【芝居小屋に依り来たるもの2】

さて、1991年の暮れ、流浪の劇団K工房は福岡市東区の下町に自前の劇場を持つこととなった。といっても、木造の30坪ほどのオンボロ倉庫である。

これは当時の劇団の看板女優C子が、バイトの帰りに見つけたもので、「貸します」の張り紙を見てすかさず持ち主に電話したのだ。聞けば、家賃も格安、敷礼金もわずかの好条件だというではないか。

それもそのはず、この倉庫、築数十年にはなろうかという代物で、床は地面を簡易モルタルで固めたもの、壁はトタン板、屋根は瓦葺きとトタン屋根が混在してあちこちで雨漏りしている。

しかし何よりも安さは魅力だ。劇団ということで貸し渋る大屋さんをなんとか説得して、再開発工事で取り壊されるまでの5年間ということで、無事借りることができたのだった。
我々はその倉庫に「月光シアター」と名付け、数ヶ月に渡って屋根や壁、床などに手弁当で修繕を施し、劇場としての体裁を整えていったのだ。

頭上を福岡空港で離着陸する飛行機が横切っていくこの「月光シアター」で、結局6年余り公演を打っていったのだが、もともとその土地や建物に因縁はなくとも、芝居の内容やそこに集まる人間が呼び寄せてしまうのだろうか、この劇場でも様々の不思議なエピソードを体験したのである。

エピソード1

それは岸田戯曲賞を受賞した唐十郎の名作『少女仮面』を上演した時のことだった。この脚本、愛の亡霊・甘粕大尉が登場したり、空襲で焼け死んだ男や、不治の病に犯された腹話術師、防空頭巾の少女たちという具合に、非常に死の匂いの濃厚な作品なのだ。しかも、演出はそれを強調するかのように、ラストシーンでは舞台の屋台崩しがあってモンペにセーラー服、防空頭巾の少女たちが、卒塔婆をバックに登場してくるという仕掛けだった。

2週間にわたり6回公演で行われた何日目の終演後のことだったろうか、主役格の“春日野”役のベテラン女優・Rさんがポツリと呟いた。
「本番中に誰か上手の袖におった!」

自前の劇場なので、当然、舞台装置や役者の出入口はかなり自由に設定できる。しかし、よく話を聞くと、そこは出番待ちの役者が控えている場所ではないし、もちろんスタッフでもない。第一、袖幕のかなり上のほうから顔が覗いているので、2メートル近くの相当背の高い人物ということになる。しかし、そんな人物はこの劇団員や助っ人の中にはいない。

さらによく聞くと、その男は赤ら顔で顔中ヒゲを生やし、昔の軍服を着ていたというではないか。Rさんは「ロシア兵のようだった」という。まさか、我々の芝居が、遠く旧満州やシベリアで眠るロシア兵を呼び起こしてしまったとは考えにくいのだが。あるいはこの地に、かつてロシア軍またはロシアの船と関る何かが埋もれていたのだろうか。その後、そのロシア兵は現れることもなく、公演は無事終了したのだった。

エピソード2

私の書下し脚本『サンクチュアリ』を上演した時のことである。

この芝居は、別におどろどろしく生や死の問題を扱った作品ではなく、近未来的なSFネタを、地球上の中年夫婦とどこかの惑星上の姉妹との場面に分け、描いていったものだ。

舞台上には、重要な役割を担う舞台装置、ストーンサークルの立石にしてロケットでもあるものを中央にそそり立たせていた。この芝居は、かなりスタッフワークが重要で、舞台美術や衣装、照明、音効、特殊効果などがひとつのコンセプトのもとに、ある種ジュール・ベルヌやH.G.ウェルズの作品のような、黎明期のSFの持っていた懐かしさを表現しようとしていた。そしてそれは、かなりの部分で成功していたと思っている。

そこで、本番も近づいてある程度舞台装置も完成した日のこと、私はこの舞台装置の記録兼公演ピ−アール用の写真を、舞台にキャストを立たせたり、あるいは装置だけのカットだったりで撮影したのだ。撮影したフィルムは、制作部のチーフであるMちゃんに渡した。

ところが、何日たってもMちゃんが、現像したはずの写真を持ってこない。
「どうしたの?」と聞いても、
「情報誌や新聞社には送りましたから」というだけで、言葉を濁している。
そうこうしてる内に、本番を迎え、そのドタバタの中で、この事は頭から消えていたのだったが、、、。

