垂井から赤坂(2004.09.24)

 とりあえず懐かしの垂井駅到着である。2年前、夜真っ暗になるまで歩いてようやく到着した垂井駅である。駅を出ると、カメラの用意、GPSの初期化などの旅のしたくをした。駅前の小さなロータリーには、シャム系の野良猫がおり、擦り寄って来る。残念ながら今回は食料を一切持っていない。荷物にじゃれて邪魔をする。近所の住民らしき老人は邪魔そうに邪険に扱っていたためか、こちらにばかり寄って来た。
 
 洒落た駅へ改装されたJR垂井駅 今にも雨が降りそう
 

 猫の相手ばかりもしていられない、さっそくスタートすることにしたが、前回、真っ暗になってから通過した垂井であるため、今回、スタート前に、少し遡って宿場内を見学してから進むことにした。
 
 近隣住民に嫌われ、観光客におねだり
 

 駅で入手した垂井の宿場案内地図を頼りに、本陣あたりまで戻ってみることにした。せっかくなので前回の経路とは違う道筋で戻ってみた。途中、レンガ造りの不思議な車庫などの横を通り、関ヶ原方面に向かって歩くと、小さな宿場は、あっと言う間に外れまで来てしまった。
 
 レンガ造りのガレージ
 (かすれた文字で「三浦醸造場」と書かれていた)
 

 
街道に戻り、赤坂を目指すことにした。紙屋塚、と言うものを捜しながら進むと、酒屋に日本酒「垂井宿」との看板が。とりあえず軽いならば入手しておこうかと店に入る。箱入りで購入し、表に出ると、何と向かいにも酒屋が。しかも別の種類の「垂井宿」 仕方がない。縁起物である。こちらも入手。店に訪ねると、特に関係もないらしく、互いの「日本酒垂井宿」のことは知らないようだ。
 
 銘酒垂井宿(ホントか? 聞いたことないぞ?)
 

 駅前の地図で見た、紙屋塚を探していた。塚好きとしては、とりあえず「塚」と名が付くものは見ておかねばなるまい。かなり時間を費やしてようやく発見したものの、特に大したものでもなく、単に時間を浪費しただけだったようだ。
 町指定史跡になっているため、観光マップにはすべて書かれているのだろう。ここにあった紙屋は、奈良時代から室町時代まで存続していたと考えられており、一説には美濃紙の発祥地とも言われているらしいことが記述してあった。しかし、それと塚の関係は不明である。
 なお、教育委員会の書いた説明文には「美濃紙の発生地とも言われている」と書かれていたが、普通、こういう場合「発生」ではなく「発祥」と書かないだろうか。大丈夫か、垂井町教育委員会。
 
 駅前の観光案内 垂井宿内の見所が『紙屋塚』だけ。
 これじゃあ見に行かねばと思うでしょ?
 

 結構な時間を使って探した『塚』を離れ、街道に戻った。街角には幟が掲げてあり、中山道宿関連の幟かと思っていると「大型合併に反対する会」と書かれている。先日、大垣との合併が破綻し、再度、住民投票による賛否が問われる。いよいよ盛り上がっているというわけか。
 駅前通りにまで戻ると、左手に大きな旅館がある。これは江戸時代から続く宿だそうな。

