Author: Yasuaki Kobashi, All Rights Reserved
Date : 2003/08/15 (modified); 2000/02/25 (created)


80年戦争前史:カレル5世の時代

Prelude to the Eighty Years War: Karel V


数年前の夏,オランダの運河の町アムステルダムから旧ユーゴのスロヴェニア共和国の首都リュブリヤナに飛び,近郊のブレッド(Bled)に滞在したのち,バスで山越えをしてもう一つの運河の町であるイタリアのヴェネツィアに着きました.北のアムステルダムと南のヴェネツィアでは全体としての町の雰囲気はかなり違いますが,古い建物の間の小さな運河の表情などはときに驚くほどよく似ています.

ブレッドを早朝出たバスはアルプスそっくりの山岳風景の中をイタリアに入り,正午にはベネツィアに着きます.スロヴェニアからの出稼ぎの人々が使う道でもあるらしい.遠く離れたオランダとスロヴェニアですが,ハプスブルク帝国の北西端と南東端という対称的な位置にできた国でもあります.

塩野七生さんのイタリアを背景にした物語が好きでよく読みます.なかでもマルコ・ダンドロ3部作は16世紀はじめ,1528年から38年のヴェネツィアを中心にフィレンツェとローマ,そしてオスマントルコのイスタンブールなどを舞台にした,時代物推理小説,あるいはスパイ小説になっているのが珍しい.主人公のヴェネツィア貴族マルコ・ダンドロはヴェネツィア共和国の諜報機関CDX(十人委員会)のメンバーです.もう半世紀ほどたって遠く北のはずれにネーデルラント連合共和国が成立するまで,ヴェネツィアはこのころ唯一の名実ともに共和国だった国です.ちょうどこのころ強大な王権を背景にした中央集権的な領土国家の台頭してきて,地中海の女王ヴェネツィアの未来にも陰りが見え始めた.既にルターの宗教改革が始まり,1527年にはカール5世のドイツ兵がローマの掠奪という事件を起こしたばかり.ヴェネツィア共和国にとっては運の悪いことに,まわりは英雄の率いる強国ばかり.イタリアのほとんどを支配下に置いてしまった神聖ローマ帝国皇帝にしてスペイン王のカール5世に加えて,東には最大の敵ともいうべきオスマン・トルコ帝国のスルタン・スレイマン,西にはフランスのフランソワ1世といずれも若く英明な王をいただいた大国が共和国を包囲していました.この時期の英国王はエリザベス1世の父,ヘンリー8世.ブルゴーニュ公家のシャルル(フランス語)として生まれ,神聖ローマ帝国の皇帝カール5世(ドイツ語)としてヨーロッパ中を駆けずりまわったハプスブルク家のカールはスペイン語ではカルロス,そしてオランダ語でカレル.ややこしいことに,神聖ローマ帝国カール5世はスペイン王としてカルロス1世でもある.

マルコ・ダンドロの愛人であるローマの遊女オリンピアは,彼と初めて出会ったとき,カール5世のスパイでした.この出会いがあった頃,後にカール5世の小姓になり,やがてカールの嫡男フィリペ2世からオランダの支配権を奪い取ることになる オラニエ公ウィレム はまだ生まれていません.この小説には登場しないウィレムの誕生は物語の中間点の1533年のことです.余談ながら塩野さんの「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」では,物語の終末近く,チェーザレがスペインはメディナ・デル・カンポのモータの城に幽閉されているとき,同じ城の中で5才の少年だったカールの姿を垣間見ることができます(* 注1, * 注2).

ウィレム誕生の翌1534年,遠く東の戦国日本で織田信長が生まれました.あるいは天下統一を夢見,あるいは建国の父と呼ばれながら志半ばにして倒れた,この2人の男がほぼ同時に誕生しているのは,偶然とは言いながら面白い.彼らがお互いに出会うことはありませんでしたが,ともに50歳前後でなくなっていて没年も近い彼らの死後20年も経たない1600年,オランダからやってきた一隻の船が日本にたどり着いたのでした.

このころ 低地諸邦(ネーデルランデン) ではカトリック教会が危機を迎えています.教会に行く人は減り,修道院や教会への布施も減少する一方です.このこと自体はすでに以前から続いていたことですが,ここへきて教会を昔の姿に戻そうとという動きが出てきました.ドイツのルターが宗教改革を始める前年の1516年,ロッテルダムのエラスムスが新約聖書の新ラテン語訳を出版しています.これはもうローマ教会の公認の訳とは異なるものでした.10年後の1526年,最初のオランダ語訳聖書が出,発明されたばかりの印刷術で速やかに拡がってゆきます.ほとんどの住民はまだ改革に無関心でしたが,低地諸邦の領主でもあるカレル5世(カール5世)はカトリック以外の教えを禁止し,違反者を罰する命令を発しました.聖書やその他の宗教的著作を所持していることも禁止.とりわけ南部のフランドルやブラバントでは異端者がたびたび火焙りにされました.

