はじめに

このカテゴリーでは、読み切り短篇や、非常に短いシリーズを紹介させて戴こうと思う。当ブログではまだ取り上げていない書籍としては、『PLAY COMIC SERIES ひでおランド』全2巻(秋田書店)と、『ACTION COMICS Hideo Collection』全7巻(双葉社)が当てはまるだろうか。これらの具体的な書名は以下の通り。
●あめいじんぐマリー(ひでおランド 1)
●贋作ひでお八犬伝(ひでおランド 2)
●ひでお童話集(Hideo Collection 1)(既述)
●十月の空(Hideo Collection 2)(既述)
●すみれ光年(Hideo Collection 3)
●天界の宴(Hideo Collection 4)
●大冒険児(Hideo Collection 5)
●陽はまた昇る(Hideo Collection 6)
●ときめきアリス(Hideo Collection 7)(既述)

吾妻ひでおは(実質的な)デビュー作『リングサイドクレージー』以来ずっと短篇を描いているし、少年マンガ雑誌に発表されたそれら諸作品は1970年代の単行本(『シッコモーロー博士』など)で既に収録されている。しかし吾妻マンガの短篇は1980年代に入り、新たな特徴を持つようになってきたと思う。
「架空の生物」あるいはそれに準ずるようなキャラクターたちが数多く、表舞台に出てくるのだ。


最初、単行本『海から来た機械』のカバーを見、「ひょっとしてこれは渥美マリが主演しヒットした1970年代の映画タイトル(『いそぎんちゃく』、『でんきくらげ』、『しびれくらげ』など)が元ネタのパロディなんだろうかと考えた。でもその収録作品はべつに、女で破滅してゆく男たちの物語とかではないし、性をテーマにしてさえいないように思える。また、性を扱った『純文学シリーズ』(『陽射し』など)では、皆無とまでは言えぬにしても、「正体不明な生物」たちはまだ、それほど頻繁には姿を現していないようだ。よって、これはどうも誤解だったらしい。


で、話を元に戻すけれど……。
そういった「ぐねぐね、ぬとぬと」の、何だか分からないが実在しないであろう生物らしきもの達と共に、もうひとつ、この時期に目立ち始めるものが登場している。
機械だか生物だか分からないキャラクターたちだ。


精密な機械が自分の意思を持つようになる、という進化(?)のアイディアはたぶん珍しくも新しくもないであろうと思われるし、この古典的だろう特性を持つキャラクターは『ラ・バンバ』(1971年)で吾妻マンガにもう登場している。僕がここで言うのは、そうした「進化型」キャラクターの事ではないのだ。


最も顕著な例かと思えるのは『海から来た機械』でヒロインに拾われるそれなのだけれど、機械(無機体)と生命(有機体)の境界のあいまいなところへ分類されそうなこのキャラクターを見て、僕は、その奇妙な構造や形態といった外見から観察できる要素よりも、それが内側に持っている「意味」みたいな点が気になった。


ふつう機械は、特定の用途というのがまず先にあって、その実現の為に設計され完成するので「何の為に存在しているのか?」という理由がきわめて明確だと思う。
いっぽう生物は、ここがいささかはっきりしない。
ミミズは土を耕して植物を助け、植物は光合成を行なって他の生物を助けている。彼らの存在理由というかその使命は、ある程度分かりやすい。


ところが、あれもできる、これもできるという多機能生物である人類くらいになると、「何の為に存在しているのか?」という理由がどうも分かりにくい。しかもその所業を見ると創造的というよりは破壊的であるような気もする。
で、このへんから逆に考えると、「何の為に存在しているのか?」がよく分からないキャラクターというのは(外見がどうであれ、それが生物だろうと機械だろうと)、実は「人間」に非常に近いのでは、と思うのだけれど、どうだろう?
有機体なのか無機体なのか、正体の分からない変なもの。それによって作者は(意識してか無意識にか知らないけれど)、「人間」を描こうとしているのでは……と僕は思った。『帰り道』だと怪物が元は人間だったという描写もあるものだから、なおさらそんな気にさせられる。


もう、いったいどう考えたら良いのか分からないような登場キャラクター(なかには生殖器をもっている自転車なんてのまでいる)ないし幻想は、面白さと恐ろしさ、楽しさと不安、美しさと醜さ、さまざまな混沌(こんとん)を、外見にも内部にも持っているように見える。
こういったキャラクターや表現は、1970年代の吾妻マンガには見られなかったのではないかと思う。
"奇妙な生物"キャラクターは21世紀となった現在の吾妻マンガにも、コマのすみにちょこっと登場している時がある。
吾妻マンガの底に、なにが「ずしり」と感じる手ごたえがあるのは、人間の存在についての考察があるからなのではないか? 僕は、そんな気がしているのだけれど……。

















































