WWW講談:アーネムの橋

小橋康章


アーネムの 遠すぎた橋 ,ジョン・フロスト橋,1999年8月 (photo: Y.Kobashi)

目次

1944年9月 5日(火) 狂騒の火曜日
1944年9月 7日(木) プリンスの帰還
1944年9月10日(日) 橋ひとつ遠すぎるか
1944年9月16日(土) ラジオ・オラニエの声
1944年9月17日(日) 日曜日の遠出
ミサから戻ると
狼は森に潜む
獅子の道を
1944年9月18日(月) 電話してくれれば
1944年9月19日(火) 聖エリザベット病院の攻防
1944年9月21日(木) 魔女の大釜へ
1944年9月22日(金) 閉じこめられて
1944年9月23日(土) 終わりの始まり
1944年9月24日(日) 狭まる鉄環
1944年9月25日(月) ベルリン作戦
1944年9月26日(火) 闇のささやき
無人都市アーネム

あとがき


狂騒の火曜日

1944年9月5日火曜日のこと. ヘルダーラントの州都でもあるオランダ東部の町, アーネムのヘウフェリンク大通りはごったがえしていた. 東へ東へと向かう人の群,制服のドイツ軍兵士たち, そしてドイツ軍に協力したオランダ人までも.あるものは徒歩で, またあるものは住民から取り上げた自転車で. 手押し車を荷物で一杯にしているものもいる. 彼らはひたすらドイツ国境をめざしていた.

人の流れはライン川に面したアーネムだけではなく, ベルギー国境からオランダ南東部のいたるところに見られた.

6月6日ノルマンディに上陸し困難な緒戦を乗りきった連合軍は, 破竹の勢いでフランスを席巻し8月25日パリに入城した. 一週間でブリュッセルが解放される.それは2日前のことだった. そしていま無敵を誇るドイツ軍が大挙して逃走を始めていた. 白昼,衆人環視の中で.

4年半の占領生活に倦んだアーネム市民に,解放の日は急に近づいて見えた. この日はのちに「狂騒の火曜日(Dolle Dinsdag)」として知られるようになる.

プリンスの帰還

1944年9月7日木曜日, 現オランダ女王ベアトリクス陛下の父でユリアナ前女王の夫であるベルンハルト公が, 解放されたばかりのベルギーの首都ブリッセルに到着した. 前日亡命先のイギリスからフランスに着いたばかりだった. 彼はわずかなスタッフと3台のジープと愛犬のマーチンをひき連れ, オランダ国内のレジスタンスからの報告書ではちきれそうになった鞄を抱えていた. 一行は2機の戦闘機の護衛するダコタ型軍用機3機に分乗し, その1機は公自身が操縦して英仏海峡を越えてきたのだった.

姑にあたるウィルヘルミナ女王からオランダ軍の総司令官に任命されていた公は, ただちにモンゴメリ元帥に面会を求めた.当時33才のベルンハルト公も, 「軍人の中の軍人」でノルマンディ上陸作戦を成功に導いた英雄でもあるモンティの崇拝者の一人だった.

やっと会うことができた元帥は無愛想だった. オランダの王族にそのへんをうろうろされては迷惑だといわんばかりである. 会見はぎごちないものになった. ベルンハルト公はただちに祖国の解放にとりかかることを望んでいた. レジスタンスの報告は, 2日から始まったドイツ軍の撤退が「狂騒の火曜日」で頂点に達したことを示していた. 敵は浮足立っている. ここで勢いにのって攻めたてればオランダは数日のうちに解放されるに違いない.

彼の熱意にもモンティは動かされないようだった. とりわけモンティはオランダのレジスタンスからの情報をまったく信用していない. それでも彼はついに,極秘の計画を公にもらした.

  「このたびは空から参ります.」

彼の国民の安全に大きな影響を与えるはずのこの計画について, ベルンハルト公はこれ以上聞き出すことができなかった.