 このあたりで垂井宿を後にし、赤坂を目指すことにした。さらに雲行きが怪しくなって来た。

 川を渡ると美濃路との追分がある。直進が美濃路で、大垣を抜け名古屋に至る路、左折が中山道である。一見不思議な構造であるが、まあ、中山道の宿命と言おうか。東名・名神と中央道のような関係である。歴史的に見ても中山道(東山道)は古いはずなのだが、この辺りの出身である身から言わせてもらえば、やはり暮らす上で主流は美濃路だったのだろう。ここから中山道方面に向かっても、ほとんど大きな街は無い。確かに「赤坂」という宿場はあるが、それよりも「垂井」にとって「大垣」の方が重要な街であるのは、今も昔も変わらない。赤坂が大垣市に合併する以前は、垂井町と同じ「不破郡(ふわぐん)赤坂町」だったので、それなりに繋がりはあると思うが、物資の流通、人の流れから考えると、大垣を経由した名古屋方面の方が多いに違いない。赤坂にも港があるが、大垣の町中に発達する運河と港はさらに大きい。
 説明看板にも「また美濃路は将軍上洛の道であり、朝鮮通信使及び琉球使節、大垣湊への重要な道でもあった」と書かれていた。
 
 追分道標
 

 美濃路の方に向かうと、紡績工場脇にきれいな松並木が残るのだが、ここは中山道に向かって進む。余談だが、この松並木、そこに暮らす住民ですら中山道と勘違いしており、最近、間違いを正すために「ここは美濃路です」という看板が建てられるようになった。また、この分岐点にも、はっきりと中山道左、の看板が建てられるようになった。
 
 現代の道標にも『旧中山道』『旧美濃路』の文字が
 

 そろそろ雨が我慢できなくなってきた。身体の方はまだ大丈夫だが、カメラが心配である。荷物の中から雨よけの薄手のジャケットを取り出し羽織っていたのだが、どうやらより一層ひどくなる気配である。ちょうど交差点に久しぶりに見かけたコンビニエンスストアがあったので、立ち寄って傘を購入することにした。最近は、傘も安くなり、500円も出せば充分な物が手に入るようになったので非常に便利だ。もったいないが、荷物になるようなら捨ててしまっても、さほど惜しくない価格である。ビニールではなく、防水加工の布張りの傘を500円で購入した。店を出ると本格的に雨になっていた。

 しばらく進むと左手に美濃国分寺が見え、市境界を越えて大垣市に入ると青野である。青野ヶ原一里塚跡が常夜灯とともに建っている。
 ここのすぐ右手方向の林野を開いて造成された新興住宅地で育ったため、このあたりは同じ小学校の学区である。当然のことながら友人もいたのだが、もはや30年以上も前の話で、ほとんど覚えていない。当時の学友たちにも30年以上会っていないため、立ち寄るようなところは無かった。ましてや今日は平日だ。懐かしさを感じつつ、そのまま通過して行く。不思議なことに、30年という年月を感じさせない。本当に、ほとんど変わらない景色である。
 
 青野ヶ原一里塚跡 
 左にある紅白の物体は、オリエンテーリングの指標(コントロール・フラッグ)ではなかろうか。
 一里塚探しは、やはり現代のオリエンテーリングなのだ!(ホントか?) ※2
 
 
※2 公式の大会があったのかと調べてみたが、確かに9月23日(前日)に岐阜県大会が開かれている。しかし、場所がちょっと遠いため、これとは関係ないと思われる。また正式なルールを見てみたら、赤白ではなく、オレンジと白であるそうだ。

 やがて青野の集落を抜けるとしばらく景色は田んぼになり、比較的新しくできた広い道路を横断し、青墓の集落に入る。この道路は、私が暮らしていた当時は無かった道であり、どうしても拡幅できない青野、青墓を抜けるために別に作った道である。大垣と垂井・関ヶ原を繋ぐ道は、国道21号線があるのだが、旧道から新道(当時、21号バイパスと呼ばれていた)、それも渋滞が激しくなり、さらに次のバイパスとして作られた道である。この道が、思いっきり中山道を分断していた。信号も無い。まるで中山道なんか無かったかのような扱いで、新道がぶった切っている。ちょっと悲しくなってきた。当時、小学校に通うときにも使った道が、実は中山道だということをあとで知ったのだが、その道が、完全に分断されてしまっているのだ。
 自動車の流れが途切れるのを待ち、急いで横断する。かなり危険だ。小学生達はどうやって通学しているのだろうか。
 道路を横断すると小さな川があり、その橋の向こうに青墓宿と書かれた白い木杭がある。この小さな川は、確か大谷川(おおたにがわ)と言う名前だったはずで、小学生の頃、この橋付近では無かったが、大雨で決壊し、橋は流され、通学できなかった記憶がある。夏の日の帰り道には、意外な深みにはまって溺れそうになり一瞬あせったこともある、思い出深い川であった。
 
