彼、もしくは彼女、あるいはそれ以外のもの―――創作メモ
ふいに甦った記憶があった。
それは、ある人との間に交わされた対話の記憶だ。
その人を「彼」と呼ぶのがふさわしいのか「彼女」と呼ぶのがふさわしいのか、
あるいはそのどちらでもないのか、今でもわたしには判断がつかない。
ふいに甦る感触という経験は、これまでに何度かあった。呼び戻すきっかけは
遠くのぞむ雲の色合いであったり、湿気をおびた草葉を抜けてきた風であった
り、眠気をさそうほどしのびやかに耳をくすぐる弦楽器の調べであったり、隣
に立ったパートナーの新しい整髪料であったりした。
脳の中の何かに共鳴をもたらす何ものかが、その時のバイオリズムにぴったり
符合した場合に、それは体験されるようだった。
だが、感触でなく、はっきりとした記憶として今甦った彼もしくは彼女、場合
によってはそれ以外のもの、は、その範疇には入らない。
彼もしくは彼女、場合によってはその以外のもの、単語を登録すればそれほど
面倒なものではないが、読み、語るものにとっては、煩わしすぎる呼び名だ。
とりあえず、彼、ということにしておこう。もともとわたしの記憶の中のその
人は、「彼」であったし、「彼」ではなかったかもしれないと思うようになっ
たのは、記憶が甦った後、しばらくしてからのことなのだから。
その時の彼もまた、今回の記憶とおなじく、ふいにわたしの前にたち現れたの
だった。
いつ、どこで、どのように、ということを話すには及ばないだろう。そんなこ
とは何の役にもたたないし、また話せと命ぜられても、わたしにはできない。
なぜなら、甦った彼の記憶の中に、それらは含まれていないからだ。
わたしは、子供だった。
彼は、子供のわたしから見れば、大人の部類に入ったが、それでも、当時のわた
しの周りにいる大人たちとはちがう存在だということははっきりしていた。
だからわたしは彼を訪れたのであり、彼に語りかけたのである。
彼のまなざしは、いつもやわらかく、はかなかった。指の間にわずかにひっかか
っているペンを静かに揺らせている時の彼の目は、わたしとおなじ、どこか「そ
こでない」ところをさまよっているようだった。ペンをもてあそぶ彼の指先は、
まなざし同様やわらかくてはかなく、そして美しかった。どのように美しかった
かとは問わないでほしい。真に美しいものは、具体的な描写を拒絶する。具体的
に示された美など、当時のわたしも今のわたしも、求めてはいない。
妹がいたんだ・・・
ある日彼はいきなり語り始めた。その時も、彼の瞳はわたしを見ておらず、視線
の先は窓の外にあった。まだ明けきらない空の下に、早起きのポインターとその
主である細身の少年(わたしからすれば、ずいぶん年上だったにちがいないが、
わたしは、その姿を「少年」と記憶したらしい)とのじゃれあいが見えた。彼と
わたしがいたのは、たしか二階か三階だったはずで、しかも二人とも窓から身を
のり出すようなはしたない真似はしていなかったから、一匹と一人のじゃれ合い
など見えているわけはないのだけれど、わたしの記憶は見ていると告げるので。
わたしは、記憶に素直に書き記そうと思う。
妹が、珍しく本をせがんだんだ・・・ふだんは、何かほしいものはないかい?
とたずねても決して何かをねだるようなことのない子だったんだけどね。
妹がいる、というのが、わたしには不思議に思われた。彼には、家族とか肉親と
かいう係累の感触がなかったからだ。ふわりと浮かんでいる明るい影(そういう
ものがあるとしたなら、だけれど)のような存在だった。
わたしが、フフッと笑うと、彼は、初めて、わたしを見て、一拍おくれでわたし
と同じようにフフッと笑った。わたしが思ったことを、彼はちゃんときいていた
ように見えた。
妹がいなくなってから、私はその本をぱらぱらとめくって見たのだけれど、彼女
がどうしてそんなにもその本を欲したのか、最初はわからなかった。だけど・・・
しばらくの沈黙があった。彼はわずかに目を細めた。それは微笑みのようにも見
えたけれど、どこか淋しさのしっぽが見えてもいた。
今頃になって、本の意味が私にわかるようになってきたんだ。
どんな本だった? と、わたしは、問いかけた。
今度は、はっきりそれとわかる笑顔で、彼は応じてくれた。
そして、こんな詩から始まるお話なんだ、と詩をおしえてくれた。
「天の娘の射た矢が当たる」・・・
彼の声は、わたしを恍惚とさせた。だが―――
言葉の始めだけは憶えている。だが、そのつづきを思い出そうとしても、うまく
いかない。いつもそうだ。すぐにでもつづきが言葉となり声となり出てきそうに
思われるのに、その手前で止まってしまう。確かに憶えていたはずなのに言葉に
しようとするその瞬間にめまいのように思考がふらつく。
そんなことを繰り返すうちに、わたしは疑うようになっていた。
「彼」は、ほんとうに存在していたのだろうか・・・と。
それでも、ふいによみがえる記憶は、わたしのその疑いを蹴散らす。
このなつかしさだけは、この不思議に温かい感覚だけは、嘘ではあり得ない、と。
肉親よりも、友人よりも、恋人よりも、この世のなにものにもまして、わたしを
そのまま受け入れ、無条件に肯定してくれた「彼」。
彼の顔や言葉やしぐさを忘れることになったとしても、「彼」の存在そのものを
わたしが忘れることは、おそらくないだろう。
個々の記憶が曖昧になり、何も思い出せなくなっても、わたしの中から「彼」が
消滅することはない。
そろそろ、恋人が帰ってくる頃だ。
「彼」を思い出した後には、恋人がよりいとおしく感じられる。
それだけでいい。
今の幸せをかみしめることのできる自分がいる。きっと「彼」はそれをどこかで
満足げにみているような気がする。
ああ、ベルが鳴った―――・・・