった。横を通りがかってふと見ると中年の男の人の顔が見えた。それは昨夜の犠牲者達だった。足を壁際にして積んであったのだ。男の人は身長が高く少し顔がはみ出ていたのだ。赤く充血した顔はまるで眠っているようであった。猛火で酸欠か一酸化炭素にやられたのかもしれない。焼け焦げてはいなかった。
その何日か後、期末試験が始まった。機械工学は4階の講堂で合同試験だった。始まって間もなく空襲警報が出たが試験は続けられた。皆不安で試験教官を見たが何にも云わない。その内B29の爆音が聞こえ始めやっと避難しろと言われた。慌てて1階に降りたが構内の近くに壕は無く、已む無く階段下の隅に座り込んだ。爆弾が炸裂する音が暫らく響いたが、1キロほど南の陸軍造兵廠がやられた。
★その日は何となく大阪がやられそうな気がしたので家にいた。やがて警報。武庫川々口のK航空機工場がやられた。私の家は少し高台に在り、20キロほども離れていたが閃光と衝撃波と煙が立ち昇るのが良く見えた。その下では勤労動員の中学生や挺身隊の女学生を含む大勢の人が死んでる最中だが、その頃はもう死に対してはかなり不感症になって
いたようだ。

★8月も近い或る日、その頃は空襲が多いので半分は家にいた。警報は鳴らなかったが、爆音がして機銃音がするので見てみると、神戸港の外防波堤の少し沖に停泊中の空母に敵戦闘機が数機ヒラりヒラりと急降下爆撃中だった。白い水柱が何本か周囲に立ったが直撃はしなかったのか空母が沈むのは見なかった。
4.敗戦前後
昭和20年8月は暑く長い夏だった。
あの時は大学2年(工学部だったので、徴兵検査は済んでましたが、卒業まで猶予されてました。)の夏休みでした。
神戸に住んでましたが祖父母のいる熊本に墓参りに帰りました。
8月5日の夜友人と2人で神戸を発ちました。岡山に着くと空襲警報で汽車は止まってしまいました。阪神地方が空襲されていたらしい。そこへ明朝8時広島の連隊に入隊するのだと言う応召兵(40近い)の方が私どもの席に乗ってこられました。
見送りの人から貰ったので食べてくださいと美味しい桃や葡萄を下さいました。
汽車はやがて動き出し、広島には7時に着きました。その方は間に合いましたと喜んで降りて行かれました。カンカン照りで暑い朝の広島駅のプラットホームは綺麗に打ち水され、通勤のサラリーマンや学生達が忙しく構内を行き来して活気に溢れていました。この情景は今も不思議に鮮明に思い出します。
広島を出てすぐ私達はブラインドを降ろし眠りました。暫らくするとガーンと大きな衝撃を感じ目が覚めました。ブラインドを開けて見ると、汽車は宮島と岩国の間付近を走っているようでしたが、宮島の向こうの空に大きな雲がむくむく湧きあがっていました。畠では鍬をかついだお百姓さんたちが走っていました。
あれはひょっとして呉軍港の火薬庫でも爆発したのと違うかな、などと話していました。
その日の夜熊本に着き、郊外の叔母の家に落ち着きました(市内中心部の祖父の家は空襲で焼けてありません)。その後2,3日して真っ赤な小便が出たのには驚きました。
9日も快晴の暑い日でした。叔母と北郊の農村へ芋の買出しに行きました。リュックを背負って歩いていたら西方に見える雲仙の向こうから真っ黒な大きな煙が立ち昇って来たので慌てて帰りました。長崎の原爆だったのです。
当時、空襲警報は福岡を基準に発令されるので、沖縄からの米空軍機は熊本では警報無しでしょっちゅう飛来してました。或る日の空襲は叔母の家の有る郊外の部落を狙って来ました。田圃の上10米位を水平に機銃を撃ちながら飛んできます。
我々は慌てて濠に避難しましたが、だんだん酷くなるので合間を見て数十メートル横の崖下の窪みに移りました。前は竹薮で敵から見えません。
2,3キロ離れた市内を見ると矢張り数機の敵機が低空を飛びながら機銃掃射しています。うち1機がこちらに向かってきました。目の前の竹薮すれすれにザーっといわせて急上昇します。その時後部座席で機銃を乱射してる米兵の顔まで見えました。米機はA26と云う双発の軽爆撃機のようでした。
暫らくして静かになったので家に帰りましたが壁に数発弾が貫通してました。あぜ道にはあちこちにキラキラと真鍮の薬莢が散乱してました。
15日昼には近所の家に集まってラヂオを聞きました。雑音が酷く、天皇陛下の言葉も難しくて始め意味は良く判りませんでしたが、どうも負けたらしいと皆が云うので早く神戸に帰らねばとすぐ支度し、リュックに芋や大豆などを入れて駅に行きました。
九州管内の機関車は皆ボイラーに機銃で穴が開けられ動きませんと駅員は云いましたがとにかく動くまで待つからといって切符を売ってもらいました。
駅の構内はもう復員する兵隊が数十人いました。
待合室の壁には「檄!九州帝国は独立して戦う。男子は皆武器を持って集まれ。女子供は食糧を持って○○の山中に避難せよ」と書いた畳1畳ほどの紙が貼られていました。
日が暮れて暫らくして最初の汽車がヤット来ました。
車内は早くも帰郷する兵隊で満員でした。皆大きな袋を持ってましたが、民間では見ることの無い砂糖や毛布などが詰まってました。
久留米に着くと町は未だ燃えてました。筑後川の鉄橋は爆撃でV字型に折れています。我々は荷物を背負って枕木を1歩1歩注意して渡りました。鳥栖も燃えていてその明かりが頼りでした。今思うと良く川に落ちなかったものです。
門司が近づくと中国軍が上陸してると云う情報が伝わってきて、兵隊は皆慌てて襟の階級章をちぎったり、軍隊手帳を捨てたり、軍服を平服に着替えたりしていました。
しかし朝門司に着いても静かでした。連絡船は林のような沈船のマストを縫って対岸に向かいます。機雷にも触れず下関に着きました。
岩国駅は爆撃で操車場は穴だらけ、線路は曲がり貨車は何台もひっくり返っていました。
広島には日が暮れてから着きました。幸い月明かりで見えるプラットホームには数本の照明用電柱があるだけ、何もありません。唯異様な臭気だけが漂っていました。
2,3時間待って次ぎの汽車が来たので我先に乗りました。私は窓からリュックを放りこんで窓によじ登り転がり込みました。
超満員で網棚にも人が横になり、座席の背もたれに乗って網棚に掴まり身を支えている人もいました。
翌朝遅くやっと三宮に着きました。ここでは未だ軍服に軍刀を下げた将校が歩いていました。
出発以来連絡が取れなかった自宅に帰ったら皆物凄く喜びました。