横浜線に乗って、横浜駅に着くと、けんちゃんの足は急にしっかりしてきた。そう
か、前に来たことがあるんだね?
「さあ、横浜市電に乗り換えよう。もうすぐだよ、おかあさんに会えるよ」と、ぼく
が言うと、
「いんや、その前にどこかで昼メシにするべ」と、村長さんが言った。
ところが、けんちゃんは言った。
「11時37分に、東海道線下りホームに、急行『桜島』が来るから、見たい」
「でも・・・」と、言いかけたけど、やめた。
けんちゃんのための旅なんだ。好きにさせてあげよう。
11時37分までにはずいぶんと時間がある。朝が早かったので、おなかもすいてき
た。それでぼくらはホームのベンチでお弁当を食べることにした。
村長さんは、弘済会の売店の近くの赤い看板の店で、お弁当を三つ買ってきた。
「横浜名物だべ」
けんちゃんは、菓子パンとソーセージじゃないと食べないのに。
でも、けんちゃんは、
「あ、シウマイ弁当」と、言うと、何だかなれた手つきで包みを開けた。
そして、おしょう油入れのコルク栓をポンと抜いて、一つ一つのしゅうまいにてい
ねいにおしょう油をかけて、おいしそうに食べ始めた。
このおしょう油入れ、白いひょうたん形の陶器に、青い線で顔が描いてあって、何
だかかわいい。記念に持って帰ろう。ミヨちゃんのもほしいから、ちょうだいって
言ってみたけど、けんちゃんも村長さんも「やだ」と言った。
ぼくはホームで「シウマイ弁当」をじっくり味わって食べていた。村長さんはあっ
という間にペロリと全部食べてしまった。けんちゃんもじっくり味わって食べていた
けど、しゅうまいだけ食べ終わると、すぐに割り箸を袋に戻してしまった。他のもの
は食べられないらしい。
村長さんは、
「食わねえなら、もらうべ」と、けんちゃんが食べ残した分まで全部食べてしまっ
た。そして、
「ちょっとトイレに行ってくるべ。けんちゃんも行っといたほうがいいべ」と、けん
ちゃんを連れて行った。
けんちゃんが一緒だとかえって安心だ。村長さん一人だと、また道に迷ってなかな
かもどって来られないかも知れない。
二人の姿が見えなくなると、ぼくはいきなり知らない人にポンと肩をたたかれた。
ぎょっとしてふり向くと、黒いサングラスをかけた何だか恐そうな男の人が立って
いる。
その人は、おだやかな声で言った。
「突然、すまない。今、となりに座っていた白衣の男は、タマキ・ケンイチか?」
サングラスの奥からすごい目つきでにらまれているような気がしてぞっとした。
ぞっとして、声もすぐには出なかった。
「恐がらなくてもいい。質問に答えたまえ」
ぼくは、やっとの思いで、言った。
「ちがいます」
たぶん、こう言っておいた方がいい。こいつは、悪いやつだ。けんちゃんをどこか
へ連れて行くつもりなんだ。
「もう一度聞く。あの男は、環健一か?」
「ちがいます」
サングラスの男は、ポケットに手を入れた。ぼくは思わす、叫んでしまった。
「たすけて!」
周りの大人たちが寄ってきた。駅員さんもやってきた。
「どうしたんだ?」
「あ、あの、このおじさんが・・・」
サングラスの男は、適当なことを言って周りを何となく納得させると、停車した電
車から降りてきた人の群れにまぎれて、逃げるように去っていった。
誰もぼくをしからなかった。
「もう大丈夫だからね」と言ってくれる人もいた。
「やっぱり都会の空気はきたねえなあ。けんちゃん、ちょっと吐いちまったが、もう
大丈夫だべ」
けんちゃんがいつもよりも青白い顔をして戻ってきた。
ぼくはきょろきょろと見回してみたが、もうあのサングラスの男の姿も気配もな
かった。
後をつけられていたのだろうか? だとしたら、どこからだろう? どうしてけん
ちゃんを探しているのだろう? けんちゃんのことを何か知っているのだろうか?
たとえば、けんちゃんの持っている不思議な透明な玉のこと。けんちゃんだけが行け
る不思議な世界のこと。
一体どこまで知っているのだろう? けんちゃんを知っていて、探しているのだと
したら、きっと、ぼくが知らないことも色々知っているのだろう。けんちゃんがどこ
からき来たかということも。
そう、ぼくはけんちゃんのことを何も知らないのだ。わかっているようなふりをし
て「手引書」なんて作ったけど、実は、ぼくはけんちゃんのことを何もわかっていな
い。
今、わかるのは、あいつは悪いやつだということ。理由はないけど、何となくわか
る。あの、テレビに出てくる怪人のようなぞっとする雰囲気、ずっと裏の世界を生き
てきたような、うさんくさい感じ。
ぜったい、あいつにけんちゃんを渡してはならない。ぼくがきっと守ってみせる!
