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書評
英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があると、英和辞典を引きたくなる。英語で書くとき、話すときに分からない言葉があると、和英辞典を引きたくなる。当たり前ではないかと思われるかもしれないが、英語の辞書の専門家の間では、当たり前ではないようだ。
あらためてそう思ったのは、1998年になって発売された『ジーニアス和英辞典』をじっくり読んでみたからである。
これを買ったのは、「和英辞典に英和辞典を組み込んだハイブリッド方式」の画期的な辞書だという宣伝文句に興味をひかれたからだ。「和英辞典に英和辞典を組み込む」というのはどういう意味なのか。なぜそうする必要があり、そうすればどういう利点があるのか。
まともな和英辞典がないことは、たぶん周知の事実だろう。英語で書くとき、どう表現していいかに困って和英辞典を引いても、答えがほとんど得られない。その点、英和辞典は、大きな不満がさまざまあるが、はじめて見た単語、意味の分からない単語にぶつかって引いたとき、いちおうの答えらしきものが書いてあることが多い。したがって、英和辞典と和英辞典では、完成度に天と地ほどの違いがあるといえる。英語で書いたり話したりする機会が多くなっている現在、ほんとうに「画期的な和英辞典」が誕生すれば、すばらしいことである。宣伝文句が正しいのかどうか、確認してみる価値はあるはずだ。
3250円+消費税の『ジーニアス和英辞典』を買って、じっくり読んでみて、期待は失望に変わった。この辞書は要するに、英和辞典のCD-ROM版を、あいうえお順の訳語で引けるようにした物にすぎない。
この程度の思いつきで「画期的」というのは奇妙だと思えるが、ほんとうに奇妙なのは、こう思いつく背景にある基本的な考え方である。英和辞典の訳語を見出し語にしてあいうえお順に並べれば和英辞典になると考えるのは、英和辞典が、「英語で読んだり聞いたりしていて分からない言葉があったときに引く辞書」にはなっていないからである。
何年かまえに、ある英和辞典の「欠陥」を指摘する本が話題になった。この本の趣旨はきわめて明快である。その英和辞典に掲げられている用例を「ネイティブ」に見てもらったら、「こんな表現は使わない」というものがたくさんあった。だから、この辞書はでたらめだというわけである(ちなみに「ネイティブ」というのは、英語を母語とする人のことだが、実際にははるばる日本に流れ着いてきた流れ者にすぎない場合も少なくない)。
この本を読んで、なんと奇妙な論理だと首をひねったことを覚えている。
第1に、わたしは生まれてこのかた、日本語を使ってきた「日本語のネイティブ」だが、国語辞典の用例をみて、見慣れない表現があったとき、「こんな表現は使わない」と断言したりはしない。まずは、自分が知らない表現がこんなにあるのだと思う。英語の「ネイティブ」だって事情は変わらないはずだ。知らない表現がたくさんあっても、不思議でもなんでもない。ひとくちに「ネイティブ」といっても、出身国、出身地域、出身階層、受けた教育、仕事の種類、興味の範囲などによって、使う表現、知っている表現にかなりのばらつきがあるのが当然である。自分が知らないものは間違っていると断言できるはずがない。
第2に、たしかに用例に「間違い」があったとして、それででたらめな辞書だといえるのだろうか。英和辞典を引くのは、英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があった場合である。実際に読む英語、聞く英語は、「正しい」英語とはかぎらない。
簡単な例をあげよう。ASEAN(東南アジア諸国連合)という言葉は、『世界年鑑』ではAssociation of South-East Asian Nationsの略語とされているが、「ネイティブ」が書いた文章を読んでいくと、South-EastがSoutheastになっていたり、South Eastになっていたりするものがかなり多い(英和辞典を引いても、表記にばらつきがある)。略語の方でも、ASEAN以外に、A.S.E.A.N.やAseanという表記も使われている。英語で読むときには、どの表記がでてきても、「東南アジア諸国連合」を意味していることを理解しておく必要がある。
英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があった場合に頼るものという英和辞典の性格を考えるなら、「正しい英語」だけが掲載されている辞書は困りものだとすら言える。まして、英語という言葉はいまや、国際的なコミュニケーションのための手段になっていて、「ネイティブ」が使う表現だけが正しいとはいえなくなっている。「ネイティブ」の間ですら言葉がまともに通じない場合もあるし、「ネイティブ」ではない日本人や東南アジア各国の人たちや、欧州大陸の人たちが書いたり、話したりしているものも「英語」なのである。2人や3人の「ネイティブ」が「こんな表現は使わない」と言った用例があるからといって、英和辞典がでたらめだとはいえないはずである。
第3に、英和辞典で「正しい」言葉や表現が重要だすれば、英語より日本語の方ではないかと思える。たとえば、上記のASEANの例で、「南東アジア諸国連合」という訳語がでている英和辞典がもしあったとしたら、それこそでたらめである。一般論としてこういうことを言うのは危険ではあるが、日本語の方が英語にくらべて、表現のばらつきの許容範囲が狭いように思える。A.S.E.A.N.やAseanが英語で許容範囲内だとしても、「南東アジア」は日本語で許容範囲内だとはいえない。英和辞典を使うとき、英語で情報を吸収し、その結果を日本語で発信することが多いので、「正しい」日本語が使われていることを期待したい。
要するに、英和辞典が「英語で読んだり聞いたりしていて分からない言葉があったときに引く辞書」として有益なものになるためには、こうあってほしい。第1に、英語の部分では、なんらかの基準(たとえば、ウェブスターなどの辞書や、「ネイティブ」の判断)で「正しい」とはされなくても、実際にかなり使われている言葉や表現は取り上げてほしい。第2に、訳語などで使われる日本語はなんらかの基準で「正しい」とされるものにしてほしい(和英辞典ではこれが逆になる。日本語の部分は少々奇妙な言葉や表現でも採用し、英語はしっかりした基準に基づいて、「正しい」とされるものにしてほしい)。
