畑仲哲雄 1998年2月24日
新井将敬衆議院議員が2月19日昼、港区内のホテルで首つり自殺した。前日の釈明会見では「もうみなさんとお会いすることはないかも知れません」というセリフを口にしていただけに、決意は固かったのかもしれない。
新井氏の自殺について、「病気を苦にしての自殺ならまだ分かるが、ああいう死に方はおかしい」と知人のライターが言った。これに対して私は「逮捕を苦にしての自殺は許されないのか」と応酬してみたのだが……
●自殺は「逃避」か「権利」か
新井氏の自殺には、さまざまな見方が提示された。
1つは、新井氏を選挙で選ばれた公人という枠だけで捉える見方だ。公人たる新井氏に、日興証券との株取引における疑惑が浮上した。その疑惑には、新井氏の国会議員という立場抜きには考えられない背景があった。したがって、有権者は検察の捜査に重大な関心を寄せるのは当然のことであり、潔白を主張していながら逮捕直前に自殺するというのは「逃避」にほかならない。「なぜ奴を逃がしたのだ」という検察当局に対する怒りの声が出るのは当然である。
これを一歩進めて、事件を新井氏個人の問題ではなく、広く政治家と株取引の問題へと一般化する見方もある。政治家の発言により株価が変動することがあり、それがインサイダー取引につながる恐れがある。このため政治家の株取引を法的に制限を加えようというものだ。それが事件の再発防止につながるのというのなら十分説得力がある。
このほか、選挙に金が掛かりすぎるという古くて新しい問題があり、新井氏もその犠牲者の1人だという同情論もあった。その解決こそが急務だというのは、確かに卓見である。
また、新井氏を死に追いやったのはは、検察一体になって最初からクロと決めつけたマスコミ報道だという怒りの声が一部の政治家から出された。一審判決までは無罪の推定を受けるのが刑事法の理念である。「疑惑」という表現ながら逮捕もされていないで新井氏に限りなくクロに近い印象をマスコミが与えていたという指摘は(いくら政治家から出た発言としても)ペンを持つ者なら真摯に耳を傾ける必要があるかも知れない。
しかし、これらはどれもこれも予想された発言であり、私は「またか…」と落胆せざるを得なかった。そこで、ここで敢えて私が提示してみようと思うのは、新井氏を1人の人間として捉え、自殺を真正面から考えようというものだ。
新井氏の職業は国会議員であり、一般の選挙民とは立場が違っていたのは事実だ。しかし彼が1人の人間であったことには変わりがない。人間はしょせん弱い生き物で、追いつめられれば、一つの選択として自殺が認められるのではないだろうか。人は生まれてくる場所や時代を選ぶことはできないが、死ぬ時と場所を自分で選べるというのは、人間に残された最後の権利である。
こうした見方は、報道機関や評論家は決してしない。なぜなら、この社会は死を肯定的に捉えることを長らくタブーにしてきたからだ。
●自殺を妨げる権利はあるか
これを書こう思ったきっかけは、冒頭で書いた通り、知人のライターが「病気を苦にしての自殺ならまだ分かるが、ああいう自殺はおかしい」というのに触発されたことだ。私は間髪入れず「逮捕を苦にしての自殺は認められないのか」と応酬してみた。
少し横道にそれるが、ここで踏まえておきたいのは、終末医療の現場で「尊厳死」という概念が広がりつつあるということだ。
1993年11月にはオランダで積極的安楽死を認める法改正が行われ、1994年には米オレゴン州の住民投票で安楽死法案にゴーサインが出た。日本でも1995年5月に、横浜地裁で安楽死を認める新しい判断が示された。
この判決で尊厳死は(1)患者に耐えがたい苦痛があり(2)死が避けられず迫っていて(3)苦痛を除く手段がなく(4)本人の意思表示がある──の4つの条件を満たしていれば認められるということになった。この判決が出るまでは、病気で苦しんでいる人は、自らの死を選ぶことができなかった。苦しい闘病を続けることが美談と化し、苦痛に満ちた闘病を強制されていた人も少なくなかったことは想像に難くない。
だが「尊厳死」というのは、あくまでも病気という避けがたい局面での方策である。だからこそ「自殺」等と呼ばずに、わざわざ「尊厳死」という造語を使っているのだ。人間としての尊厳を失わずに死ぬ権利。それが尊厳死の基本的な考え方だろう。
しかし、病気以外のときに自殺することは、ダメめなのだろうか。借金苦、男女間のトラブル、罪の意識、哲学的な悩み…… 数え上げればきりがない人間の悩みのうち、なぜ「病気」だけが別格なのか。医師に頼んで延命治療を止めてもらうことだけに「尊厳」を与えるのは不平等である。
ただ、自殺の方法には注意しなければならない。ビルから飛び降りて下を歩いている人にぶつかるとか、ガス自殺でアパートを丸ごとふっ飛ばすというような、他人に迷惑を掛けるやり方を認めてはならないということだ。
●自殺をタブーにせずオープンな議論を
さて、ここで新井将敬代議士に話を戻す。クリアしなければならないのは、彼が尊厳を持って死のうとしたのかどうか、そして他人に迷惑を及ぼしたのかどうかの2点になる。
第1点目の「尊厳」は彼の胸の内にあるので全く分からない。ただ、彼の発言などから、あのまま生き続けるのが苦痛だったことが想像されるので、新井氏なりの「尊厳死」に似たものだった可能性は否定しきれない。
問題は第2点目だ。彼の死によって、事件捜査が困難になってしまったのは紛れもない事実である。「疑惑」の国会議員が自分の肉体もろとも事実を闇に葬ってしまったのは、国民にとって不利益だったことは間違いない。言葉を換えれば公益が損なわれたということになる。
このように考えると新井氏の自殺は「個人の自由と公共の利益」のバランスの問題に収斂されてしまう。個人の自由を認めすぎると公共の福祉が損なわれ、公共の福祉を過度に優先すると個人の自由が制限される。このヤジロベエ的な問題に、自殺をどう織り込ませていくのかが、課題ということになるのではないだろうか。
だが、こうした議論は、これまでのところ、ほとんど行われていない。
ぶっきらぼうな言い方になるが、私の意見はこうだ。
政治家であろうと何であろうと、自殺は人の生命財産を脅かすことがないかぎり基本的に認めらるべきである。なぜなら自殺は犯罪ではないからである。むろん、自殺の「ほう助」等はれっきとした犯罪(刑法202条)だ。しかし自殺者は罪に問えない。
もちろん「疑惑の政治家は自殺してはならない」「あらゆる自殺は禁じられるべきだ」という反対意見があってもよい。
ただ誤解してもらいたくないのは、私は自殺を奨励しているのではないということだ。むしろ私は、この社会が自殺というものをオープンに議論してこなかったということを問いたいのである。とにかく頭ごなしに「自殺はダメ」と言ってみたり、逆に自殺者を過度に美化してみたりで、クールな議論をしてこなかったのが残念なのだ。
新井氏の自殺で、政治家と株取引や選挙と金の問題を論じるのは確かに重要だ。しかし、疑惑の政治家が自殺する権利があるのかどうかを論じてみる必要はないだろうか。そして、それを拡げて、自殺一般についてオープンな議論してみるというのはどうだろう? 答えは出にくいかも知れないが、新たな自殺者を出す前に、やっておいても損はないはずだ。
投稿者・道又 薫 1998年3月31日
私も決して自殺を認めない訳でもなく、もちろん薦めるつもりもないという点ではあなたの意見に賛成いたします。