公演が無事終り、打ち上げも済んでしばらく経った頃、Mちゃんから電話があった。
「実はあの時の写真、おかしなものが写ってたんです」という。
早速私は、仕事が済んでからMちゃんちを訪問した。

「これなんですよ、見てください」
と彼女が見せてくれたポケット・アルバムの中の写真には、何枚かに渡って、舞台の上にふわふわ浮いた、沢山の白い玉が写っていた。
「なにこれ?現像液かなんかがついたんじゃないの」と、ネガを見せてもらったが、どう見てもネガに付いた汚れや傷なんかではなく、被写体として各コマに写りこんでいた。

「私、気味が悪くて、、、でも、みんなを不安がらせたくなかったから公演が終るまで黙ってたんです」とMちゃん。
PR写真は、その白い玉が写ってないのを選んで焼増しして送ったという。

結局あの白い玉がなんだったのか、特に誰かに聞くこともなく、この件は終ってしまったが、カメラのシャッターを切った私には、あの時なにも見えてなかったのである。しかし、あがってきた写真には、沢山の、沢山の白い玉がふわふわと飛んでいたのだ。

エピソード3

「月光シアター」も、もうその末期近く、北村想の『こんな宿屋』という作品を上演することになった。

この芝居、昭和もまだ貧しかった頃の貧乏長屋が舞台で、そのイメージをつかむために、また宣伝用の写真撮影のために、私がロケハンしてきて見つけた、筑豊の炭住に劇団員で行くことになった。

もうすでに筑豊地区に残る炭住(炭鉱労働者のための長屋)はほとんど無くなって、きれいな町営団地になってしまっていたが、まだ数カ所だけには残されていたのだ。そこは、回りを取り壊された炭住の瓦礫に囲まれた中、一棟だけが残り、そこには一家族が暮らしていた。事情を話し、そこの家に上げてもらって、家の作りを聞いたり見たりしたことが、舞台美術には本当に参考になった。

また撮影中に、娘の結婚を前に故郷の訪問にやって来た、そこの炭住出身者の家族とも出会い、いろいろな話を聞くことができた。

そんなこんなで迎えた公演当日。私は音効スタッフとして、客席後方にしつらえたブースでテープデッキとミキサーを操っていた。この芝居、全編通して降り続く雨と、時折鳴る雷、あとは音楽が少々という地味な音効設定で、それだけに逆に難しく、雨にしろ、ずっと降らせっぱなしでは逆に意味がなく、いかに聞かせどころで流すかがポイントであり、あとは役者たちが間を作り出していきながら、寂寥感を見せていくのである。

当然、余計な物音なんかは、いつにも増してタブーだった。ところが、その日の本番中、上手の袖から誰かのクスクス笑う声がはっきりと聞こえてきたのだ。

舞台はテンポよく、中盤の見せ場に突入したところ。ほとんどの役者が舞台の上にいる。どうやら、控えているスタッフの誰かだろう。本番終了後のその日の反省タイムに、私はこのことを取り上げ、誰が笑ったのかと詰問した。

ところが、その笑い声が聞こえたシーンで、その上手の袖にはスタッフは誰も待機してなかったのだ。下手と舞台裏にはいた。しかし、上手にはスタッフもキャストも誰もいない。しかも、その笑い声が聞こえたのは、ブースにいた私ともう一人の照明スタッフ、そして演出だけで、一番近いところにいたキャストにも、控えのスタッフにも誰も聞こえていなかったのだった。

みんな、またかというような顔をしていた。私は、もしかしたら、炭住跡から我々が何者かを連れて帰ってきてしまったのかもしれないと思い当たったのだった。

我々の芝居には、もはや付き物といってもいいようなこの種のエピソードは、私が知らないところでそれぞれの劇団員が体験したものが、さらに数多くあるようだ。しかし、すでに私は劇団を去り、「月光シアター」も再開発工事に伴い取り壊された。劇団K工房は別の場所に事務所を移転し、公演会場探しに苦労しながらも若い世代が頑張って芝居作りをしてくれている。今のK工房がこの類いの出来事に遭遇しているかどうか、残念ながら寡聞にして知らない。

ミステリーゾーン目次へ

次の話へ