少数の,しかし熱心な改革派は,赤ん坊の洗礼やその他のカトリック的な秘蹟を拒否して,人は成人として自分の意志でのみ信仰を選ぶべきだと考えました.そこで彼らは再洗礼派(wederdopers)と呼ばれることになりました.1534年には少数の熱狂的な改革派がウェストファーレンの都市ミュンスターを占拠し,そこから低地諸邦内に反乱を呼びかけようとしました.翌年にはアムステルダムでも騒動が起きています.再洗礼派は裸で町を歩き,世の終わりを触れてまわりました.領主側は厳しく弾圧し,死罪になるものが後を絶ちませんでした.その後,フリースラントのメンノ・シモンスの指導のもと,再洗礼派の活動は非暴力的なものに変化していきます.1550年までに見かけ上の秩序は回復し,異端の思想をもつ者がいても,表向きのそぶりには見せなくなりました.他の土地に脱出したプロテスタントも多くいました.

しかし,フランドルとブラバントでは,フランスから流れ込んできた新しい徹底的なプロテスタントの一派が根づこうとしていました.これまでの異端者よりずっとよく組織され,ローマ教皇への反抗姿勢を鮮明にしたカルヴィン派です.

この間,カトリック内部でも改革運動が起き,信長の生まれた1534年に結成されたイエズス会は,遠く日本にまで宣教師を派遣するに至りました.フランスやオスマン帝国との間断ない戦争と帝国内の秩序回復とに消耗したカレル5世は1555年退位し,低地諸邦を継嗣フィリペに譲りました.フィリピンという名のもとになった王です.フィリペ2世は翌年スペイン王の位も父親から引き継ぎましたが,神聖ローマ帝国皇帝の位とハプスブルク領の東の部分はカレルの弟フェルディナントが継ぎました.

国王側はようやく回復された秩序を利用してカトリックの勢力を強化する策を取り,ローマ教皇と謀っていくつかの新しい大司教区を低地諸邦に設置しました.こうした動きは,旧来の利権を損なわれると感じた地方領主にとっても,熱狂的なプロテスタントには組みしないけれども中央からの締めつけにも反対という多くの住民にとっても望ましいものではなく,強い抵抗を生みました.

カレル5世の治世にアントウェルペンは世界貿易のセンターに成長していました.ハプスブルク帝国とフランスがイタリアをめぐって争い,オスマン帝国との抗争が続く中,ヨーロッパの商業の中心は確実にヴェネツィアから低地諸邦に移っていきました.対外戦費をまかなう重税をたびたび課せられたのも,繁栄する低地諸邦の沿岸都市でした.彼らは戦争から何の利益をも得ることができないのに税金だけは払わなければならないのでした.この状態は父から子に低地諸邦の支配権が移っても同じことでした.1559年,大司教区の設置という置きみやげを残したフィリペ2世はフリッシンヘンで乗船し,生国のスペインに去りました.彼は不人気な低地諸邦の領地に再び戻っては来なでしょう.

低地諸邦を2つに分断することになる80年戦争(「オランダ独立戦争」とも)が始まるまで,あと10年を切りました.

[van der Ham, G. (1998) に依って記述しました.]


注1:もっともこれは塩野さんの文学的脚色らしく,江村洋さんの「カール五世」によれば,カレルが6才の時にスペインのブルゴスで客死しした父フィリップ美公に,カレル自身は同行していません.叔母である大公妃ブルゴーニュのマルガレーテにひきとられてブラバントのメッヘレンで育ったヘント(ガン)生まれのカレルが,スペイン王位を継ぐべくフリッシンヘンの港から初めてスペインに旅立ったのは,既にブルゴーニュ公として即位していた1517年,17才の時のことだったようです(2000/07/20).
注2:下記の「カルロス五世の旅」の著者である上野健太郎さんから,この少年はのちにフェルディナント1世として神聖ローマ帝国皇帝位をカレルから引き継いだすぐ下の弟ではなかったかとの示唆をいただきました.1503年生まれのフェルディナントは両親とともにスペインにいたようですが,1505年の時点では「少年」とはいえないかもしれません(2001/07/28).

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