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①御開港横濱之全図
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五雲亭(歌川)貞秀

*岩亀稲荷と岩亀横丁

横浜道を浅間下の方から関内に向けて歩いてくる。戸部通りに差し掛かると、今、スーパーマルヤマが左手に見える。その手前を左に折れると、そこが岩亀横丁である。
1859年6月2日の開港以来、港崎町に、今の横浜スタジアムの所に遊郭が出来ました。しかし、1866年、豚屋鉄五郎の店から火が出て午前八時ごろから夕方の十時ごろまで燃え続け、日本人街の三分の二、居留地の四分の一が焼けてしまいました。開港以来七年で築きあげた町が一日で
多くが灰と化しました。この時の火事で、港崎遊郭で四百人の遊女や、働いてる人々が焼け死にました。遊郭は堀塀で周りを囲まれ逃げられないようにしてあったため被害を大きくしました。

横浜道からその岩亀横丁を行き、岩亀楼稲荷を探す。なかなか見つけられない。すると、テーラーの隣に小さな灯篭が二基、建ってる。そして、岩亀稲荷の文字。あまりにも小さいのでびっくり。その奥を覗くと、細い、人が一人入ることの出来るほどの狭い道があり、奥に赤い鳥居が見える。家と家の間の砂利道に敷かれた石の上を行くと、あら!・・右側の家でお食事か?お茶してるのがガラス越しにチラッと見える。思わず、見ないようにして入っていく。鳥居の所に小さな祠が祭られている。お参りして帰る時にちらっと家の中を見ると、そこは、三人程の人がいて、テーブルに座って食べている。そして、よく見ると、何と、お店の様だ。この、風景に神社に負けないくらいびっくり。帰り際、B5版の説明書きがあったので拝借。読んでみると、日米和親条約の1854年が1853年になっていたので、テーラーさんに入って伝える。どうやら、管理しているらしい。開港当時、横浜で一、二を争う大楼岩亀楼が、今のスタジアムのある横浜公園にあった。そこの遊女たちが静養する寮がここにあったらしい。そこで岩亀横丁と言われるようなったとのこと。ここの一番の売れっ子、喜遊大夫がペリー艦隊の軍人に言い寄られたが、これを拒み自害した。このとき残したのが「露をだにいとう倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」という有名な辞世が残っています。ここ戸部の、気取らない岩亀横丁にいると何か力が抜け、気が休まっほっとする。以来、横浜道を歩くときは必ず、お下りの時は、左に折れて、お上りの時は右に折れてお参りすることにしている。横浜公園には、港崎遊郭にあった岩亀楼の灯篭が建っている。残念ながらまだ見ていない。触れていない。


*神奈川宿Ⅱ(かながわじゅく)

