U先生
月曜日の朝の職員室は決まって男の先生達は、昨日の競馬の話で盛り上がっている。そんな中、会話に耳を貸そうともしないで、ひとりパソコンに向かってしかめっ面をしている先生がいる。それがU先生だ。先生は生徒の成績を処理する係で、暇さえあればひたすらテストの点数をパソコンに打ち込んでいる。なんだか見ていてとても気むずかしい感じがして、私は教科の点数を書いた用紙を渡したら「よろしく、おねがいします」とだけ言って、いつも逃げるようにそばを離れていた。
それが何の運命のいたずらか、学年が変わるとなんと私は成績処理係になってしまったのである。パソコンなんて、メールを打つことぐらいしかできないのに、校長先生が「若いから、君ならできるだろう」なんて、おかどちがいもいいことを言われて、押しつけられてしまった。しかも「わからなかったら、U先生に聞けばいいよ」などという恐ろしい言葉まで頂いて。今年度は定期テストをしないことになりました、などと都合のいいことはおきるはずもないので、とにかく題名にひかれて「サルでもわかるエクセル1週間」という表計算ソフトの教習本を買ってきて勉強を始めることにした。しかし、もともと数字の苦手な私には、SUM関数やら絶対番地などの言葉がやたら出てくる本は、哲学書を読んでるみたいで、いつも気がつけば居眠りをしている日が続いた。いっそのことU先生に聞いてみようと思ったこともあったけど、「こんなのもわからなくて、よく成績処理係をやってるな」と言われそうで、そんな勇気はついにわいてくることはなかった。
そして、とうとう恐れていた1学期の中間テストがやってきた。私の学校では定期テストが終わったら、点数を成績処理係に渡し、係はその点数を合計したり、平均を出したりして生徒ひとりひとりに成績カードとして渡すようになっている。テスト終了後、他の先生方は、ごく当たり前のように「これ、お願いね」と私のもとに点数を預けていかれる。時々「一人でだいじょうぶか。なんだった手伝おうか」なんてやさしい声をかけてくださる先生もおられるが、気持ちとは裏腹に「大丈夫です」と答えてしまう自分が憎らしい。案の定、机の上に集まった用紙の束を見て私は途方にくれてしまった。しかし、おちこんでばかりいられないので、とにかく点数をキーボードで打ち込みはじめることにした。それがやってみたらけっこう簡単で、こんなのチョロイ、チョロイと思って、はじめは順調にキーをたたき続けることができた。ところが打ち終わってからはたと気がついた。このあと、いったいどうすればいいのだろう、平均は、合計は・・・・。ここでもお調子者の性格が災いしているのはあきらかだ。。外はだんだん暗くなってきたけど、この事態に私の目の前も真っ暗になってしまった。ちょうどその時、うしろに人の気配を感じて振り向くと、そこにはU先生が腕組みをして、パソコンの画面をじっと見つめておられるではないか。「ちょっと、貸してごらん」と有無を言わせず私と入れ替わりにパソコンの前に座ると、U先生はマウスを魔法使いのようにくるくる操り(そのときの私にはそう見えた)、キーボードをピアノの鍵盤をたたくような華麗なタッチで、合計点も平均点も、順位も偏差値もたちどころにその姿をあらわしたではないか。私はあっけにとられるどころか、U先生の後ろ姿がまるで正義の味方のように思えた。「はい、できたよ」とU先生は立ち上がって、何もなかったようにまた自分の席にもどっていかれた。「ありがとうございました」とあわてて言った私の言葉にも、軽く手をあげてこたえられただけだった。先生は同じ成績処理係として、私のことを心配して気にかけてくださっていたんだと思うと、先生のことを毛嫌いして声もかけなかった私が本当に情けなくなって、涙がでてきた。
それがきっかけで、U先生とよく話しをするようになった。U先生はパソコンだけでなく、演劇にも興味をもっておられるようで、話が先生のつぼにはまると、三谷幸喜だとか蜷川幸雄とかがばんばん登場して、とどまることのないお話をお聞きすることができた。そのときの表情はほんとうに輝いて見えた。U先生は見た目にはわからないけど、心の中には広い海をもっておられて、時々私は先生の話を聞きながらその海の中を泳ぎ回っているような自分を感じた。少し前までは、その海に足をつけるのさえこわがっていたのに。その後、U先生は、他の中学校に転勤されたけど、先生のおかげで今では成績処理の仕事をなんとか無難にこなせるようになっている。
