出発の前の晩、かあさんは、言った。
「もし、けんちゃんがお母さんに会えたなら、お母さんと暮らせるようにしてあげま
しょうね。村長さんも同じ考えよ」
そう、けんちゃんの旅は、お母さんに会いに行く旅なんだ。
村議会でけんちゃんの夏休みと旅行のことが決議された後、村長さんと二人でさっ
そくけんちゃんに伝えに行った。
今までみんなのために汽車を運転してくれたお礼に、旅行に行かせてもらえること
になったこと、行き先はけんちゃんが決めていいこと、ぼくと村長さんも一緒に行く
ことを言うと、けんちゃんはすぐに住所を言った。
「神奈川県横浜市中央区初音町○丁目×番地△号」
そんなに具体的に行き先が決められるとは思わなかったので、ぼくも村長さんも調
子が狂ってしまった。ほんとうは、三人であれこれ楽しく迷いながら決めたかったん
だ。
村長さんがその住所を書くようにと手帳を破って渡すと、けんちゃんはすぐに書い
てくれた。そして、住所の後に「環和子」という名前を書いた。
「この名前の人、だれ?」
けんちゃんと同じ苗字なので何となくそんな予感がして
「この人、もしかして、けんちゃんのお母さん?」と、聞くと、
「この人、もしかして、けんちゃんのお母さん」と、けんちゃんは答えた。
そして、約束通り、けんちゃんの決めた行き先、お母さんのいる「横浜市中央区初
音町」まで、三人で旅をすることになった。
それにしても、お母さんがいるのなら、どうしてはなれて暮らしているのだろう。
住所までわかっているのに。他人と話すのも、町を歩くのも不自由なけんちゃんを、
どうして一人にしているのだろう? 実はすごくひどい人なのかも知れない。いや、
けんちゃんがわざわざ会いに行きたいと言うのだから、そんなことはないだろう。
そして、会えたら、さよなら? そんなのって…? ぼくは何が何だかわけがわか
らなくなっていた。
昭和42年8月の暑い日、ぼくら三人は早起きして青ねこ号の始発に乗った。けん
ちゃんの旅のための特別臨時運行だ。
退院して、リハビリして、仕事にもどったばかりのゴンタおじさんの運転は、
ちょっと危なっかしかった。ぼくは平気だったけど、けんちゃんはこわがった。自分
で運転しないとこわいらしい。
びっくりさせてはいけないと思って、臨時運行だから、「なかの」駅には停まらな
いよと言うと、けんちゃんは、
「だめだ、だめだ」と、言った。
「つぎは、なかの駅です。とまらなければなりません。とまらなければなりません」
わざわざ停まる必要なんてないのに、困ったことを言うものだとぼくは思った。と
ころが、村長さんは、
「んだば、とまるべ」と、何でもないことのように言った。
そして、いやそうな顔をするゴンタおじさんに頼みこんで、いつものように「なか
の」駅にも停まることにしてもらった。
「いいの?」と、聞くと、
「けんちゃんの旅だべ。けんちゃんのための臨時便だべ」と、村長さんは言った。
そう言えば、そうだった。ぼくのほうがまちがっていた。
おどろいたことに、なかの駅のホームには、ぼくを待っている人がいた。
「ミヨちゃん!」
ミヨちゃんは、ぼくのお気に入りのピンクのワンピースを着ている。白いリボンを
つけて、ちょっとおしゃれをしている。汽車が停まると、ミヨちゃんはドアの方にか
けてきた。
「アキラくん!」
「見送りに来てくれたの?」
「ええ。ホームで手をふってお見送りしようと思ってたんだけど、とまってもらえて
よかった!」
「うん!」
村長さんがミヨちゃんの家に電話してくれたので、ミヨちゃんは「まちの」駅まで
いっしょに乗っていって、見送りをしてくれることになった。ミヨちゃんは、ぼくと
おしゃべりしながらも、ちらりちらりとけんちゃんの方を見ていた。でも、けんちゃ
んはちっとも気づかないし、一言も話さなかった。
「まちの」駅では、ぼくらはたっぷり別れをおしむことができた。明日かあさって
にはまた会えることはわかってるんだけど、ちょっとの間でも、はなればなれになる
とさみしいもんね。
国鉄の急行が止まる駅で乗り換えて、ぼくらは東海1号に乗った。
クロスシートの四人がけなので、ぼくらが三人で座ると、空いた席に他の人が座っ
てくることもあった。それでぼくはちょっと恥ずかしい思いをした。
けんちゃんが汽車…じゃなくて、電車のゆれる音にあわせて「がたん、ごとん」と
言い続けているのは、なれてしまえば、それほど気にはならない。ちょっと…いや、
かなり変だけど、そういう人だとわかれば、知らない人にも大目に見てもらえる。
それより、やめてほしいのは、村長さんのイビキ。電車にゆられると眠たくなるら
しくて、座ったとたんに居眠りを始めたんだけど、イビキと寝息がすごいんだ。耳を
ふさぎたくなるくらい。
ぼくは、時刻表を開いて、乗りかえの時間を確認した。本当だ。けんちゃんの言う
とおりだ。けんちゃんの頭の中には、時刻表の中の数字が全部入っているのだろうか
? 時刻表をパラパラと見てみると、最初の方のページに、「観光は平和へのパス
ポート/今年は国際観光年です」と書いてあった。
突然イビキが止んで静かになったと思うと、村長さんはいきなり立ち上がって、
「トイレに行ってくるべ」と、大きな声で言った。
「もうすぐ新幹線に乗りかえですよ」
「つぎは静岡〜」のアナウンスが聞こえたら、ぼくとけんちゃんは、荷物をまとめ
て、ドアの前まで運んで、村長さんを待った。トイレからの通り道なので、待ってい
れば会えるはずだ。ところが、村長さんは、いくら待っても来ない。はぐれてしまっ
たら大変なことになるので、ぼくらだけで降りることはできない。そしてとうとう、
電車は8時39分に静岡を発車してしまった。
「うわあーーー!!」
突然、けんちゃんは、大声で叫んだ。
「おりられなかった。おりられなかった! 新幹線に、のれなかった!!」
けんちゃんは、ドアのガラスをこぶしでたたきながら、大声でわめいていた。
どうしよう?