10月上旬。今日は神奈川宿二度目の散策。先日、行けなかった、青木橋から先の台町方面を散策するのが目的である。横浜駅から平沼交差点に向かい。蕎麦屋「角平」の先の横浜道を浅間下に向かう。「角平」はお休み。昼食と考えていたのだが残念。浅間下から国道一号線の一つ奥の旧東海道を行く。南軽井沢を台町方面に向かっていく。両側に住宅、事務所、駐車場、マンションのある旧東海道は、交通量の少なく、5,6メーター程の狭くゆるやかにS字に道のりが続いている。今日は休日の所為かのんびりとしている。左側は高台になっている。その先を行くと台町になる。台町16から上り坂。そして、途中に上台橋がかかってる。もちろん昔、上台橋はなかった。この辺りは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。今、この上台橋の架かる下を国道が走っている。切り通しになった為、橋がかけられた。そし、橋を過ぎた台町14の辺りから、急激な登り坂。台町13まで続き、台町13から台町11まで平坦になっている。そこからまた、下り坂になってて、その途中、左に神奈川台の関門の跡の碑が建っている。開港後、外人殺傷が続き、更なる攘夷派との軋轢を避けるためと監視の為、六か所に関門を設けたが、この神奈川台の関門もそのひとつ。一番厳しく監視してたところが吉田橋の北門の関門だ。さらに下ると、右手に台町の旅籠屋であった「田中屋」。有名な安藤広重の絵「神奈川(台之景)」に描かれている「さくらや」と書かれた旅籠屋が今の割烹料理屋「田中屋」である。ここは坂本竜馬の奥さんのおりょうさんが仲居をしていたことでも知られています。広重の絵は茶屋、茶見世の女が客引きをしてる絵。遠景に磯子、金沢が見える。田中屋の看板には文久三年創業と書かれてる。文久三年は、生麦事件のあった翌年である。五雲亭貞秀の「野毛の切り通し」の絵と共に私のお気に入りの絵である。
それから、下ると、大網金刀比羅神社、一里塚があり、それを更に行くと、真っ直ぐ向こうに宮前商店街の看板が大きく見えます。昔は、そこと、繋がっていたことがわかります。今は国道一号線に突き当たります。それと並行して、下を電車が走っています。この深く抉られた電車道を作るための土は電車道の埋め立てに使われました。横浜駅(今の桜木町駅)から今の横浜駅に向かう埋め立ての土として使用しました。
国道一号線に出て、左に上ると直ぐに一号線にそった坂の先に、大きなお寺の山門。そして、そこに向かう階段が見えます。そこが、本覚寺です。開港時、アメリカのハリスが、渡船場も近く、湾内の様子も見れるのでアメリカ領事館にしたお寺です。お寺の左にそってかなり急な坂がありますが、まずは、本覚寺に向かいます。門の入り口には横浜開港を強く推し進め、条約締桔の交渉役として活躍した岩瀬忠震の碑が古木、スダジイに守られるかのようにひっそりとあります。ここから右前方に見える幸ヶ谷公園、権現山とは峰続きになっていたとは信じられません。それほど深く抉られてます。門の所には、少しお年をめされた方々が20人ほどたむろしてます。歴史旧跡を訪ねて、各地を散策するグループだそうです。門をくぐって、広い境内に入ると、正面に大きな本堂があります。左奥高い所には、大きな涅槃像も見られます。境内には結婚式が行われたらしく礼服を着た方が数人いらっしゃいました。この本堂前には星条旗が掲げられ、山門にはペンキで塗られたようです。そのせいか門を入って右に塗装業者組合のレリーフがあります。最初、あれ?と思ったのですが、考えてみると日本で最初にペンキを塗った所だからですね。お坊さんたちは寺を追出されたようです。
山門を出ないで右に行くと駐車場があります。そこから、来る時に山門に行かず左の急な坂を登る道に出ます。この坂はかなり急な坂です。途中、三宝寺があります。
そこを更に登り切った右側に高島公園があり、その中に、高島右嘉衛門の功績を顕彰して「望欣台の碑」がある。ここは昔、高島嘉右衛門が住んでいたところで、この高台から海の方を見下ろし、横浜から神奈川の海、袖ヶ浦を埋め立てて作っていた線路の工事をこの上から嘉右衛門は望遠鏡で覗きながら指揮していたと言われています。ここに来てみると海であった所にビルしが乱立し面影もないが、高さを実感できます。
高島嘉右衛門については『小判の密売事件で投獄され、六年間を獄中で暮らし、その間に易学を修得。 出獄後に高島嘉右衛門と改名、横浜に定住して材木商兼建設請負業として再出発、実業家として頭角を現してゆく。材木、生糸の取引をはじめとして高島嘉右衛門の事業は多岐に及ぶ。高島学校を設立し、教育事業にも尽力する一方、日本初の洋式ホテル「高島屋」も開業、洋式劇場であった港座の経営まで行っている。また「横浜瓦斯局」を設立、日本初のガス事業を興し、馬車道と本町通りに日本初のガスの灯を点したことはよく知られている』とある記事には紹介されている。
高島嘉右衛門のミュージカルの台本を書くので資料を漁ったことを思い出します。なぜか、その時に、この公園には来ませんでしたが、ここに立って、また、新たな気持ちで再演したい思いが沸々とわき上がってきました。
帰りは、坂道を下り、本覚寺の下まで降りて、国道一号線に出て、青木橋を渡り、京浜神奈川駅から帰途につきました。
次回は、浦島寺と言われ、フランス領事館もおかれた慶運寺あたりを散策したいと思っています。

