――― 「彼」 の 物 語 ――― そのメモ書き



時折流れてくる音がある。
氷に閉じ込められた男が、外側と内側のちぐはぐで陳腐な接続混線の世界を巧みに歌いあげている。平穏な生活の中でこんな音を耳にすれば、それはなかなか乙なものに見えるのだろう。
「現実」という安定した土壌の上にどっかりと根を下ろした、たとえそれが錯覚にすぎないにしろ、やつらにとって「虚構」という代物は、ちょっとした清涼飲料にほかならない。そこでは、常に「虚構」は「現実」からの逃避として位置づけられている。
「現(うつつ)」こそが「虚(うつろ)」からの避難場所なのだという認識は、そこにはない。いや、「現」という言い方は、この場合、正確とは言えないだろう。「現だと認識すること」と置き換えなければいけない。なぜなら、ここでは「現」ということが、曖昧に流動的に存在しているのだから・・・

彼は、今日も平安の中にある。
平安とは、老境の中にある日だまりのようなものだ。彼はすでに老境にまどろんでいる存在と化している。彼の中には、これまでの長い―――それは、時間的な長さを意味しない―――疲労が蓄積し、沈殿し、それが今の彼の平安を形作っているといってもいい。
闘争は終わったのだ。
彼の闘争とは、いったい何だったのか。終生、敵をもてなかった彼の闘争とは、何だったのか。
もしも・・・この言葉は、禁句だ。しかし、もしも・・・彼の前に「敵」という存在が立ちはだかっていたならば、彼の闘争は、これほどまでに彼を疲弊させなかったにちがいない。

彼に、いつだったか、ある小説の話をしたことがあった。本のタイトルは『彼の物語』だった。内容はほとんど覚えていない。
「『彼の物語』なんて、大胆なタイトルをつけたものですね。槍玉に挙げられる。それでなくても、性差闘争はますます激烈になっていってるって言うのに」
何気なく口にした時、彼は珍しくこちらを見て、笑ったのだった。
それは意外な瞬間だった。なぜなら、その数日、何が起きてもどんな言葉をかけても、彼はまるで意識を遠くに放ってしまった人間のように、何ひとつ反応を返してこなかったのだ。その彼が、ほとんど独り言だったこちらの他愛ない言葉に反応を見せた。投げた言葉にそれほどの意味があると思っていなかっただけに、それはやはり、意外、だった。

彼は、久しぶりに聞く彼独特のまろやかな音質で、こう訊いてきた。
「それで、君は? 君は、どう思っているの?」
どう思っているのかと問われても、返答の用意などなかった。いったい、自分が何を彼に語りかけたのかさえ、忘れてしまっていたのだから。
彼の目は、こう告げていた。
(逆に考えたことは、ないの?)

HISTORY これが HIS STORY から派生したものだと聞かされたのはずいぶん前のことだ。まだエコールへ通っていた頃のことだから。
「歴史」をある言語でヒストリイと発声し、それをその言語の表記で示すと HISTORY となる。それはエコール(学校)に通い始めて比較的早い時期に学んだ記憶がある。
それからしばらくたって HIS STORY というのが、HIS 彼の=人間の STORY=物語となること。「歴史」とは「人間の物語」であると訳されて、ずいぶんと感動したことを思い出す。
彼の=人間の という短絡的な図式に何ら抵抗も覚えることなくただ単純に感心したのだった。なぜ 彼の=人間の であって、「彼女の」が欠落しているのかなど夢にも考えつくことはなかった。
ある女生徒に言われたことがある。それは、あなたが「男」だからだと。
「僕」は「そういう代物」ではない、などと言っても、どうせ「彼女」は相手にしなかっただろう。
もっとも、確かにその当時は、自分が「そういう代物ではない」と考えたこともまた、夢にもなかったのだから、やはり「彼女」の指摘がグサリと突き刺さったことは事実だ。
しかし、今、同じ彼女に訊いてみたい。「歴史」は、なぜ、「人間の物語」なのか。 君は、あの当時と同じように食ってかからないのか、なぜ「歴史」は、「彼」や「彼女」以外の「何ものか」の物語ではありえないのか、と。
いや、そんな机上の談議はこの際、関係ない。所詮、言葉遊びに堕してしまうのがオチなのだから。少なくとも、ここにあっては。
彼の問いは、何を意味していたのだろうか。
(逆に考えたことは、ないの?)

