|
博物館見学を終えて※1、再び名鉄美濃町線にて新岐阜方面に戻る。新岐阜駅まで戻ってから各務原線に乗り換えて、中山道スタート地点の新加納に戻ることになるのだが、共有駅である田神駅で乗り換えることができそうであり、降りてみることにした。路面電車と普通列車の共有駅が、どういう構造になっているのかも興味があった。
美濃町線では、整理券方式であり、降車時に精算することになっているので、運転士に対して整理券を見せたのだが、そのまま降りて駅で精算するように言われた。プラットホームに降りると、低いホームと、普通列車用の高いホームが一直線に並んで設置されていた。ホームの間に上下線乗り換え用の踏切がある。各務原方面に乗り換えのため、線路を渡る必要がある。線路を渡ると改札があり、多分ここで精算をするのだろう。精算してから新加納駅への切符を購入すれば良いのだろうが、ホーム自体は何の境界もなく繋がっているので、そのまま乗っても良いのだろうと、高いホームの方に移り電車が来るのを待った。
※1 博物館&名鉄美濃町線に関しては、別途紹介予定です。
![]() |
「田神駅」 向こう側(各務原側)の低いホームが美濃町線用、
手前の(新岐阜側)の高いホームが各務原線用 |
|
やがて通常の通勤タイプの列車が入線し乗り込む。今までの欲求不満を解消するような走りで、市内の住宅密集地を走り抜け、細畑、切通、手力、高田橋と、懐かしい地名を冠する駅を経由して行く。東海北陸自動車道の下をくぐると降車の準備をし、ドアに向かう。新加納駅に到着するが、確か無人駅だったはず。どう精算するのかと先頭車両の運転席脇に降りた人に尋ねる。運転士とは別に車掌が居た。整理券を見せ、「美濃町線の小屋名駅からなんですが・・・田神乗り換えです」と正直に言う。「えーっと小屋名ね・・・ちょっとお待ちください」車掌は手元の何やら紙を調べるが、判らずに運転士に尋ねる。運転士も首をひねる。あまりメジャーな乗り換えではないらしい。困った顔をしながら、電話(無線?)の受話器を取り、どこかに連絡を入れる。当然のことながら、列車は発車できない。乗客からは冷たい視線を感じる。30秒ほど待たされて、ようやく精算金額が判明した。2人分を釣り無く渡す。合計で2分以上、私達のために停車させてしまった。「すみません」と何度も謝るが、決して私が悪いわけでは無い(と思う)のだが、やはり田神で精算しておくべきであったようだ。
電車は急いで発車し、それを見送るようにホームを降りると踏切を渡った。いよいよスタート地点である。GPSを起動し衛星捕捉を開始し、カメラの時刻を修正する。再開地点に到着したが、まだ衛星が完全に捕まっていないため、しばらく一里塚跡付近でウロウロしていた。
新加納一里塚碑、新加納の説明看板前で終了したため、まずはここで写真を一枚。さて、ずいぶん遠回りをしてしまったので、もう正午である。昼食もまだなので、本日の行程は、あと実質4時間ぐらいか。鵜沼は当然越えるとして、太田宿までたどりつけるだろうか。
![]() |
本日の本当のスタート地点 新加納一里塚 | |
![]() |
憧れのナッシーと、御対面♪ | |
昨日、伊能忠敬展で購入した本、午前中の県立博物館で購入した本、パンフレット等で、かなり荷物が無駄に重くなっている。早く宅配便にて送付したいところだが、なかなかコンビニ等が見当たらない。再び重い荷物を抱えて店を出た。
「那加桐野外二ケ所大字入会地」とか言う不思議な地名を過ぎると蘇原六軒町、いよいよ一里塚である。本日ようやく一里目であった。
![]() |
本日一個目、六軒一里塚跡 | |
