8. パンアメリカン航空会社に就職



 昭和26年9月 東京に出てきた私は、 連日足を棒にして、炎天下の街中を、職を求めて 歩き回りました。しかし、当時、日本全国に不況の波が押し寄せており、特に東京は就職難で、 神田や飯田橋の職業紹介所などは、いつも、職探しの人たちで、長蛇の列でした。

 私は、連日、心当たりの友人、知人、会社を、足を棒にして訪ね歩きました。そのうち、手持ちの 金も次第に底を尽き、腹も空いてくるし、『あー、あー、俺はこの道端の石ころみたいな存在なのだ。 誰も私に見向きもしてくれない』と、天を仰いで嘆息をしていました。

 そんな私に、突然素晴らしい出来事が起こったのです。それは偶然と言うには余りに偶然な 事が、起ったのです。 暑さの中, 背広を脱ぎ、片手に下げて新橋駅付近を歩いていますと, 背後から突然、へーイ、ミスター・ニイダ』と、誰かの声が聞こえました。 振り向くと 『シバラク。イマ、ナニヲシテイルノデスカ?』と、言う事を英語で話ししている懐かしい 笑顔がありました。

 アメリカンスクールで先生をしていた時の教え子の父親の、カイザー・田中さんでした。  田中さんは、ご存知の方も居られると思いますが、アメリカの二世で、元阪神タイガーズの 監督をしていた有名な人で、 彼とは親しくお付き合いをしていたのです。  私が、仕事を探している最中だという事を伝えると、彼はすかさず  『オー、丁度、今、パンアメリカン航空の日本支社長と、話しをしてきた所です。  その時、二世の社員が、アメリカに帰国することになって、欠員ができるような事を、話していました。  丁度、良いチャンスです。今直ぐ、行ってパンアメリカンの支社長に、会ったらいいと思います。』 といわれました。

 そして、『電話をかけてみましょう』と言って、近くの喫茶店に入って受話器を取りました。 支社長と、面接するように段取りしてくれたのです。『地獄で仏』とは、まさにこの事。私はその足で、 直ぐ、東京駅前の、丸ビル1階の角にあった、パンアメリカン航空会社に、行きました。

 オフィスに着くと、社長室で社長のオートウィン氏と副社長のアンダーソン氏の二人が、 私を待って いて下さり、早速、面談が始まりました。何しろ、急な事でしたので、履歴書も何ももっていませんでした。  それで、自分の経歴や入社に対する私の意欲などを口頭で伝えた所、カイザー・田中の友人だと言う事と、 アメリカンスクールで先生をしていたと言う事が、信用を得た様子で、翌週から出社するように言われま した。

こうして、私は、東京での生活の第一歩を踏みだすと同時に、幸運にも、世界一の航空会社 パンアメリカン航空会社で私の生涯の職業となった航空業界に、第一歩を踏み出す事になったのです。





9. 名実共に世界一のパンナム


 その当時のパン・アメリカン航空(パンナム)は、名実共に 『世界中で最も経験豊かな、航空会社』でした。 国際航空法、 旅客や貨物の取り扱い方、 予約の方法、テレタイプに拠る国際間の通信法等々のマニュアル類も充実しており、社員に対する教育も非常に力を入れており、アメリカ本国から教育専門のスタッフが、連日、 社員の教育に専念してくれました。  また、我々スタッフは誇りと責任を持って、働いており、 次々に増えてきた航空会社や旅行代理店の人々からも、頼りにされるような存在でした。旅行代理店、日本航空、そして一流ホテルの接客係りのスタッフのOJT(実際の仕事を通じて、仕事をしながら教える)や、業界関係者からの質疑応答に明け暮れました。そして、日本の航空業界の指導者としての役割を果たしました。  一人一人の社員は、 パンナムで働く事に誇りと、自信をもって働いていました。

 入社後、 私は旅客レザーベーション(予約)業務を、担当する事になりましたが、上司の顔を見て驚きました。 と、言うのは、その人は、 私がアメリカンスクールで教師をしていた頃、米軍キャンプで、MP(ミリタリー・ポリス=アメリカ軍隊の憲兵)の通訳をしていたM氏だったのです。 その頃、進駐軍のキャンプで働いていた日本人は、時々一般では入手困難だったタバコ、チョコレート、石鹸、等を貰って帰っていたのですが、 M氏は、ゲートで彼らを逮捕していたのです。本当は、彼の行為は正しかったのですが、 捕まった日本人の家族や、知人達は私に、『彼等を釈放してもらうよう、頼んで欲しい』と言ってきていたのです。 それで、私は、教え子の父親でMPの隊長をしている人を知っていましたので、しばしば、M氏の上司の隊長に頼んで、釈放をしてもらったりしていました。



アンディこと、ミスター・アンダーソンを頭に、
S.O.B.メンバーの面々。懐かしい顔ばかり・・・・


同僚と伊豆修善寺温泉で
 給与は当時の日本では破格な高額でしたが、その分、仕事もハードでした。  アメリカの会社では、 一般にたっぷり8時間働かせられるのが常識です。私など一人で夜勤をしていた 時など、絶え間なく入ってくるテレタイプ・メッセージを、整理する為、トイレに行くのにも駆け足で行か ねばならないほどでした。 

 よろい戸が閉まり、冷房も止まった丸ビルのオフィスの中での仕事は、 物凄く暑かったのを覚えていま す。 余りの暑さに、私はランニング・シャツとステテコで仕事をしていました。そのため、夜明け方羽田 から社用便を届に来た空港のスタッフが、そんな格好の私を見て、驚いていた事がありました。人のうわさ は怖いもので、やがて、その話しが『丸ビルで夜中に、ステテコ一枚でイワシを焼いて食っていた奴がいた』 等と妙な噂を立てられた事もありました。



玉村文夫さんの結婚記念撮影
オートウィン氏、エルスナー氏、
ドック、赤田さんたちの懐かしい顔が見える


デヴィド・ジョーンズさんや兼高かおるさん
馬場正子さん達のお顔も見える



通常業務で先ず大変だった事は、英語を覚える事でした。 勿論、それは日常会話で使用するような言葉 ではなく、航空業務上で使う、専用用語としての英語を覚える事でした。入社して間もないアメリカ生まれ の日系三世のスタッフは、2、3、ヶ月の教育を受け、英語は堪能なのにも関わらず、電話に出ると、おどお どしてソッと、私に受話器を渡してくる事もしばしばでした。 彼らより英語の下手な私が、アメリカ人に 代わって、アメリカ人と英語で対応しなければならない事も、しばしばあったのです。

 当時のパンナムには、後日、日本の航空業界で、活躍された錚々たる日本人社員が、大勢、頑張って働い ていました。今でも、パンナムで、働いた事のある人たちが、昔を偲んで、年に一度、ホテルでパーティー を開いています。

昭和26年11月 不思議な縁で 東京女子医大病院 創始者、吉岡弥生女史の姪、富永ミサ子と結婚 する事になり、パンナム支社長ご夫妻の仲人で 東京ステーションホテルで挙式しました。


1952.11.
パンアメリカン航空会社日本支社長ビル・オートウィン氏
ご夫妻の仲人による結婚披露宴記念撮影
(前列右端は新婦の伯母 吉岡弥生女史)
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