 『中山道 青墓宿』と書かれた木標が 但し青墓は中山道宿場ではない。
 
 
 やがてこの先、右手に見えるのが出身校の青墓小学校である。この辺りは、前でも説明したとおり、昭和の中期に大垣市に合併する前は「不破郡赤坂町」の一部であった。赤坂町は、2つの小学校しか無く、赤坂小ともう一つが、ここ青墓小である。この青墓小の学区は、今通ってきた、「青墓」、「青野」、そして「矢道(やみち)」、「榎戸(よのきど)」、そしてこれから通る「昼飯(ひるい)」の5個の集落から成る。集落と言うか、5つの町名しかない。都会暮らししかしたことが無い人には想像できないだろうが、全校生徒の住所が5種類しか無いのである。無論、それほど児童もいなかったが。

 非常に興味ある地名では無いだろうか。それぞれ歴史のある集落なので意味があるのだが(あまり詳しくないが)、青墓、青野、昼飯は、中山道の経路であり、それにまつわる伝説・歴史もあるが、矢道、榎戸もそれに劣らない。
 「矢道」とは、文字通り矢の通った道なのだが、それは、次のような伝説から名付けられている。

「平将門が時の朝廷の政策に憤りを覚え乱(天慶の乱)を起こしたが、藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ、将門は捕えられ首を討たれた。その首は京都に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立った。この異変を知った美濃の国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に座す隼人神が東に飛びゆく将門の首を射落とした。その時、隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして「矢道町」の地名が残る」
 そしてついでに言うと、この首が落ちた荒尾(あらお)の地に将門公を 神として崇め祀ることによって再びその首が、関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが、御首神社(みくびじんじゃ)であると伝えられている。
 なお、この御首神社は、この先、赤坂から南に下った方にある「荒尾」という街にある。

 また、さらに歴史を遡るならば、矢道、榎戸、青墓といった地域は、古墳の宝庫でもある。あちこちに点在する森は、すべて古墳であると言っても過言ではない。当時の小学生の遊び場であり、ちょっと土を掘り返すと土器などが発掘できた。
 さらに、さらに歴史を遡ると、赤坂に近付くにつれ、化石が発掘できる。道端の石ころ一つ手に取ると、大抵、フズリナ程度でよければ容易に発見できる。小学生の休日のレジャーが土器発掘、化石掘りだったりした。歴史がありすぎである。

 「青墓のよし竹庵」とか「小篠竹の塚」とか、歴史的な遺跡に驚きながら進むと、あっと言う間に青墓の集落を抜け、目の前に鉄道の高架が見えてくる。高架と言うよりは、昔ながらの土手の造りの鉄道の下にガードがあるだけだが。これは東海道本線の下り線である。一見不思議に思われるだろうが、まぎれもなく支線ではなく本線なのである。
 東海道本線は、開通時から大垣〜垂井を抜け関ヶ原に至る。当然、最短コースを取っていたのだが、この区間、特に垂井〜関ヶ原の区間が坂がきつい。現代の列車にしてみれば何のことはない坂であるが、当時の非力な蒸気機関車では、かなりの難所だったらしい。垂井は大きな駅では無いため、大垣駅で機関車を連結し、関ヶ原までの区間だけ、2連、3連と複数の蒸気機関車で引っ張っていたそうだ。しかし、その前後の区間では不要なため、その機関車を再び大垣に戻し、次の列車を待つ、という非常に無駄な作業、時間を要していた。そこで、何か名案は無いかということで、大垣〜関ヶ原間を迂回させて、徐々に登るようにして、非力な機関車でも登れるように造られた名残が、この区間なのである。従って下り方向(斜度としては登り方向)だけしか必要ないため、単線となっている。また、途中、垂井駅を飛ばして関ヶ原に直結しているため、住民のために「新垂井駅」という途中駅も造られたのだが、これは、私が暮らしていた頃まではあったのだが、JRになるとともに不要の駅として廃駅になった。また、ここが廃駅になると、下り線も、わざわざ迂回する必要がなくなり、通勤電車が邪魔になる時間帯に一部特急とか貨物が利用するだけの線となってしまった。新垂井の駅舎は跡形も無くなっていると聞く。
 山の中を煙を吐き上げて走る姿はなかなか勇壮で(小学生時代まで蒸気機関車が普通に走っていた)、兄の同級生が写真を撮りに行って、トンネルの上から落下するという死亡事故があったことも思い出してしまった。