*神奈川宿Ⅰ(かながわじゅく)

今日9月13日は事務所の前では、日枝神社例大祭です。
お神輿が出ています。
日枝神社のお神輿は高村光雲・作で、関東大震災、横浜大空襲の災難を逃れて今日に至っています。
そこで、火伏神輿と言われてます。
吉田中学の稽古場に行く途中、事務所斜め前の伊勢佐木一丁目のお神酒所が神輿の出発準備でざわついています。

翌、14日は、神奈川宿に行ってまいりました。まず、京浜急行の神奈川駅下車。
降りて改札を出てすぐに、「神奈川宿歴史の道」の解説パネルが見られる。
そこには滝の橋を中心に神奈川宿の様子が昔の絵図と共に説明書きが読み取れる。
「東海道の五十三次の日本橋より三番目が神奈川宿である(品川宿、川崎宿)・・・」で始まってる。

そこから青木橋と逆に下ると左に宮前商店街入り口。
旧街道の道筋である。
今はきれいに街並みも整えられ、今日は日曜日の為か、お店は休み。なだらかな坂になってる。
直ぐ左側に甚行寺(じんぎょうじ)でフランス公使館。
入って、右に大きな銀杏の木。恐らく、開港当時から、あったものでしょう。

その直ぐ先が普門寺(ふもんじ)、イギリス士官の宿舎。更に、行くと左、山側に、洲崎大神(すさきたいじん)。
源頼朝が、石山合戦に破れ、安房に渡り、安房洲崎の安房神社に参籠。再起祈願、後、天下平定、鎌倉幕府開き、神恩忘れず、安房の国の安房神社の神をこの地に招いたのが始まりと言われてる。

神社前の道を海側、第一京浜に降りたところが舟着き場でした。
ここから六文で横浜の本町二丁目に行ってました。
野毛村には、またそこから、舟で三文。

『江戸名所図会』には当時の舟着き場の雰囲気が見事に描かれています。洲崎大神の先を山側に上っていくと幸ヶ谷公園になります。
そこは昔、権現山と言われた山でした。
当時の絵図を見るとひときは高い山が描かれています。

その公園地に思いがけなく幸ヶ谷コミュニティハウスがありました。
中に入って、職員の方に、資料を尋ねたところ、快く、無料の資料、立派な備え付けの資料を見せてくださいました。
「かわらばん」という印刷物も№1から束ねたものをくださいました。

また、ゆっくり、ここは訪ねてみようと思いで、館を後にしました。再び、戻って宮前商店街を出て国道15号を東京方面に歩き、幸ヶ谷小学校の前を通り滝の川に架かる滝の橋の手前を上流に20メートル位入った所に本陣跡のガイドパネル。

本陣があったであろうあたりは今、材木屋さんになってる、と思ったらここにあったのでない。
向い側の、国道15号の海側、今の横浜銀行中央市場支店あたりです。
そこに青木本陣(鈴木源太左衛門)。

そして、神奈川本陣(石井源左衛門)は山側の小野モータースあたりです。
滝の橋は今と同じ所にあったらしい。

次に向かったところは神奈川台場跡。青木本陣の方から、中央魚市場方面に向かう途中、左に入って、滝の川に架かる綿花橋を渡り、二つ目の道を右に折れて30メーターほど行くと、台場のガイドパネルが建っている。

石垣が残されているのでその上に立ってみると塀の向こうに線路の引き込み線があり、遠くに高層マンションが見えるだけであった。

江戸湾警備の目的で、開港翌年の1860年6月、勝海舟の設計で造られたと書かれてる。
八千坪。
権現山の山を切り崩して、神奈川を警備してた、伊予松山藩に作らせた。

今日は時間がないのでこれで、今回の歴史の道歩きを終える。
次回は、今日、尋ねることの出来なかった、開港当時、各国の領事館になってたお寺を回ろうと思う。

京浜急行の駅に着き、青木橋の下を通る線路。
その深くえぐられた様を見ながら、昔、右手にある、権現山と青木橋の向こうの本覚寺のある丘は一つの山だった。
その山を切り崩して、神奈川台場、海を埋め立て鉄道の線路の通り道を作った。
当時の、技術力の中でこれだけのことを短期間でやり遂げるには現場で作業に関わった人夫の人たちの苦労は大変なことであったろう。