*注:ここでは回答しないが、終章段階で、彼の意味したことは「彼の物語」=「歴史」の図式が「彼」=「男性」によって為されたという巧妙な隠蔽工作のもと、背後にあるのが、「女性」ではなかったかという仮説を打ち立てる。そのためには、彼そのものの性がもともと曖昧なものであったということを終章近くの場面で匂わせておく必要がある。
第一部の第九章で登場させた『天の娘の歌 NZ』を、どこかで再登場させておくことも忘れてはならない。しかし、この場合のノエル(N)は、両性ではなく、中性でもなく、いわゆる「無性」であることを逸脱してはならない。「無性」とは、性の認識によって破壊される以前の平穏意識の中の「子供」意識であるからである。シオン(Z→S)がひかれたノエル(N)とは、破壊しようとしながらその意識ゆえに逆に法則にがんじがらめになっていたシオンの意識をあっさりと無邪気に一掃してのけた「子供性」にほかならないのである。「十三番目の王子だと聞いて、驚かないのか。十三というのが、どういう数字か、おまえは知らないのか」と詰め寄ったシオンに、ノエルは怒って無邪気に答える。
「十三くらい、知ってるよ。十二の次が十三で、その次は十四だってことだって知ってるもの。ちゃんと、ノエルは百まで数えられるんだから」と。この見当違いの答えで、シオンは、結局、救われている。それが「愛」にまで移行するとは考えていないが、その上では、ノエルは地球的な意味における「女性」を体現していると言えなくもない。*

「歴史」ということでは、彼とは、おもしろい話をしたことがある。
彼は、言った。
「僕らが見聞きしているものは、レキシという名のエピソード集と言えそうだね」
レキシという名のエピソードは、畢竟、氷河のようなものかもしれないというところに話が移った。別に、それが氷河でなくてもかまわなかったのだが、ちょうど外界からの音が雪解けを告げていた関係で、そういう比喩になってしまったのかもしれない。
「本当に起こった些細なことでも、言葉にすると、みんな大した小説になってしまうものだが・・・」と、彼は目を細めて言ったものだ。
氷の下を流れているであろう水は、成分のうえからは、たぶん氷とほぼ同質なものである。形態は変化したにせよ、氷点に達した「みず」は、「こおり」になる。そんなようなものだろう。だが、水は、結局、氷ではない。しかも安定したかに映る氷の下には、その瞬間もなお流動体である水は激しく流れ続けているのだ。あるいはたゆたい・・・かつ消えかつ結びて・・・いや、消えるのはうわべのこと、本体が消えていくことなどないのだ・・・
「レキシは、一代限りの夢、灰汁(あく)の集合体のようなもの、なのだろうね・・・」
そうだ。歴史は灰汁の集合体。流れる水の分子たちがその本当の姿を人間に見せることなどないのだ。

彼は、こんなことを言ったこともある。
それは、まだ彼が闘争の中にあった頃のことで、彼はまだ青臭いばかりの少年だった。
厳密に言えば、そのように見えた、と訂正すべきなのだろう。なぜなら、彼は生まれ落ちたその瞬間から、老成した存在であったに違いないと、今では確信できるからである。
そう、彼が言った。
「誰もが物語の中で、こう言うんだ。『ぼくがいなくなっても、この世は続いていく』ってね。その時、そのカレは、どういうつもりでそんな言葉を吐きだしているんだろう。
恨みがましくなのかな・・それとも、『それでも回っている地球』に安堵してなのか。
誰も、疑うことがないのだろうか。
『キミがいなくなれば、この世はエンドさ』って、言ってあげたら、カレはどんな顔をして僕を見るかしら」
ぞっとした。そんな問いなど、想像外のことだった。
自己中心にしかものを見ないのが人間だ、と思いこんでいた。自分だけは絶対に死なないんだ、オレ様が世界の中心さ、と思いこんでいる馬鹿な存在、それが人間様なのだと。
だが、「そのとおりさ、キミが消失すれば、すべては消えるんだ」と言われたりしたらいったい、どんな気持ちになるのだろうか。すべての世界を見せているのが、キミの中の脳細胞なんだから、そしてもしも、キミの中の脳細胞が本当にキミのものであるとすればキミが消えれば、世界は消えるんだよ、なんて。
その時、心から祈った。自分が死んでも、世界の方だけは存在していてください、と。
いなくなった後の世界など、存在しようと存在しまいと、関係ないんだといくら言い聞かせても、その日は、そう祈らずには眠れなかった。

