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地域がもっとも輝いて見えるのは、そこに暮らす人々と出会ったとき。
熊野の人々の、思い思いの話です。


NO.9
向井弘晏さんの話
@


清滝の
  不動さま

 大泊の観音道登り口近く、国道42号線横すぐに、落差約50mの清滝(別名、観音滝)があります。国道から約15mで滝壺へ行けるのは、全国でも数少ないものと思われます。子供の頃、餓鬼大将と滝の上に登り、下を見て恐さで足がふるえたのが思いだされます。

 この滝壺横の洞窟に不動明王が祀られていて、今でも信者の方が訪れています。この不動明王について古老に聞いたお話をします。

 明治から大正にかけ、清滝約40m下流(まだ国道がないとき)に広島出身のアサヒさんが不動さんの堂宇を建立し、大泊や近郊の人たちで大変な賑わいでした。ところがアサヒさんが広島へ帰ることになり、立派な不動明王を滝壺横に祀り、帰りました。

 この不動明王が何回も盗難に遭い、その受難を紹介します。

 @不動明王が金でできていると思い、ある者が盗み、腕を切ったところ、銅だったので捨てた。その後、拾った人が鋳掛屋で腕を元通りにして清滝に戻してくれた。盗んだ人は仕事で腕を切り落としたと言われている。

A有馬松原に不動明王が放置されているのを、志原尻の魚屋さんが木本へ買い付けにいく途中で見つけ、魚を買わずに家に持ち帰り、調べて清滝に戻してくれた。家族に魚を買わなかったことで文句を言われたが、その翌日、日頃の3倍から4倍の魚を買い付け、すべて売り尽くした。

B盗んだ人が新宮の古物屋に売ったが、古物屋が清滝の不動明王と知り、戻してくれた。

C鉄道工事のころ、工事に来た人が盗み、飯場の床下に隠していたのがバレて清滝に戻した。

 その後、また盗難に遭い、今現在戻ってきません。不動明王がないため、新鹿町の信者の魚作(魚屋)さんが不動明王を寄進しました。また、この不動明王も痛んできたので、木本町の中西数夫さんが寄進し、魚作さんが寄進した不動明王(小さめのもの)と並んで、安置されています。


むかいひろやす

熊野古道語り部友の会会員
熊野市大泊町


NO.8
和田清次さんの話
B
病み上がりのおやじが火床であたりながら話してくれた話其の参

少林寺
 旅のお坊さんが波田須を通りかかり その風光明媚な土地とやさしい村人に触れて この村のお寺を第一番のお寺としよう そう考えたお坊さんは 少林寺の戸を叩いた・・。大声で呼んでも何べん呼んでも 出てこないので 仕方なくまた旅立っていったそうな・・。 そのお坊さん 西国三十三番札所を発願した弘法大師様であったそうな。 

 惜しむらくはその時和尚さんは田仕事をして疲れこんでぐっすり寝込んだとこじゃったそうな。 で・・お坊さんはずうっと歩いてから那智さんにたどり着き そこを第一番の札所とお決めになった・・・と。

わだせいじ

総合雑貨店経営
熊野市木本町


NO.7
川村四郎さんの話
@


マナイタ様

由来

「マナイタ様」へは熊野市有馬町の産田神社から有馬町池川へ向かい、徒歩で30〜40分で着きます。マナイタ様とは山中の巨大な3個の岩石に囲まれて祀られている、水神様のことです。名前の由来は、真名井戸(まないど)の古語がマナイタになったと言われています。

むかし、人々は水神に対して五穀豊穣と、婦人病の平癒や多産を願いました。とくに婦人病に霊験有り、地方の婦女子の信仰を集め、多くのお参りの方がおみえになりました。

たばり・・・お供え物合戦

私は池川に生まれましたが、マナイタ様から5〜600m離れた所に自家がありました。家の周辺は田畑で見晴らしが良く、マナイタ様が前方に見えました。私の小学、中学時代の昭和30〜40年代は、一日の小遣いが小学生で10円、中学生で30円ほどでしたので、父母、ばあちゃんから頂く小遣いとマナイタ様のお供え物のお金、お菓子、お酒。お酒は父のでしたけど・・・。だから土曜日、日曜日はお参りする人が多いので、一日に何度となくマナイタ様の方を見ていました。