今日、神奈川宿跡にやってきて、「東海道神奈川宿本陣石井順孝日記」を読んでみたいと言う思いが一層強くなった。

*保土ヶ谷宿(ほどがやじゅく)

9月中旬。
今日は行ってまいりました。 念願の保土ヶ谷宿に。

まだ、開港以前、横浜に行くのに東海道、保土ヶ谷宿から井戸ヶ谷に抜けて、蒔田を通って横浜村にやってきいた道を訪ねてまいりました。
コースは逆コース、横浜村から蒔田、井戸ヶ谷、保土ヶ谷と行くのですが・・。

今日は時間がないので、制作の立花女史に運転を頼んで車でいきました。
行きは、鎌倉街道から、途中、お三の宮神社により、お三の宮の境内で、吉田勘兵衛が創設した江戸時代からある石で造られた水鉢を拝見。
境内では幼稚園の園児達が秋の運動会の練習か、音楽に合わせてダンスの練習をしていました。

そこを出て、京浜急行の南太田駅に出てY高前を左折して鎌倉街道に戻り、地下鉄蒔田駅の交差点を右に曲がり、南区役所、公会堂、昔、この公会堂で「おばけりんご」(作・谷川俊太郎)南区の主催で公演したことを懐かしく思い出しました。

そこから、再び大岡川に架かる、井戸ヶ谷橋を渡ってちょっと行くと、左斜めに入る道があり、その道に挟まれたところに、井戸ヶ谷事件の慰霊碑がある。事件の現場から北西におよそ109mの位置にある庚申塚。

井戸ヶ谷事件とは横浜居留地の警備のため上海より呼び寄せられていたフランス陸軍フランス人のカミュという士官が馬で友人と保土ヶ谷に向かう途中、井戸ヶ谷に入ったところで攘夷派の人間に切りつけられてなくなった事件です。

そこ左に入らずまっすぐ行って環状一号線に出て、右に折れ、京浜急行井戸ヶ谷の駅を左に見て、保土ヶ谷に向かいます。
途中、首都高速神奈川3号線、狩場線の下をくぐり、真っ直ぐ行き、坂を下り気味に行くと国道一号線にぶつかります。

ここが保土ヶ谷橋です。
念願の神奈川宿です。 国道一号線。

左に行くと戸塚宿、右は東京方面。なぜ、東京方面と言ったかというと、旧東海道は左折して50メートル先の信号を右折して、東海道線を越えて、神奈川宿、江戸に向かいます。

井戸ヶ谷から来て、左折して、江戸方面に右折しないで、戸塚宿の方に10m位、行くと左に本陣跡があります。

軽部家。
本陣とは、大名が泊まる最高ランクの宿場です。
今はブロック塀で中がよく見えませんが、中にかなり、朽ち果てた門があります。勿論、当時の面影はありません。
ただ、そこに軽部紘一さんの表札が読み取れるます。
十九代の方だそうです。

行くと、コンビニの手前に脇本陣跡があり、水屋、今そこは消防署になっています。
書物によると、本陣が軽部家で、脇本陣が藤屋、水屋、大金子屋の3軒で、旅籠は全部で5、60軒だったそうです。
本陣の経営は大変で、宿賃が決まっていなかったらしい。
紀伊国屋文左衛門の三男を養子に迎えたこともあるとのこと。
十代目、苅部清兵衛悦甫(えつほ)の時は横浜開港時で、横浜の総年寄りに選ばれている。
苅部が軽部になったのは明治に入って明治天皇に謁見してかららしい。
今は、国道一号線でかなり交通の激しいところです。

そこから、更に戸塚宿へ行きますと少し登り坂になって右に入る細い道があります。
それが旧東海道で、車ですのでさすがの、立花女史も気づかず通り過ぎてしまい、途中、左折して戻り、旧街道に入りました。
細い道で緩やかな坂になっていて、樹源寺(じゅげんじ)という周りに竹林が目につく日蓮宗のお寺。