ところが、英和辞典の「間違い」とか「欠陥」とかが指摘されるとき、話題になるのはつねに英語の「間違い」であって、日本語の「間違い」ではない。これは奇妙なことではないだろうか。
これも何年かまえ、研究社が『新編英和活用大辞典』を出版した。この辞書の広告を新聞でみて、仰天した。「英語らしい英語、自然な英語を書くための必須の道具」だとされていたからだ。この辞書のもとになった勝俣銓吉郎編『新英和活用大辞典』はすばらしい辞書であり、日本には珍しい「本物の」英語辞書だと思うが、その改訂版がなぜ、「英語らしい英語、自然な英語を書くため」のものなのか。英語で書くための辞書なら、和英辞典として編集すべきではないだろうか。
『ジーニアス和英辞典』を読んでいて、何年かまえのこれらのことを思い出していた。とくに、英和辞典の「欠陥」を指摘した本で、『ジーニアス英和辞典』が「欠陥」の少ない辞書として推奨されていたのを思い出した(『ジーニアス英和辞典』が売れているのは、この本の影響もあるはずである)。
『ジーニアス和英辞典』の「ハイブリッド方式」がどのようなものであるか、例をみてみよう。たとえば、「など」という項目を引くと、以下のように書かれている。
など[等]
(1)[例示][……なんか,……でも]
and so on [forth] ……など(◆人には and others などを用いる) tea, sugar, salt, and so on お茶・砂糖・塩など.
etc., etc, &c. ……など,その他 (中略)
and (all) the like [rest] (略式) および同種[同類]のもの, など.
A such as B A例えばB They export a lot of fruit, such as oranges, and lemons. 彼らはオレンジ, レモンなどたくさんの果物を輸出する. (後略)
ご覧の通り、英和辞典のCD-ROMで訳語を検索したときの結果と同じものがでている。日本語の「……など」に近い英語として、いちばん使いやすいのはたぶん、includingだと思うが、英和辞典のincludeやincludingの項には「……など」という訳語はでていないので、「ハイブリッド方式」の和英でも当然、でてこない。
編集者はなぜ「和英辞典に英和辞典を組み込んだハイブリッド方式」を採用しようと考えたのか。『ジーニアス英和辞典』と『ジーニアス和英辞典』を比較してみると、理由がわかってくるような気がする。
『ジーニアス英和辞典』などの最新の英和辞典の特徴は、「発信型」であることだという。英語での情報発信を支援するために、英語の単語について、どのような文型でどのように使われるかがかなり詳しく書かれている。言い換えれば、この辞書は「英和」と銘打たれているが、素人が考えるような「英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があった場合に引く辞書」ではない。英語の正しい使い方を示した辞書なのである。
買い手であり使い手である一般の人は「英語で読むとき、聞くときに分からない言葉があった場合に引く辞書」を求めているはずである。ところが英語学の専門家は、「英語の正しい使い方を示した辞書」として英和辞典を編集している。この違いは微妙だが、無視できないものである。
ではなぜ、英和辞典は「英語の正しい使い方を示した辞書」として編集されているのか。この理由はじつはきわめて単純なように思える。英和辞典が英英辞典を下敷きにして編集されているからなのだ。英英辞典は、日本語でいえば国語辞典にあたるので、英語の規範を示す役割を担っている。実際の用例ではさまざまにばらつきがある綴りや用法、意味などのなかで、「正しい」綴り、用法、意味を示すのが、英英辞典の重要な役割になっている。それを下敷きにして英和辞典を作るのだから、「英語の正しい使い方を示した辞書」になるのは当然である。
英英辞典はどのようにして作られるのか。まず、生の英語を大量に集める。書籍、新聞・雑誌などの文章はもちろん、会話などで使われる話し言葉も大量に集める。つぎに、生の英語から用例集を作る。生の英語を文か段落を単位に分割し、それに見出し語を付けたものが用例集であり、通常、「コーパス」と呼ばれる。このコーパスが英英辞典の基礎資料であり、これに基づいて、綴り、語義、用法、用例などを確定していく。
英英辞典がこのような過程を経て編集されるのであれば、英和辞典の編集にあたってどのような過程を経るべきかは明らかなようにも思える。まず、生の英語と生の日本語(できれば、両者が対になっているもの)を大量に集め、つぎに、英和のコーパスを作り、それを基礎資料に執筆するという順序になるはずである。
しかし、実際には、そのような過程を経て編集される英和辞典はめったにない(めずらしい例外に上述の勝俣銓吉郎編『新英和活用大辞典』がある)。ほとんどの英和辞典は、生の英語と生の日本語を集める過程も、コーパスを作る過程も経ず、英英辞典を出発点にして編集される。それ以前に出版された英和辞典を参考に、英英辞典にある語義の部分を日本語の訳語に置き換えれば、それで英和辞典ができあがる仕組みになっている。英英辞典の下手くそな訳が英和辞典なのであり、その結果、たいていの英和辞典は、生の英語とも生の日本語とも接点がなくなっている。たとえば、生の英語、生の日本語をよく読んでいけば、includeと「含む」では意味が大きく違うことも、includingの訳語としては「……を含む」よりも「……など」の方がふさわしいことも、すぐに分かるのではないだろうか(『翻訳通信』の創刊号でincludeと「含む」の違いを分析してある)。
英和辞典は、使い手がどう要求しようと、英英辞典を下敷きに「英語の正しい使い方を示した辞書」として編集される。どうせ英英辞典を訳して作るのであれば、語義をそのまま訳してくれれば助かるのに、そうはせず、語義をすべて削って、訳語を並べる。英和辞典の編集者は英語の専門家であって、日本語にはそれほど興味をもっていないので、訳語として掲げられている日本語にかなり怪しい語が混じっても気にしない。
和英辞典は通常、英和辞典の裏返しとして作られる。英和辞典の訳語を見出し語にすると、和英辞典になる。つまり、英和辞典から単語カードを大量に作って、あいうえお順に並べ替えれば和英辞典になる。
『ジーニアス和英辞典』はさすがに、コンピューター時代の産物だけあって、単語カードではなく、コンピューターを使った。その点はたしかに新趣向だが、それだけのことだ。
