海に沈んだ島
別府湾に浮かんでいたといわれる瓜生島。あっという間に海の底に沈んでしまったという伝説がああります。まさしく日本のアトランティス伝説です。この物語は火山噴火に関係するとは考えられませんが、火山噴火もあったようにつたえられているようです。はたして瓜生島の真相は?
(あらすじ) 昔、豊後湾(別府湾)の中には瓜生島をはじめ大久光島、小久光島、東住吉島などがあった。瓜生島には千軒もの家々がたちならび、大通りが三つもあった。豊後一の港といわれ、賑わっていた。島長は信心深い方で、お寺や神社がたくさんあった。すむ人も信心深く、心やさしい島だった。この島には「なかようせんといけんぞ。なかようせんと島中の神さん仏さん怒りんなすって、こん島は海にしずんでしもうちょるぞ。」という言い伝えがあった。そのあわられとして、蛭子社の木彫りの顔が真っ赤になるのだという。この言い伝えは長い間島のどの家にも伝えられてきた。
そのころ、島の南西のはしにある甲広村に良斎という医者がいた。かねがね良斎は島のこの言い伝えを苦々しく思っていた。「そげん古くさい迷信を信じよって!」とだれかれとなくいいよった。良斎はある日愚かなことを考えついた。丹粉というものを手に入れ、夜のうちに蛭子社へ忍び込み、えびすさんの顔を真っ赤に塗りつぶして、何くわぬ顔で家へ帰った。
翌朝になって、最初に見つけた近くに住む爺と婆は、「大変じゃ。エベツ様ん顔が赤こうなっとる、一大事じゃ」と、島中に知らせた。これを聞いて島の人たちは驚いた。「えらいこっちゃ、何事も起こらねばいいが。」「島が沈みよるぞ!」気の早いものは大分の知り合いを頼って船を漕ぎだした。
一日経って何も起きない。二日、三日と経っても何も起きなかった。島の人たちは安心した。十日ほど経った頃、良斎が「ほうれみい、わしのいうた通りじゃ。島の沈みよるなんぞあるわけない。これで分かったろうが。」良斎がふんぞり返って言いかけたとき、ぐらりと地が揺れた。そのときはひと揺れでおさまった。それから三日ほど経った日、島に立て続けに小さな地震が起きた。あくる日の羊の刻になると、島は激しく揺れはじめ、地の底からいんいんと不気味な音がとどろいた。「あれぁ!高崎山が火をふいとる!」「由布山もじゃ!」高崎山、由布山、御宝山と山々がいっせいに火を噴き、焼けた大石が空から降ってきた。人々は慌て、もう島から逃げようと、うろたえ、叫んだ。
夕暮れ近くなった頃、地震は静まった。安堵して人々が夕餉の支度に取りかかった頃、「島が沈むぞ、早う逃げれ!」白馬に乗った老人が現れふれまわった。ひとびとはわれ先にと逃げまどった。
奇妙な静けさが島を包んだ。海の水が引きはじめ、みるみる海底の岩が姿をあらわした。やがてはるか沖合で激しいとどろきがなり、しばらくすると遠く引いた海の水が高瀬になって、山のように盛り上がった波が島をおそった。えびすさんのそばの爺と婆も波にのまれた。二人は互いの手をにぎったまま、「もう駄目じゃ」と思ったとき、一本の竹が差し出され、夢中でしがみついた。
気がつくと、二人は加似倉山の麓にうちあげられていた。一夜が明け、二人は目をこすった。声もなく海を見つめた。別府湾には島影一つ見えなかった。生き残ったものはわずかであった。良斎の姿はどこにもなかった。
-その解釈-
別府付近には由布岳や鶴見岳といった火山があるため、天変地異があると、火山現象と結びついてしまうようです。どうやらこの物語の中の噴火を思わせる部分は、後の時代に脚色されたもののようです。高崎山や御宝山(霊山)は活火山ではありませんし、由布岳が噴火したという記録もありません。噴火しても、火山弾はここまでとどきませんし、なんといっても、そんな噴火があったら、別府湾上の島以前に、陸地の方が壊滅してますね。ですから、この話で信憑性のあるのは、地震と津波の部分ではないでしょうか。瓜生島が沈んだのは400年近い昔のことと伝えられています。瓜生島の伝説の真相についてはさまざまな研究者が調べているようです。
その結果、この島が沈んだのは、慶長の大地震によるものであることが分かってきました。慶長地震は慶長元年(1596年)の地震で、7月3日より前震があり,閏7月11日から多発してこの日大地震がおきました。この時高崎山などが崩れたようです(噴火ではありません)。海水が引いた後、大津波が来襲し、別府湾岸で大きな被害があったようです。大分河口左岸の現5号埋立地から春日浦付近にかけてあったと推定される「 沖ノ浜 」は、80%陥没し,死者708でした。実際には「瓜生島」が存在したわけではなく、この沖ノ浜の被害を、元禄12年(1699)以降、戸倉 貞則(さだのり) が聞書した想像上の島「瓜生島」に置きかえられたことにより、誇張されて伝聞されているようです。
参考文献 大分の伝説 梅木秀徳・辺見じゅん 日本の伝説49 角川書店