- 叫ばんかかの抽象のかの雲の楡のまうえのたまらなき朝 加藤克巳
一首だけ独立させ、「雲」と題して巻頭に置かれた作品。広く多様な表現の方法と可能性のなかから価値として選びとった克巳の意志が、短歌の新たな位相の発見の予感を語りかけてくる。五七五七七という音数からなっているものの、いわゆる定型性には頼らない、まさしく意志の力によって形づくられた一首である。
- 不気味な夜の みえない空の断絶音 アメリカザリガニいま橋のうえいそぐ
- あかときの雪の中にて 石 割 れ た
- カットグラスノキラメクハエスプリノハナアタラシキアキカゼデアル
歌集『球体』を通読して感じるのは、具象/抽象という軸で捉えたときの抽象へのシフトやいわゆる定型に拠らない形態のありようである。しかし、これらは表層的な特色であり、本質はその向こうにある。読者との直接性。克巳がめざしたのは、このことだと思う。それは、制度に消費されることを拒む、克巳の意志でもある。
制度は作品と読者を媒介としながら、両者の間に一定の距離をつくる。制度は作品と読者を分離する力である。そして制度は、読者の感受性を均質化する力でもある。均質化された感受性は、制度が想定する秩序を脅かすリアリティを排除することに加担する。このように制度は読者を規制していく。しかし克巳は、制度の働きかけを回避しながら、作品と読者との間に直接的な関係を結ばせようとする。それは、短歌を制度から解放するための真摯な試みにほかならない。
では、克巳はこのことを通してなにを実現しようとしたのか。
おそらく克巳にとって短歌は、不可視の領域から、名づけることの困難ななにかを、ことばによって捉えようとする魅力的な一瞬をつくりだす営みなのだ。克巳作品に接することは、つまり克巳が体験した不可視の、しかも未知の領域を追体験しながら、読者それぞれがそれぞれの経験にもとづく独自の空間を構成することだろう。
冒頭の作品をもう一度見てみよう。美しい風景である。しかし、美しいと捉えてしまう一般 的な感受性そのものが、ここでは問われている。この風景を美しいと捉える感受性は、既知の空間でなされる判断。こうした感受性を相対化するために、克巳は、不可視の、未知の領域に足を踏み入れていく。そう、単体としてそれ自体の意味を取りにくい「かの抽象」ということばをパスポートに。難解といわれる克巳作品のそのほんとうの理由はここにある。抽象性や非定型性ではなく、その奥にある目論見が理解されにくいのだ。なぜなら、こうした領域の存在とその豊かさが知られていないからである。
蛇足とも思うが付け加えておこう。克巳の試みが現実や現象の記述、あるいはそれらへの批評を直接の目的にしていないことに留意したいということを。目的は、記述や批評のしかた、つまり現実や現象への向かい方についての価値観の提示。いわば目的さえも抽象なのだ。
純粋な抽象。こう、呼んでみようか。それは、克巳が歌集『球体』によって完成させた、真正なリアリティを現前させるためのきわめて優れた方法である。
|