やがて道の両側に駅が登場し、左がJR「各務原駅」で右が「名電各務原駅」 しかし、面白いことに、JRは「かがみがはら(Kagami〜)」で名鉄が「かかみがはら(Kakami〜)」 どうでもいいが、名鉄の方が正しい。さらにどうでも良い話だが、ここが各務原の中心地だと思われることが多いらしいが、何もない町。単に各務原市鵜沼各務原町1丁目、というだけ。
さらにどうでもいい話だが、名電各務原駅の名称は、開業当時(1926年8月1日)は「各務原鉄道」の「二聯隊前駅」だったが、1938年12月1日に「めいでんかがみはら」に改称し、さらに1965年10月1日に市名に合せて「めいでんかかみがはら」に変更している。
名鉄駅で、名電という名前が付いた駅は、名電赤坂、名電長沢、名電山中とここの名電各務原だけであるが、他の3駅は全て名鉄名古屋本線の三河方面の駅。何故か一つだけここにあり、その命名が謎。
名電赤坂、名電長沢、名電山中は、いずれも愛知電気鉄道時代の「愛電○○」という名前が、社名変更によって「愛電」が「名電」に変わっているだけなので、さほど違和感が無いが、各務原鉄道の場合、名岐鉄道に吸収合併され、愛知電気鉄道との合併により名古屋鉄道が発足しているから「名電」の時代とは無関係。単に、国鉄(当時)との区別から「名電」を付けたのだろうが、なぜ「名鉄」ではないのか。
この辺りの詳細の年表を以下に示す。(名鉄は20社弱もの数の会社の合併により成り立っているが、この話に関係無い会社は省略している。線の上の数字は月)
さらにどうでもいい話だが、名鉄各務原線は、ほとんどJR高山本線と並行して走っているが、JR高山本線は、鵜沼方面が「下り」なのに対して、名鉄は「上り」である。混乱を避けるためか、名鉄では鵜沼行き、新岐阜行き、と行き先で方向を示す方が多い。
先を急ごう。
街道は、今度はJR高山本線を跨ぐ。この下辺りに一里塚があるはずなのだが、渡る手前から順に探したものの、なかなか見つからない。記述によると、大きな石碑が立っているそうなのだが、途中から折れているらしい。
ただし、これもいろいろな説があり、どれを信じるかが問題である。
今井金吾著の「今昔中山道独案内」では、「中山道が先の国鉄高山本線を越えたところ、〔懐宝〕に「左松三、右松五」と記されていた一里塚があったが今はなく、すっかり街並みになっている」とある。本書は江戸基点で書かれており、今進んでいる方向からみると逆になる。従って、高山本線の手前にある、と言っている。確かに示された地図も、そうなっている。
とろこが、別な書籍「中山道ウォークinぎふ」によると、「山の前一里塚跡」として、江戸に向かって高山本線を越えた左側を示している。「学研文庫の中山道を歩く(下)」では、高山本線の手前右側に一里塚跡碑と書かれている。
![]() |
高山本線との交差 この辺りに一里塚があるはず。 | |
前述の学研文庫では本文中に記述が見当たらないが、同じ出版社で同じ地図で解説している児玉幸多監修の「中山道の歩き方美濃路をゆく」では、「しかしここは国道から左手に外れて地上を進む。線路間際に播隆上人の碑がある。ただ濃尾地震により途中から上下二つに割れ、無残な姿のまま残されているがここはまた一里塚跡でもある」と書かれていた。これが正しく、記述のとおりであった。
![]() |
本日ニ個目、鵜沼(山の前)一里塚跡 | |
![]() |
国道は右へ、街道は真っ直ぐ進む。
前を行く軽ワゴン車は、中山道を進む |
|
![]() |
楽しみにしていた古墳だが、単なる薮であまり良い保存状態ではない | |
![]() |
衣裳塚古墳の航空写真 よくわからん保存状態 | |
![]() |
300メートル西にある坊の塚古墳 やはり古墳はこうでなくっちゃ♪ | |
| (岐阜県ポータルサイトより) |
|
|
||
| 6日目はじめに | 鵜沼から太田 |