するとある日のことです。3歳年下の弟が、「兄ちゃん、マナイタ様を見て」言いました。見ると、数人のおばさんたちの姿が見えました。私と弟の二人は一目散にマナイタ様に走りました。15分ほどで着きました。すると、近所のおじさんたち二人がすでにそこに来ていたのです。ライバルの出現です。いつもこのおじさんたち二人が、「宿敵」です。

私と弟は考えました。お参りするおばさんたちにわからないように、お参りする神棚が良く見えるマナイタ様の上の田んぼに陣取りました。おじさんたちは少し離れた道の上で様子を見てました。

しばらくして、おばさんたちはお供え物を神棚に供え、必ず隣りの川に水を汲みに行きます。その時がチャンスです。上の田んぼから私と弟はお供え物を「たばり」に、駆け降りました。近くのおじさんたちもお供えをものを「たばり」に走って来ました。私たちが一瞬早く「たばり」ました。おばさんたちが水汲みから帰り、神棚を見た瞬間、「無い。先ほどお供えした物が無くなっている。いつの間に誰が・・・?」そのとき上の田んぼで私たちは下の様子をうかがう・・・。この日の「たばり」合いは、私と弟の勝ちで、負けたおじさんたちはガックリ肩を落として帰っていきました。

その後も何度となく、たばり合いが繰り返されました。勝ったり、負けたりで、時にはお供え物を分け合ったこともありました。終わりに、マナイタ様にお参りされたおばさんたち、お供え物、ありがとうございました。

かわむらしろう

理容店店主
熊野市井戸町


NO.6
清水加奈さんの話
@

産田神社の
「お守り石」と
「お授け石」

産田神社の大祭も終わりました。最近は、昔から伝わる行事をする方が見かけなくなりましたね。知っていればしたのにという友達や、私の子どものときにはしたよーというヤングママもいて、教えてあげる方がもっと増えたらよいのになぁ。また、忘れた方も思い出して、昔ながらの行事をしてもらって、ご自分の子どもさんにも伝えてあげてもらいたいなぁと、おもいます。

産田神社に伝わる話や言い伝えを紹介させていただきます。私の母から聞いたり、おばちゃん達から教えていただいた話です。

その1つ、「お守り石」。妊娠中の方が産田さんのお白砂にわらじを履いて入らせてもらい(又は、靴を脱いで。すごく冷たいけど)、後ろ向きになって白石をひとつ掴みます。まるい石だと女の子、四角い石だと男の子が授かるというものです。拾った石は、神棚かタンスや高い所の上のきれいな所に置き、1年間産田の神様に妊娠中の無事と安産をお守りしていただくというものです。(知らずに前を向いてまるい石を選んで拾ったというママは、女の子が誕生していて、聞いた限り後ろ向きの方は 男の子が授かりやすい傾向があるよう・・・)

もう1つ、「お授け石」。子宝に恵まれたい方がお白砂の白石を1つ拾い家に持ち帰り、神棚かタンスや高い所の上のきれいな所に置き、子宝に恵まれることを祈るというものです。「お守り石」、「お授け石」ともお礼には、次の年の産田神社の大祭に、それぞれの石と七里御浜で何個かの白石を拾い、お白砂に返して奉納します。

大祭には、産まれた子どもとお参りし、子どもの報告とその後の成長の無事を祈りました。

子どもの事もよく聞いてくれる神様とも言われていて、左利きを直してくださるのもよく御願いしなさいと聞いています。

お祭りでは、出産が無事にすむよう妊娠中を安全に過ごせるようお祓いしてもらいますが、犬の日に巻く腹帯を持参してお祓いもしていただたきます

お嫁さんと一緒にお参りできないお姑さんや離れた所に住む方のために、御酒を奉納する方もいらっしゃいます。

七里御浜の白石も大きくて白い石を探すのですが、少なくなってきていて(浜が痩せてきているからでしょうか)、私は有馬町の立石地区の浜へ降りて拾いましたが、2人目の子どものお礼に拾いに行ったときには、上の子どもが石を拾うのに楽しそうにしていて、日常ではあまりないよい体験でした。

