金沢城1 金沢城探検クラブ 金沢城2  NO.7 金沢城の惣構堀
金沢城の防御力強化のために築かれた惣構堀(跡)を紹介します。残念ながら埋められたり宅地化されて当時の面影はあまり残っていません。
第七回 金沢城の惣構堀
ホームページへ  NO.6へ  NO.8へ     ’5年6月6日登録、 ’7.11.27修正
金沢城惣構堀(&撮影ポイント)
惣構堀絵図 金沢城惣構堀については、地元でもあまり良く知られていません。それは市街地の近代化とともに徐々に姿を消してきたからでしょう。しかしそれでもまだ当時の面影を偲べる堀や土居などが僅かですが残っています。
この惣構堀は、金沢城の防御の面で大切な役割を果たしていました。最近、調査、保存など見直しをしようと言う動きもあります。是非大事にしてゆきたいですね。

惣構堀は内、外堀が夫々東西にあります。造られた時期は、内堀は慶長4年、外堀は慶長15年です。関が原の戦いが慶長5年ですから戦国の世がまだ終わっていないこの時代としては、城の防御という点で重要な位置付けにあったと思います。

規模は、堀と土居を併せて約20mの奥行きで土居の高さは土居裏の道から3m〜4mあったようです。残念ながらこの規模で残っているところはありません。


図左から
 
西外惣構堀
 西内惣構堀
 東内惣構堀
 東外惣構堀
 です。
撮影ポイントを参考にご覧下さい。
 (1)21世紀美術館裏(西外)  (2)市役所裏(西外)
西外惣構堀21世紀美術館裏 西外惣構堀市役所裏
 比較的形を良く残しています。ただ堀は埋められて
 幅は半分ぐらいになっています。
 右手が土居で、ここも良く残っていますが、かっては
 正面の家の建っているところは全て堀で、左の道路が
 堀沿いの道でした。
(3)長町・中央小学校裏(西外) (4)玉川公園前の段差(西外)
西外惣構堀長町 西外惣構堀玉川公園付近
 この部分は鞍月用水としても使われています。幅は
 半分ぐらいになっています。右道路の向こう側が高く
 なっているところが土居跡でそこまで堀がありました。
   写真中ほど左右に道路が走りその向こうに狭くなった
 水路が流れています。更に橋を渡った駐車場の向こう
 一段高いところが土居跡で、駐車場も堀跡ですから
 その堀幅が想像できます。
(5)東別院横(西外) (6)金谷出丸南側道路(西内) 
西外惣構堀東別院横 西内惣構堀金谷出丸横
 金沢駅近く、東別院前を流れる水路です。  正面が玉泉院丸、左が金谷出丸、正面右がいもり堀で、
 そこから手前へ金谷出丸沿いに堀がはじまっていました。
 水路は左側の歩道の部分に暗渠で残っています。
(7)主計町緑水苑(西内) (8)小将中学校横(東内)
西内惣構堀主計町緑水苑 東内惣構堀小将中横
 堀が浅野川と接する場所が当時の面影を残し公園
 として残っています。
 
 
   東内惣構堀が始まる場所です。左の中学校沿いに
 堀があり突き当たりで左へ曲がっていました。
 現状からは想像できません。
(9)兼六元町(東内) (10)八坂上から見下ろす(東外) 
東内惣構堀兼六元町 東外惣構堀八坂
 兼六元町に残る水路です。左が土居で城内側になり
 ます。地形的にはともかく当時の雰囲気はわかりにくい
 ですね
   東外惣構堀がこの足元から始まっていました。右手の
 石垣は加賀八家奥村家の屋敷跡です。 
かなり急勾配
 の坂道です。
(11)八坂下から(東外) (12)水路横に立つ石碑(材木町)(東外)
東外惣構堀八坂 東外惣構堀水路と石碑
 同じく八坂を下から見上げています。左上、お寺の門の
 向こう、小山が奥村家跡です。右道路が堀跡だと思いま
 すがどのように掘り込まれていたんでしょう。
 材木町につくられた石碑です。右の手すりの下がお堀
 跡の水路です。
 (13)材木町沿いに残る水路(東外) (14)堀の浅野川への出口(東外)
東外惣構堀名残の水路 東外惣構堀浅野川への出口
 細い水路となって残っていますが、これでは当時の状況
 を想像できないですね
。但し位置は把握できます。
   東外惣構堀の浅野川との合流場所です。
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