 ガードを抜けると「昼飯」である。電柱に貼られた住所を見ながら思い出すことがあった。この「昼飯」では、なぜだか「丁目」ではなく「区」という区分がある。確かに同級生の住所も、昼飯一区、昼飯二区、三区、という住所で、非常に違和感があったことが思い出される。小学生の集団登校の区分だけかと思ったが、実際の地名も区で区分けされている。
 昼飯は、青墓小学校で唯一垢抜けた地区であった。しかし中山道を歩いてみると、さほど変化は感じられない。一向に発見できない飲食店、コンビニエンスストアに苛立ちが感じ始める。ここが垢抜けた地区というのは、中山道からは見えないが、ここに赤坂総合センターと呼ばれていた、市役所の分署があったためだ。市内バスの終点でもあり、一応、赤坂地区の行政の中心ということになっている。赤坂町時代の町役場なのだろうが、その周辺だけは綺麗に整備されていた。文化的には「青墓」というよりも「赤坂」なのだろうが、かわいそうなことに、小学校の学区では「青墓」に分類され、遠い「青墓小学校」まで通わされていた。

 しばらく進むと昼飯を抜け、赤坂町に入る。するとすぐに踏切がある。これは実際には、もう列車が走る事が無くなってから数十年経っていると思うのだが、石灰工場の貨物専用線であった。国鉄(JR)の美濃赤坂駅付近で接続されているが、国鉄の列車が走ることは無かったと思う。律儀にも、通過する自動車は全て停車していたが、遮断機そのものが壊れており、もう永遠に降りることは無い。
 
 夏草や〜兵どもが〜夢の跡〜 (ちょっと違うか…) 

 
 盛者必衰の理をあらわす 驕れる者も久しからず

 
  

 この辺りが一番高く、踏切を越えると下り坂になる。ここから先はいよいよ、ほんとうに真っ平な平野が始まる。左手には金生山があったのだが、もう石灰を掘り出されすぎて、ほとんど山の姿が残っていない。当時から、あと20年もつか? と言われていたのだが、30年は保たれたようだ。まだかろうじて残っている。
 反対に右手には勝山。これは山と言うよりは丘で、気を付けて見ないと判らないと思う。当時、「おかちやま」と呼んでいたのだが正式名称だと思っていた。実はこの「勝山」は、元々は「岡山」という名前だったそうだが、関ヶ原の合戦のさいに勝利を記念して家康が「勝山」に改称したのだそうだ。頂上付近に「史蹟 関ヶ原合戦岡山本陣址」の碑が建っているそうだが、見たことはない。当時は(今も)山頂に火葬場があり、あまり近付きたくない場所であった。(実は、4年程前に恩師の葬儀があり、初めて勝山に降り立ったのだが、現在では綺麗に整備された葬儀場となっており、以前のような、お墓の真ん中にある煉瓦作りの火葬場ではなくなっていた)

