ユトレヒトからバールンに向かう各駅停車が終点に滑り込む直前,左手の畑の向こうにワーテルローの針(Naald van Waterloo)と地元の人々が呼んでいる,ウィレム2世の記念碑がオベリスク状の姿を見せます.このモニュメントの後ろにひろがっているのがユリアナ前女王の居城,スーストダイク宮.
1795年にイギリスに亡命した最後のオランダ総督ウィレム5世の嗣子が,18年後に本国に呼び戻され,フランスから独立したネーデルランデン王国(現在のオランダ王国)の初代国王ウィレム1世となって間もない1815年,エルバ島を脱出したナポレオンの百日天下が訪れました.新生オランダにとっても,王国の興廃この一戦にあり,みたいなことになったベルギー会戦,英蘭連合軍の一翼を担うネーデルラント軍はプロシャ軍などとともにフランスと戦いました.このワーテルローの陣中にあったのがウィレム1世の長男オラニエ公ウィレム,後の国王ウィレム2世です.
プロシャ軍がブラバントのリニー(Ligny)で大敗した6月16日,ザクセン・ワイマールのベルンハルトとオラニエ公ウィレム率いるナッサウ・ネーデルラント連合軍は,ブラバントの小村落キャトルブラ(Quatre-Bras)でネイ将軍麾下のフランス軍の攻撃によく堪え,英国勢が応援に駆けつけるまで持ちこたえました.
いっぽう敗北の後,忽然と戦場から消えたブリュッヒャー元帥のプロシャ軍7万を,フランス軍は翌17日も捕捉できません.豪雨の中で敵の追撃を振り切り,18日午後4時半,ナポレオンの勝利かと見えたワーテルローに再び姿を現したプロシャ軍.時には逃げるのも芸のうちということを証明して見せました.モン・サン・ジャン村付近に展開していた英蘭連合軍を攻撃中のフランス軍の側面に彼らが襲いかかったことで9回裏の逆転ホームラン.
ウィレムは,これ以前にもウェリントンの副官としてスペイン各地を転戦し,ワーテルローでは戦傷を負いました.スーストダイクの記念碑はこのときの事績を称えたもの.のちに国王ウィレム2世としての短い在位中の1844年,徳川幕府に開国を勧める親書を送ったのはこの人です.フォンシーボルトの献策だったとか.
死の直前の1848年,非常に自由主義的な新憲法を作らせ,オランダの近代化に貢献しました.王権を大きく制限することになるこの憲法の制定,ほとんど国王ウィレム2世の個人的思いつきとして実現したため,最後の絶対君主的行為だったともいわれています.1795年の連邦共和国崩壊から1848年憲法までの半世紀は日本なら明治維新を思わせます.
[van der Ham の Geschiedenis van Nederland (Amsterdam: Uitgeverij Nieuwezijds, 1998)などに基づいて記述しました]
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