今月の御寺(古寺古社巡礼)

 このページでは、毎月私が訪れた数百ヶ寺というお寺の中から素晴らしく私が感じた寺を、写真と供に一ヶ寺ずつ紹介していく予定です。日本の伝統文化であり、日本人の心を捉えて止まない神社仏閣、これを読んで頂いて、実際に足を運んでみたいなと思っていただければ幸いです。

木の本・高月 観音の里を訪ねて


渡岸寺

木之本・高月・・・今回の旅行のメインといってもよい地である。ここは、かつて羽柴秀吉と柴田勝家が雌雄を決した賤ガ岳の麓に広がる町で、高月は特に「観音の里」としてよく知られています。戦国時代の戦火の中で、この土地の人々は観音像を川底や地中に隠して、守り抜きました。こうして、守られた観音像は、今も各集落の人に守られ、旅人をやさしく迎えてくれます。                      
伊香具神社・・・この地方を開いた伊香津臣命を祭って斎明天皇の六年(660)に建立された。厳島式と三輪式を組み合わせた鳥居が特徴的。                              
赤後寺・・・転利観音と呼ばれる千手観音立像と聖観音像が安置されている。両像とも戦乱の難を避けるために村人が川底に隠したといわれ、そのためか両像とも手の先が欠け、化物や持ち物がない。村人達は、この両像のおいたわしい姿を人々の目にさらすことを避けるために、両像とも最近まで秘仏とされていたが、修復をして現在では公開されるようになった。手の先は欠けるものの、お顔の表情は京都の仏像にも負けないぐらい、柔和で村人に守られてきたためか、温かな感じがした。                
西野薬師堂・・・西野集落にある小さな薬師堂の中に、薬師如来立像と十一面観音立像が安置されている。赤後寺の十一面観音に比べるとやや見劣りがするようにも感じるが、こちらの仏像はより素朴で親しみやすく、本当に集落の人々のための仏像であり、人に見せる仏像ではなく信仰の対象としての仏像であると感じた。また、薬師如来は薬師壺を持たず、阿弥陀如来のように来迎印を結んでおり、珍しい像である。   
渡岸寺観音堂・・・この寺の十一面観音はどうしてこのような田舎にこれほどの仏像があるのかと目を疑うぐらい美しく、また洗練されたものである。今までの二つの寺の十一面観音とまったく違い、まるで京都など都で作られたとしか思えないほどの仏像である。この像は、井上靖の小説「星と祭」にも登場し、最近ではNHKの国宝探訪でも撮り上げられた。この像は、向源寺所属の観音堂の横にある収蔵庫の中で拝観できる。その容姿は、肢体は腰を左にひねり、右足を一歩前に出し、頭部とのバランスから右手が非常に長い大変調和がとれた官能的な美しさである。また、後頭部には暴悪大笑面という顔がついており、背後に回るとみることができる。表から見た仏像の表情とはまったく正反対に見えるこの表情によって、この仏像は救われ、また多くの人の心をとらえるのだと思う。もし美しいだけの仏像なら京都や奈良に行けばいくらでも見られる。しかし、美しいだけでなく、その美しさにばかり見とれるものをあざ笑うようなこの暴悪大笑面の表情は、作者の皮肉かもしれないが、まるで私達の社会を写したようで共感を覚える。さらに、この仏像をじっくりみていると、姉川の合戦時に村人が必死にこの仏像を隠そうした気持ちがひしひしと感じられる。時間が許すならいつまででも眺めてみたいと思うほど、魅力がある。また、大日如来像も安置されている。 
石道寺・・・己高山(こだかみやま)に開かれた山岳寺院で、無住となったため大正四年に高雄寺の仏像とあわせて、この地に移された。この寺の十一面観音は村娘がモデルといわれ、素朴の中にも美しさとかわいらしさが感じられ、渡岸寺の十一面観音とは違う魅力を備えている。また、持国天・多聞天像も圧巻。   
己高閣・・・鶏足寺・法華寺の寺宝を中心に昭和三八年に建立。ここに収められている十一面観音立像は村の内儀さんがモデルといわれ、目鼻立ちがはっきりしていて、石道寺の像とはまた違ったものとなっている。この像のほかにも、七仏薬師や毘沙門天立像・不動明像など多くの仏像が収められている。      
世代閣・・・戸岩寺の寺宝と古橋古墳の出土品などを納めて平成元年に開館。薬師如来像や十二神将像、魚藍観音立像などが安置されている。両方の閣とも共通拝観で見ごたえは十分である。
木の本地蔵院(浄信寺)・・・旧北国街道沿いに建つ、奈良時代創建の古刹。諸院や庭園が見所。   
黒田観音寺・・・この寺も十一面観音が有名。顔つきは他のものに比べると厳しいように見えるが、厳しい中にも優しい面が見られ、一見する価値がある。                        