 一時期暮らしていたとは言え、小学校の高学年から高校までの間だけ。実際に生まれたのは大垣の都心部(とは言っても、昭和30年代後半から40年代前半の、しかも大垣なんてちっぽけな街の都心部なのでたかが知れてるが)だったのに、家を建てた関係から突然、あたり一面田んぼだらけの地区に引っ越してしまい、あまり青墓、赤坂の町に思い入れは無かった。古い町並みよりも、野原を駆け回るのが楽しく、山へ野兎、カブトムシを捕まえに行ったり、池で釣りをやったり、蒸気機関車を見に行ったり、化石を掘ったり。今思えばもったいない時期を過ごしたのかもしれない。あのときに暮らしている街のことを少しでも興味を持ったならば、もう少し歴史が好きになっていただろうし、奥深さ楽しさを、もっと早くに気付いていただろう。しかし、逆に小学生の時代に興味を持ったならば、あの街の歴史の深さに押し潰されていたかもしれない。あの街を理解しようと思ったら大変だ。江戸、室町どころじゃなく、平安・奈良時代、有史以前の古墳時代、さらに遡ると石器時代から下手をすれば数億年まで繋がった歴史のある地域である。歴史学だけでなく考古学、はたまた地質学から古生物学まで必要か。
 思い出せば、当時の友人達でも、戦国時代が得意なヤツ、古墳時代が得意なヤツ、化石に詳しいヤツ、いろいろ分化されていたような。

 私? わたしゃ電気・機械専門で、友人が持ち込むラジカセ等を修理してばかりいました。歴史にゃ全く興味が無かったっす。だいたい、あの地区に暮らしていて、あれが「中山道」だったなんて知らなかった。立派な家だけど古い汚い家に暮らしているなぁ、と思っていたら、そいつの家が本陣だったり…



付録1:大塚古墳
 今回、立ち寄らなかったのでレポートできないが、調べていたら、いつの間にか国指定史跡になっていた。発掘の様子など、いろいろ詳しく出ているので紹介だけしておく。第一次発掘として紹介されているのが、昭和55年とのことだから、私がこの地を去った年である。よって、詳細は全く知らなかった。中山道を通る機会がある方は、ぜひ立ち寄って、より深い歴史を感じて欲しい。

付録2:青墓
「はじめに」で紹介したサイトによると、「青墓」は、ポリネシアン由来との説が述べられているが、怪しい。と言うのも、その地域出身なのだが、そんな話はいっさい聞いたことが無いし、そもそも「あおはか」ではない。地元では「おおはか」と読む。青墓小学校も「おおはかしょう」であり「あおはかしょう」ではない。無理やりのこじつけは危険だ。
そのページでは、「A・OHA・KA」で、「どちらかというと・(源氏の落ち武者や、傀儡子(くぐつ)など社会の弱者に対して)寛大に処遇した・居住地(集落。宿)」という意味だ、としている。
 まあ、相当の歴史のある地域であるから、以前は「あ・おは・か」だったかもしれないし、全くでたらめ、と言うつもりはないが、読み方ぐらいは調べて欲しい。この地域に残る話では、「最大級の前方後円墳があり『大きな墓』あるいは『王の墓』から「おおはか」「あおはか」となり、青墓の字があてられた」という話であり、この方が納得が行く。
 他にも、三重県にある御墓山古墳(みはかやまこふん/三重県内最大の前方後円墳)は、もともとは「おーはかやま」と呼ばれており、青墓(あおはか)→青墓(おおはか)→御墓(おーはか)→御墓(みはか)と訛ったという話もある。製鉄・製銅を祭る渡来人たちの拠点の一つに「青」(あお)という地名が多いという。いずれにしても、全面的に否定するつもりは無いが、起源がポリネシアというのも、面白い話ではあるが、かなり無理がある。(と思う)


4日目はじめに 赤坂から美江寺

2004.10.12 第一版