けんちゃんの後をついて横浜駅東口を出ると、広い道路の真中で、バスのような列
車が待っていた。
「うわあ! 道のまん中に汽車がいる」
と、ぼくは言ってしまった。
「汽車ではない、電車です。横浜市電です。路面電車です」と、けんちゃんが言っ
た。
「どっちでもいいべ」と、村長さん。
「どっちでもいいべではありません。電気を動力源として走るのは、電車です」
けんちゃんはゆずらない。
けんちゃんは、ゴホゴホとせきごみながら、まっすぐ横浜市電の方へ歩いて行っ
て、すぐに乗ってしまった。
ぼくは初めて来た都会の風景をもっとキョロキョロとながめたい気分だったけど、
待ってくれない。それにしても、車が多くて空気が悪いなあ。
横浜市電は、一両編成だから外から見るとバスみたいだけど、乗ってみると何だか
ちょっとなつかしい感じがした。ぼくらの村の「青ねこ」号と変わらないじゃない
か。けんちゃんはやっぱり、運転室の側に立つことにした。座席はがら空きなのに。
汽車・・・じゃなくて電車が動き出すと、村長さんはすぐに寝てしまった。このゆ
れ方って、何だか眠たくなってくるんだ。けんちゃんなら、こんなにゆらさないで運
転することもできるんだろうな。

写真提供:相原隆
横浜市電は、横浜の町をゆく。ビルの間の大通りの真中をチンチンチンと通ってゆ
く。
けんちゃんは、運転席をのぞきこんだままだけど、ぼくは、はじめて来た都会の景
色がおもしろくて、窓から目がはなせない。
村長さんは、前に住んでいたことがあるらしくて、
「横浜の町も変わったべ」と、しみじみと窓の外をながめている。
そのとき、急に空がくもってきて、ザーザーと雨がふり始めた。そんなあ・・・せっ
かくの旅行なのに。それに、かさも持ってないよ。
雨はだんだんはげしくなってきて、かみなりが鳴りはじめた。
「つぎは初音町」
あ、おりなくちゃ。ぼくはいびきをかいてた村長さんを起こして、
「ここだよね?」と、けんちゃんに声をかけた。
けんちゃんはしゃがみこんで、両手で耳をふさいでいる。顔を真っ青で、全身ぶる
ぶるふるえている。
また、かみなりが鳴った。
まさか? かみなりが鳴っても平気なはずだ。今日は、5月29日ではないから。
「ウワアアアアア!!」
けんちゃんは、頭をガンガンと、運転室をへだてる壁に打ちつけた。
昼間の市電には、たくさんのお客が乗っている。だめだよ! こんなところで。み
んなが変な目で見てる。
ぼくと村長さんは、けんちゃんに駆けよって、とにかく頭をガンガンやるのをやめ
させようとした。すると、けんちゃんは、いっそう大きな声で叫んで、いっそう強く
頭を打ち付けた。
「おい、うるさいぞ!」
「いいかげんにしろ!」という声が聞こえた。
「もうすぐ初音町だ。おりるべ」
村長さんが言っても、けんちゃんはやめてくれない。それどころか、
「初音町! 初音町交差点!」と言って、ウワアア! ウワアア! と大声でわめき
ちらしていた。
やっとの思いで市電をおりたら、どしゃぶりの雨。
そして、またかみなり。
「火がついた! あつい! あつい!」
突然けんちゃんは走り出した。
ちっとも熱くなんかない。真夏とは言え、どしゃぶりの雨は、冷たい。ぼくらはけ
んちゃんを追って走っていった。
「にげてくださーい! にげてくださーい!」と声をあげながら、けんちゃんはどん
どん走っていく。
誰が見ても正気ではない。
「まちがいねえべ。空襲を思い出したんだべ」
村長さんが言った。
「でも、今日は五月二十九日じゃない」
「この場所、一番空襲がひどかった所だべ。この場所で、このかみなり。思い出した
にちげえねえ」
「でも、まだ赤ちゃんだったんでしょう? 一歳にもならない」
どしゃぶりの雨の中で、ずぶぬれになりながら、ぼく達は必死でけんちゃんを追っ
た。
けんちゃんは、頭がいい。何でもすぐに覚えてしまう。そして、忘れない。忘れら
れない。
赤ちゃんのときの、こわい空襲の思い出さえも。何かのひょうしにすぐに思い出し
てしまう。今、現実に起こっているかのように。
それがどんなにおそろしいことか、ぼくにはよくわからないけれど、ただただ、
狂ったように泣き叫ぶけんちゃんがかわいそうでたまらなかった。
どうしてそんなこと、いつまでも覚えているの? 忘れてしまわないと、生きてゆ
けないじゃないか。
「おーい、こっちだ! 防空壕だ!」
村長さんが叫んだ。けんちゃんは、村長さんの方に走ってきた。よかった!
