明治以前は養老町根古地で武士だったと言われておりますが、地元のお寺は何回も洪水に見舞われているため過去帳を見ることができません。そのため1800年以前の先祖を遡ることができません。電話帳による調査から春田姓のもっとも密度が濃いのは鹿児島です。したがって、薩摩の人間の可能性が高いことから親戚の中には約250年前の宝暦薩摩義士の中の一人が定着したのではないかとの説があります。しかし、当時は幕府直轄地であり大垣藩預かりとなっていました。宝暦年間に武士として地元に定着することは難しかったと考えられ、また薩摩義士の記録に春田という人物がいませんでした。そのようなことから、私はさらに遡って関ヶ原の合戦で島津敵中突破(1500人のうち大阪まで逃げ帰ったのは80人といわれており、帰走ルートに旧家が位置している)の中の一人ではないかと推測していました。
インターネットで調査していたら、徳川旗本八万騎の中に春田家の家紋
がありました。以前に江戸城にあった記録の中に春田某という人が二人いたのは見たことがありましたが、所領が違うので関係ないと思っていました。しかしながら、家紋から考えると私の家の家紋は違い菱で上記紋の○がない図です。しかも、前述のように江戸時代は幕府直轄地に先祖がいたことから、上記旗本春田の傍系の可能性が高いと思われます。養老町の根古地は幕府直轄地で大垣藩預かりになっていました。
日本家紋協会発行の「春田治田一族」という書籍を参考にすると駿河国富士郡に春田姓が起こり、その先は清和源氏義家流で足利庶流まで先祖が遡れるそうです。先祖清和源氏は人皇五十六代の帝清和帝の皇孫で、源の姓を賜って臣籍に下ったものの総称だそうです。
「源経基の四孫が陸奥守義家(八幡太郎)で鎮守府将軍であった。その孫を足利陸奥判官義康と称し、これが足利の祖である。足利上総介義兼、左馬頭義氏、宮内少輔泰氏と続き、その子義顕に至り、板倉二郎と改めた。義顕はその後渋川と改め数代の称号となった。渋川二郎義顕の後裔で外記之助将頼のとき、春田を以て家号とした。その後駿河に住んで栄えた。将頼の後裔で徳川の幕臣に列する春田半兵衛政秀の後に春田猪之助将吉が岡崎三郎信康に仕えた。天正3年5月の長篠の合戦に軍功があり、その後徳川家康に仕えた。」(H14.11.15追加)
鹿児島のある春田さんに手紙を送って家紋について聞いてみましたが、全く異なっていました。また、先祖が関ヶ原の合戦に参加したとか宝暦治水工事に参加したとか聞いていないとのことでした。やはり旗本系春田の可能性が高いと思われます。
名古屋市中川区に春田町という地名があります。インターネットで調べると「博打打つ奴、戸田で取られて春田で張られ、ながの長須賀で流された」と賭博の好きな者の末路はこのようになると、昔の人は戸田、春田、長須賀の地名を入れて皆を戒めたという情報を得ました。地名が博打の戒めのために決められることは考えられないので中川区図書館に出向き中川区史を調べてみました。もともとは治田・墾田(ハルダ)の意味で荒れ地を開墾した地域であることが分かりました。「地名考」には千数百年前の資料に「富田墾田(トダハルダ)同時に開拓し地名とぞする」と記載されています。
このホームページを見て、福岡の春田さんからメールがあり、祖父が鹿児島県曽於郡大崎町野方上別府出身で家紋が違い菱だと言う情報を得ました。そこで鹿児島県曽於郡大崎町n春田さんをエンジェルラインで調べた結果、14名の春田さんが見えることが分かりました。突然電話をかけるのも失礼に思えたので、、14名の中から5名の方に返信用封筒を入れて問い合わせました。返信が全く得られなかったので電話をかけて聞いてみました。いずれの方も手紙の件は覚えておられましたが家紋の確認ができたのは3人目の春田さんでした。確かに違い菱が家紋であるとこことでしたが、菱形が十字のように配置されており○で囲まれているということでした。大崎町あたりの春田さんは殆どが同じ家紋であるとのこと。我が家の家紋とはかなり異なることが分かりました。(H19.7.5)
また、鹿児島の春田さんから下記のメールを苛抱きました。興味深い内容ですのでそのまま掲載します。
「春田姓のことですが、貴殿のホームページの春田姓の分布からは鹿児島が圧倒的に多いですね。これはどう見ても不自然な事実です。そして、屋久島には春田浜があります。砂浜に春の田とはおかしいですよね。私はこの春田浜の存在を知ったとき、ハルタとは外来語で春田は当て字ではないかと思ったのです。
