故上兵伐謀 其次伐交 其次伐兵 其下攻城…
…是故勝兵先勝而后求戦 敗兵先戦而后求勝(孫子)

■天の時■
日本がまだ卑弥呼の時代であった頃、中国では宦官と外戚による政治腐敗が後漢王朝の統率力を衰退させ、農民は流民化し、黄巾の乱が勃発する。大将軍何進は政治腐敗の原因となった十常侍(宦官)を排除するため、地方豪族を召喚するのであったが、逆に十常侍に謀殺されてしまう。何進の部下袁紹によって十常侍は殲滅されるが、圧倒的な兵力で洛陽に到着した董卓により独裁体制が敷かれ、皇帝は廃位される。黄巾の乱で成果もあげずに十常侍への賄賂で20万の兵力を与えられた董卓に対し各地の群雄は不満を持ち、曹操の激により打倒董卓を決起する。「水関」、「虎牢関」における連合軍との戦いで苦戦を強いられた董卓は洛陽を焼き払い長安への遷都を強行する。一方、度量の狭い袁紹を総大将にした連合軍の足並みは大きく乱れ、江東の孫堅や曹操の離脱により連合軍は事実上解散する。かくして各地に散らばった地方豪族が群雄割拠することとなる。
董卓は呂布に弑殺され、江東で孫堅、孫策の築いた地盤を継ぐ孫権。献帝を支援して許昌に遷都した曹操。袁紹や曹操の食客となり、徐州、荊州を転々としていた劉備も益州に地盤を固め、ここに三国鼎立を迎えるのである。

■地の利■

劉備の敗走経路 官渡の戦い 長坂坡の戦い 赤壁の戦い 荊州の覇権 
荊州…赤壁の戦い直後 荊州返還問題 樊城攻防戦

■人の和■
群雄割拠から三国鼎立にかけて大規模兵力で個別の戦闘に勝利するよりも、広い視野に立った戦略的な用兵に移り変わってきた。そのため、軍師が果たす役割が国家の存亡に大きくかかわってくる。軍師は農業政策、物流、情報収集、外交、人材育成と多岐にわたり、君主を支援しなくてはならず、戦端が開かれたならばこれを戦線を維持するための補給や外交、さらには侵攻ルートの確保のために用意周到な作戦が必要とされていた。しかし、漢王朝の国家中枢機能を継承した魏を除いて、呉や蜀では人材面での苦慮があったことは否めない。

【魏】曹操は後漢王朝時代に宦官から弾圧を受けていた「清流派」と呼ばれる優秀な文官を多く採用した。荀ケをはじめとして司馬懿、郭嘉、賈逵達があげられる。曹操をして「我が子房」と呼ばしめた荀ケの献策はことごとく成功する。荀ケはもともと董卓の専横を嫌い、官位を棄て「河北の名門」袁紹に賓客として迎えられていた。荀ケの進言を受入れて、流浪の献帝を擁することによる曹操の政治的・軍事的な優位性は増し、天下人たらんとする曹操の地盤を固める。また、曹操による動乱の早期収拾は避難民の「中原復帰」を促進し、国家を安定させる。晩年の荀ケは漢王室再興を願い曹操の魏王推挙に異を唱えて不興を買ったというのが定説であるが、「秘本三国志」では反曹操派を一網打尽にするための埋服の毒ではなかったかと示唆ている。人材の層は三国の中で最も厚い。

【呉】孫堅、孫策、孫権の3代に仕えた古参武将である程普や孫策の暗殺に動揺する孫権を盛り立てた張昭、袁術の誘いを断って長江を渡ってきた周瑜や魯粛もいる。呂蒙の後任として関羽を油断させ、夷陵の戦いで劉備を撃退、壊滅させた江東の有力豪族陸遜など人材面では恵まれているが、元々、江南・江東豪族の連合政権という東呉の性格上、君主とはいえすべて孫権の独断で決められる訳ではない。つまり合議制である。孫堅、孫策の地盤があったとはいえ、孫権が家督を継いだ時点での東呉の勢力基盤は4郡であった。孫権が周瑜の壮大な領土拡張路線より、魯粛の堅実な路線に傾いた理由もうなづける。荊州北部を劉備任せておけば対魏戦線を伸ばさなくてすむからである。荊州に関して、孫堅時代からの因縁があったことを勘案したとしても、多大の犠牲を払った割には戦略的に活かしきっていない。天文に通じた文官がいなかったのが残念。

【蜀】荊州で単福先生こと徐庶にめぐり逢うまでは猪突猛進型の劉備陣営であったが、幾多の危機を乗越え、共鳴する人々を増やして行った。漢王朝高祖(劉邦)の血筋をうかがわせる。三顧の礼によって加わった諸葛孔明の采配によって大きく様変わりしてゆく。孔明は若い時分、「管仲、楽毅のようになりたい…」と口癖だったのでおそらく文武両道の宰相を夢見ていたのであろう。(管仲は文官であり、楽毅は武官であった)孔明があまりに「信賞必罰」にこだわるので旧益州閥の法正は劉邦が漢中王になった時、法を簡略化して人心を得た例を持ち出して苦言を呈したことがある。孔明はすかさず、「秦はあまりにも過酷であったために法律を緩めることで人心を掴むことができた。しかし、劉璋は優柔不断で刑罰もなえがしろにしていたために君臣の秩序が乱れ、民衆は勝手気ままになってしまった。みだりに恩賞を施しては逆効果である。」返答したという。孔明の厳罰主義は「泣いて馬謖を斬る」の通り有名である。国造りからスタートした劉備陣営においては「信賞必罰」は用兵の基本であった。「秘本三国志」における孔明の軍事的評価は北伐おける成果が少ないため政治戦略ほど高くない。


*孫武が伍子胥の紹介で呉王闔蘆に登用される際に実務経験を問われ、後宮の美女180人を調練することとなる。はしゃいで命令を無視する闔蘆の寵姫2人を斬って、孫武は「桃花陣」を自在に運用して呉王闔蘆に用兵の基本を示したという。

−参考−

「三国志演義」 羅貫中作 立間祥介訳 徳間文庫
「秘本三国志」 陳舜臣作 文春文庫

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