橋ひとつ遠すぎるか

1944年9月10日日曜日, 連合軍総司令官で後に合衆国大統領になるアイゼンハウアー将軍は, 部下のはずの英軍のモンティ(モンゴメリ元帥)にブリュッセルの司令部へ呼び出された. ノルマンディ上陸(「史上最大の作戦」)を成功に導いたモンティに, もうひとつの史上最大の作戦のアイデアがあるという. この日ついに決断された作戦はこれまでにない大兵力による空からの奇襲だった.

ベルギー国境からオランダの平原をアイセル湖に向かって突進し, 東に転じてライン川を押し渡る. そうすればドイツ第三帝国の心臓部であるルール地方は目の前ではないか. 年内に戦争は終わり,わが将兵はクリスマスを故郷で祝うことができるであろう.

ブラバント地方の運河からマース川,マース・ワール運河,ワール川, そしてライン川, これらの水路にかかる主要な橋をパラシュートとグライダーの英米空挺部隊が強襲する,というのである.彼らが確保した橋から橋へ, 戦車を先頭に陸上部隊が駆け抜ける. 5つ目にして最後の橋,アーネムのライン橋を渡ればベルリンへの道が大きく開ける. 橋を占拠する空挺作戦を「マーケット」,陸上作戦を「ガーデン」と呼ぶ, いわゆるマーケットガーデン作戦である.

ドイツ軍の防衛線の背後100キロ,敵地のまっただ中にあるアーネムの橋. そのライン橋を地図の上で指しながら, 英国空挺部隊の司令官ブラウニング将軍は質した.

  「戦車はどのくらいでわれわれに追いつけるだろう?」

モンゴメリ元帥は言下に,

  「2日だな.」

ブラウニングは地図に目をやったまま4日は橋を確保できるとうけあう.

  「しかしアーネムは橋ひとつぶん遠すぎる (a bridge too far)かも知れないな.」

ラジオ・オラニエの声

1944年9月16日土曜日, アーネム市民はいつもと違う緊張した空気を感じとっていた. ドイツ占領軍の治安本部から出された布告のせいもあった. 鉄道の陸橋を破壊した犯人が翌17日の正午までに出頭しない場合, 何人かの住民を身代りに銃殺するという.

さまざまなうわさが乱れ飛んでいた.ついにオランダの都市のひとつ,マーストリヒトが解放されたというもの. 数日中にイギリス軍がここまでやってくるというもの.

そんななかで,イギリスから占領下のオランダに向けて放送されているラジオ・オラニエにこっそり聴き耳をたてていた人々は,ANPのブリュッセル特派員のことばに仰天した:

「オランダ前線でまもなく重大な出来事が起きようとしている.」

その夜はあたかも英空軍が全軍をあげてオランダの空を通過しドイツ爆撃に 向かったようであった. 多くの住民が眠れぬ夜を過ごした.


日曜日の遠出

1944年9月17日朝, イギリス南部に展開する連合軍のいくつもの航空基地から, あらゆる大きさと形の飛行機が, めずらしく晴れ上がった日曜の空に飛び立っていった. この日,偶然にも英国全土でバトル・オブ・ブリテンの勇士たちを 偲ぶミサがとりおこなわれていたが, エンジンの騒音に祈りの声がたびたびかき消されるほどだったという.

爆撃機,戦闘機,輸送機,牽引用の索で曳かれた兵員輸送用のグライダー. やがて上空で編隊を組んだ戦史上かつてない規模の空挺部隊は, 進路を東に取った. このひとつの作戦のために,18才から25才までの, 3万5千人の空挺隊員たちが,オランダ東部の, 隠れるところもない真っ昼間の戦場の空に, 文字どおり飛び込んで行くことになるであろう.

浮足だったドイツ軍の反撃はとるにたらないだろうと言われていた. アーネム鉄橋に向かった部隊の兵士は, この降下が機材の不足から3回に分けて行われることを知っていただろうか. また彼らの降下地点が目標の橋から13キロも離れていることを, かれらは不安に思っただろうか.