その先に、「手打ちそば、きむら」の看板。
経より食いけ。 昼前11時半。
昼前ですから、ここはじっと我慢して通り過ごし、帰りに寄ることにしました。さらに登り、元町ガードの交差点に突き当たり、左折して行きますと、先ほどの国道一号線にぶつかります。

その手前を、右折して、細い道で、見失いそうになる気付きにくいところですがそこを入っていきます。そこから、一気に登り坂です。
「権太坂」(ごんたさか)。
思ったよりかなり急な坂道です。

江戸を出て最初の難所と言われるだけあって「権太坂」は相当なきつさです。車に乗っての登りとは申し訳ない気持ちです。
途中で行き倒れる人を葬るための、投げ込み塚まであったというのですから、そのきつさも想像できるものです。
・・ただ正直なところ行き倒れになるほどではないと・・車に乗ってこんなこと言っちゃいけませんな。

で、旅人は、保土ヶ谷宿で英気を養ってこの坂越えに挑んだと言われています。
今では両脇にマンションが建ち、この坂を毎日、上り下りする大変さを思うと、一種の行だなと思わせる道です。
しかも、結構、長い。途中、光陵高校があり、囲碁選手権全国出場の横断幕が校庭にかかっていました。
途中、富士見屋という商店あり、ここから、晴れた日見晴らしのいい日には富士山が見えたのであろう。
さらに、行くと、権太坂小学校。
そこからさらに登り、登りきったところに、藤田農場の文字を見て何かほっとする。
結構、大変な坂道です。
何か、歩いたような疲れが出てきました。
・・想像力豊かなせいでしょうか?(笑) 更に100メートル程行きますと、道に突き当たります。

正面が境木中学校、そこを右折して、少し走ると、境木地蔵尊のあるところです。
ここは、武蔵の国と相模の国の境で、ここの茶屋で、牡丹餅などを食べて一休みしたらしい。

地蔵さんにお参りをして、帰路につきました。
頭は、途中のあの手打ち蕎麦屋「きむら」に寄ること。
一時近くなってましたから、お腹の方ももうスタンバイオッケーという状態で頂きました。
いや・・おいしかった!! 本当にコシがあって、最高でした。
帰りは、本陣のすぐ先を左折して、JR東海道の踏切を超え、旧東海道を通って帰ってきました。

今度は、権太坂をちゃんと自分の足で登ります。そして、近いうちに、神奈川宿へも行ってきます。
もちろん、アディダスの靴を履いて、そして、歩いて。
立花さん、お疲れ様。ご苦労様でした。

*保土ヶ谷道(ほどがやみち)

2008年8月
八月も中旬、今日は世間では、帰郷ラッシュで交通機関、高速道路は混雑、渋滞とのニュース。
また、北京オリンピックは最高潮に達し、毎日、テレビはヒートアップして、メダルメダルと大変な騒ぎ。
そんな中、今日は、保土ヶ谷道を歩いてきました。正確には藤棚商店街まで、保土ヶ谷道は、保土ヶ谷宿から戸部に到る道で戸部で横浜道とつながります。

横浜道ができるまでは、この道が利用されていました。
今日は、事務所から野毛坂を登って戸部一丁目の交差点、右側が紅葉坂の道、それとは逆の左の道が保土ヶ谷道の道。
坂を下りるとそこから左に入る道があり、伊勢一丁目商店街に入る道を入っていく。

入って直ぐの床屋さんの旦那さんに旧道を聞く。
の目の前道が旧道であると教えてくれた。
商店街を歩きながらゆるやかな坂を上っていく。
路地では、祭りの準備で商店街の人たちが、櫓を組んでいた。
五時頃からスイカ割りがあるらしい。

坂をのぼりつめると、今度は下り坂になってる。これが暗闇坂と言って、昔、関門があったとこだ。暗闇坂は歩いてみると、道が曲がっていて先の様子が見えなさが暗闇坂と呼ぶに相応しい感じがした。
また、別名、鞍止坂。名前の言われはこうである。

