低地諸邦側(ブルゴーニュ公国側とも言えます)のナッサウ領主エンゲルベルト2世が1504年に後継ぎのないまま亡くなると,その遺産はブレダの男爵の称号とともに弟ヨハンの長男,ヘンドリック3世 (Hendrik III, 1483-1538) が継承し,次男のウィレム (Willem, 1487-1559) がナッサウ=ディレンブルク伯として父の跡を継ぎます.この富裕公ウィレム(Willem de Rijke) の二人目の妻との間の子として生まれたのが長男のウィレム沈黙公(Willem de Zwijger),後のオラニエ公ウィレムです.
ヘンドリック3世は16世紀前半の神聖ローマ帝国皇帝,ハプスブルク家のカレル5世の時代に,侍従長としてカレルに仕えました.カレルの伝記などにもハインリッヒ3世として何度か登場する人物です.ヘンドリックは三度結婚していますが,2人目の妻,シャロンのクローディア (Claudia van Chalon) との間の子,オランジュ公ルネ・シャロンが1544年に25才の若さで戦死したとき,若干11才の甥のウィレムは伯父の低地諸邦の領地のほか,伯母が遺したブルゴーニュ公領フランシュコンテの領地とフランスのオランジュ公領までこの従兄から引き継ぐことになりました.皇帝カレル5世が,この相続によってナッサウ氏のブルゴーニュ・フランスの領地とドイツの領地が再び統一されるのを嫌ったため,ウィレムの父ウィレム富裕公のドイツの領地は,新しいオラニエ公の弟,ヨハン (Johan de Oude) がナッサウ伯の称号とともに継ぐことになりました.オラニエ公ウィレムの一族はオラニエ・ナッサウ氏と呼ばれることになります.
余談ながらヘンドリック3世は,スペイン国王カルロス1世でもあったブルゴーニュ公カレル(後に皇帝カレル5世)に従うブルゴーニュ貴族団の一員としてスペインに渡り,シャロンのクローディアの死後,そこでスペイン貴族の娘 Mencia de Mendoza を3人目の妻として娶りました.
一五一七年にブルゴーニュ人たちがこの国に第一歩を印したとき、新来者と現地人の間は氷炭あいいれず、互いに垣根を作ったように反目しあっていた。王が連れてきたフランドル人たちがトレド大司教などの要職を独占し、スペイン人をかたくなに排斥したために、両者の間には深い亀裂が生じた。 ... 両者の和合は、結婚を契機として進められることが多かった。たとえばナッサウ家とメンドーサ家の縁組みは、その好例だった。カールの侍従長となったハインリヒ・フォン・ナッサウは、もともとブルゴーニュ生え抜きの顕官で、金羊毛勲章を歴代にわたって戴いている名門の出である。たまたま先妻を亡くして独身だった侍従長は、スペインでも有数の大貴族であるメンドーサ家の令嬢と華燭の典をあげたのである(江村(1992), pp.57-58)。
[ウィンクラー・プリンス大百科事典などに基づいて記述しました]
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