第壱話
野辺の送り

 両脇にだんだんと山が迫ってくる。俺は、杉や檜の林の中を抜けていく薄暗い山道を歩いていた。道の傍らには、ささらさらと清流が流れていたのに、いつのまにか川は視界から消えてはるか下を流れ、どろどろろんと瀑布のあることを暗示する低い音を轟かせている。


 ふと、腹が減っていることに気づいた。どれくらい飯を喰ってないのか。記憶は定かではない。たしか今朝、村のはずれのお堂で目を覚ましたあと、手水鉢の水とお供えの饅頭で腹を満たしたような。いやあれはもう、昨日か一昨日のことだったか。


 ぐるぐると情け容赦もなく俺の空きっ腹が鳴きやがる。たったひとつの荷物の頭陀袋の中にも、干し飯や干し芋のひとかけらも転がってはいない。ましてや銭も。まあ、銭をそこそこ持っていたって、こんな山賊も出ないような寂しい山の中、茶店どころか芋汁や稗飯を乞うべき樵や猟師の小屋の一軒も見つからない。
 今は春かそれとも秋なのか。なにか腹を満たせるような木の実でもなってやしないか。ぐるりを見渡し、ついでに頭の上も見透かしてみたが、色付いたもののひとたりもありゃあしない。


 空きっ腹を抱えたまま、下からはどろどろろん、中からはぐるぐるるん、バスとバリトンの男性低音2部合唱を道連れに、しかたなく俺はまた歩きだした。
 ちくしょう、烏の一羽も鳴きゃしない。なんて寂しい山道なんだ。登ったり降りたり、登ったり降りたり、見通しのきかない山道はうねうねと、ただひたすら無駄に長い。


 するといきなり一陣の突風が吹き抜けた。顔を上げると山道は終わり、目の前に山里が開けているではないか。十数軒のこぢんまりした家々が、丁寧に積まれた石垣の上に段々と並び、戸口からは煮炊きする煙も上がっている。


 助かった。でも、ここはどこだ。こんな村のあることなど、俺は聞かされてなかったし、道はずっと一本道、途中で間違えたはずもない。おまけに、道はどうやらこの村のはずれで行き止まりのようではないか。


 まさかここが俺の目的地だとでもいうのか。そんなことはあるまい。だって、俺の目指している土地は、国は、あれっ、なんてところだったっけ。どんな名前だったっけ。馬鹿な、忘れようったって忘れられないはずの、俺の、約束の土地は。


 俺は家々を訊ねて廻った。だが、どの家にも人がいない。かまどの灰は温かいし、鍋がくつくつ煮えてる家もある、飯椀が流し場に置きっぱなしの家だってあるじゃないか。


 俺は村の道の真ん中に立ち尽くした。いつの間にかお天道さまが頭の真上でじりじりと俺の影を地面に焼き付けようとしている。わんわんと耳元で油蝉の大軍が飛び回っているかのような音が聞こえて俺は汗をだらだら流しながらじっと足もとの地べたを蝉の羽根を運んでいく蟻たちの行列を見ている。そこから目を離したいのに周りの景色を確かめたいのに金縛りにでもあったかのように自分の体が自分の意志では動かせない。時間が停まって風も吹かない村の昼下がりに俺は蝉の大合唱を聞きながらこのまま立ち腐れていくのか。
 
 カーン。

 どこからか澄んだ鉦の音がして、俺は呪縛から解き放たれた。
 見れば、村の一番高い所にある朽ちかけた寺から、棺桶を担ぐ男たちを先頭に、葬式の行列がやって来るのだ。


 ははあそれで、俺はひとりごちた。道理でどの家にも誰もいないはずだ。葬式だもの。


 行列は静かに近づいてくる。本人が棺桶に片足突っ込んでいるようなよれよれの坊さんに、村の男たち女たち子どもたち。誰もが無表情だ。その中に一人だけ体中悲しみでいっぱいにしている女、まだそう老けてはいない、幼子のひとりふたりいそうな冷えた顔こそ、どうやらこの葬列の喪主らしい。さてはこの女のご亭主が、まだ若くして亡くなったか。


 なむあみだぶなむあみだぶ、近づいてくる行列に思わず手を合わせながら、若後家の横顔を盗み見て、俺は驚いた。この女、確かに見覚えある。あるどころじゃない、この旅に出る1年前、故郷で別れを告げた俺の女房じゃあないか。


 よく似た女もいるもんだと、冷静に行列をやり過ごそうと道の脇によけた。すると女は俺の目の前を通りすぎる時、俺の目を覗き込むのだ。そして片方の唇に懐かしむような哀れむような、いやたぶん蔑むような薄笑いをいっとき浮かべ、そしてすぐ前を向いてそのまま歩いていく。俺は思わずつられて足を踏みだしてしまった。


 行列はゆっくりと村のはずれを目指していく。どうやらそこが墓場らしい。俺は行列のいちばん後ろを付いていく。念仏と鉦の音、線香の匂い。しばらく歩いて行列は静かに歩みを止める。すでに葬る穴は掘られている。墓守らしい男が棺桶の蓋を取り、皆に最後の別れをと言う。村人それぞれが棺の中の男に別れを告げる。女が最後に男に別れを告げようと向かいに立つ。その時。


 女が俺の目を見つめる。俺はいつの間にか棺桶の間近まで来ている。見ちゃあいけない、仏の顔を見ちゃあいけない。 俺は右手に大ぶりの石をつかみ、一心不乱で棺桶に釘を打ち付けていた。あたりには知らずに夕方の気配が立ちこめ、赤とんぼの群れが飛び回っていた。村人たちはいなくなり、もちろん女も。


 俺は放心したように棺桶に土をかける。古ぼけた寺の鐘が、この時とばかりに鳴り響く。


 ゴーオォウゥウウーーーン。

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