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ホテルを出るとまずは美濃太田駅に向かった。
タクシー移動のためである。土田の一里塚まで歩いて行くには時間が無駄になりそうなためであった。本日の行程として、大黒屋に到着しなければならない、という珍しく先の目標が決っているため、朝の行動で無駄な時間を取りたくない。木曽川の対岸にあたる目的地には、遠回りして橋を渡らねばならないため、歩いて行くにはかなり時間が無駄になる。ここは妥協してタクシー移動とする。
タクシー運転手に一里塚の辺りを尋ねるが、予想通り知らない。新人さんだったらしく、すみませんと謝りながら他の運転手にも尋ねてくれたのだが、やはり知らない。とりあえず地図を見せて、この辺りに行ってくれと頼んで出発した。木曽川を渡り見当を付けたあたりで路地裏に入ってもらったのだが、停車すると同時に、とんでもなく雨が降ってきた。あわてて雨具を出すために、しばらく停車してもらった。タクシーを降り見送るが、さて、どうしようか。全く情報がなく、このあたりを歩き回るしか無さそうだ。古い街道のため、ほとんど情報が無い。携帯電話のGPSにより、自分の居る場所だけは特定できるのだが、どこにあるのかの情報が無い。
しばらく雨の中を歩き回る。どんな跡があるのかも情報が無いため、とりあえずは高い木がある場所を探して回った。川の方まで進み、右往左往。そろそろ時間も無くなり諦め掛けたとき、最後に、まだ通っていない道を東方向に進み、ここに無ければ諦めようと思っていると、公民館のような建物の前に、突然石碑が現れた。土田の一里塚跡。
公民館のような建造物は、「渡りクラブ」と書かれている。何の施設だか判らない。正面のバス停の名前も「渡りクラブ」なので、それなりに名の通った施設なのだろう。「渡り」は、ここの地名が可児市土田字渡なので、その「渡」かもしれないが、なぜか「り」が小さく付いている。
そのバス停の脇に、一本の木と石碑が建っている。
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「渡りクラブ」って何? | |
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土田の一里塚
全ての本の地図で場所が間違っているので要注意 |
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可児市土田は、中山道が整備される以前からの古い宿場であった。和銅六年(七一三)吉蘇路が開通し、鵜沼から栗栖へ渡り、善師野を通り土田まで来ていた道が、寿永四年(一一八五)勝山の岩屋観音までの道が開通した。美濃太田の深田から土田へ渡るようになり、京都から鎌倉へ、鎌倉から京都へと往復する公家や武士や商人らが多数行き交った。古来歌枕として名高い桜井の清水(桜井の泉)は、木曽川の段丘崖を破り湧き出す地下水の溜まり場である。なお、神明会館に移された道標は、右京道左伊勢道と刻まれていて、岐蘇路安見絵図(宝暦六年=一七五六)に中山道と尾張街道の分岐点にあると書かれた地点のものである。
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桜井の泉
藤原定家が、この桜井の泉のことを詠んだ歌があるほど歴史のある泉 |
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雨も上がりかけ 木曽川の橋上から太田宿を見る | |
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本日通ったほうの枡型 昨夜は一本左(西)を通った。
本によっては、どちらも正解? こちらには看板があり、
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昨夜、街道を薄っすらと灯していた灯りの正体 | |
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どろだらけの公園 10センチほどの泥の下からは、タイル舗装が出てきた。 | |
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せっかくここまで登って来たのに、国道に出る手段が無くて呆然とする。
あとはガードレールを跨ぐだけなのだが、この今、立っている場所が、地面から
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意を決して渡った太田橋 とても途中で写真を撮る勇気が無かったので、
対岸に渡ってから振り返った写真を撮る |
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次の交差点が国道21号線との交差。各務原からずっと着かず離れず入り組んで絡み合っている国道であるが、ここでは再び交差するだけで、すぐ先で再び合流することになる。
国道21号線を渡って進むと、やがてJR太多線の踏切がある。「中仙道踏切」という名前であった。踏切を過ぎると、すぐに国道21号線と合流する。
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太多線との交差踏切 「中仙道踏切」という名前
電化されていないと踏切から見る線路の景色が綺麗 |
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本日ニ個目、中恵土一里塚跡 | |
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赤矢印が「石碑」があった場所、
青矢印が、30メートル東 の場所 確かに、ここには石碑と言えども設置できそうな場所が無い。 |
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単調に国道を進むだけである。やがて可児市と御嵩町の境界が現れる。ほんのわずかだが峠になっているようで登りきったところで境界線、下り始めると、御嵩町の「ようこそ中山道史跡の町」という観光看板が現れる。
道路が細くなり、古い街並みが見えてきたら、伏見宿である。
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御嵩町の観光案内看板 「ようこそ中山道史跡の町」 | |
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| 7日目はじめに | 伏見から御嵩 |