彼らの知らないことはほかにもあった.ノルマンディ以来の戦いで傷つき,ドイツ本国に呼び戻される途中のSS第2機甲軍団の2師団,ホーヘンシュタウフェンとフルンズベルクの残存部隊が,つい最近アーネム地域にやってきていた.やがてきたるべき連合軍との決戦に備えて,比較的「靜かな」この地域で再編成の最中だったのである.

そしてそのとき,彼らはアーネム上空にやってきた.

午後1時,アーネムの西郊,オースターベークとヴォルフヘーゼの周辺に広がる草原の上空に到達した英第1空挺師団の第一波は,演習のようななめらかさでいっせいに敵地への降下を開始した.

アーネムの戦い(Slag om Arnhem)が始まった.

ミサから戻ると

1944年9月17日朝, 日曜日だというのに彼は工場構内での対戦車壕掘りにかり出されていた. ドイツ人のために働くことを快く思わなかったはたちの青年は, カトリック教徒であることを理由に, 作業を休んで教会にゆかせてくれるよう見張りのドイツ兵にかけ合った. どういう風の吹き回しか指揮官の許可が下りた.なにかあったらお前の責任だと脅かされはしたが. 20人ばかりの教会ゆきグループのにわかリーダーにされてしまった彼を先頭に, 両脇を固める2人の監視兵とともに, 一同はゼーフェナー村の大きな教会へ行進していった. やがてミサが終わり帰途につくと,20人だったはずの仲間は19人になっていた. それでも護衛をうまくごまかした彼は, 午後も早い時間にもとの作業場に戻った. オランダの秋には珍しく,空は青く晴れわたっていた.

そしてそのとき,彼らがアーネム上空にやってきた.

狼は森に潜む

狼は飢えていた,度かさなる猟の失敗に.傷ついた彼は仲間とともにア ーネムの北にひろがる森に潜んでいた.

そしてそのとき,彼らがアーネム上空にやってきた.

狼は上空から不思議なものが舞い降りてくるのを見た. たんぽぽの綿毛のような白いものにぶら下がった温かい血と肉の塊が, あとからあとから降ってくる.久しぶりの獲物の匂いに彼の鼻腔は開き, 目は爛々と輝いた.殺戮の喜びに身を震わせた彼はゆっくりと腰をあげ, 森の端から草原へと歩みだした.

パラシュートを片づけ前進を始めていた22才の英軍の軍曹 ヘンリー・マカネリーは信じられないものを見た. 森の端からたったいま草原へ転がりだして来たのは何台もの真っ黒な戦車だった. 地上部隊が彼らに追いつくには2日かかると言っていたのに.

そのとき砲塔がぐるりと回転し,ドイツ軍の鉄十字が目に入った. 軍曹ははじまったばかりのこの作戦が失敗したことを確信した.

この戦いで障害をもつ身となったマカネリー軍曹は戦後もオランダにとどまり, 今はアーネムで戦跡めぐりのガイドとして生計を立てている.

獅子の道を

空挺部隊は, 北から南へレオパード,タイガー,ライオンと名付けられた3つのルートに分かれ, 東方13kmのライン橋に向かった. ライン川に最も近い南側のライオン・ルートをとったのは, ジョン・フロスト中佐の率いる第2大隊. 結局彼ら600名だけが橋に到達することになる.

17日の夕方遅く, 装備や人員の一部を欠いたままフロスト隊がライン橋の北詰に到達した. ドイツ軍が南詰に陣取ったのはその30分前だった. 作戦の最も重要な目標であるはずのこのライン橋は, 空挺部隊の降下開始とともに守備兵が逃亡してしまい, それを守る者もないまま数時間に渡って放置されていたのだった. こうして両軍はひとつの鉄橋をはさんでにらみあうことになった.

電話してくれれば

英軍は無線装置の故障に苦しめられていた. フロスト隊はどうしているのか,連絡をとろうにも無線がつながらない. こうした中, 最高指揮官のアークハート将軍が開戦第1日から36時間にわたって行方不明になる という事件さえ起きた.