ぼくたちは、ちょうどそこにあったタバコ屋付きの駄菓子屋さんにけんちゃんを連
れて入った。「ぼうくうごう」って? えっと・・・空襲のときに逃げ込むとこ? よ
くわからないけど、けんちゃんは無事、お店に入った。
「ほら、こっちだべ」
村長さんは、けんちゃんをお店のすみっこに座らせた。
「アキラも」
ぼくもそっちへ行って、けんちゃんのとなりにしゃがみこんだ。
「しばらくそうしてやってくれ」
「うん・・・」
けんちゃんは泣きやまなかったけど、もう声をあげたりはしなかった。でも、まだ
からだ中ぶるぶるふるえている。
「だいじょうぶだよ、ここにはばくだんは、落ちてこないよ」
ぼくは、よくわからないけど、たぶんこう言えばいいのかな と思いついたことを
口からでまかせで言っていた。
「だいじょうぶだよ、もうじき終わるよ」
けんちゃんは、すごい力でぼくにだきついてきた。ちょっとさわられるだけでもが
まんできないくせに、自分からだきつくのは平気なんだ。
村長さんは、タバコを買って、お店のおばさんと話していた。
おばさんはどう思っただろうか? いきなり「防空壕だ!」なんて言って飛び込ん
できて、大の大人が座り込んで泣いているなんて、誰が見ても変だ。
でも、村長さんがうまく説明してくれたらしく、おばさんは、ぼくらにタオルを
持ってきてくれた。
「空襲を思い出したんだって? わかるよ。このかみなりだもんね。あたしも、戦争
が終わって五、六年の間はしょっちゅう思い出したもんさ。
ちょうどこのあたりは、ひどかったからね。あたり一面、火の海さ。でも、もうあ
れから二十二年。いいかげん忘れてたさ。・・・あれ? こんな若い人がかね?」
「この人、記憶力がすごくよくて、かわいそうなんです」
ぼくはわけのわからないことを言った。
その後、ぼくくらいの年の男の子が二人、店に入ってきた。二人はすぐにぼくらに
気づいて、ジロジロ見ていた。ぼくは何だかすごくはずかしくて、下を向いていた。
けんちゃんは気づかない。
「なんだよ? あいつら」
「変なの」
そんな声も、けんちゃんには聞こえない。二人はラムネを買うと、すぐに出て行っ
た。
あ、そうだ。いいこと思いついた。
「おばさん、ラムネをください」
ぼくはおこづかいで、けんちゃんにラムネを買ってあげた。栓を開けて渡すと、け
んちゃんは一気にガブ飲みした。そして、あの日、公園でやったように、ビンを動か
して ガラス球をカラカラいわせて遊び始めた。
もう泣いてない。もう大丈夫だ! かみなりも終わったみたいだし。
「アキラ、ちょっと」と、村長さんが呼んだ。
もう大丈夫だとわかったのだろう。
「これから行こうとしているとこは、このすぐそばだべ」
「え そうなの?」
「んだ。んだが、ここの住所にこの人はもうおらんらしい」
「え? ひっこしたってこと?」
「んだ。このおねえさんがよく知っとったから教えてもらったんだべ」
おねえさんと言われて気をよくしたのか、おばさんは色々教えてくれた。
「この人は、もう十年も前に引っこしたんですよ」
「そんなあ、せっかくきたのに」
「どこに引っこしたか、知らんでしょうなあ?」
村長さんが聞くと、おばさんは言った。
「それがね、引っこしてから三年もたったある日、おくさんが突然この店にやってき
ましてね、住所をおいていったんですよ」
「え? じゃ、教えてください!」
「と、言われましてもね、だれにでも教えてしまっていいものかどうか・・・」
村長さんは、うんうんとうなずいてから、聞いた。
「引っこして三年たってからわざわざっつーのは、どういうことだべかな? おねえ
さん」
おばさんは、「おねえさん」がよっぽどうれしいらしく、それがどういうことなの
か、くわしく話してくれた。
「それがね、環さんち、下から二番目の男の子が色々ある子でね、家庭に問題ありだ
からと、施設に引き取られて行ったんですよ。その子がその何とかいう施設から逃げ
出して行方不明になったんですって。それで、もし、その子がどこかで生きていて、
うちに帰ってきたときに、だれもいないとかわいそうだから、万一、たずねてきて、
この店に立ち寄って聞くようなことがあったら、今はここに住んでいると教えてやっ
てくれと、深く頭を下げて頼まれたんですよ。
あの家は色々とややこしくてね、ご主人を戦争でなくされたうえに子供が六人もい
て、おくさん、本当に大変だったんですよ。
一番下の子だけが女の子で、この子は頭が弱そうだけど、かわいい子だった。三番
目の子が不良でね、それで五番目の子はおかしくなって施設行きだ。あの子がああ
なったのは、お母さんのせいだとみんなが言っていた。末っ子の女の子ばかりかわい
がるからさみしくて、あんな、誰ともしゃべれない子になってしまったのだと。あた
しもそう思ってましたよ。
でもね、あのとき、住所をわざわざ置いていったとき、もしかしたら、かんちがい
をしてたのかもしれないって、あたしゃそう思いましたね。 あの子がああだったの
は、この人のせいじゃないって。この人はりっぱな母親だ。けっして愛情が足りな
かったわけじゃないって。・・・あら、ペラペラとしゃべりすぎちまいましたね」
村長さんも、ぼくも、じっと聞いていた。施設? 逃げ出した? 行方不明?
