「あとがき」の前置き
私が三十になった年に、都のおじが亡くなった。
その頃おじと別居状態にあったおばが私に知らせてくれたのだが、それは葬式が済んでかなりたってからのことだった。これは、おばが私に対して冷たかったからではなく、それがおじの遺言だったからである。
おそらくおじは、私に葬式など見てもらいたくなかったのであろう。私も、そのことを恨む気持ちは、いささかもなかった。
私がおばを訪ねて懐かしい我が家へ戻った時、おばは何よりも先に、私に一個の黒いカバンを差し出した。形見分けのつもりかと思っていると、おばはチャックを開け、そのままカバンをひっくり返すようにして中身をぶちまけた。
それは、手紙の束だった。五、六個に括られた束だった。紛れもない、私がおじに宛てて書き送った昔の手紙の束だったのだ。
他のものは何一つ残さなかった、とおばは言った。死期を悟っていたのか、おじは、自分の書斎にある一切合切のものを焼却していたそうである。おばとの別居生活に入ってすぐのことらしい。とすれば、別居自体おじの深い愛情だったのか、とも思われたが、詮索されることを何よりも嫌ったおじのこと、私は何も考えないようにした。
生前、おじは言っていた。
僕らの仕事というのは、実に因果な仕事だねえ。自分の心の中まで研究解剖に供さなくてはならない。後世の人のためと思えば、まあ、慰められんこともないが、まるで公開強姦みたいな形でやられるんだからねえ。こういう仕事を選んだのだから、自業自得と言えばそうなんだがね。ただ、自分がそうなるのは、まあ、あきらめるとして、他に類が及ぶとなると、そうそう納得するわけにも、いかんだろうねえ。
おそらく、おじは「他に類が及ぶ」ことを懸念して、すべての証拠物件を焼却したものと思われる。
おじは、とにかく手紙というものを書かない人だった。私が、杜が丘で過ごした四年間も、手紙をしたためたのは私ばかり。おじは、一通として書いてよこさなかった。
だから、おじが残したのは、本当に出版にこぎつけた十数冊の著書のみである。
日記類は、焼却。書簡類は、皆無。それでも解体解剖作業は行われるであろう。ただ、誰にも断定させないという、最後の道は残したことになる。
それにしても腑に落ちないのは、どうして同じ道を歩んだ私の書簡を焼却しなかったかということだった。が、ともかく私はもう一度自分が書き送った手紙を全部読み返し、その上でおじにならってこの手紙も抹消しようと決めた。おじの気持ちを尊重したいとの一心からである。
しかし、それはかなわなかった。
私は、手紙を読み進むうちに矢も盾もたまらなくなっていたのだ。
なぜかしら杜が丘が呼んでいるような思いに捕らわれた私は、すべての用事をキャンセルし、気が付けば杜が丘へと飛んでいた。
杜が丘を離れて、十二年がたっていた。
なぜ、自分が、そんなにも長い間、この地のことを忘れることができたのか。
手紙を読み返しながら、むしろその事実の方が私には信じがたく思われたのだった。
だが、あふれんばかりの思いを胸に再び訪れたかの地は、私に取り返しのつかぬ苦い後悔と悲痛と激情だけをくれただけだった。
私のいちばん大切な存在が、いなかった。私が敬愛してやまなかった上級生、中野と志村が、もはや杜が丘の住人ではなかったのだ。それどころか、彼らはすでにこの世からも消えていたのだ。
なぜ、彼らが、いない??? なぜ、二人がこの世から消えた???
以来、私の頭には、そのひとつことしか考えられなくなってしまった。
その時からさらに十余年が過ぎた。
私はその間に、私には珍しい長編を一篇世に出した。原稿用紙にして一万四千五百枚に及ぶ連作長編である。
これらはすべて、私の青春のすべてだったと断言できる、かの二人に寄せて書いたものである。すでに読まれた方もおいでだろう。お読みいただいた方には心よりの感謝を、またお読みになってない方にも、今こうしてこの書を読んでいただいたことにお礼を述べさせていただきたい。
この書は、私がかの長編を書くきっかけとなった手紙の一部である。つたない筆のあとを恥入りつつ公開したわけだが、おじが恐れたほどには、私は公開解剖や解体を恐れていない。どうにでも解釈していただいて結構である。
なお、私のしたためた手紙には、多分に独りよがりのところがあり、他人の意識を意識した節も見え見えである。しかし、その中にまた、私の真実が読み取れるのではなかろうか。むろん読み手の方々にそれを強いることは不遜であろう。ただ、懐かしいという思いで取り出した、とでも思っていただければ、それで十分である。
人間は、特に男、さらに言えば、私のような職業にある者はすべて、その個人だけの「杜が丘」を、みな心のどこかに抱えているのではないだろうか・・私は勝手にそう思っている。
「1通目」につづく
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