アーネム市内から今日ヨーロッパで最も美しい村と言われるフェルプへと続く道の入口にあたるのがフェルパー広場である.ここにアーネムの中央電話局があった. 戦争中は軍服を着た若いドイツの女性の一群が詰めていて,灰色ネズミというあだ名で呼ばれていた.あの狂騒の火曜日に彼女たちの多くはどこかへ消えてしまい, レジスタンスの送り込んだアーネム娘たちがなに食わぬ顔をしてあとがまに座っている. ドイツ軍が使おうとすると電話はなぜか混線したり突然切れたりするのだった.

9日間の激しい戦闘が終わるまでアーネム市内の電話網が途切れることはついになかった. 兵士たちが互いの連絡に苦労する中,住民は自由に電話をかけあっていた.


聖エリザベット病院の攻防

1997年の夏, アーネムからオースターベークに向けてユトレヒト街道を通ったとき, 古い聖エリザベット病院の建物が取り壊されつつあるのを見た. 礼拝堂だけを記念に残すのだという.

オースターベーク方面からアーネム市内に向かった英軍のうち, 南端のルートでライン橋に進出したジョン・フロスト隊以外は, 北側から押しだしてきたクラフト少佐のSS訓練部隊と 第2SS機甲軍団のホーヘンシュタウヘン師団の戦車に行く手を阻まれ, ついに市街の西端にある聖エリザベット病院から先に進むことが出来なかった. この病院自体が病室のひとつひとつを争う戦場になった.

戦闘の最中に病院に電話をかけた市民は

「ドイツ軍だ,いやまた英兵が戻ってきた.廊下で撃ち合っている. 階段の上と下とでも撃ち合っている」

という守衛の切迫した声を聴いた.

魔女の大釜へ

1944年9月21日木曜日, 第1ポーランド独立パラシュート旅団を率いるソサボウスキ将軍は, 悪天候の合間をぬってようやくイギリスの基地から出撃することができた. 空挺作戦の第三波である. 祖国をナチス・ドイツとソビエト連邦に分け獲りにされたポーランドは, イギリスに亡命政権をたてていた. バトル・オブ・ブリテンでもイギリス空軍に参加していた生き残りのポーランド軍は, いままた祖国復興の望みを胸に困難な戦いに赴こうとしていた. 彼らは英第一空挺師団の一翼を担ってアーネム近郊への降下を行なう.

ソサボウスキ将軍は作戦会議の席上だれも彼の声に耳を貸そうとしなかったことを思いだして, 苦い思いを噛みしめていた.

「みなさん,みなさんはドイツ軍の行動を計算にいれていない」

と何度彼は繰り返したことだろう. アーネムはドイツ本土への戸口である.ドイツ人がその戸口を開け放し にして置くことがありえるだろうか.

やがて眼下に北に向けてのろのろと進む英第2軍の長蛇の列が見えてきた.最適な交通手段は馬と荷車といわれるこの地方の細い道路を戦車が行くのは至難のわざである.そしてその列はナイーメーヘンに至って完全に停止していた.

間に合わなかった.フロスト隊の抵抗は終わりを告げ,全作戦の究極の目標だったライン鉄橋は完全にドイツ軍の手に取り戻されていた.しかしポーランド兵たちのをドリールへの飛行を呼び戻すものなかった.

ドリールはライン川をはさんでアーネムの対岸にある古い村である.今度はドイツ軍は戦闘機まで用意して待ちかまえていた.空挺隊員を吐き出す前に撃墜される輸送機,やっと飛び出した隊員たちを対空砲火が襲う.着地する以前に地上に向けて射撃を始めたものもいた.

ポーランド兵を襲ったのはドイツ兵ばかりではない.味方のはずの英兵までもが制服の違う彼らに向かって射撃してきた.

戦後ドリールの村の中心の広場はポーランド広場と名付けられ,オランダを解放するために倒れたポーランド兵の事績を今に伝えている.