①「暗闇坂」…この付近一帯は樹木がうっそうとして、昼なお暗き場所だった。

②「鞍止坂」…昔は横浜駅から洪福寺、久保町の杉山神社近くまで袖が浦といって美しい入江になっていた。
この坂の上からの眺めは大変美しく、特に遠く浮かぶ富士山の姿は素晴らしかった。ここを通りかかった源頼朝も、しばし馬を止めてこの景色を眺めたことから鞍止坂と云われるようになった。

③「鞍止坂」…昔、荷物を積んだお百姓の馬力などがこの坂があまりに厳しく急であったので、ここで一息入れて登ったのでこう呼ばれるようになった。(『ものがたり西区の今昔』より)ここにはまた、関門がありました。処刑場があり、牢屋もあり、関門は、子安、台町、芝生、石崎、暗闇坂、吉田橋、の六か所と、宮之河岸渡船場に。
開港翌年の1860年に居留地に隔離するため掘割りが出来て西の橋、前田橋、谷戸橋にも関門ができた。

坂を降り切ったところに出てくる道を左に行くと直ぐ、藤棚商店街。
右へ行くと、西区役所。
藤棚商店街の手前の細い道を左に入ると直ぐ、商店街からの道(参道)とぶつかり左斜めに願成寺の山門への階段がある。
今日は本堂への門は閉まっているので、階段下にある小堂でお参り。
旧道はその藤棚商店街手前の道を入った道で今はお正面の薬屋と小堂の間に旧道があったらしいがふさがってない。

ここで、保土ヶ谷道に入らず、左にそれて、願成寺の坂を登り、途中に、お寺が経営してる幼稚園があります。
登りきったところを、左折して行くと急な坂がある。尻すべり坂と言われてる。そして、再び登いっていくと左に野毛山動物園が見える。

左に折れて、野毛山動物園の前を通って、急な坂スタジオの前を通って、図書館の前を通って、野毛商店街を抜け、都橋(野毛橋)を渡り、吉田町商店街、つまり、横浜道を通って事務所に帰ってくる。

今度は、近いうちに、今日、征服できなかった残りの、藤棚商店街から保土ヶ谷宿までの道を歩いてみようとおもっている。

* 御開港横濱之全地図

6月19日(木)
行って参りました。 開港資料館へ。
長い間の疑問を解決すべく。

五雲亭(歌川)貞秀の書いた「御開港横濱之全図」と言う1865年に書かれた地図がありまして、横浜の旧い絵地図の中で一番好きな地図でして、ですが、見るたびにいらいらしてまして、これが、何と事務所に張ってあるものですから、事務所に来て、まず、挨拶するように絵の前に行ってなでるようにして見て、そして、いつも、吉田新田の所に目が行くと・・どうして!!? と思わず叫んでしまうのが日課でした。

何が気に入らないかと言うと、吉田新田の南の方に書かれてる山なんですよね。樹木のある小高い山が描かれている。
吉田新田は江戸の材木商人、吉田勘兵衛によって四代将軍家綱の時代に年1856年に、釣り鐘の形の入海の開拓が開始され、新田となった所。
まさに、新田なのです。

ところが、秀貞の絵には、その約、二百年後の新田に、立派な小高い山がある。 入り江を埋め立てるのに近隣の山を崩すことはあっても、作ることはないはず。早速、開港資料館に尋ねると、女の方がやってきました。

畑「・・・この貞秀の書いた御開港横浜之全図の中に山があるんでが?」
学芸員「・・・?」
畑「ここ(新田の一部をさす)・・」
学芸員「・・ああ・・そうですね」
畑「おかしいですよ、」
学芸員「・・うん・・これですか・・」
畑「そう・・当時、1862年頃にこんもりした山はなかったですよね」
学芸員「・・そうですね」
畑「おかしいですよね」
学芸員「・・でも、絵ですからね・・」
畑「え(驚きのえ)!?」
学芸員「地図と言っても絵ですから」
畑「・・でも、無い山を書くのは・・」
学芸員「絵図ですからね・・」
畑「じゃ、なぜ、山がないのに書いたんでしょうか?」
学芸員「・・・どうしてでしょうね?」
畑「・・絵か・・ありがとうございました」

