

| 今月の御寺(古寺古社巡礼) |
このページでは、毎月私が訪れた数百ヶ寺というお寺の中から素晴らしく私が感じた寺を、写真と供に一ヶ寺ずつ紹介していく予定です。日本の伝統文化であり、日本人の心を捉えて止まない神社仏閣、これを読んで頂いて、実際に足を運んでみたいなと思っていただければ幸いです。
| 願成就院 |

北条時政墓 足利茶々丸墓
伊豆韮山の地に建つ願成就院は鎌倉北条氏ゆかりの寺である。このお寺は運慶作の仏像が五体納められていることでも有名である。運慶の真作が確認証明されている仏像は少なく、大変貴重なものである。この韮山の地は江戸時代末期の江川家の史跡、反射炉の建設地として特に有名ですが、平家物語でもゆかりの深い地であります。ここは、源頼朝が平清盛の温情によって流罪に処せられた配流先、蛭が小島のあるところである。現在も史跡として残っているが、当時はこの近くに川が流れており、多くの蛭がいたことからこの名がついたらしい。実際、源頼朝はこの地の領主であった北条氏の館、願成就院の敷地内に多くいたという。そして、頼朝はこの地で、北条時政の娘政子と結ばれ、やがて平家に対して謀反を起こすこととなった。この北条時政が後に執権職から娘政子によって退けられた時、隠棲したのがこの願成就院であった。願成就院内には時政の墓もある。往時の願成就院は敷地も今とはくらべものにならないほど大きく、東北の毛越寺の庭園に似せて作った神仏習合の寺であった。八幡神社の形式は鎌倉の鶴岡八幡宮の原型ともいわれる。そのように栄えていた願成就院も北条の世が終わり、室町時代になって、下剋上の足音が迫る中、その戦乱の渦に巻き込まれる。京から下ってきた足利政知は鎌倉には入れず、この地に落ち着き、堀越公方となった。しかし、この足利茶々丸は下剋上の生んだ最初の風雲児後北条氏の祖北条早雲に攻められ、この願成就院の本堂で自害して果てた。そのとき、願成就印は戦火に焼けおちた。本堂の阿弥陀如来像のこのとき負傷なさったという。願成就院には茶々丸の供養塔や首洗いの池もある。その後、この韮山の地が歴史の舞台にでてくるのは豊臣秀吉の小田原北条攻めのときで、韮山城には北条氏規が立てこもり、何倍もの豊臣勢を相手に奮戦した。江戸時代になると、代官が置かれ、反射炉の建設などで幕末に再び脚光を浴びるようになる。この韮山北条の地に建つ願成就院は平安時代からずっと世の移り代わりを見てきており、歴史の分岐点でも大きな役割を果たしている。また願成就院の所有する文化財はいずれも素晴らしく、教科書に載っている北条時政像もこの寺のものである。運慶作の仏像群が素晴らしいのいうまでもなく、毘沙門天像、二童子像、不動明王像は力強く、これからの武士の時代の到来を強く感じさせるものである。また、阿弥陀如来像は多くの歴史をみてきたであろう澄み切った美しい顔をしていらっしゃるように私は感じた。この韮山は東京からすぐに行け、日帰りでも十分に見て帰ってこれるところであり、近くには温泉や修善寺などもあり、大変風光明媚なところである。一度は、訪れて欲しいものである。