彼との日々は、いつもこんな具合だったのだ。

彼は、すでに老成の感があると語った。
だが、彼の顔は、少年であった。
彼と向き合う男たちが例外なく落ち着かない目を見せたように、彼は、生まれたばかりの少年だった。顔だけではなく、その肉体も、さらに厳密に言えば、それを形作る細胞そのものからが、生まれたばかりの瑞々しい少年だった。
彼の老成の感と、彼の瑞々しいまでの肉体との結合体は、ある意味で、グロテスクなのかもしれなかった。少なくとも、言葉のうえからは十分にグロテスクだった。だが、それは、映像上からは、どう転んでもグロテスクになり得なかった。
グロテスクなのは、彼の行動や思考の様式の方だった。
彼の容貌は、潔癖な少年王か、あるいは慈愛のマドンナであったにもかかわらず、彼はあまりにもやすやすとその肉体を男たちに供した。そこには一片の陰りすら見受けられなかった。僕が「観察者」としての存在理由を振り当てられていなかったならば、早々に彼とは縁を切っていたろうと思われる。
彼との付き合いが長くなって、彼がグロテスクに見えなくなってからも、ある種のわだかまりが消えることはなかった。
彼は、男たちを相手にする場合、その姿を第三者の目が逐一それを見届けているということをはっきりと認識していた。にもかかわらず、羞らいの色ひとつ見せることなく淡々と事を成していた。もっとも、それが彼の不思議なところなのだが、相手の男たちの姿ばかりは決して触れさせようとしなかったのだ。相手を見せず、自分の姿だけを見せつけるという言い方は、多くの誤解を招くだろう。
彼についての誤解は、正し始めればきりがない。彼が全く無頓着である以上、第三者が替わって正して回ってもいいのだろうが、最近はその無意味さが身に沁みている。彼という存在そのものが「誤解」という言葉と置換可能なのだとでもいっておけば、すべての誤解の解消とはいかぬまでも、ある程度は免れるような気がする。彼は、誤解されることをすでに何とも感じなくなってしまったのだ。
いや、彼は、今や何事によらず、不感症に陥っていると言っても良かった。不感症という語感は、病的なイメージがつきまとう。彼のそれが病気というわけではない。むしろ、やっと手に入れた平安、と同格に据えることもあながち的はずれではない。彼の不感症は彼そのものの眠りと言えるものかもしれない。それを思う時、彼の不感症を幸いとみなすこともできる。老境の中の日だまり。たぶん、それが彼の不感症というものだろう。

感じていない。それは当然、男たちとの情事においても例外ではなかった。
感じているのは、常に相手の男たちの方だけだった。男たちと言ったが、彼を求めるのは決して同性愛者ではない。同性愛者もいたのかもしれないが、選んでいたわけではない。また、彼と男たちの交渉は、決してビジネスライクには始まらなかった。単純に言えば、男たちが彼にひかれ、彼もその男たちを嫌いとは思わなかった。そこで「当然」のことのように行為が交歓され始めたという、話すと気が抜けるような淡々としたものだったのだ。
彼は、事が済んでここへ引き上げてきた時、こちらを見てはいつも笑った。
「君が気にすることは、ないんだ」
初めての時、彼はそう言った。それから後、同じようなことは幾度となく繰り返されたが、彼は何も言わなかった。
そう、ここに、アイツが現れるまでは―――