ポーランド第1独立パラシュート旅団についてはウィキペディアにポーランド語オランダ語英語などでの記載があり,同旅団側から見た戦闘の様子などを知ることができます.

閉じこめられて

マーケットガーデン作戦が開始されて6日目の金曜日,ライン橋を奪還したドイツ軍は, ナイメーヘン方面から進出してくる英第2軍をくい止めるべく,とうとう強力な戦車部隊を南岸に送り込んだ.この部隊はアーネムとナイメーヘンのちょうど中間にあるエルストに達している.

当初の1万人から三分の一以下にまで消耗した英第1空挺師団の生き残りは, アークハート将軍の司令部の置かれたホテル・ハルテンスタインから ライン川にかけてのオースターベークの半円状の地区に押し込められ, 三方向から激しい砲撃を受けている. 白い瀟洒なホテルの地上部分は破壊され尽くされ, 司令部は地下のワイン倉に移された.

抜け道を伝ってドリールのポーランド部隊のもとにやっと到着した第2軍の先遣隊は, 物資と人員を対岸に渡そうとするものの, ドイツ軍の反撃のために成功しない. しかし危険を顧みない渡河の試みは今もまだ続けられている.

ホテル・ハルテンスタインは再建され, 空挺作戦歴史博物館(Airborne Museum) として一般に公開されています. その地下には当時の英軍司令部の様子が再現され, 道路をはさんで向い側には, 地元の人々が Naald(針)と呼ぶ記念のオベリスクが立っています.

終わりの始まり

1944年9月23日土曜日の朝, 英第1空挺師団の伝令がようやくナイメーヘンのブラウニング将軍の司令部に到達し, 四分の一に減ってしまった師団の窮状を伝えた. いまや問題はこの生き残りの部隊をどうやって救い出すかであることがはっきりした.

オースターベークの激闘はあいかわらず続いているが, それをよそにアーネム市民の生活は正常に復帰しようとしている. 月曜からはいつものように働こうという申しあわせがおこなわれた.

そのとき,ドイツ軍の命令が伝えられた.

「アーネムは戦闘地域である. 全ての住民は今晩8時までに町を去らなければならない」

狭まる鉄環

1944年9月24日(日). 戦闘の開始からちょうど一週間.ドイツ軍による包囲の輪が急速にせばまっ てきている.半円形にライン川に向かって開いている英軍側占領地域を, 川沿いに両側から圧迫して,英軍を川岸から切り離そうと試みている模様. ただドイツ側も巨大なティーゲル戦車がオースターベークの狭い町並みに阻 まれて動きが取りにくいらしい.身長190cmのオランダ人男性が家のよ うに大きいタンクと表現した代物である.

両軍や地元ボランティアの設置した看護所にも, 容赦なく砲弾が降り注いでいる. のちに「オースターベークの天使」と 讃えられることになるテアホルスト夫人が オランダ人医師とともに負傷した兵士や住民の看護を続けている屋敷も, 既に原形を留めていない. 開いた窓からドイツ軍狙撃兵の銃弾が撃ちこまれ, 何人かの看護兵が犠牲になっている.

午前10時30分,負傷者を避難させるための一時停戦が提案された. 午後3時から5時まで実施されるとのこと.

ベルリン作戦

今夜ベルリン作戦を実施するという極秘の連絡がアークハート将軍から対岸 の英第2軍にもたらされたのは1944年9月25日の月曜日午前8時過ぎ のことだった.これに先立つ06時05分,彼は退却命令を受け取っていた. ライン川をわたって第1空挺師団を補強する試みはすべて失敗に帰して いる.ベルリン作戦とは夜陰に乗じてドイツ軍の攻囲をかいくぐり,残存の 部隊を脱出させる最後の作戦にほかならなかった.ベルリンへの進撃を 旗印に開始されたマーケット・ガーデンの失敗の中で,この撤退をベルリン 作戦と名付けたのはどこの皮肉屋だっただろう.