でも、今の話だと、行方不明になったのはもう何年も前ということで、それから一
体どうしていたのだろう?
…とにかく、この町に、けんちゃんのお母さんはいない。今どこにいるかは、この
おばさんに聞けばわかる。
「ところで、あなたがたは?」
「こういう者です」と、村長さんは名刺を渡した。
「村長さん? そんな遠いところからどうしてわざわざ?」
「彼が、その子なんです」
村長さんは、けんちゃんを指さして言った。
「え? まさか」
おばさんは、けんちゃんの側に駆け寄って、言った。
「けんちゃん?」
「ハイ」
けんちゃんはちょっと間をおいてから、返事をした。
「本当だ。この子は、環健一くんだ。忘れもしないよ。この目。この感じ。ときどき
ビー玉を買いに来てくれた。兄さんや、友だちとじゃなくて、いつも、お母さんと一
緒に」
初音町駅の近くの家にもうお母さんはいないとけんちゃんにわかってもらえるま
で、ちょっと大変だった。
結局、その住所まで行ってみることになった。
行ってみて、バラックはもうとりこわされていて別のアパートが建っているのを見
ると、ようやくけんちゃんも納得した。
「ない、ない、なくなった!」と、泣いちゃったけど。
でも、新しい住所を見せるとすぐに泣きやんで、そこに行くと言った。
「おばあちゃんの家」と、けんちゃんは言った。
駄菓子屋のおばさんの話によると、けんちゃんのお母さんの兄さん、つまりけん
ちゃんのおじさんの家族がおばあちゃんと一緒に住んでいたのだけど、突然おじさん
の転勤が決まった。
おばあちゃんは、知らない土地に引っこすのはいやだけど、一人暮らしもいやだか
らと、けんちゃんのお母さんにめんどうをみてもらうことにして呼びよせたというこ
とだ。
その頃には、上の兄さん三人はもう家を出ていたし、おばあちゃんのことも心配だ
から、その家に引っ越すことにしたらしい。

写真提供:相原隆
「ちょっと、気分転換するべ」と、村長さんが言った。
「せっかくだから、アキラに横浜見物させてやりたいべ」
「ぼくはいいから、早くけんちゃんのおばあちゃんの家に行こうよ」と言ったが、
「市電で遠回りするだけだべさ、時間はかからない。コースはけんちゃんに決めても
らうべ。アキラに横浜らしい町を見せてやるにはどう乗ればいい?」
村長さんは、けんちゃんに聞いてみたが、横浜らしいと言われても、けんちゃんに
はピンをこないらしい。
村長さんは、それなら…と、旅行のガイドブックの写真を見せて、ここと、ここ
と、ここを見るにはどう乗ればいい? と聞いてみた。すると、けんちゃんはすぐに
乗り方を教えてくれた。
ぼくらはけんちゃんの言う通りに横浜市電に乗って、ちょっと遠回りして国鉄の横
浜駅にもどることにした。
横浜市電は、横浜の街の大通りのど真中をゆっくりゆっくり通る。なるほど時間を
かけないで、横浜の町を観光することができた。国鉄横浜駅のまわりはそうでもなか
ったけど、港町横浜は外国のみたいな建物もあってなかなか素敵だ。キング、クイー
ン、ジャックと呼ばれているという「横浜三塔」を三つとも見ることができた。