◆失われていく故郷を記しておこう
私は福岡県北部の農村に生まれ育った。
人口1万人ほどの、農業と林業が主な産業の町だ。
その町の中でも、かなり山がちの地区が故郷である。標高600メートル級の山の裾野、平野と大地が入り組んだような所に、今もなお私の育った家は残り、年老いた母親が暮らしている。
私は19歳で進学のため、故郷を離れた。
大学は京都、仕事は福岡と移り住んだが、19歳の春から今日までの25年間で故郷に戻って暮らしたのは、就職浪人してアルバイトで食べていた2年間の内の1年ほどの間だけだった。
それでも、車で1時間圏内には住んでいたので、盆正月や田植え稲刈りなどの農繁期には帰るようにしていた。そう、実家はほんの少しだけれど田圃と山林を持っている農家なのである。
あれは私が高校の頃だったろうか、家の裏山の向こうに新幹線が通ることになり、その工事が始まったあたりから、故郷の様子が次第に変わりだしたような気がする。
それ以前にも、高度成長時代の余波は田舎の農村にも及んできていて、たとえば牛馬で耕していたものが耕耘機になり、各家庭にテレビや冷蔵庫や電気洗濯機が入り込み、多くの農家が自家用車を買い壮年の男達は現金収入を求めて働きに出るようになった。兼業農家が増え、田圃や畑の日常的世話をするのは爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんのいわゆる三ちゃん。
それでもまだ、片田舎の風景は大きくは変化していなかった。しかし、日本列島改造論がにぎやかに称えられた頃から、片田舎にも開発の手は伸びてきたのだ。
まず家のすぐ近くにゴルフ場ができることになった。家の雑木林と山あいの田圃がその用地に掛かっていたのだ。用地買収交渉は、地区の公民館に地権者をまとめて行われ、ほとんどが雑木林とみかん畑だったので、大して揉めずにすんなりといったようだ。
で、せっかく入った大金を今は亡き祖父が、甘い口車に乗っかって相場で全部すったのは、また別の話。
ゴルフ場の造成が始まった。
一部を残して立ち木は切り倒され、ブルドーザーが入り、裏山が消えていった。これが私にとっての最初の故郷喪失だった。
その裏山一帯は「じんね(甚根?)」と呼ばれていた。丘陵の尾根には栗や柿、クヌギ、樫などの雑木が繁り、段々畑にはみかんや茶、サツマ芋や胡麻を植えていた。冷たい谷川の水を引いた小さな田圃も数枚あった。
「じんね」は子ども時代の私にとって、素晴らしい遊び場だった。
木々の間をぬって鬼ごっこや忍者ごっこ。藁こづみに穴をうがって秘密基地を作り、夏にはクヌギの木に集まるカブトムシやクワガタを採りに。秋には芋掘りや栗拾い。冬にはヤマドリを捕まえるための罠を仕掛ける。
なんといっても一番記憶に残っているのは、10月から11月にかけて雑木林の木々がみな赤や黄色に色づく頃、日が傾きだした午後に林の中の土手に寝転び、木漏れ日を浴びながら舞い散る落ち葉の中で空を見上げていた光景だ。
それはまさに、少し赤味を帯びた光にきらめく黄金の木の葉が降ってくるかのようだった。
その「じんね」も、今はゴルフ場のフェアウェイやハザードに変わり、もともと公式の地名ではなく符丁のような名称も消えてしまった。かろうじてあの頃を知っている我々の世代が消えてしまえば、人々の記憶からも故郷の名前は消えていってしまうのだ。
考えてみれば、古くからの土地には、公式の地名、大字小字以外にもいろいろな地名が残されている。私の故郷のことを思いだしてみても、「たこばる(蛸原?)」「さこんまえ(左近前?)」「おいし(?)」「あにや(庵谷?)」などなど。なんだかどれも、曰くのありそうな名前でワクワクするではないか。
家々にも屋号が付いていた。「醤油屋」「油屋」「鍛冶屋」、今はその商売をしてなくても先祖がやっていたからだろうか。ちなみに我が家は「ひやけ」と呼ばれていた。どんな字を書くのか、謂れはなんなのか、子どもの時から祖父母に聞いていたが、納得のいく回答は得られなかった。ずいぶん昔から付いていたようで、結局分からず仕舞い。