しみずかな

会社役員
熊野市有馬町


NO.5
和田 生さんの話
@


雨乞い踊りと
花の窟神社

日照り 今から五十余年前の夏日照りで田圃は水不足で百姓の人々が大変困り、雨乞いを神仏に祈願する日々が一ヶ月余り続いていた。ある日花の窟神社の奉仕団の世話役であった今でいう肝玉母さんが、青年団長の私に有馬(現、熊野市有馬町)の百姓は皆困っている。このままでは米の収穫は皆無になるので、青年団で音頭をとって雨乞い踊りをしてもらへないかともちかけられた。雨乞い踊りは話に聞いたことはあったが皆目わからないので、肝玉母さんが昔から有馬に伝わる雨乞い踊りのいわれを語りはじめた。

雨乞い踊り 「夕方、花の窟神社を出て、往復五十二キロ余りの奈良県下北山村にある池峰神社の神明池の水を竹筒四本に汲み取って、休みなしで夜通し歩いて明朝有馬に帰り、花の窟神社(イザナミノ尊は稲を作りはじめた)に水をお供えして神主に御祈祷をしてもらい、日暮れを待って蓑・笠を身につけた百姓、青年団員、村民が神社の境内で夜通し雨乞い踊りをして祈願することなんだ。必ず雨が降るということはないが、願いがかなえられたこともあったという古老の話もあるので、道中は大変だができる限りの協力をするから青年団員に話をしてやってほしい」、との強い願いで、私自身参加したことのない行事で不安を感じながらも引き受けることにした。

約束事 お水取りについて伝えられている約束は@参加者は最低十六人で二つの組みに分けて五郷村に待機して交替する。A往復とも歩く。車を利用してはいけない。B池峰神社の祭神の怒をかう行いをして(例えば池に石とか木片を投げる、等)汲み取る。C汲み取った水を四本の竹筒にいれて各自一本づつ持ち、前二人後二人(予備)並んでお互い話をしてはいけない。お伴は懐中電気を照らしながら四人を守り、距離をおいて歩く。出発日は肝玉母さんと相談して参加者を青年クラブにあつめて役割、時間、約束ごとの確認をする。

内緒話 前日になって、ある団員から五郷村まで車で夜おそく出発したら、誰にも知られないし楽にいけるという内緒話があり、私と団員でS製材所の車を頼み午後八時の出発を待った。参加者は誰一人反対する者もなく、元気で舗装されていない凸凹道を車の荷台にゆられながら五郷村の郵便局で全員下車して、交替団員(二班)は池峰神社からの到着を待つことにした。

お水取り 一班は暗い国道をお互いに話をしながら懐中電気をたよりに北山川沿いに池峰神社へと、はじめての道を歩きつづけ三時間半ほどでたどりついた。明神池は山頂にあり、周囲は檜、杉の大木におおわれ身も心もあたりの静寂さに吸い込まれてしまうのではないかという気持ちで、祭神を怒らしたら「ばち」があたるのではないかという不安にかられた。わいわいと騒ぎながら祭神を怒らす行動をさんざんした後、用意した竹筒四本に水をくみ取り無言で同じ道を歩きつづけ、夜が明ける頃五郷村で二班に引き渡し、解放された後の一本の煙草の味は今でも忘れられない。歩きながら朝飯をたべ、午前九時頃花の窟神社に到着し大勢の人々の出迎えをうけ、明神池の水を神前にお供えして神主に御祈祷していただき、夜の雨乞い踊りのはじまりまで全員歩き疲れて青年クラブで寝てしまった。

 日暮れとともに蓑・笠をまとった人々と輪になって雨を念じながら夜更けまで踊ったが、願いはかなえられなかった。

再びお水取り 翌日になって雨乞いが実現しなかったのは、お水取りの連中は某製材の車で行ったからだとの話題が広まって、行動のすべてが無駄になってしまった。肝玉母さんからは何の咎めもなかった。心機一転して五日後に二回目のお水取り行事をすべて歩いて行うことを確認し、二班を中心に一班からの参加希望者を含め、五郷村待機組の出発時間を遅らせ、先発組は夕方から五十二キロ余の道程を池峰神社にむかって出発し、前回同様の行動で竹筒に水を汲み取り大事にしながら五郷村での待機組に引き継ぎ、無事にお水取り行事を終わった。