英和辞典にしろ、和英辞典にしろ、英英辞典とはまったく違ったものでなければならないはずである。英英辞典なら、英語というひとつの言語の世界のなかで編集していける。これに対して英和辞典と和英辞典の場合には、日本語と英語という2つの言語がからんでくる。この場合、日本語という色眼鏡でみたときに英語がどう見えるのか、英語という色眼鏡でみたときに日本語がどう見えるのか、という視点が不可欠になるはずである。こういう観点に立つとき、たとえば和英辞典なら、「……した」と「……してしまった」の違い、「……だ」と「……なのだ」の違いをどう訳しわけるかが重要になる。英和辞典なら、英語のincludeと日本語の「含む」のように、一見意味が似ていると思える語の組み合わせで、意味範囲の微妙な違いを明らかにしていくことが重要になる。英和でも和英でも、英語と日本語で品詞の使い方が微妙に違う点(たとえば、英語の副詞を日本語では副詞や連用形では表現できない場合が少なくない点)に気配りしてほしい。
『ジーニアス和英辞典』は、こういう辞書にはなっていない。生の英語と生の日本語から離れたところに、倒錯した辞書の世界を築き上げた結果にすぎない。辞書という不思議の国では目新しいかもしれないが、英語の辞典に対して普通の人がもつごく当たり前の要求を満たしているとは思えない。
(山岡)
英和コーパス形容詞・副詞編
CERTAINLY - 確かに、間違いなくでいいのか
おかしなことだ。敵は最初の奇襲の利を存分にもちいて、不具のユリシーズに集中攻撃をかけるのが当然のはずだが、とヴァレリーはぼんやりいぶかった。現にゴンドルの搭乗員たちは、最後まで勇気を欠いたようすは見せなかったではないか……
Strange, Vallery thought vaguely, one would have expected them to hammer home their initial advantage of surprise, to concentrate on the crippled Ulysses: certainly, thus far the Condor crews had shown no lack of courage ...
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』357ページ
英和辞典では、certainlyには「確かに」、「間違いなく」、「承知しました」などの訳語があてられている。こうした訳語が確かに使える場面もあるだろうが、違った訳語が必要な場合も間違いなくある。返答の際にも、「承知しました」が使える場面は、かなり限定される。
翻訳にあたっては、文脈に合わせて、言葉を使い分けるのが腕の見せ所であり、英和辞典に掲げられている訳語をそのまま使うのは、三流の証だといえる。用例5万、見出し語(訳語)17万のデータベースから、参考になりそうな訳語を紹介していこう。
とくに注目していいのは、「間違いない」や「いうまでもない」など、形容詞か形容詞句で訳されているケースである。英語の原文で副詞だからといって、日本語の訳文が副詞でなければならないわけではない(日本語の原文を英語に訳すときにも同じことがいえる)。英語と日本語は構造が違うのだから、これはあたりまえのことである。
そりゃあたりまえのこったろう。
Certainly.
野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』225頁
どうせろくでもない代物だろうと思いながら僕は番組にチャンネルを合わせた。見てみると案の定--どころか、少なくとも僕にとってはまさに怒り心頭に発するひどいしろものだった。
I tuned in the program, expecting something tasteless, and what I saw was certainly that--indeed, it was (at least for me) flat-out enraging.
村上春樹訳『心臓を貫かれて』553頁
今回の事件が将軍夫妻にとって悲劇であることはいうまでもないが、・・・
This is certainly a tragedy for the general and Mrs. Campbell.
上田公子訳『将軍の娘』132頁
しかし、いかにも、大げさすぎる。
But certainly the statement was an exaggeration.
安部公房訳『第四間氷期』9頁
かしこまりました
Certainly, sir
永井淳訳『100万ドルを取り返せ』173頁
飯はやがて腐るに決っています。
After a while the rice would certainly rot.
三島由紀夫著『奔馬』195頁
悲壮な気持ちというものは決して永つづきのするものではありませんから、今は平常心が大切なときです。
Since tragic feelings are certainly not of long duration, what is important now is to remain calm.
三島由紀夫著『奔馬』364頁
あの人、しっかりメッセージを受け取っていたわ
He certainly got the message!
芝山幹郎訳『遠くからきた大リーガー』259頁
その気持ちは充分理解できる--清潔できちんとした青年将校が、それほど清潔でない町の男、悪党タイプのお巡りと将軍の娘を共有しなければならなかったとは。
I could certainly understand this - a clean-cut young officer having to share his boss's daughter with a less-than-clean-cut townie, a sort of bad-boy cop.
上田公子訳『将軍の娘』303頁
「わたしは大統領を知っているので、よくわかるんだが、もし大統領にこういうことをやる必要が生ずれば、お粗末な結果になるような仕事はぜったいにしないだろうね」と元官吏は言うのだった。
'I know the President well enough to know if he needed something like this done it certainly wouldn't be a shoddy job,' said the former official.