といいますのも、私は祖先から数えて、13代目になりますが(現在48歳です。)私の祖先は鹿児島県の甑島に流れ着き、春田を名乗ったといいます。その流れ着いた場所はハッタンおばねと言われているそうです。(おばね=尾根?海辺まで、山が迫っている場所です。) ハッタンとは訛った言い方で、ハルタの、という意味なのだろうと思います。どこから流れ着いたのか?それは諸説ありますが、(四国で長宋我部に追われた一条一族の一部が逃れてきたなど・・・・・・とにかく幾度も戦争に敗れて流れついたということは確からしい。)
もっと、マクロな視野で見ますと、鹿児島に春田姓が固まっていることを見るとひょっとして春田一族は海流に乗って南方より流れ着いた一族なのではないかという仮説を立ててみたくなったのです。
それで、はるたという言葉が、東南アジアにないかとさがしてみたら、・・・ありました。
インドネシア語でハルタ(harta)=宝物、資産といった意味の言葉があるのです。
そして、インドネシア語のもととなった言葉の発音ではaをoと発音するそうです。
そうなるともとはハルタではなくホールタ(orホータ)と発音したことになります。
そしてどういいうわけか、インドネシアは名古屋と交流が深いようで、nagoyaという看板のお店が結構あるようなのです。
ここで、インドネシア→鹿児島→名古屋が繋がってきます。
それから、さらにもっと、話しを古代に遡らせます。
聖徳太子より以前の時代にアッシリア人が住んでいたホータンという地方があります。
古代キリスト教が栄えた地域で、バビロニアに滅ぼされてから、ホータンの人たちはシルクロードを通って、インドや中国、へわたり古代キリスト教や医術など高度な文化を伝えたといわれています。しかし、万里の長城の重役に耐えかねた彼らが朝鮮へ移動し朝鮮では受け入れられず、時の日本の朝廷がかれらの移住を受け入れたので大量に移住してきた。それが今の日本の秦姓(ホータン→ハタ)だといわれています。
現在の神社の宮司さんの8割近くは秦姓だそうですね。そんなことから、神社には古代キリスト教の風習も残っているというお話しもあるようです。
ここで話しを戻しますと。インドネシアにはるハルタ(ホータ)という言葉が宝や資産を意味しているのはひょっとして、古代にホータンからインドネシアに渡ってきた人たちを(高度な文明と利益をもたらしたので)ホータと呼び、それが宝や資産という代名詞に変わっていたのではないか。
そして、その末裔がなんらかの理由で古代キリスト教徒として迫害を受け、大量に海流に乗って逃れ流れ着いたのが鹿児島や名古屋であったのではないかという妄想にも似た、仮説が生まれてくるのです。つまり、秦一族は大陸経由のアッシリア人で、春田一族はインドネシア経由のアッシリア人ではないかということです。ハタとハルタ国が違えばこれくらいの発音の相違は出てきても不思議ではないと思うのです。
いかがでしょう?先入観を捨て、客観的に見た場合、どうしても南方から流れ着いたようにしか考えられないのですが、名古屋系の春田さんとしては、納得しがたいでしょうか?
でもどうして、インドネシアと名古屋って交流が深いのでしょうね。
ひし形の紋章はユダヤやキリスト教と関連があるという噂話も聞いたことがあります。
そのへんにも手がかりはないでしょうか?」
根古地で春田七人衆の1人であった春田さんからメールがあり、江戸時代は大垣藩士であったことが分かりました。幕府旗本の春田家との関係は不明です。(H20.8.5)
大垣市立図書館に大垣藩士名簿があることが分かったので調べてみました。横幕孜と言う方が分限帳、士帳、知行目録、侍帳等いろんな資料から藩士の名前を年代順に整理されたものです。1635年から1791年までの記録を手書きで整理されています。何百人と名前がありましたが、我が「春田」の名前は見いだせませんでした。全ての藩士名が網羅されていないのか、大垣藩に春田氏はいなかったのかは分かりません。そこで郷土史の書棚の中にあった、養老町史資料編(上)に根古地新田開発証文が記載されており、その中に春田次郎兵衛という名前を見つけました。寛永18年(1641)に名古屋の河内屋甚九郎が根古地村の草場3818石9合と荒れ地の開発を願い出て、後藤三郎左右衛門など5名と共に多くの費用を費やして天保2年(1645)に完成し、承認申請をしたものです。宛先が根古地村、松永彦左衛門様、春田次郎兵衛様となっていました。
先に、根古地は幕領で大垣藩預所という記載をしましたが、より詳細に調べてみる必要があり、ついでに養老町図書館にも立ち寄り、根古地の歴史を調べてみました。その結果、上記根古地新田開発証文は高須藩(小笠原氏)時代のものであることが分かりました。そうすると春田次郎兵衛は高須藩士と言うことになると思われます。ちなみに、根古地が大垣藩預所になったのは寛延3年(1750)です。
上記のことから、高須藩の春田次郎兵衛、幕府旗本の春田氏、我が祖先の春田氏とのつながりがよく分からなくなりました。(H20.8.7)