「ごめん、ごめん、おらが悪かったべ」
と、村長さんが駆けつけてきたときには、もう車両中の人がぼくらを見ていた。
「うるさいな!」
「大のおとなが何さわいでんだよ!」
と、文句を言う人もいた。
それでも、けんちゃんはドアをガンガンやっている。
「どうしたんですか?」
と、車しょうさんもやって来た。
「他のお客さんのめいわくになりますから、静かにしてください」
なんて言われても、こんなときのけんちゃんの耳には入らない。
そのとき、時刻表を出して村長さんが言った。
「次に新幹線に乗り換えできるのは、どの駅だべか?」
するとけんちゃんは、時刻表を見ないで、言った。
「東海1号は、熱海駅9時45分着。熱海駅10時10分発のこだま104号に間に合います。
予定通り、10時44分に、新横浜に到着します」
「ふむ、確かにその通りですな。よく知ってるね、きみ」
車しょうさんが言った。
けんちゃんはもう、落ち着いていた。
「こだま104号に乗ります。予定とおりです」
そう言うと、元の席にもどって、さっさと座ってしまった。そうなんだ。静岡で乗
りかえても、熱海で乗りかえても同じのに乗ることになるのはわかっていたけど、少
しでも長く新幹線に乗ってみたかったから、静岡で乗りかえることにしていたのだっ
た。
村長さんは、
「おさわがせしましたべ」と、車しょうさんに言うと、けんちゃんに着いて席にも
どった。
けっきょくぼくが、三人分の荷物を運ぶハメになった。
「わざわざ新幹線にのりかえなくても、この電車で横浜まで行ったほうが楽だよ。新
横浜で乗りかえなければならなくなるから」
車しょうさんが教えてくれたけど、ぼくらは、というよりけんちゃんは、わざわざ
どうしても新幹線に乗ってみたいんだ。乗りかえ駅は変えちゃったけど、「新幹線に
乗る」という予定まで変えることはできない。
急行東海1号は、東海道線を行く。
清水を過ぎたあたりから、車窓に広がる海、海、海。
ぼくは山の中に住んでいるので、あまり海を見たことがなかった。
はっきり言って、静岡で乗り過ごしてよかったと思った。地図を見ると、在来線の
方が新幹線より、海にずっと近いところを走っている。
けんちゃんの黒く澄んだい目には、青い海が映っていたが、けんちゃんはただ、
「がたん、ごとん」と言い続けているだけだった。
海よりも電車の方に興味があるらしくて、すれ違うたびに、電車の名前を言う。
村長さんのイビキが止まった。村長さんは、
「うわあ、海だ、海だべ!」と、大声で言った。そして、
「おお、あっち側には富士山だべ!」と、これまた大声で言った。
やっぱりちょっと恥ずかしいけど、こういうのは許せる。
清水からは少し車内が混んできて、ぼくのとなりに二歳くらいの男の子をだっこし
た女の人が座ってきた。
その子はじっとしていられなくて、お母さんのひざをはなれて通路を走って行って
しまった。
お母さんは、
「だめよ、いい子で座っていなさい!」と、追いかけて行って、ぐずるその子を連れ
て帰ってきた。
そんなことが二度ほどあった。
三度目にお母さんのひざをはなれたとき、今度は通路の方に行かないで、窓の側に
来た。
そして、海を見ながら、けんちゃんと一緒に「がたん、ごとん」を言い始めた。
けんちゃんは、その子に話しかけたり、頭をなでてあげたりもしない。ちょっとく
らい愛想よくしてあげてもいいのに。それでも、その子はすごく楽しそうだし、さっ
きよりずっと落ち着いているように見えた。
「がたん、ごとん、がたん、ごとん・・・」
二人で言うと、ちょっとうるさいけど、ま、いいか・・・
それにしても、列車って、こんなにゆれるものだったっけ? ゴンタおじさんの運
転の青ねこ号に乗ったときから、ずっとそう感じていた。けんちゃんの天才的な運転
にすっかりなれてしまっていたので、久しぶりに普通の運転士さんが運転するのに乗
ると、何だか、調子が狂ってしまう。
予定通り、熱海駅で新幹線こだま号に乗り換えた。
ぼくもけんちゃんも、新幹線は初めてだった。
たしかに速い! 車窓の景色も飛んでいく。でも、ぼくはもっと速いのに乗ったこ
とがある。確かにあの朝市の日、青ねこ号は、この新幹線よりずっと速く走ってい
た。
けんちゃんって?!
けんちゃんはもう「がたん、ごとん」を言わないで、じいっと外を見ていた。けん
ちゃんの目には、ぼくらには見えない景色も見えるのだろう。
新横浜に着いて、横浜線に乗りかえる。駅の中はなんだかごちゃごちゃしていて、
わかりにくい。
駅の中を、人達は早足で歩いていく。
「階段では手すりをにぎるだべ」
村長さんが言った。そうそう、気をつけなくっちゃ。そんなにフラフラしていて
は、危ないよ、けんちゃん。