アイツの話をする前に、彼の交友録を開いて見せなければならないだろう。
彼は、「特殊な存在」として現在のように小さな空間にかくまわれるまで、通常の少年として通常の生活をし、その延長線上に通常の青年としての居場所を獲得してきた。
通常とひとことで片づけるには、彼は特異でありすぎたかもしれない。しかし今彼が置かれているような境遇を、かつて彼の周りで看破していた人間はいなかったはずだ。彼は決して傍目には特殊ではなかったのだ。その美と才能という点を除けば。
そんな彼の交友録に登場するのは、ごくありふれた青年たちばかりということができるだろう。青年たちは、今なお、彼が将来を嘱望される若きエリートという役割を演じ続けていることを信じて疑わない。誰も、彼の消息を明確には知らされていないにもかかわらず、青年たちは皆一様に彼の消息を知ったつもりになっている。青年たちの中で、彼こそは永遠に輝き続けるのだ。それはちょうど、この星の人間の目に映る夜空の星が、あたかも今そこで光を発しているように見えるのと変わりない。

彼に対して大きな影響力を有するのは、実は、彼の交友録の上に上がらない数人の人間たちの存在である。
そのひとりは、彼の脳裏にGという記号で刻まれている。G―――五条という名前の男。
彼はすでにこの世界には存在しないことになっている。交友録からはずされて当然と言えば言える。それから、C―――シーガル。SでなくCと刻まれている。彼についてのデータだけは、ほとんどない。彼の中に納まっているという以外、他からの情報はいっさい入力されない。シーガルが実在しているのか、それとも五条同様、実在しないのか。ただ、その存在感は、彼の中で決して小さくない。そのことだけは無視できまい。
彼が「特殊」として、ここ以外のすべての領域から狩猟されようとしている今、彼の中でGやCの存在は、かつてにも増して強く作用しているのではないかという憶測は容易だが、彼は何らそれらしき反応を示すわけではない。

彼は、ある意味でモルモットとして甘んじ、その見返りとして庇護されていると言ってよいだろう。彼が果たして庇護されようという意志を持っているのか、それは定かではない。しかし少なくとも、客観的に見て、彼は彼を調査している機関によって、彼を抹殺、あるいは利用しようと暗躍している外敵から、身を守られていることだけは確かなのだ。 モルモットという表現が的確なものなのかどうか、わからない。
彼を調査する機関は、彼を庇護するという名目のもと、彼をほとんどモルモットとして扱っている。モルモットと言うよりは、生きている標本として調査していると言うべきだろうか。ここひと月ばかりは、ほとんど毎日のように彼はドックに引き立てられていく。彼が最近ますます老成化の度合いを早めている原因は、調査機関のこの検査攻めにあると見られる。彼は従順この上ない。
かつて少年時代の彼の上に起こった似たような体験の折に彼が見せたとされる拒絶反応の凄じさからは到底想像できないほどに、現在の彼は従順である。動物実験用のマウス以上に無抵抗なのではないだろうか。
調査機関が冷徹であるわけではない。むしろ機関に携わる人間たちの人品は文字通りのジェントルマンと言ってよい。中でも、機関のチーフであるドクターは信頼するに足る男というイメージをそのまま生身の人間にすり替えたような人物である。
彼のただひとつの不幸は、調査の対象として提示された相手が、彼であったという点だけであろう。彼を初めて目にした際に、目から落ち着きを剥奪されたという点においては、ドクターも例外ではなかった。それだけが、ドクターにとっての不幸であった。そして、同時にドクターにとっての幸いであった。ドクターが彼を調査対象としてのみならず、彼自身として求めたのは、ごくごく自然の成り行きである。
彼を機関に委ねる前から彼との付き合いを命じられていたものの目から見れば、よく似たできごとの一例にすぎなかった。だが、名実共にジェントルマンであったドクターにとって、それを自然の成り行きと受け入れるには、長い間の葛藤が必要であったろう。しかし結果的には、何もかもが同じだった。葛藤を持った者と、葛藤をすっぱりカットした者と。ドクターは彼の肉体を求め、彼はごくすんなりと応じた。それだけの記録しか残らない。経過はすべて破棄されるのだ。
ただ、彼の誘いの方法を、正規の記録とは別のデータバンクに保管しておくことは、あながち無駄とは言えないはずだ。
彼は、目の前に立つドクターに向かい、背筋を伸ばして目を見つめる。そこからは情事をほのめかす何物も感知されない。ただ彼は、柔らかなまなざしで語りかける。
「あなたが恐れているのは、なに?」
そして彼は、旧知の友人のようにドクターに近づき、静かにその両腕をドクターの首に巻きつける。そして、ささやく。
「ジェントルマンは、ふつうの人間であることを許されていない?」
この期に及んで後ずさりする男は、まずいない。なぜなら、彼は決して男娼のようには誘惑しないのだから。
彼は、事に及ぶ前、ほんのひとかけらの艶めいた言葉さえ匂わせることをしない。その清廉潔白とさえ見える少年の、事に及んで以後の媚態とのギャップは少なからず多くの男たちを驚愕させる。その驚愕に魂を抜き取られる輩もいる。だが、さすがにドクターは、驚愕も含んで、彼を全面的に包容したのだった。ドクターは、彼との関係を隠匿しようとはせず、その上で自らの責務を全うすることに全身全霊を打ち込む道を選んだ。

