高宮から鳥居本(2002.10.11)
宿場町とともに多賀大社の門前町の役割を果たしていた高宮は人口密度の高い宿場だったという。天保14年の資料によると、宿の石高2923石は、美濃の鵜沼宿に次いで第二位、人口の3560人は、武蔵の本庄宿に次いで第二位。ともに中山道第二位という宿だった。
法士(ほうぜ)から高宮に向かうには、犬上川を越えなければならないが、江戸時代当初は、ここには橋が無く、徒渡りであった。明和4年(1767年)に、高宮宿問屋・庄屋らが、彦根藩筋奉行へ、仮橋架設を申請し掛けたものの、急な出水で橋板が流出することが多かったという。この仮橋は、「高宮宿絵図」(文化元年:1804年)に簡単な桟橋状の橋として描かれている。その後、高宮宿の有志が義捐金を募って本格的な橋を掛けたのは天保2年(1832年)このとで、9月に渡橋式が行われている。天保2年1月に描かれた「高宮宿絵図」には、橋が途中までしか描かれていないのは、建築中だったのか。この橋は、天保3年には、高宮村の江畑茂平・上田与三右衛門・馬場新蔵・馬場庄蔵らが高宮橋株を買い取り、旅人たちに無料で解放したという。そのため無賃橋となった。堤防に無賃橋の標石が建ったのはこのとき、天保3年のことだといわれている。
以上の詳細は脇本陣跡「ふれあいの館」に展示してあった。絵図とともに年表が展示してある。しかし、その後詳細を調べてみようと探したのだが、この「ふれあいの館」のことが書かれている資料が見当たらない。もしかしたら中山道400年祭の期間限定だったのかもしれない。
賑わった宿場と聞いていたのだが、今ではその面影も無く、非常に静かな街並みであった。平日ということもあったのかもしれないが、お茶屋が目に付いたので、適当に一軒を選んで茶を購入する。当然、「里」シールが目的である。あまり客がいないのか、多めにもらえた。少し進むと、前述の「ふれあいの館」があったので立ち寄ってみた。無賃橋の詳細を知ることができる展示があり意外に楽しめた。また、暇だったのか管理しているご主人がずっと話をしてくれた。中でも、「彦根市に合併されてろくなことがない」と文句を言っていたのが印象に残った。中山道400年祭とのことで多額の予算が用意されているにもかかわらず、肝心の街道沿いの宿場にはほとんど回って来ず、彦根城の方にばかり行ってしまうと文句を言っていた。
「ふれあいの館」を後にすると、やがて大きな鳥居が見えてくる。
多賀大社の一の鳥居である。高宮宿のほぼ中央にあり、多賀大社への表参道であり、多賀道とも言われた。この鳥居は、かつては五間の柱間を持つ木造の鳥居であったが、朽ちていたのを寛永11年(1634年)に再建したものであり滋賀県の指定文化財である。脇には常夜灯があるが、以前は対であったという。
街道沿い恒例の郵便局を過ぎしばらく行くと近江鉄道の踏み切りがあり、その脇に「高宮宿」と書かれた石碑がある。これで宿場が終わりであろう。
宿場を出ると単調な一本道が続く。かと言って近代的な道ではなく、かすかに揺らいだ道で古い建物も並んだ気持ちの良い道である。
川を渡るとこんもりとした大きな木があったので思わず写真を撮る。一里塚かと思ったのだが、この辺りにあったとは思えない。さらにしばらく進むと国道306号線という、かなり交通量の多い通りを横断する。名神高速のインターの導入路をくぐると道標が並んでいる。最も大きいものが「韋駄天五百らかん 天保十五年甲辰初夏」と書かれているものがあるが、これらの記述が「今昔中山道独案内」には一切記述がないのは、最近移設されたのだろうか。”井伊直弼”の供養塔がある天寧寺への道しるべである。
気になったので彦根市のページを調べてみたのだが、ここでも地図が違っている。私が見たものは幻だったのだろうか。
ゴルフ場の裏をひたすら進む。ゴルフ場の反対側が彦根市街になるのだが、裏側になるためずいぶん静かである。新幹線、高速道路という現代の幹線に並び中山道は進む。新幹線をくぐると、間に挟まれるように中山道が続く。
小野こまち会館という施設があり「秋麗会」というイベントが開かれていたが、時間も遅く寄り道をしている余裕が無い。この辺りは中世の「小野宿」であり、小野小町の出生地という伝説があるらしい。小野小町塚というものもあるらしいが、そのまま素通りした。
右手に見える名神高速を見ると、「関ヶ原22km」の標識が見える。明日までの行程で、なんとか近江を抜けられそうだ。
鳥居本郵便局の交差点に石の道標があり、彦根道・中山道と書かれている。すると、これが朝鮮人街道の分岐だろうか。どうやら鳥居本宿に到着したようである。ちょうど時間も良く、鳥居本で本日の行程を終えられそうだ。街道沿いに宿場の詳細案内の手書き看板がある。さらに150mほど進んだところの三叉路で左を見ると鳥居本の駅が見える。ここを本日の終了としよう。
歩いている途中で電話を掛けて予約を取った宿は、米原駅のすぐ西側「ステーションホテル」であった。米原まで3kmほどなのだが、明日の行程の中山道は、米原駅前まで行かずに途中で摺針峠の方に曲ってしまう。ここは近江鉄道で一駅移動することにした。
電車は都合よく直ぐ来た。米原に到着すると、全く見覚えのない駅だった。以前、度々使用したことがある米原駅であったが、記憶にある駅とは全く異なっていた。どうやらJRの駅自体が移動してしまったようだ。以前は、近江鉄道と国鉄駅が隣接していたはずなのだが、元の駅のあった場所が駅前駐車場スペースになり、かなり間を空けてJRの駅があった。さて、ホテルの場所を確認すると、駅の反対側なのだが、どうやらJR米原駅は、連絡通路が無い駅のようだ。横断歩道橋があるのだが、かなり遠回りをする必要がある。足も痛くなってきていたので、もったいないが入場券を購入して駅内を通過することにした。
駅を通過して西口側に出てみると、これまた記憶にない風景である。かつては裏口だったのだが、こちらの方が発展が著しい感じがする。その中で多少古びた建物が目的のホテルであった。
チェックインを済ませると、夕食のために再びホテルを出た。ホテル周辺は多少寂れており食事ができるようなところがなかったのだが、向かいに大きなスーパー平和堂があり、そこまで向かうといろいろな飲食店がありそうだ。私が知っている米原の町とは大きく違っていた。
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| 愛知川から高宮 |
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2005.03.06 第一版