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「インドラの網」の鉱物学

99/11/17


 「インドラの網」は、語り手の「私」が、現実世界のツェラ高原を歩き、「天空世界」を体験する物語です。語り手は二度にわたり天空世界の神秘体験をし、その二度目では三人の天の子どもと共に、夜明けの天空世界を体験します。ここで描かれる神秘世界は、賢治が傾倒した仏教観が表現されています。
 この物語りの冒頭で、「私はひどく疲れていた」とあります。疲れた登山者が神秘体験をすることはよくあるらしく、登山者がもう一人の自分と出会い、会話をしながら歩きつづけたという話を聞いたことがあります。この物語では、そのような疲れた山中行ということだけではなく、ツェラ高原の様々な美しい風景が神秘体験の母材となっているようです。
 この「インドラの網」では、その風景の美しさを表現するために、化学や鉱物学の言葉を使っています。それによって、神秘性が増しているように思えます。科学的にするほど神秘的とは、不思議な感じがしますが、そのような作品こそが宮澤賢治文学なのでしょう。ここでは、この作品に著わされたなかから、鉱物に関係するものを抜き出してみます。


白いそらが高原の上いっぱいに張って高陵(カオリン)産の磁器よりもっと冷たく白いのでした。

高陵(カオリン)とは、中国の有名な陶土の産地で、景徳鎮でも使われています。この作品ででてくるのはこの産地名なのですが、カオリンの名はこの他に、鉱物名としても知られています。カオリン(カオリナイト)とは、陶土の原料となる粘土鉱物です。この名は産地の高陵(カオリン)からとったものです。カオリンは化学組成Al2(Si2O5)(OH)4で、真っ白い鉱物です。微細な結晶の集合体としてのみ産します。熱を加えると、(OH)がH2Oとして脱水し、燒結するわけです。作品中では、空の白さを表現するのに、磁器の白さを使っていますが、カオリンを使った磁器は白くなるはずです。


湖はだんだん近く光って来ました。間もなく私はまっしろな石英の砂とその向ふに音なく湛へるほんたうの水とを見ました。
砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の微光にしらべました。すきとほる複六錐の粒だったのです。
(石英安山岩か流紋岩から来た。)
高温型石英

石英は、化学組成SiO2の鉱物で、世の中の至る所にある鉱物です。石英の粒だけからなる海岸や湖岸もあります。水晶も石英の一種です。水晶のことを考えればわかりますように、普通、無色透明な鉱物で<すきとほる>わけです。石英は大きく分けると二種類あります。高温型と低温型です。石英が生成した温度が573℃より高ければ高温型、低ければ低温型になります。低温型石英は、鉱床などに産することが多く、よく知られた水晶の形をしています。つまり、六角柱と、その先の六角錐からなる形です。六角錐は六角柱の両側に二つできることもあります。これに対して、高温型石英は六角柱はほとんどなく、六角錐だけからなります。六角錐が背中合わせに二つくっついた形になりますので、算盤珠のような形になります。このような形を複六方錐と呼んでいるわけで、「私」が手に取ったのは、高温型石英だったわけです。さて、この高温型石英はどのようなところで生成するのでしょうか。573℃以上の高温です。もっとも簡単なのは、マグマ中でできることです。マグマは普通、800℃〜1300℃程度の温度ですから。ただし、一言でマグマといっても様々あります。玄武岩マグマ、安山岩マグマ、石英安山岩マグマ、流紋岩マグマと、いくつかあるわけですが、これらは化学組成が異なります。この化学組成の違いによって、石英が生成したりしなかったりするわけです。普通、石英が生成するのは、石英安山岩マグマや流紋岩マグマです。そのほかのマグマでもできることはありますが、それは例外といってよいでしょう。(石英安山岩か流紋岩から来た)というのは、高温型石英が石英安山岩や流紋岩に含まれることを「私」が知っているからにほかなりません。



いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。素敵に灼きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流れ、鋼玉の小砂利も光り岸の砂も一つぶずつ数えられたのです。
 又その桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。

鋼玉は、コランダムという鉱物で、化学組成はAl2O3です。というとなじみの無い鉱物のようですコランダムが、鋼玉は微量な異種元素によって様々な色に変化し、濃い紅色のものがルビー、青〜藍色のものがサファイアです。そのほか、黄色のものはゴールデンサファイアと呼ばれています。銀河の周囲に輝く様々な色の星を、鋼玉という比喩表現をしたのですね。
 金剛石とはダイヤモンドのことです。ダイヤモンドは、とても硬い鉱物であることはよく知られていますが、さしものダイヤモンドも、強い衝撃を与えれば割れてしまいます。ダイヤモンドには、割れやすい方向があります。ダイヤモンドに限らず、ほとんどの鉱物は原子が規則正しく配ダイヤモンド列した結晶です。この規則性によって、ある方向には割れにくく、ある方向では割れやすいという性質が現れます。これを劈開と呼びます。劈開により割れたかけらが劈開片ですね。
 青宝玉とは上記の鋼玉の一種、サファイアのことです。黄水晶とは、文字通り黄色い水晶です。水晶は普通は無色透明ですが、ときどき色のついたものが産します。有名なのは紫水晶アメジストですね。他にも黒水晶、煙水晶といったものがあります。微量の異種元素によって色が現れると考えられています。


それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のやうなものが浮かんで来たのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のやうなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青から天河石の板に変わってゐたことから実にあきらかだったのです。

 天河石(アマゾナイト)は、カリ長石の一種です。カリ長石は、カリウム、珪素、アルミニウム、酸素が主成分で、白い鉱物です。天河石の場合、鉛を微量に含み、独特の明るい青い色をしています。鉱床に産する天河石には大型のものがあり、一枚板として加工されることもあるようです。「鋼青から天河石の板に変わっていた」というのは、空の変化(特に色;質感も含むか?)を表現したものです。


けれどもそのとき空は天河石からあやしい葡萄瑪瑙の板に変りその天人の翔ける姿をもう私は見ませんでした。

 飾り石として使われる瑪瑙(めのう)は水晶と同じ石英の一種です。水晶は一つの大きなめのう結晶ですが、これに対して瑪瑙は微細な石英が集合したものです。飾り石としては縞模様のみえる縞瑪瑙がよく使われているようです。空が瑪瑙のように変わったということですね。東の空に雲があらわれたのでしょうか。


(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい。みちをあるいて黄金いろの雲母のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度この高原で天の世界を感ずることができる。)私はひとりで斯う思いながらそのまま立って居りました。

雲母は花崗岩中に多く含まれます。花崗岩に含まれる雲母で最も多いのは、黒雲母です。肉眼で見ると、金色に輝く板状の結晶です。板状になるのは、劈開が極めて良く発達する鉱物だからです。賢治の町花巻周辺でも花崗岩は数多くあります。特に北上川の東側の北上山地には花崗岩体がたくさんあります。北上山地の花崗岩は、古い堆積岩や変成岩中に貫入して径が数km〜数十kmの岩体を形成しています。賢治はこの北上山地の地質調査の経験もあります。地面の転石や砂などは、どこから来たものかわからないので、地質調査では無視します。このことは、「台川」の中でも賢治が述べています。しかし、花崗岩体に近いところでは、やはり花崗岩の転石や、花崗岩由来の砂が多くなります。特に雲母片はその中でも良く目立ちます。賢治は現実世界に居ながら異世界との近接状態を感じられるという状況を、花崗岩体の存在に例えています。


このページの写真は東北大学自然史標本館のホームページの写真を用いています。このホームページは自然史標本館のパンフレットを元に作られたものであり、私もその一部を執筆しています。ホームページ作成と写真撮影は根本さんによるものです。

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