常盤新平訳『大統領の陰謀』32頁
「そう」と言った。
'Certainly,' he said.
上田公子訳『立証責任』191頁
なるほど大物にちがいない
...then he is certainly a man of influence.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』471頁
はっきりいえることは、カーラに考えるいとまをほとんどあたえなかったことである。
Certainly he gave Karla very little time to make up his mind.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』504頁
ハリーがなにに金を使っているのか、だれも知らなかった--家の維持にでないことだけははっきりしている。
What Harry spent the money on was anybody's guess--certainly not the upkeep of the house.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』396頁
恐怖が脅迫成功のために欠かせぬ要素だとすれば、グリゴーリエーヴァはまさしくおそれねばならぬ存在であった。
If fear was the essential concomitant of a successful burn, Grigorieva was certainly someone to be afraid of.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』426頁
対戦者はどちらも若く、ひげをのばし、屈託がない--芸術家の卵でないにしても、そう思われたがっていることは間違いない。
The players were young and bearded and volatile--if not art students, then certainly they wished to be taken for them.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』446頁
むろん、アン・キャンベルがいるはずはないし、将軍の娘が男性の愛人と同棲していたとは考えられない。プライバシーの妨げになる女性のルームメイトさえいないだろう。
Certainly, Ann Campbell was not home, and I couldn't imagine a general's daughter having a live-in male lover, or even a female roommate, who would compromise her privacy.
上田公子訳『将軍の娘』40頁
あいつは、何かと言うと「モチさ」って答えるんだな。
He was always saying "Certainly."
野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』221頁
もちろん、スターン自身がウェストラブに--それがどこにあるにせよ--行くこともできる。
He certainly could venture to Westlab himself -- wherever it might be.
上田公子訳『立証責任』186頁
もっとも幾つかの細かい症例は明らかになった。
Certainly they shed light on a number of specific symptoms.
村上春樹著『羊をめぐる冒険』182頁
スタンフォードのハッカーはまったくの別人だ。
Stanford's hacker was certainly a different guy.
池央耿訳『カッコウはコンピュータに卵を産む』281頁
数千尺の山稜のうえでの仮睡にくらべればよほど楽であったし、高校生が夏でもかついであるくマントというものは、こういうときに極めて重宝なものであった。
It was certainly more comfortable than sleeping on a mountain ridge thousands of feet up, and the cloak that high-school students wore in those days (even in summer) was a real blessing.
北杜夫著『幽霊』191頁
正直にいうが、私は自分のことを美人だなどとはこれぽっちも考えていなかった。
I certainly didn't consider myself a beauty.
芝山幹郎訳『キャサリン・ヘプバーン自伝』92頁
「先生は癇性ですね」とかって奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。
"Sensei is rather fastidious, isn't he?" I once said to his wife. "Perhaps so," she said. "But when it comes to clothes, he certainly is not overcareful."
夏目漱石著『こころ』85頁
私は無論解ったとはいえません。
I certainly did not know.
夏目漱石著『こころ』187頁
私だって、べつに、投げているわけじゃないさ
I certainly don't want to give it up.
安部公房著『第四間氷期』80頁
あのホテルは世界でも最高級という評判で、ホテル代もえらく高いかわりに、カジノのすぐそばにある。
The hotel is reputed to be one of the best in the world - it's certainly expensive enough - but it's convenient for the Casino.
永井淳訳『100万ドルを取り返せ』187頁
風雨激しく不吉の色濃い午前なかば--うそではない--わたしはいまもいったとおり、まだ生まれ出ぬ亡霊で、発注もまだ、配達もまだ、いわんや支払はまだという代物だ。
A swirling, sopping doom-laden midmorning, take my word for it, and myself, as I say, an unborn ghost, not ordered, not delivered and certainly not paid for:...
村上博基訳『パーフェクト・スパ』29頁
絶滅の恐れがある生き物ということなら、わたしは充分に資格がある。
I certainly qualify as a one-of-a-kind endangered species.
池央耿訳『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』227頁
呼んだとも
I certainly did.
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』300頁
見たいものだ
I certainly do!
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』323頁
今の青年の貴方がたから見たらなおそう見えるでしょう。
It must certainly seem so to a modern young man like yourself.
夏目漱石著『こころ』174頁
■ --
品子は今まで、猫は愚か人間に対しても、こんなにこまやかな情愛を感じたこともなく、示したこともないような気がした。
Shinako knew that she'd never felt or shown such tender affection toward anyone till now--not to a human being, and certainly not to a cat.
谷崎潤一郎著『猫と庄造と二人のおんな』85頁
昔のお家のこと、よく憶えていらっしゃいますこと。あなたはこんなに小っちゃかったのに……
You certainly seem to remember your old home very well, though, considering how small you were at the time.
北杜夫著『幽霊』206頁
英和コーパス形容詞・副詞編
CLEARLY - ぼかしてもはっきりするのが日本語
ゴーントがにっこりした。心からうれしそうな顔でポリーにほほえみかけた。
He smiled at her, clearly delighted.
芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』58頁
英和辞典を信じるなら、clearlyは「はっきり」、「明瞭に」か「明るく」であり、delightedは「喜びに満ちた」「喜んでいる」だから、clearly delightedは「はっきりと喜んで」でいいように思える。しかし、日本語では他人の心理状態は直接には表現しないのが通常だ。このため、「喜んで」ではなく、「うれしそうな顔で」という言葉が選ばれている。そうなると、「はっきりとうれしそうな顔で」にはなりえなくなり、「心からうれしそうな顔で」になったのだろう。
同様のことが、「さだめし〜に違いない」、「どうみても」、「どうやら」、「みたいだ」、「見るからに」という訳語にもいえる。一見すると、英語の断定的な表現が日本語ではぼかされているように思えるが、じつはそうではない。日本語の性格を考えれば、英語のclearlyとかわらぬほど、はっきりした表現になっている。
頼木はこうした委員会のやりかたに、はじめからあからさまな反対の態度を示した。
From the beginning Tanomogi demonstrated a clearly antagonistic attitude to the way the meeting went.