ドクターのことを、それとなく聞いてみたことがある。
彼は、愉快そうな笑顔を見せて、答えたものだ。
「あの人が、好きだよ」と。
そして背中を向けた後、ややあってこう付け加えたのだ。
「僕は、ドクターってのに、弱いんだ」

数多い相手の中で、ドクターだけが、わずかとは言え、彼の内部に「愛」らしき反応の色をもたらせた唯一の男だった。それはドクターの人間性からくるものに違いなかったが、しかし彼が、ドクターのどこかに別の誰かを重ねていたのも、確かだった。
おそらく、それはGだろう。Gの生存中の称号は、空軍付きの「ドクター将校」であった。

Gのことは、彼から聞かされるまでもなく、データとして入力されている。彼が初めて異世界超波の影響を受け、内からと外からと両サイドから責め苛まれ始めた頃に、救世主然として彼の前に降り立ったヒーローとして、Gはまず記録されている。不完全なそれ以前のデータと照らし合わせて見ると、Gが突如として現れたヒーローではないという憶測も成り立つが、不完全なデータからのイマジネーションは、創作家以外の人間には無用である。Gがやはり彼同様「特殊」だったかどうかは不明だ。ともかく、Gが彼にとって物心両面での庇護者であったことは間違いない。彼は、ほぼ疑いなく、Gを愛した。
ドクターをわずかとは言え「愛する」陰に、Gの亡霊を見ないわけにはいかない。