川を挟んで1・5km先には友軍が居る.しかし彼らは手も足も出ない.疲 労困憊した英軍はドイツ側のちょっとした動きで総崩れになる可能性があった. 味方の兵士たちさえ行く先を告げられていなかった.中にはラ イン橋にむけて最後の総攻撃をかけるのだと思ったものもいた.

ひとりの通信兵はベルリン作戦の正体を知っていた.彼は他の兵士たち が撤退していく中,何事も無いかのように通信を続けていることを命じ られていたから.

ドイツ軍に休息の時を与えぬよう,対岸から激しい砲撃が降り注ぐ. すべては正常だという外見を保つため,包囲された英軍の兵士は次々に持 ち場を変えながら射撃を続けていた.

そして20時15分,最初の部隊が撤退を開始した.

闇のささやき

夏の日の長いオランダでも9月になると夕闇の訪れが早くなる. 秋雨の9月25日の晩, オースターベークからライン川に続く小道は真っ暗闇だった.

岸辺を混雑させないよう小さな集団に分かれて時間をおきながら, ところどころに先発隊が結んでいった白いリボンを頼りに前進する兵士たちは, 前を行くものの衣服の端を握りしめ,息を殺していた. 雨音と砲声に隠れて沢山の小さなボートが350mの川面を往復し, 疲れきった泥だらけの若者たちを仲間たちの待つ南の岸へ運んでいった. 最後の部隊がようやく異変に気づいたドイツ軍の銃弾を浴びながら渡河を終えたのは, 26日の暁も近い頃だった.

9日間の戦闘が終わったとき,10005人の空挺部隊のうち, 危険を犯して彼らを迎えに赴いた160人のポーランド兵, 73人の英兵とともにライン川を越えて帰還した者の数は2163名. 戦死者1200名,行方不明者,負傷者, 捕虜となった者の合計は6642名だった.

渡河地点の南岸には救援作戦に尽くしたカナダ兵らを讃える記念碑が建っています.


無人都市アーネム

身の回りの整理に数時間を与えられて,9月23日の晩, 家をあとにしなければならなかった住民もいれば, 翌日になってから旅出った住民もいた. ガリ版刷りの退去命令の内容もまちまちだった. いまや市民の団結は失われ,各々が信ずるところに従って行動するしかなかった.

自転車に背丈ほども荷物を積み上げ, 手押し車や乳母車にまで生活用品を積んで, 彼らは東隣のフェルプの村や北のアペルドールン, そして遠くはフリースラント方面にまで落ちていった.あるものは病に倒れ, またあるものは疎開の旅の途中の宿泊所が友軍の爆撃を受けて, 命を落とした. 彼らが再び故郷に帰って来るのは7ヶ月先のことになる.

アーネム市9万人,周辺の町村を併せて17万人が疎開し, 時折訪れるドイツ軍の見回りと, 発見しだい射殺するという警告にも関わらず火事場泥棒を続けた略奪者のほかに, 人影はみられなかった.それでも, 後にした自宅の様子が心配でこっそり立入禁止区域に戻って来る住民はいて, 住む人のいなくなった町の様子を伝えている.

「なによりも不気味だったのは, これだけの大都市に何の物音もしないことだった. ときたま聴こえる猫の鳴き声が異様に大きく響いた」

後に「飢餓の冬」と呼ばれることになる1944/45年の寒波が目前に 迫っていた.


あとがき

講談アーネムの橋におつきあいいただき,ありがとうございました. アーネムの全住民はこうして7ヶ月以上に渡る疎開生活をはじめました. はやくも同年10月7日には連合国側の爆撃によってアーネム橋は破壊され, その後第2次アーネム戦を経て,彼らはやっとわが家に戻ってきます. しかしそのわが家を, あとにしたときのままの形で取り戻した者はほとんどいませんでした.

現在のアーネムは,庭園都市と呼ばれるほど,その豊かさと美観を回復してい ますが,その復興の象徴とも言えるエウセビウス教会(大教会)の鐘が鐘楼 にふたたび鎮座したのは50年後の1994年のことでした. この教会の73mの塔に昇ると(エレベータで8ギルダー), かけ直されたライン橋はもちろん,講談の中に出てきたさまざまな場所を 一望にすることが出来ます.

