「イギリス海岸」
99/11/17
この「イギリス海岸」という作品には,地質学のテキスト並みの記述がなされています. とりわけ,「イギリス海岸」と呼ぶことの正当性を述べている部分は, きわめて科学的に記述されています. この部分は,いくつもの証拠を挙げて,モデルの正当性を述べるという論理の展開をしており, まさしく科学論文です.賢治の科学者としての素養がここでもうかがわれます.
それに実際そこを海岸と呼ぶことは,無法なことではなかったのです. なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終わり頃, たしかにたびたび海の渚だったからでした. その証拠には,第一にその泥岩は,東の北上山地のへりから,西の中央分水嶺の麓まで,一枚の板のようになってずうっとひろがって居ました. ただその大部分がその上に積もった洪積の赤砂利やローム,それから沖積の砂や粘土や何かに被われて見えないだけのはなしでした. それはあちこちの川の崖や崖の脚には,きっとこの泥岩が顔をだしてゐるのでもわかりましたし, 又所々で掘り抜き井戸を穿ったりしますと、ぢきこの海岩層にぶっつかるのでもしれました.
第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした.たとへばその岩には沈んでできた縞のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまってゐること,また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕らしいものかはさまってゐることなどでした.さうして見ると,いま北上の平原になってゐる所は一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです.
ところが第三に,そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです.それはやはり北上山地ののへりの赤砂利から,牡蠣か何か,半かんのところにでなければ住まない介殻の化石が出ました.
さうして見ますと第三紀の終り頃それは或いは今から五六十万年或は百万年を数へるかも知れません.その頃今の北上の平原にあたる処は,細長い入海かかん湖で,その水は割合浅く,何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり,火山灰や粘土か上に積ったり又それか削られたりしてゐたのです.その粘土は西と東の山地から,川が運んで流し込んだのでした.その火山灰は西の二列か三列の石英租面岩の火山が,やっとしづまった処ではありましたが,やっぱり時々噴火をやったり爆発をしたりしてゐましたので,そこから降って来たのでした.
このあとにも,地質学的な記述は続きます. これは本当に,地質実習のきわめて良くできたレポートのようです.多分,地質学を学ぶ学生でも,なかなかこれだけの内容の文章は書けないと思います.
賢治は「イギリス海岸」と呼ぶことを, 科学的根拠に基づいて正当であるとしています. その風景や,海への憧れから,心情的に,「海岸」と呼びたいということもあるのでしょう.ただ,科学的根拠の記述は, 決して,そのように心情的に呼んでいることへのいいわけではありません.他の人にとっては, その河岸はあくまでも北上河岸であって,海岸ではありません.しかし,賢治にとっては,そこが「海岸」であることは,空想ではなく,あくまでも現実なのです.地質学者にとっては,現在見えているものだけが現実ではありません. 時間を超えて,過去に起きた事実を観ることが地質学者の仕事なのですから. 私自身,ここを海岸と呼ぶことは当然だと思いますし, それを空想と呼ばれるのは心外です. 事実, 私も,昔火山だった第三紀の地層が分布する場所(現在はたくさんの住宅が立ち並んでいます)を「○○火山」と呼んでいますし,昔の湖の堆積物があるところは,「○○湖」と呼んでいます. 賢治の目には, 河岸に露出する泥岩を通して, 海が見えていたのでしょう.
さて,この作品の後半は随分と変わった構成になっています. この原稿を8月6日に途中まで書き, 翌7日に化石を見つけ,その化石発見と採取について作品後半に書いたということなのですが,その経緯自体を作品の中にあらわしているのです.ちくま文庫宮澤賢治全集6の天沢退二郎氏の解説では, 「楽屋落ち」とよんでいます.この「楽屋落ち」をなぜ賢治が書いたのか, 地質学者の目から解釈をさせていただきます.
賢治にとって,化石発見は,きわめて大きな発見であり,大きな喜びであり,興奮すべきものだったのです. 当然です. これは地質学的に大きな発見なのです. 優れた地質学者であった賢治は,これが大きな発見であることはわかっていたのです. わざわざ裏話を作品の中に記したのは, その興奮を伝えるためにリアリティを持たせたいが故の表現なのではないでしょうか.
(午后イギリス海岸において第三紀偶蹄類の足跡標本を採収すべきにより希望者は参加すべし)
そこで正直に申し上げますと,この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです.-中略- その半分書いた分だけを実習がすんでから教室でみんなに読みました.
それを読んでしまふかしまはないうち,私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです.
賢治が生徒に読んで聞かせた気持ちがなんとなくわかります. 地質学の知識背景の少ない生徒に対して, この化石発見の重要性,さらにはその化石を発見したための高揚する気持ちを伝えるには, 自分の書いた原稿を読むのが一番だったのでしょう. だからこそ,そのあとおおいそぎで「一ぺんに飛び出して」いったのでしょう.
ありましたありました!この論文!
早坂一郎 「岩手県花巻町産化石胡桃に就いて」 大正15年2月発行 地学雑誌444号.p.55-p.65
論文に書かれているイギリス海岸付近の地質は,作品中の表現とぴったりあってますね.論文中の第2図では凝灰質頁岩(作品では凝灰質泥岩:おおきな違いはない)の上に軽石層がのります. その軽石層の直下に化石を含む層があります. 細かく作品に書かれているのとおなじですね.論文は胡桃化石が主題ですが, 偶蹄類の足跡の存在についても触れられています.
そして,なんといってもこの論文.最後に謝辞が「伊藤博士並びに化石採集に便宜を與へてくださつた盛岡の鳥羽源蔵氏花巻の宮澤賢治氏に感謝の意を表する.(大正十四年十二月二十二日)」とあるのです.