*注:1960年代〜1970年代までの世界的なできごとの総点検を行う必要がある。
フィクションとはいえ、超能力とマインドコントロール兵器、脳とコンピューターとの絡み合いに現実性を持たせるには、世界事情が不可欠となる。また世界事情を知ることにより、予期せぬインスピレーションと遭遇することの可能性もある。図書館に問い合わせたところ、OKとの返事。希望図書『ハイペリオン』を受け取りに行くついでに調べてみることとする。超能力者を利用するというのは不安定この上ない。従って、私が陰謀家であるならば、能力者をサンプルとして活用して、その脳波その他の機能を、より安定な機械、つまりコンピューターに肩代わりさせる手だてを考案するだろう。この物語の中の人物たちにもその方法を採ってもらおう。秘密裏に動いているその陰謀と並行するように、世間で騒がれている中小超能力者たちの次から次への能力消失事件を置くこと。これは陰謀家達を不安に陥れる。彼らの関知しない大物のカウンターESPの出現の可能性を見てとったからである。直ちにプロジェクトチームがインターナショナルに形成される。西側サイド東側サイド、そしてマフィア的サイドとが、それぞれに原因解明とブロック態勢に入るが、やがては制限付きながら協力協定が結ばれ、団結してのカウンターESP(UESP)捕獲計画が実践されるに及ぶ。
陰謀家達の脅威の源は、UESPが全世界的に存在するESPを統合する力を有しているらしいこと、またUESPの意志に逆らうESPたちの能力を一掃する力を持ち得るという点にある。しかし、プロジェクトチームのそれぞれは、UESPを抹殺せずにすませられれば、それこそが陰謀完遂の早道であることから、何とかUESPを生かしたままに捕獲し、自己チームの中に取りこめればと願ってもいる。
陰謀チームは、事が露見した折の大義名分もすでに起草している。世界を破滅へと導こうとしているUESP集団の手から地球を守るための闘いを、全世界の国境線を越えてすべてのトップたちがかつてない協調精神のもとに集うのだ、と。
それでは、ここでいうUESPとは、やはり『彼』たる中野なのか。
UESPは中野である。ただし、彼は当初、意識してESP能力を消去していたわけではない。条件反射のなせる技である。やがて、外部から自分へ向けられている狩猟意識の傍受と、この物語の一人称抜きの語り手たるY(Yの位置付けは、もう少し吟味のこと。ESPとするか、それとも巧妙に造られたごく人間に近いサイボーグとかロボットとか、そういう類のものにするか。どちらにしろ、物語の初め頃には、彼の感情というのは今一つ生身でないことを見せる必要はある。彼の視覚はサーモグラフィ状のシステムで捕らえられ、音もCG的に感知する。よって音を「見える」とも表現してしまうミスを時折犯す。『彼』中野を「見る」という場合も、ちょうどサーモグラフィとして「見ている」にすぎない。しかしやがて、その限界内で異変は起こる。
「アイツ」たる志村が物語の中に登場するに至って、中野が見せる体内変化をYが機械ゆえにつぶさに感知してしまうところから、Yの機械→人間化の一歩が始まる。
Yのこの物語における設定は、彼の事実上の主人たる中野耕造の命を受けて、中野を監督・守護するという役割を持たされた存在ということになっている)の情報収集から否応なく、中野は初めて「敵」を想定された闘争へと駆り立てられていく。
ここで特筆すべきは、志村の存在である。志村は、物語のほとんど最終場面にくるまでは、不完全な人間ながらも真摯に中野を守り抜こうとする「友人」としての立場だけが与えられている。むろん、Yの目を通して描かれる志村は、唯一、中野が愛している人間としての役割を持つが、それは結局、脇役にすぎない。ところが、終局すれすれのところで、志村の立場のどんでん返しが用意されている。
志村こそが、中野のUESPとしての行為(ESPを悪用して世界を混乱と破壊へと導こうとする陰謀家たちの手から、世界そのものとESPとを守り抜こうという行為)を阻害しようとする中枢意志であるらしいことの暴露へと向かう。
ただし、志村の意識は無関係である。中野と対立するのは、志村の意識ではなく、志村という存在そのものの設定である。ここには、NSシリーズ全般を通じての中野志村の関係図が不可欠となる。しかし、すべてを明かすことができないことから、ほのめかしにとどめておくことになる。そのために必要になるのが、第一作目で登場させた『天の娘の歌 NZ』を想起させる、T.B.ミルの童話である。
ミルの童話によれば、「世界」から駆逐され、さらに引き裂かれたシオンとノエルがそれぞれの思いと知恵の果てに、互いに全く知らず、ひとつの新生惑星を彼らのための「結婚」と「新生」のための場として選ぶところから、悲喜劇が始まる。ノエルは、星が「生まれる」ために不可欠な「意識」を惑星の核に埋め込む。その核の中で永い時の眠りを得るノエル。その眠りの最中に到達したのがシオン。シオンは、やがて降ってくるであろうノエルのための安らかな温床を用意しようと、物質的な生産活動を起こす。
それは試行錯誤のうちに生産と破壊とを何度も繰り返すという、後の世の人間的視点から見れば残虐な行為と言えた。そして何とか、シオンの要求に見合う素地ができる。
皮肉にも、ノエルのための場所として何度も破壊を繰り返してきたシオンと、すべてをあるがままに満たし包み込もうとする意識のノエルとは、図らずもひとつの惑星上で対立的に存在していたことになる。やがて彼らと最も似通った存在人間の中に、淘汰を容認する「理」と、あるがままを容認する「情」とが、頭脳の中に組み込まれていく。それが後の「現世感覚」と「イデア感覚」の基となる。
シオンとノエルは、やがて彼らの目論見通りに出会い、愛し合うことになるが、それは当然ながら、彼らの待ち望んでいた類のものとは遠く離れた試練の愛となる。
それなりの愛を得る志村(シオン)と中野(ノエル)だが、互いの求めた平安が図らずも対立的であったために、互いを守り愛そうとする意識と行為が、逆に互いを抹殺する方向に働き始めていたのである。保護性のノエルと破壊性のシオンの対立。
志村は、中野をひとりで消滅させまいとする意志のもと、中野とのコンビネーションフライトに臨むが、初めこそ志村だけは消滅から回避せんとした中野も、ほんのりとだが、志村の存在そのものへの懐疑から、その申し出を受け入れることになる。
結局、それ(志村と共にゆくこと)こそが、中野が心の底で望んでいる唯一の真実であり、また自分の本当の正体を意識できないとはいえ、志村の望む結論でもあるということで、皮肉ではあるものの、双方の望んだ結末が得られるという筋立てである。
志村が対立項であることは、最後まで志村をライバルとして意識してきたYが、二人の結びつきの強さに完敗を認め、初めて二人の心の交歓をサーモで感知した瞬間に見せる驚愕で示そうと考えている。中野を愛する者は皆一様に暖色系統の色合いで察知されるのが、志村のそれはこれまでYが感知した事もないほどに強烈な寒色系統を示すのである。それによって、志村の存在理由のどんでん返しを試みるにとどめておく*