オースターベークには空挺隊墓地があり,死後もなお隊列を組む兵士たちの, 何百という白く美しい墓標が整然と並んでいるのを見ることが出来ます. 今も時折,どこかの住宅の裏庭から当時仮葬された兵士の遺骨が見つかり, 墓標は増え続けています.

以下の文献をもとに,町の中や周辺に散在するさまざまな記念碑の碑文や, わたしの義父を含む体験者から直接聴いた話をつけくわえて,執筆しました.

この物語はフォーラム講談と題して1997年の9月5日から28日まで, マーケットガーデン作戦の進行に合わせ,53年前と同じ日付にニフティサーブ のベネルクスの部屋(FEURO #8)にアップしていった文章に加筆修正したものです.

補足
Arnhem の発音とカナ表記について:カナではアーネムが一般的になってきたと思いますが,アルンヘム,アルネムなどもみかけます.どちらも誤りとは言えません.検索をかけるときに面倒なものの,オランダ語の発音を完璧にカナ表記するのはそもそも不可能なのでやむを得ないかと思います.なにぶんオランダ人の間でも発音にゆれが見られ,オランダ語版ウィキペディアのArnhemの項にある音声ファイルではアルンヘムに近い発音になっていますが,英語版ではアルネムときこえます.現地の方言ではエルネム(綴りもErnem),市内に住んでいるわたしの妻の家族などは概ねアー(ル)ネムときこえるような発音をしていると思います.現実がそうである以上,あまり厳密にしても意味がありませんね.(2007/02/01)

文献

  1. Cornelius Ryan (trans.Ton Stam), Een brug te ver. Bussum, Unieboek, 1974. (A bridge too far, 1974)
    「遠すぎた橋」は同名の映画の原作.アメリカ人の著者ライアンが多くの関係者へのインタビューをもとに書きました.作戦の当事者だけでなく十字砲火にさらされることになったアーネムやオースターベークの住民の記述も豊かです.
  2. Bert Kerkhoffs, Arnhem 1944: Slag van de TEGENslag. Wezep, Uitgeverij Bredewold, 1994
    ライアンよりずっと新しく,戦いの50周年記念にオランダで出版されました.当時19才の青年だった著者は,住んでいたステーン街でこの戦闘を体験し,のちに新聞記者として,作戦の多くの関係者に直接取材をする機会を得ました.作戦の失敗の原因を鋭く指摘しているとともに,ドイツ人との和解も訴えています.
  3. Martin Middlebrook, Arnhem 1944: The airborne battle. Harmomdsworth, Penguin Books, 1994
    多くの戦記で知られる著者が,ほぼ英第1空挺師団の戦闘にのみ視野を絞って,克明にその経緯を追っています.

関連リンク
  1. Operation Market Garden:マーケット・ガーデン作戦の全てを戦史的に解説.
  2. 空挺部隊を率いたアークハート将軍のメモワール “Arnhem: Britain's Infamous Airborne Assault of WWII”のウェブ上の紹介は現在行方不明.
  3. ARNHEM SPOOKSTAD...en we gingen voor drie dagen...では Andre Horlings による同名の本を紹介しています.幽霊都市アーネムという題が示すように,アーネムの戦いの後,疎開した人,それを受け入れた人々,近隣に残った人たちの想い出をまとめたもの.
  4. マーケット・ガーデン作戦:この文章を最初に書いた1999年当時には利用できなかった日本語ウィキペディアの解説です.ここから各国語版にリンクをたどれます.オランダ語版には別立てでアーネムの戦い(Slag om Arnhem)という項目もあります.

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(小橋康章, 東京都世田谷区)

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Date : 2007/02/01 (用語の訂正,Wikipediaの項目へのリンクなどを追加); 2006/05/22 (更新); 2001/09/17 (更新); 1999/09/17 (作成)