安部公房著『第四間氷期』22頁
しかし、何ら暗殺をあからさまに提示するものはなかった。
Still, there was nothing in it that clearly indicated assassination.
三島由紀夫著『奔馬』379頁
私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚しい父と母の前に黙然としていた。
I decided to say nothing, rather than try to explain to them clearly what my feelings were. The gulf between us was too great.
夏目漱石著『こころ』111頁
一見、変わった様子はない。しかしあきらかにゆがんでいる。右手にくらべて左手のゆがみがやや大きい。
There was nothing freakish about them, but they were clearly misshapen, the left a little more than the right.
芝山幹郎著『ニードフル・シングス』57頁
それまではいつも、ふと偲んでみるときなど、赤ん坊の顔に見たグリクマンの面立ちを、長じつつある娘の顔にありありと思いえがいたものだった。
Always, till then, whenever she had dared to wonder, she had imagined Glikman's features as clearly written on the growing child as they had been on the new-born baby.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』27頁
言うまでもなく、彼女は謎というものの効果を承知していた。
Clearly, she was a woman who knew the effective force of mystery.
村上春樹訳『心臓を貫かれて』120頁
そこには、めちゃめちゃにひんまがった異様な鉄塊がひとかたまりあるだけで、ふだん艦橋からは見えない三番砲塔が、これはどうやら無傷らしく、むこう側にくっきりと見えた。
In its place was a crazy mass of jumbled twisted steel, with 'X' turret, normally invisible from the bridge, showing up clearly beyond, apparently unharmed.
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』246頁
チェルトナム・ゴールド・カップ、あるいはケンタッキー・ダービーのボニュー版といったところで、さだめし賑やかな行事に違いない。
It was clearly going to be a sporting event of some magnitude, Bonnieux's answer to the Cheltenham Gold Cup or the Kentucky Derby.
池央耿訳『南仏プロヴァンスの12か月』194頁
それはそうだ・・・わたしはおそらくちゃんと考えていなかったのだろう。
That's true ... I suppose I wasn't thinking very clearly.
上田公子訳『将軍の娘』234頁
当然ながらワインの値は上がり、葡萄畑の持主の収益も増える。
Clearly, said Faustin, the wine would become more expensive and vineyard-owners would make more money.
池央耿訳『南仏プロヴァンスの12か月』65頁
これは、どうみても例外的な関係だった。
Theirs was clearly a special relationship;
常盤新平訳『男たちの大リーグ』467頁
どうやらこの基地には、ムーア大佐がレヴンワース陸軍刑務所の死刑台に送られるのを見たがっている人間が大勢いるらしい
Clearly, there were those who would like to see Colonel Moore on death row in Leavenworth.
上田公子訳『将軍の娘』180頁
その芋はいずれも土まみれでまさにそっくり全部いましがた掘りおこしてきたばかりです、という状態であった。
They were all caked in dirt, and had clearly just been dug up.
椎名誠著『岳物語』17頁
この寝室全体、まったく使われたことがないみたいだが、それでもアン・キャンベルはここをゲストルームとして維持していたのだろう。
Clearly, the entire room was never used, but Ann Campbell maintained it as a guest room.
上田公子訳『将軍の娘』56頁
ヴァレリーの声は低く、ほとんどつぶやきに近かったが、それでも衝撃のあまり静まりかえった艦橋に、りんとひびきわたった。
Vallery's voice was low, barely a murmur, but it carried clearly through the shocked silence on the bridge.
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』183頁
ゴーントさんはどう見ても親切な人だ。そしてそういう人であれば当然のことだけれど、彼は、キャッスルロックで最初に親切にしてくれた人間に、親切のお返しをしようとしている……。
He was clearly a kind man, a man who, naturally enough, wanted to do something nice for the first person in Castle Rock who had done something nice for him.
芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』325頁
その上可哀そうなのは、この二三年めっきり歳を取り出して、体のこなしや、眼の表情や、毛の色つやなどに、老衰のさまがありありと見えていたのである。
What made it sadder still was that Lily had in the past two or three years clearly begun to age, the sighs of decrepitude appearing in the way she carried herself, the look in her eyes, the color and condition of her coat.
谷崎潤一郎著『猫と庄造と二人のおんな』50頁
服は見るからに着古しで、バックパックは片方の肩に無造作にひっかけていた。
Her clothes were clearly well used and a backpack was loosely slung over one shoulder.
村上博基訳『容赦なく』19頁
英和コーパス形容詞・副詞編
COMPLETELY - 完全にというほど完全か
ちっぽけな自転車にまたがったプレイヤーたちは、じつに真剣だった。ふくろうのようにまじめくさってという言い方があるけれど--ヘルメットをかぶり、大きな背番号のついたラグビー・シャツを着た彼らは文字どおりふくろうのようで、海に面した自分たちの領地を駆けまわりながら、小さな槌を高々と空に掲げていた。
The players were completely serious about what they were doing on those little bicycles, as solemn as owls--helmet-clad, rugby shirts with big numbers on the back, the little mallets held aloft as they churned about those ocean estates.