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*『女性状無意識』という本を読んだ。これは、いろいろと考えさせられる因縁を彷彿とさせる読み物であった。また、今日の新聞の広告欄にフリーメーソンのマインドコントロール関連の読み物の宣伝が記載されていた。これも、いい資料にできるだろう。それにしても、何かを生み出そうという意識と、脳髄の熱発生とが起こると、アンテナが突起と触手を張りめぐらせ始めるせいか、いつものことながら「求めよ、さらば与えられん」となるのが不思議だ。何にせよ、出産とは、「子供」という固体を生み出すだけではないという意識を、私は自らの創作を行う作業の中で思い付いた。初めに物語ができて、その後に、その作品の意味を筆者が気づくのである。そして、それを再び頭の中にリ・インプットして、作品が生み出されいていく。そして読者という媒体を通じて、再生し、それが「意識」という子供を産みつけていくことになる。ふと、思った。なぜ同時期に、何ら直接的には接触していない女たちが、同じような想念に突き動かされるように、同じようなテーマに取り組もうとしたのかと、それを長い間不思議な偶然の一致として考えてきた私にとって、今回の『女性状無意識』の投げかけた言葉は、ひとつの解答への示唆を与えてくれている。そして、この物語を叩きながら、ぼんやりとだが思い付いた事がある。人間の想念というものも、この空間を超音波のように飛びかい、それなりの容器を持っている人間に影響を与え続けているのではないか。または、この細胞の中に組み込まれているありとあらゆるすべての過去の遺産が眠りと覚醒のはざまという呼吸の中で、その覚醒の時を待っているのではないかと。とするならば、1960年代に、西洋で生まれた女性SF作家の意識の破片が、ここ日本という国の上空に散布されていたとしても、決して不思議ではないのだ。それが、70年代の少女漫画界における少年愛的作風を予兆していたとしても、また、それが80年代からの爆発的な「美少年誘拐」(「少女へのまなざし」:本田和子教授の命名による)というコミックマーケット の動向を用意していたとしても、奇妙な事象とは言い切れないだろう。むろん、これは物語的な視点に立った見方ではあるのだが。物語的視点に立てば許されるとすれば、そこにNSの要因を絡めて不都合ということはない。つまり、時期が符合するという所に立脚して、NSの現世編の最終章に、その後の世の中の趨勢の一端を匂わせていても無責任ではないということである。
何にせよ、女性たちが、なぜ、こうまで男たちに新たな役割分担を担わせたがるのか、それ自体については、いまだに謎のままであり、興味は尽きない。

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