第弐話
浅海に暮らす

 そこは、どこまで行っても腰までの深さしかない浅海だった。海の向こうはいつも色とりどりの雲に覆われ、岸辺はずっと真っすぐに続いて、いつのまにか霞んで消えていくのだった。


 私はその薄緑色の浅海の一角に座礁した、一隻の鋼鉄の船に暮らしていた。もちろん、独りで。いつからここにいるのか、前はどこにいたのか。思い出しもしなかった。このあと、どこに行くのかさえも。


 ただ、毎日目を覚ますと海に入り、船のまわりに張り巡らせた網を確かめる。ごく単純な刺し網の一種なのだが、海草が絡みつき、銀色の鱗をしたすばしっこい魚が引っかかり、独り分の食い扶持くらいは獲れるのだ。水は大きなシーツを広げておけば、夜の間に露が一面に着き、日差しが強くならないうちにそれをガラス瓶に集めておく。


 簡単な食事をすませたあとは、日によっていろんなことをする。ゆっくりと水に浮かんで空を眺めていたり、海岸に打ち上げられる雑多なガラクタを拾い集めたり。時には船のマストによじ上って水平線の彼方を見渡したり。


 でも、もうずいぶん長いこと船影を見てはいない。見渡すかぎりの海原の上には、煙ひとつたなびいていない。ただ、ときおり海鳥たちが海の向こうから飛んでくるだけ。


 浜辺に流れ着くものには、実にいろんなものがある。貝殻や海草、魚なんぞは極く当たり前すぎて言う気にもならない。そんな自然界のものよりも、人間の手になるもののほうがはるかに多いのだ。


 最初の頃は割れた板や壊れた家具、上等な食器や衣服の切れ端が目についた。やがてそれらも、砂に埋もれたり日に灼かれたりして風化していく頃になると、次はどす黒い油の塊や、何の一部だかよくわからないが、金属の破片が流れつくようになった。


 そのうちそれも少なくなっていき、今ではたまに合成樹脂でできた漁具や意味のわからない言葉が書かれたどこかの国の食品の空き袋があるくらいになってしまった。


 そんなある日、海の向こうが暗く曇った。ずいぶん広い範囲が、廃油を燃やした時の煙のように黒く塗りつぶされている。雷でも鳴っているのか、稲妻のような閃光と地響きのような鳴動が頻りにしている。


 それは三日と二晩続いた。そしてやがて突然静かになったのだった。海の向こうの雲は次第に薄れていった。ちょうどそれから一週間あと、そいつは私の視界に入ってきたのだ。


 いつものように船のマストに上り、百八十度見回して洋上を眺める。相変わらず島影のひとつもありゃしない。キャビンに戻って今朝捕まえた小アジでも食べようか、そう思ってデッキに下りかけた時、なにかが目の端に引っ掛かった。


 最初は網膜の上のゴミかと思うくらいに、それはかすかな海の上の小さな点だった。流木かなにかだろ、そう判断してマストから下りたのだが、午後のあいだ中、そのことが気にかかってしょうがなかった。しかたなく、自分の疑いを確かめるために、夕方もう一度マストに上って、その黒い点の見えた西の海を探したのだ。


 その小さな黒い点は、昼間見たときよりかなり大きな、細長い物体となって、やや西南西に位置をずらしながら海の上を漂っている。目をこらして見つめていると、どうやらそれは金属でできたカプセルのようなものらしい。逆光でよくわからないが、波間に揺れながら時折西日を受けてキラリと反射している。そのままだと、海流が変わらないかぎり、まちがいなく明日中にはこの浜辺へ流れつくだろう。


 その晩はなかなか眠りにつけなかった。いつもは子守歌がわりになってくれる潮騒も、今夜はなぜだか心を騒がせるばかり。夜半を過ぎて浮かんできた半分の月を、ぼんやり見上げながら寝返りをうつことしかできない。


 ようやくウトウトできたのは、どうやらもう明け方近くのことだったらしい。窓から差し込む眩しい日の光とウミネコたちの喧しく騒ぐ声に起こされたのだ。


 しまった、寝過ごした。朝の網を揚げるのを忘れていた。慌てて飛び起きて網を揚げにいったが、潮が引いて半分以上露出した網は、はたしてほとんどの獲物をウミネコたちに食われてしまっていた。


 ふと思い出して目を上げた。西の海の方向を見た。銀色の小舟ほどの大きさのカプセルが、ここから2、3キロほどのところにあった。予想以上に潮の流れが速いらしい。このぶんだと、どうやら昼過ぎにはそこらの岸に漂着しそうだ。


 そのままずっと、私は日に晒された海岸に座り込んで、だんだんと近づいてくるカプセルを見つめていた。太陽が5度ほど動いた。真昼の光に照らされた物体は、ギラギラと妖しく輝きながらやって来る。またさらに太陽が5度傾いた。もう手を伸ばせば届くようなところにまで来ている。あんまり見つめ過ぎて、私の網膜にはカプセルのシルエットがネガのように反転して焼付けられてしまったのだろう、目を瞑ってもありありと残像が浮かんでくる。


 やがて最後の波の一押しが、銀色の小舟を柔らかく砂浜に着地させた。私は引き寄せられたように近寄っていく。カプセルには透明の小窓がひとつ。恐る恐る中をのぞき込む。人がいる。


 死んでいるのか眠っているのか、血の気の感じられない白い顔で、唇も目も閉じている。ただ、中で何かの機械が作動しているのだろう。低くブーンという音がしている。髪はふんわりとした栗毛で、歳はおそらく十代の後半。ただ、性別も国籍も判別できない。


 太陽は西にようやく45度の角度を作り、私とカプセルの長い影を砂浜に伸ばし始める。中から聞こえていた低周波がいきなり途絶えた。すると今度は耳の中で昆虫が羽ばたいているような甲高い金属音が断続的に響いてくる。小窓の中の顔に、うっすらと赤みがさしてきた。そうして、ゆっくりとカプセルがまっぷたつに開いていく。私は立ち尽くし、じっと見守ることしかできなかったのだ。

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