芝山幹郎訳『遠くからきた大リーガー』49頁
見出し部分が「--」(訳語なし)になっている4つの用例に注目したい。どれも日本語の小説を英訳したものだが、completelyに対応する言葉は原文にないように思える。ところが、英訳でcompletelyを削ると、なんとなく間が抜けたような印象になる。これらの用例をみると、翻訳とは一語ずつを訳していくものではないことがよくわかるのではないだろうか。
「かなり」とか「ひどく」とか「まことに」とかがcompletelyと訳されている用例があること、completelyが「じつに」、「およそ」と訳されている用例があることにも注目したい。英和辞典の訳語は「完全に」、「まったく」、「徹底的に」などになっているので、completelyといえば、100%を意味するかのように思いがちだ。しかし、「--」の4つの用例もそうだが、これらの用例でも、それほど強烈ではない意味に使われているように思える。
似た例としては、one of the mostなどのいわゆる「最上級」がある。外国語にはこのように、母語の感覚でみるとなんとも大げさなと思える場合が少なくない。日本語を母語とする者にとっては英語の表現が大げさに思える場合が少なくないのだ。おそらくは、逆に、英語を母語とする者にとって、日本語の表現がなんとも大げさだと思える場合が少なくないのだろう。
ええ、ぼくも忘れていたのです。
I know. But I'd forgotten it all completely.
北杜夫著『幽霊』206頁
そのうち、きっとよくなるわよ。あたし、決して悲観なんかしていないわよ。
There's not a doubt in my mind that you'll be completely well before you know it.
向田邦子著『思い出トランプ』12頁
越冬からやっと目覚めたにちがいないその蝶は、もう翅の開閉をやめ、樹皮のようなくすんだ裏面をみせて静止していた。それでもやはり美しく見えることに変わりはなかった。
After somehow surviving the winter, it must have just woken up. Now its wings were completely still, revealing their bark-like undersides, though they seemed no less beautiful to me.
北杜夫著『幽霊』137頁
正直のところ、リリーが昔を忘れてしまって現状に満足していられても、やはり腹が立つであろうし、
To tell the truth, if Lily had completely forgotten about the past and was quite content with her present situation, it would make him angry.
谷崎潤一郎著『猫と庄造と二人のおんな』108頁
まあ、1000年もたてばすっかり融けつくして、ちょうどこの前の第3氷期と同じくらいに……
Like the preceding Third Ice Age that completely melted away in a thousand years.
安部公房著『第四間氷期』229頁
剣道の試合を前にしてあれほどしっかと保っていられる冷静さを、こういうときの勲はすっかり失ってしまう。
Isao completely lost the cool reserve that he was able to maintain even before a kendo match.
三島由紀夫著『奔馬』128頁
すなわち樽のまわりを、青い強い百合の茎が寸分の隙なく囲んで、これが白く光るまおで編まれている。
Thus the body of the cask was completely wrapped around with the tough green stems of lilies, bound by fresh white hempen cord.
三島由紀夫著『奔馬』52頁
彼女はあなたを全面的に信用してすべてを打ち明けなかったんですか? あなたのアドバイスを求めなかったんですか?
Did she or didn't she confide completely in you, and did she or didn't she ask your advice?
上田公子訳『将軍の娘』254頁
まるっきりからのもあった。
Some were completely empty.
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』359頁
場所はいつものとおり、本館の2階だったが、新婚夫婦の離婚時期を予言したらどうなるかなどという、罪のない冗談をとばしあった、これまでの会議とはまるで雰囲気がちがっていた。
As usual the meeting place was on the second floor of the main building, but the atmosphere was completely different from that of the gatherings that had been held up till now, when we had tossed back and forth harmless jokes, like how it would be if we were to predict the time of divorce for newlyweds.
安部公房訳『第四間氷期』18頁
閑散と安全をみごとに混同してるんだ。
He has completely mistaken quiet for security, George.
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』422頁
が、その言葉を自分の耳で聞いた瞬間、ブライアンはそれが非のうちどころのない、文句なしに正しい答えであることを知ったのだった。
But the moment he heard them he knew they were exactly and completely right.
芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』43頁
もっとも、このような原始的手法が通用するのはおよそ管理のずさんなシステムだけである。
Such a brute-force method of guessing passwords will only work on a completely mismanaged computer.
池央耿訳『カッコウはコンピュータに卵を産む』162頁
球は、これ以上ないほどまっすぐ伸ばされた腕から飛び出してきた。そして、まばたきするいとまもあらばこそ、キャッチャーのミットに収まっていた。
The ball comes in from an arm completely straight up, and before you can blink, the ball is in the catcher's mitt.
芝山幹郎訳『遠くからきた大リーガー』200頁
とっぷりと湯にひたると、自分以外のものがひとしきりしんとした。
Once I was completely immersed in the water I was aware for a while of some presence, a living silence other than my own.
北杜夫訳『幽霊』74頁
これらがまことに自然であった。
It was completely natural,
川端康成著『雪国』9頁
要するにかなり手際よく、かなり綺麗に、かなり平凡なものにすぎなかった。
The pictures themselves were competent, quite pretty, and completely ordinary.
北杜夫著『幽霊』195頁
ぼくはひどく凋れかえって、彼に手をとられて歩きはじめた。
Completely crestfallen, I let him hold my hand and lead me along,
北杜夫著『幽霊』22頁
つまり、二、三日ホテルにしけこんで、休暇が始まるまでうちに戻らないつもりにしてたことをきれいに忘れてたんだ。
I mean I completely forgot I was going to shack up in a hotel for a couple of days and not go home till vacation started.
野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』95頁
あのな、平安神宮の桜のあとで、周山のさくらを見に行ったらよかったのに、ころっと忘れてたんえ。
Say, after the cherries at Heian Shrine, it would have been pleasant to have seen the ones in the mountains, but I completely forgot about them.