 心身の疲れを忘れ、夕方からの雨乞い踊りをまちわびている時、肝玉母さんより花の窟神社にすぐに来いとの連絡を受けて外にでると、雲がもりあがっているような感じなので行ってみると、大勢の人が集まって沖合に竜巻が起こっていると騒いでいた。見ると花の窟神社前の沖に、凄い竜巻が海水を吸い上げながら魔見が島の方に移動している。初めて見る情景に鳥肌がたち圧倒されて、事のなりゆきを見守るだけで何もすることができなかった。前回同様雨乞い踊りが始まると、ポツリポツリとふりだした雨に喜びを身体全体に感じながら、雨の勢いも忘れ無心に踊り続けた。長い日照りで降った雨量は雀の涙ほどであったが、百姓の人々の喜びと昔からのお水取り行事は私達の村にとってはとても大切な伝統であるとともに、自分の信仰に対する転機でもあったような気がした。

以来農業水路設備の完成で、雨乞い踊りは行われたことはない。

有馬の古老

わだはえる

熊野市有馬町


NO.4
和田清次さんの話
A

病み上がりのおやじが火床であたりながら話してくれた話其の壱

弘法栗
 あるとき 旅の僧が 波田須の西の向いの細道 通りやったら たっかい木に子供が登って栗取しやったそうな。
 んで そのたっかい木に登って栗取りやる子供に すまんがその栗一つ戴けんやろか・・とゆうたそうな・・ 
 みたら あんまりみなりのええおっさんと違たけど 栗の木からスルスル下りてきて どうぞどうぞ ゆうて 分けてあげたそうな
 そしたら旅の僧は大変喜んで これからはそんなに高いところへ危ない目えして登らんでも取れるようにと 持っていた杖をトンと地面についてから また旅立って行かれたそうな。

 それからの毎年 秋になると一年で取れる栗がそこらじゅうに生えてきて 楽うにおいしい栗を取る事ができるようなった。
 どうやらそれが弘法大師さまやったそうで それからは 誰ゆうとなしに弘法栗ってゆうようになったそうな。ありがたやありがたや・・・


※弘法栗は野焼きした土地や草刈りをしたあとにまた生えてきて、1年で実をつけるが、長年放置すると、背丈は高くなる。実は小振りで、食べると甘い。熊野市波田須町付近に自生する。



病み上がりのおやじが火床であたりながら話してくれた話其の弐

徐福の宮
 
いつの事やら知らんけど お国の方針で波田須の徳司神社に合祀していた徐福さんを 下の所え移す事になって じげじゅう ちいとずつ寄付を募って 大勢で今んとこえお宮を造って 御霊移しの行事があった。

 あとで聞いた話やけど ちいそうても お宮たてるときには白装束で 何とやら掛け声かけて槌を振り下ろして儀式をやったそうな。 んで 御霊移しの行事は真夜中に行われ 外からは見えんように白いきれで囲うてからに 空に向けて何べんも鉄砲を撃って邪気払いをしながら やったそうな。 まあありがたかったそうやけど 僕は連れてては ようもらわなんだ。話し聞いてから 僕も行きたかったと思った。

わだせいじ

総合雑貨店経営
熊野市木本町


NO.3
竹内捷二さんの話
@
木戸
 熊野古道太郎坂には延々千メートルに及ぶ猪垣(ししがき)があり、私の幼少の頃には、古道と猪垣が交わる所に木戸が取りつけられていました。
 小学校4、5年生の秋の日、いつものように夕食後ラジオを聞いていると突然、「捷二、お前ら猪垣で遊んどったが、木戸は閉めたやろナー」と祖父が言いました。
 私は一生懸命思い出そうとしても、はっきりせず、気弱に「閉めたと思う」と言うと、祖父は鴨居にかけられた提灯をはずし、「今から行って確かめてこい」と言いながら、私の鼻先へつきつけました。
 日頃の祖父とは違う厳しい態度に圧倒され、提灯を手にしぶしぶ家を出ました。
 昼間慣れ親しんだ路とはまったく違う闇の中、ようやく木戸を閉め、一目散に坂道を急ぎました。ようやく家に着いた私に、「頑張ったナ。あの猪垣と木戸はナ、畑を猪の害から守る大事なもんなんじゃ、みんながわが(自分)のせんならんことをちゃんとすることで、世の中ようなるんじゃ」と言いながら、祖父は煙管に火をつけ、うまそうにすいはじめました。