今回の旅行を終えて   
今回の旅先は、京都や奈良と違い交通の便も悪く、なかなか訪れる機会のない地域でした。観光客も少なく、観光化の度合いが低い地域です。しかし、そのおかげで、この地域では古き良き仏教の姿をみることができました。仏教の姿には大きく分けて、二つの姿があると思います。ひとつは奈良や京都のように、貴族文化の中で育まれ、人に見られることを前提に計算されて作られたもの。もうひとつは、民衆が自分達の心の拠り所として建立した信仰心にもとで作られたもの。今回の旅行でいえば、湖東三山の天台宗の古刹である三つに寺院は前者に近いもうすでに完成された仏像が安置された寺院である。戦国時代の焼き討ちによって往時の姿はなく、一見素朴な寺院のように見えるが、堂の中の仏像や、本堂、三重塔などの伽藍を見るとやはり都の影響が濃いことがわかる。いずれも比叡山延暦寺の末寺であることから考えれば当然であるかもしれないが。一方、木の本・高月の仏教は後者といえるだろう。この地域の寺院はお堂と呼べるほどの伽藍を持ったものはほとんどない。皆、古くから伝えられた仏像を収めるだけの粗末なお堂しか持たない。国からの援助もあるが、その援助も宝物館や収蔵庫を造るためのものだ。だが、仏像というものは、仏師が造り、お堂に納められ、人々に拝まれて始めて生きるものだと思う。保護のために美術館などの納めねばならないこともわかるが、なるべくなら、本来その仏像があった場所でお堂の中で仏像と対面したいものである。木の本・高月は絵に書いたような田舎である。過疎も進み、誰かが守らなければあっという間に仏像など消えてしまうだろう。すばらしい十一面観音があるここの寺院群もほとんどが無住で村の人たちが交代で守っています。ただ、ここに民衆仏教の姿を見ることができるのです。ここに十一面観音がこんなにたくさんあるのは、それぞれの集落がそれぞれの観音像を作り、守り伝えてきたからです。昔から、戦乱が多い地域であるにもかかわらず、村人はその都度、川底や土中に像を隠し、伝え残してきたのです。手が欠けていたり、化物がなかったり、保存状態が少し悪くても、それは一見すると痛々しい姿に見えるかも知れないが、その傷の一つ一つが村人と観音の結びつきの強さ、信仰の強さの証であり、誇りであるように思う。赤後寺の観音像は川底に、国宝の渡岸寺の観音は土中に、人々が必死に隠した情景が現前としてきます。赤後寺で、その日の当番の人がこの仏像は手先や化物がなく、あまりにおいたわしい姿のために一般の人に非公開にし、村人でさえ一年に二回ほどしか見られなかったといった。この仏像は本当に幸せだと思う。ここまで村人に大切に思われているのだから。自分達のためにではなく、仏像のことを第一に重い、考え、厨子の扉を閉めたと思うと、こうした何かを思いやる心それこそが信仰心であり、仏教本来の姿なのではないだろうか。厨子の扉は閉まっていても、朝に晩に村人は今でもこの観音にお参りするという。畑仕事に行く前に、帰りに、何気なく、手を合わせる習慣。少し前の日本ならどこでも見られた極当たり前の光景ではなかったのかと思う。一日一回何かに手を合わし、感謝したり、その日一日のことを報告したり、ここでは心にゆとりのあったそんな古き良き日本の文化に触れることができる。仏教や仏像、もちろん伽藍もそうだが、建立して終わりではない、そこからが始まりであり、それを守り伝えていくことがいかに難しいか、そして、我々は仏像に守ってもらうことを頼むように、仏像もまた我々とともに生きているのであり、守ってもらうことを望んでいて、仏像はこの地域の人にとってとても身近なものであり、お互いに支えあうことこそが本当の仏教の姿であるのではないかと教えられた。 み仏が我々を思いやるように、我々もみ仏を思いやる心をもちあわせることで、我々はさらに豊かな気持ちになることができるのではないだろうか。            
「荒尾・古寺古社巡礼」 荒尾 努
             木の本・高月 観音の里を訪ねて より抜粋



過去の御寺(古寺古社巡礼)

平家琵琶ホームページ目次に戻る