川端康成著『古都』82頁
DNICは通信網に接続しているコンピュータを確実に識別します。
You see, the DNIC completely identifies the computer that's making the call.
池央耿訳『カッコウはコンピュータに卵を産む』276頁
あの人のいい顔は、どこか胡散臭い。「そうかそうか。可哀そうに可哀そうに」と言いながら、口先だけで、すこしたつとケロリと忘れて居眠りをしているような気がする。
There was something phony about his gentleness. She couldn't help feeling that his show of sympathy was all on the surface, that he'd listen to your problems and then moments later drop off to sleep, completely indifferent.
向田邦子著『思い出トランプ』120頁
先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向音信の取り遣りをしていなかった。
Indeed, Sensei had come to ignore completely the existence of his family in his home province.
夏目漱石著『こころ』105頁
きみの理論は根本から間違っている
Your premises are completely false.
村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』25頁
小柄で、痩せていて、生活力の衰えきった老婆のように見えるけれども、頭の働きは案外確かで、云うことやすることにソツがないので、「息子よりも婆さんの方がしっかりしている」と、近所ではそう云う評判だった。
Thin and slight of build, she looked like an old woman whose vitality was completely spent; yet her mind was still sharp: she never made a slip in what she said or did. The neighbors used to say, in fact, that "the old lady does a lot better than her son."
谷崎潤一郎訳『猫と庄造と二人のおんな』32頁
翻訳のノウハウ
翻訳塾でのコメントから
以前の号(1997年10月号)で紹介した「翻訳塾」の第2期が1998年1月にはじまった。月に2回、新聞や雑誌の経済記事を訳してもらい、そこででてきた問題点を議論する仕組みになっている。翻訳の教育の場ではなく、経済関係の書籍や雑誌記事を翻訳できる人材を探すことを目的にしたものなので、参加費用は無料にしている(そのかわり、訳文の5段階評価を行うだけで、添削などはしない)。課題、訳文、コメントなどはすべて電子メールでやりとりする。思いがけず70人を越える参加者が集まり、すでに第2回の課題の翻訳が終わって、意見の交換が活発に行われている。
電子メールを使う方法は、どこに住んでいても参加できるし、費用がきわめて安い点で魅力的だが、半面、顔も知らない人と議論することになるので、なかには高飛車な意見も飛び出してくる。以下に紹介するのは、第1回の課題について参加者が書いたコメントのなかに高姿勢が目に余るものがあり、訳文の評価が低かったためか虚勢をはる人がいたために書いたものである。
1. 専門家に尻尾を振るな、ひれ伏すな
出版翻訳や雑誌翻訳を職業にしようとするのであれば、「専門家ならこういう言葉を使う」という恫喝に屈しない強さをもつことが大切だ。その理由を以下にあげていこう。
出版翻訳では、翻訳を専業にする者が訳すのは、専門家向けの本ではなく、一般読者向けの本である。専門家が専門家向けに英語で書いた本を翻訳する理由はない(専門家なら原文で読むべきだ)。ごく少数、訳されている本もあるが、日本の専門家が「勉強のために」訳しているにすぎない。翻訳者が訳すのは、専門家が一般読者向けに書いた本か、専門分野に関するものであっても、専門家ではない物書きが一般読者向けに書いた本である。一般読者向けに翻訳する以上、「専門家が使う言葉かどうか」ではなく、「一般読者向けに適切な言葉かどうか」が判断基準になる。
どんな分野にも、「仲間言葉」がある。学生のころ、年末の繁忙期に知り合いの八百屋でアルバイトをしたことがある。そのとき、仕入れ値をすべて「チョンメ」とか「ゲタ」とかの符丁で呼んでいたのをいまでも覚えている。店先で値段を相談するときには、客にわからないようにこの符丁を使う。このような仕組みはどのような職業にもあるし、趣味の世界などにもあり、要するに部外者、素人を排除するために、変わった言葉を使っている。
もちろん、部外者が知らない言葉が使われているからといって、その目的が部外者を排除することにあるとは限らない。どの分野にも独特の概念があり、事実があるので、それを表現するには、部外者が知らない言葉が必要になる。
ノンフィクション分野の出版翻訳者の役割は専門的な知識を一般読者に伝えることにある。この役割を考えると、部外者が聞きなれないはずの言葉を使うときには、よほど慎重になる必要がある。排除のための言葉なら使わないようにすべきだし、その分野に特有の概念や事実をあらわすために不可欠な場合であれば、一般読者向けに適切な言葉を選択しなければならない。
翻訳者は端くれとはいえ「物書き」であり、物書きが専門家とはまったく違った世界に生きていることも認識しておくべきだ。経済・金融という分野で数多くの翻訳をやっているためかどうか、ときどき「どちらの金融機関にいたのですか」と聞かれることがある。そう聞かれると、思わず相手の目をみて、こう聞きたくなる。「相撲の記事や解説を書いている人に、何部屋の出身ですかと聞く馬鹿がいますか」と。物書きは、飛行機にすら乗ったことがなくても、宇宙飛行について書けるし、投票にすら行ったことがなくても政治について、政治家について書けるし、企業につとめたことすらなくても、経営について書ける。逆に、自分が経験したこと、自分が専門としていることなら、だれでも物を書けるわけではない。書ける人もなかにはいるが、大部分の人はまともな文章は書けない。とくに一般読者向けの文章は書けない。専門家は専門家であり、物書きは物書きなのだ。違う世界に生きているのであり、専門家に尻尾を振る理由はない。