学芸員の方は去って行きました。ひとり、しばらく考えてこう結論に達しました。

畑「 そうか・・吉田新田が田畑であるよりも山を書き込んだほうが、この居留地、日本人街が絵として際立ってくるということか。これは、あくまでも、居留地と日本人街、つまり、関内を描くための図で、背景は意図してなかったのか」
・・無理やりこんな結論で締めました。

* 横浜道(よこはまみち)

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今日で、横浜道、散歩5回目。
横浜駅、下車して、西口から郵便局と崎陽軒の本社ビルの間の道を通って、平沼交差点を過ぎ、今日も久しぶりの横浜道散歩。
以前、浅間下から、横浜道を歩いて伊勢佐木町の事務所まで歩きました。
浅間下が出発点で、伊勢佐木モール街入り口、事務所のあるイセビルが横浜道の終点です。このイセビルは昭和2年に出来まして、関東大震災の4年後。
かなり旧いビルです。

横浜ペリーの黒船が七艘の船で再来日。
1854年そして、3月3日に日米和親条約。
横浜村に急遽、応接所を作り、水神社の近く、玉楠木のある近くで条約が結ばれました。この玉楠木は、1923年9月1日の関東大震災で焼けましたが、根が残っていて、そこから新しく芽が吹き出し現在に至っています。

二年後に和親条約で開かれた、二年後、下田にアメリカの総領事ハリスがやってきて、ハリスの、脅し、アメ鞭を使い分けた戦術で日米通商条約が結ばれ開港地として、長崎、神戸、函館、新潟、そして、神奈川、が選ばれました。
ハリスはもともと商人で、上海などで事業を営んでいました。
当時、商人がこのように国のスポークスマンとして働くのは珍しいことではなく、ハリスもそうでした。

アメリカは当時、東海道の宿場町であった神奈川の湊に開港することを希望したが、幕府は、異人に敵対心を持つ攘夷派などとの衝突を恐れ、東海道から離れた横浜村を考えていました。横浜村は当時、100戸、300人ほどの半農半漁の農村でした。
そして、江戸に近い神奈川の湊を強攻に主張する外国に対し、横浜も神奈川の一部だということで幕府は、横浜開港に着手します。
当時、横浜に行くのは、芝生(しぼう)村、(芝生と書いて、死亡?志望?脂肪?凄い読み方で始めて聞いた時は我が耳を疑いました)その芝生村から渡し舟が出ていまして、横浜の当時の本町一丁目に(今は本町六丁目)船着場がありました。後は、東海道の保土ヶ谷宿から遠回りをして横浜村に入ってくる道がありました。

そこで、幕府は、六月二日の開港に向けて東海道から横浜への道を三月から作り始めます。

いよいよ、今日の本題に横浜道入るわけですが・・いわゆる、突貫っ工事!ッテ言うやつですね。江戸からやってきて浅間下で当時、神奈川宿の本陣を過ぎて右手の小高い岡に浅間神社がありまして、今もあるんですが、その下あたりですね、そこから左に折れて道を作るわけです。横浜に向けて、それが横浜道なんですよ。三ヶ月でやってしまおうとするんですね。

今も当時の道があり、左に折れたところに記念のレリーフがありまして、反対側にちょうど、その角にお蕎麦屋さん。
角屋、藤江さんという方が経営してるんですね。そこのおばあちゃんが語るには、子供の頃は、そこのお蕎麦屋さんはもっと道の方に、今の前の道(国道一号線)の方に出ていたとおっしゃるんでよね。
今の蕎麦屋のところは海だったと。

当時、新田間川(あらたまがわ)に新田間橋をかけ、その先の平沼川に平沼橋、そして、石崎川に石崎橋をかけ戸部村の戸部坂を登って野毛の山に切通しをつくりそこから野毛橋(今の都橋)を渡って吉田町を通り、吉田橋を通って関内に入っていました。約3Km。

* 開港以前

近日公開