たけうちしょうじ

熊野古道語り部友の会会員
熊野市二木島町


NO.2
和田清次さんの話
@
貧乏人
貧乏人の子沢山なんていうが、8人兄弟の末っ子として生まれましたから僕の他は皆姉であり兄。
 物心ついてから知った事だが1歳過ぎのヨチヨチ歩きのとき、牛の餌を作る押し切りを倒して、それが自分の足に当たって、小指はすッ飛んで行き、足の薬指は半分、中指は大傷で、今でも右足はそのときの足のまんまである。
 然し僕以外の姉兄はどこかに体調の具合の悪いところがあってそれぞれ大病をしているが、幼少のとき切り落としてしまった右足の小指の先に僕の全ての病源を封じこめていたのか、長じて今日64歳を迎うるも風邪で2〜3日休んだ事はあっても盲腸にすら掛からず、至って健康に恵まれている。
 ず〜と前に逝った母はそんな姉兄の為にか神仏への寄せる想い強く、毎月21日の弘法大師の命日には欠かさず、お昼からでも波田須から山坂超えて、大吹峠を、松本峠を越え、有馬松原を歩いて、中ノ茶屋の毛利貞順さんという弘法大師をおまつりする祈祷師を頼ってのお参りを欠かさなかった。
 思えば30代の身でありながら波田須から山坂越えて中ノ茶屋までの行程を考えれば、帰りは日もとっぷりと落ちた暗がりの夜道であったはずである。
 長じて小学校の2〜3年か3〜4年ころであったろうか、時々連れていってもらえるようになったが、大吹峠を越え泊(とまり)の桐本さん処へおりて大泊の造船所の横をとおり、松崎の花尻の製材所の上をとおり、木本随道の手前に茶屋が2軒あって、そこでちょっと休んでから履いてきた草履を脱いで、ビチャビチャのトンネルを越えた。
 素足で歩く足の裏の感触が気持ち悪くて、今でもそれを思いだす。トンネルを出た右側に確かお地蔵さん見たいのがお祭りしてあったと思う。其の前あたりの溝で足をゆすいでから草履に履き替え、時として水谷茶屋からバスに乗って行ったこともあるし、木ノ本駅から汽車で有馬まで行って線路沿いの畑の中の小道を中ノ茶屋の弘法様まで歩いた事もあった。
 然しそれはそれとしても、波田須という僻地から、昼からでも中ノ茶屋までの往復を、我が子の為に歩いてお参りに行った親心の迫力にはとても、とても。
 今考えると、降参である。


わだせいじ

総合雑貨店経営
熊野市木本町


NO.1
西 一夫さんの
創作小話@
大馬新左衛門
 狩猟の解禁を待って?、大馬の新左衛門は鉄砲仲間の波田須の丹羽兵衛と熊野古道へ害鳥のヒヨを撃ちに出かけました。「俺もおまえも鉄砲の名人と言われているけど、一度腕比べをしようやないか」。
 どちらからともなしに話がまとまって「先に外したほうが負けやど」と古道から、尾根筋の道へ分け入っていきました。一発撃っては歩き、撃っては歩きの強行軍。しかし、二人ともなかなか外しません。二人は着々と獲物を増やしていきます。新左衛門、撃ったが外れた。
 「兵衛、おまえのほうがうまかったのお」「新左衛門、おまえもなかなかのもんやデ」と言いながら、焼き鳥をおかずに弁当を開きました。
 兵衛が「俺の撃ったヒヨは身がついていない。新左衛門、おまえの撃ったのは、身がまるまる食える」と気付き、「新左衛門、おまえのほうがうまい」と互いをおまえが、おまえがと譲りあって、埒があかん。
 そこで峠のお地蔵さんが、「二人ともうまい。そやけど今日の焼き鳥が、一番うまい。」

にしかずお

熊野古道語り部友の会会員
書店経営
熊野市井戸町