出版翻訳でまともに生活できるだけの所得を確保しようとすると、専門家と呼ばれているたいていの職業につくよりも難しい点を認識しておくべきだ。たとえば経済・金融と関係の深い財務・経理の分野でいえば、専門家と呼ばれるのは公認会計士の資格ぐらいはもっているか同等以上の実績のある人だろうが、まともな出版翻訳者になるのは、公認会計士になるよりはるかに難しい(公認会計士の2次試験は毎年、1万人ほどが受験し、600人以上が合格する。出版翻訳を目指して学習している人は1万人をはるかに上回るし、まともな出版翻訳者の数はあらゆる分野を合計しても、600人はいない。まして、出版翻訳者としてデビューできる人の数は、年に数十人もいない)。だから、専門家にひれ伏す理由はどこにもない。
最後に付け加えるなら、出版翻訳者は外国の情報が日本に流入する流れを円滑にする役割を担っている。外国の情報を適切な日本語で伝える役割を担っている。日本語の表現力を豊かにし、日本文化を豊かにする役割を担っている。出版翻訳者は日本の社会全体に対して責任を負っている。専門家の意見は十分に聞くべきだが、最終的な責任は自分で負わなければならない。
2. 翻訳の質を決める要因は90%以上が日本語力
翻訳の質を決める要因はなにか。英語を読む力、専門的な知識など、さまざまな答えがあるだろう。しかし、実際には90%以上が日本語力だと思う。
英語を読む力が不要だというのではない。翻訳に取り組むために必要なのは、英語で書かれた新聞記事、雑誌記事、本、報告書などを読んで内容を素早く理解できる能力であり、いまでは、社会人ならほとんどだれでも必要とされている能力である。電車に乗ったときに周囲を見渡してみると、たいていは英語の書類や雑誌や本を読んでいる人がいる。翻訳に必要な英語力は、差し当たっては(この「差し当たっては」が重要なのだが)、こうした人たちの英語力と変わらない。だから、いまではありふれた能力であって、人さまに自慢できるようなものではない。
専門的な知識が不要だというのではない。世の中には専門的な知識を鼻にかけている人が多いが、こうした人が自慢できる知識の範囲はきわめて狭いのが通常である(狭くなければ専門分野にはならない)。翻訳では、世の中で専門家と呼ばれている人たちが扱うのよりはるかに広い分野を対象とするので、広い分野のすべてにわたってはじめから専門知識を持っていることはありえない。専門分野という言葉の意味、専門知識という言葉の意味を考えただけでも、そんなことは不可能だとわかるはずである。翻訳者に要求されるのは、必要なときに必要な知識をすばやく吸収する能力である。そのために必要なのは、日本語力である。
日本語なら生まれたときから使っているわけだから、問題はないはずだと思うかもしれない。しかし、日本の景気の現状というごく一般的な内容の記事をしっかりと訳せないのは、ふだん、日本語を読んでいないからだ。経済関連の翻訳を学習するという以上、日本の景気に関する記事を読んだり、ニュースを聞いたりしているはずだが、それでも、日本語を読んでいないし、日本語を聞いていない。たしかに、日本語で書かれた記事を読み、日本語で話されたニュースを聞いてはいるが、日本語を読んではいないし、日本語を聞いてはいないのだ。内容はなんとなくわかっても、どういう言葉がどのように使われているのかは、まったく頭に残っていない。これでは、日本語で書くことができるわけがない。
日本語を読み、日本語を聞く習慣をつけていると、自分で書く訳文も客観的に読めるようになる。内容がおかしくなっている部分があれば、たいていは誤訳である。もう一度原文を読みなおし、文法構造を考え、意味を考え、文の流れを考えるようになる。つまり、英文を読み違えていても、読み違えたことに気づくようになる。この作業を繰り返していると、自然に英語力が高まる。この作業ができない人は、英語力が高まっていかない。だから、英語を読み違えた誤訳が多いのは、英語力が不足しているためではあるが、英語力が不足しているのは、日本語力が不足しているからなのだ。外国語をいくら学習しても、母語の能力が天井になる。日本語力が低ければ、英語力も低くなる。これが鉄則である。
要するに、翻訳の質が低いのは、日本語力が低いからなのだ。日本語で読んでいても、日本語を読んでいないからだ。日本語を読む習慣をつけなければ、翻訳は上達しない。
3. 下は見えても上は見えない
たいていのスポーツなら、誰が強くて誰が弱いかは、試合をすればすぐにわかる。翻訳の場合には、誰の翻訳の質が高く、誰の翻訳の質が低いかは簡単にはわからない。簡単にはわからないだけでなく、もっと厄介な問題もある。人それぞれが自分の実力を基準にして他人の翻訳の質を判断するので、自分のものより質が低いという判断は比較的簡単だが、質が高いことに気づくのはきわめて難しいのだ。
何年も前の話だが、小さなビルの10階ほどのところにある事務所ではたらいていた。そのビルの1階にはレストランがあって昼食をとることが多かった。そこのマスターが客と話しているのを聞くともなく聞いて、笑ってしまったことがある。客が自分の勤め先の場所を説明していた。すぐそこに墓があるでしょう。墓のむこうにあるビルに事務所があって……、と説明したら、マスターが聞き返した。この近くにお墓があるんですかと。レストランの向かいには2階建てか3階建ての商店が並んでいるが、その裏はお墓になっている。レストランは1階にあるので、商店の裏に何があるかは見えない。3階か4階まであがってみれば、すぐに見えるし、近くを散歩しただけでもすぐに気づくはずなのだが。
翻訳の実力の違いにも、これに似た面がある。実力が低い場合、他人には当たり前のこととして見えていることが、その人には見えていない場合が少なくない。たとえば、今回評価が4だった人に見えていることが、3や2だった人には見えていない可能性がかなりある(もちろん、逆の部分もあるだろうが)。コメントを書く際には、こういう可能性を考えておくべきだろう。
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