そういった所以のある地名も、開発の手が入れば消えていく運命にある。
たとえば今私のすんでいる所は、福岡と久留米の間にある田園都市の丘陵地帯を開発した新興住宅地だが、もともとはやはり雑木林だったようで、地元の人と話をしているといろんな地名が出てくる。しかし、住居表示としては全国どこにでもある「美」という文字を使った地名「○○が丘」○丁目でしかない。そして、かつての雑木林で虫取りをしたり薪を拾ったり山芋掘りをした世代が消えてしまえば、それとともに味わい豊かな地名も消えていく。それはつまり、この土地にまつわる記憶や歴史が消滅してしまうということにほかならない。
次の故郷喪失体験は10年ほど前だったか、地区の基盤整備事業として圃場の改良土木工事が行われたことに起因する。
大型農業機械が入れるように、小さな田圃を集めて1枚の大きな田圃にし、所有者が散らばっているものは交換して一個所に集める。その過程で、田圃の間をくねくねと流れていた小川が、三面コンクリート張りの単なる真っ直ぐな用水路に変わってしまったのだ。
その小川で小さいころから私は、カニや小鮒、ドロバエ(ハヤの一種)、ドンポ(ドンコ)、スイツコ(ハゼ科の小魚)などを捕まえ、蛍を追い掛け、ジュズの実でネックレスを作り、長じては釣や銛突き、手製の水中銃で魚を採ることを覚えた。
夏の暑い盛りの農作業には、その川で麦茶を入れた薬罐や西瓜を冷やす風景も良く見かけられた。田圃で泥だらけになると、まずその小川で手足の汚れを落として家路についていた。
そんな想い出のいっぱい残る小川が、ただの溝に変わってしまっていたのだ。小石だらけの瀬も魚の潜んでそうな淀みも消えてなくなり、ただ上流から下流へと水を流すだけの水路。
完成した年から、めっきりと蛍の数が減った。また水利権の調整によって、田圃の間に点在していた小さな溜め池もほとんどが潰された。そのせいだろうか、田圃や小さな溝で見かけていたドジョウやメダカの姿も消えた。田圃にいっぱいいたタニシも見かけなくなった。
溜め池があったころは、田植えの時期になると溜め池の鮒や鯉たちが産卵のために水を張った田圃に大挙してやってくる。また、それを狙ってサギやカラスが飛んでくる。そういった生の営みの光景も見られなくなったのだ。
私の故郷のような田舎町では、いまだに古くからの地場の土木業者と町政の親密な関係が見てとれる。周りは山と田圃ばっかりだから、多少乱暴な開発をしても大丈夫だとでも思っているのか、70年代のような開発手法がまだまだ行われているのではなかろうか。
でも、一見豊かに見える自然も、例えば山は手入れをする人が年老いて荒れていき、舗装された林道だけが森林を貫き、やがてゴミの不法投棄の山が出来上がる。田圃も減反休作で雑草が生い茂る空き地と化していく。
日本列島各地の故郷も、きっと似たような状況じゃあなかろうか。
漁村のことはよく知らないが、ここ数年の有明海のことを考えても、海は疲弊しきっているような印象だから。
一律的に開発が悪だといってるわけではない。しかし、地方自治体に国のお金はあまり使えませんよいう時代に、田舎までもが都会のような開発行政をする意味も意義も、もはや大してなかろう。我々一人ひとりが、本当に自分たちが求める豊かさとはなにか、子どもや孫に残していきたいものはなんなのかを、もう一度じっくりと考え直す時がきてるんじゃないか。そして、ちゃんと古来からの知恵を使えば、ゼネコン的開発じゃない田舎ならではの開発であり、土木工事の手法が必ずあるはずだと思う。
このままでは私の、そして私たちの故郷が消えていってしまう。そうなる前に、私は自分なりの故郷の記憶を記録しつつ、これからのことを考えて発言、行動していこうと思うのだ。
(2001.10.31)