7. 学芸大付属中学校の教諭
昭和24年7月恩師の学芸大学付属中学校長の梶浦先生から『新井田さん、貴方は民主主義教育についてもう十分に勉強したと思うので、今度は母校の附属中学の先生として、貴方の経験を生かして実践して下さい』
とのお誘いがあったのです。
私も1年半のアメリカンスクールでの経験を生かして、日本の中学の英語の教育に尽力しようと決心しました。 昭和25年4月、新学期から中学1年生の担任となり、学校全体の英語も教えることになりました。
私はそれまでの経験から、『英語を勉強するには実際に、耳で聞き、口で話す事によって
自然に身に付けていくのが、最良の方法であり、そのために教師は先ず、生徒が英語に興味
を持つように仕向けなければならない』という考えを持っていましたので、オーラルメソッド
(会話による教える方法)で授業を行う事にしました。
新入の1年生には『最初の半年間は、英語の教科書を学校に持ってくる必要はありません。
そして、英語の授業時間中は日本語を話ししてはいけません。』と伝え、毎回、
『グッドモーニング』『ハロー』の挨拶から始まる日常の英会話を使って授業しました。
また、生徒達全員が英語に興味を抱くように、実際に英語で話し合いをさせたり,
音楽室でピアノを習っている生徒に、ピアノの伴奏をつけさせながら、英語の歌を
教えたりなど, 授業内容をさまざまに工夫しました。さらに、アメリカンスクールの
ハイスクールの教え子の生徒を教室に来て貰って、交歓会、話し合いや、英語の唄を歌ったり、
札幌市街の中心部にある大通り公園で、日米子供野球大会をしたり、真駒内のアメリカ人の
家庭訪問、学芸会の交換会等々を通して英語を教えました。
アメリカの子供達の野球は硬球を使っており、日本の子供達は軟球を使っていると知り、
困ってしまいました。 硬球で若し、子供達が怪我でもしたら大変な事になる・・・と
心配していましたら、どうしても野球をやりたいと言うので、硬球でする事にしました。
野球が始まると珍しいのか、周りには、人だかりが出来、大賑わいで何事もなく無事に済み、
安心しました。 また、アメリカ人の家庭を始めて訪問した子供達は、冷蔵庫、電気掃除機、
水洗便所等々、を見て、カルチャーショックを受けたらしく、吃驚していました。
そんな私の積極的な学習法の効果が、現れてきた頃, 丁度、 ディズニーの白雪姫の映画が
上映されました。 それを観た私は、一年生に丁度良い教材だと思い、教え子達に英語劇を
やらせようと思い、映画を参考にして、脚本を書き、夫々の役柄を、生徒の個性や能力を考えて
割り振り、王子様、姫、7人の小人、狩人、その他、出来るだけ多くの生徒達に出演させよう
と思って、ピアノの伴奏、ウサギの踊り等を入れたりしました。
脚色、演出は私が行い、物資不足の折から、衣装は父兄の協力を頼み、 私の中学の後輩の小野栄一君に舞台装置の作成を頼んだりして、万端の準備をしました。
英語を始めてから丁度半年後の、11月の札幌市の文化祭に、中学一年生による英語劇
『白雪姫』を上演することに成功しました。
また、英語を教えているうちに, 困ったことが起こりました。
それは、適当な英語の歌の教材が、無かった事です。 そこで、私は,初歩的な,一般的に良く
知られている、英語の歌の本を集め, 適当な説明を付けた本を、出版しようと思いつきました。
幸な事に、その当時、北海道各地から、私の英語教育法を、見学にこられた先生方からも,
私の授業を見て,『是非, 英語の歌の本が欲しい』という要望もありましたので、思い切って、
東京の大手出版社『音楽の友社』の目黒三策社長に、私の要望を述べた手紙を出しました。
2,3ヶ月の後, ようやく,目黒三策社長の賛同を得る事が出来て、定価45円で私の本が
出版されたのです。その当時,札幌から東京に行くのはなかなか大変な事でした。
私が東京に行く事を知った、アメリカンスクールの教え子の父親{進駐軍のRTO(鉄道輸送管理局)
の将校}から、特別に一等の専用乗車の往復乗車券を頂きました。
北海道から本州に渡るのに, そのまま列車ごと連絡線に乗せて海峡を渡ったのです。
英語の歌の本
この本はその後、日本各地の中学校で, 英語の副読本として利用されたと聞いています。
また,当時の私の英語教育について、数年後、ある日の私のオーラルメソッドに拠る英語学習
指導案が『北海道教育史 戦後編』に3ページにわたって紹介されている事を知りました。
これは私に与えられた最高の勲章だと思って,教師時代の大切な思い出にしています。
ある時の職員会議で、私が一年生の英語の査定は、殆ど全員Aクラスにしたいと発言すると、
先生方が、そんな事は出来ません。 偏差値と言うものが在り, 偏差値は必ず曲線を描かなけ
ればなりません。 等々、大議論になりましたが、最後まで、私は、全員が最高点をとるのが、
教育の目標ではないでしょうかと、反論したのを覚えています。
さて, この後直ぐ, 私は突然、教員生活にピリオッドを打つことになったのです。
英語教育に全力投球していたある日の事でした。 教頭から『今日午後1時から北教組
(北海道教職員組合)の全国大会がありますので,新井田先生、貴方が出席して下さい』と
言われました。 私は『午後は授業がありますので,終わってからでも宜しいですか?』と
お願いしたのですが、『先生は皆、組合員です。その組合の大会なのですから、ぜひ出席
して下さい』と命ぜられました。それで仕方なく、生徒には自習をしているように告げて、
大会に出席したのです。
北教組大会の会場には、100人位の先生方が全北海道から集まっていました。 やがて、
大会はクライマックスを迎え、組合委員長から『当組合は, 次の北海道庁長官の選挙で、
社会党から立候補しておられる,〇〇さんを推選する事にしました。 皆さんは, 夫々一人
十五票ずつ獲得してください』との発言がありました。 これを聞いた私は、大きな疑問
を感じ、思わず手を上げていました。そして, 周りを見渡すと、挙手したのは私だけでした。
直ぐに私に発言を求められました。 私は,立ち上がって,次のような発言をしました。
学校の教師と言うものは常に中立の立場を保っていなければならないと思います。
先生が子供と言う人質をたてにして,その子の親に特定の政党の候補者への投票を依頼すると
言う事など、もってのほかだと思います。 教師たる者の、なすべき事ではないと思います。
私はそのような命令に従う事は出来ません。』と言って、席を立って直ちに学校に戻りました。
そして、職員室の自分の机で辞職願いを書き、それを手にして校長室に行きました。
校長と教頭に大会での出来事を報告した後、書いたばかりの辞表を提出しながら、
『教頭先生は私が出かける前に、私に『先生であると言う事は、即ち、北教組の組合員』だと
言われましたが、間違った考え方だと思います。』そして、私は『組合の考え方についていけま
せん。従って、私は組合員として不適格だと思いますし、これからの私の人生を自分の信念を
曲げて、このまま先生を続ける事は出来ませんので辞職させて頂きます』 と告げました。
校長も教頭も驚いて、何度も考え直すように言われましたが、私は黙って、部屋を出ました。
その後、父兄や生徒達からも、辞職を撤回して欲しいと言われました。私も教え子達を途中
で放って、辞めて行く事に対して強い抵抗を感じましたが、このまま先生を続ける事は、北教組
の行き方に妥協する事になり、自分の主義主張を変えることになるので、住み慣れた故郷を後に
して、東京へと飛び出して来たのです。
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