目次
1.濱田二省機関少佐
(一)予備役編入即日召集された
濱田二省機関少佐
(二)海軍の公文備考に記載されて
いた濱田二省機関特務中尉
(三)昭和18年11月10日調現在で
服役延期中だった濱田二省少佐
2.濱野喜作(飛行特務)大尉]
3.瀬戸口藤吉退役軍楽特務少尉
4.戦艦大和戦没者名簿にみる特務士官たち
5.特務士官たちに見る空の名人
6.高橋東吾少佐]
7.連合艦隊司令部付の特務士官たち
8.操縦練習生首席卒業の特務士官たち
9.兵より中佐への昇進
番外.高等商船出身の現役将校寺本巌少佐
10.飛行艇の特務士官たち
(一)その後の林長次郎空曹長、空林永
治空曹長
(二)三浦竹二飛行特務中尉の最後
(三)第2次ハワイ空襲の2番機笹生庄助
飛行特務少尉
(四)予科練(乙)1期出身の水倉喜代四飛
行特務少尉と遠藤幸男飛行兵曹長
(五)水倉喜代四大尉の戦死
(六)水倉飛行特務少尉のタウンズビル単機
空襲行に同乗した吉田一キャメラマン
補足(1)W47の機長伊藤辰久飛行特務少尉
補足(2)W46でも出撃していた機長伊藤辰久
飛行特務少尉
補足(3)水倉クルー(W46)のメイン偵察員
菊地吉人1飛曹
補足(4-1)2式大艇NI-29号、菊地飛曹長
機の最後![]()
補足(4-2)米空母プリンストンのアクションリ
ポートに見る、菊地機の最後の日
(七)サイパンで戦死していた空林大尉、笹生
中尉
(1)空林(飛特)大尉
(2)笹生(飛特)中尉
(3)サイパンで戦死した初期の操練出身者たち
11.佐藤宗次(飛特)大尉の同年兵、安藤正夫
(飛特)大尉
12.操縦練習生正規教程設置以前の下士官・
兵出身操縦専修者
13.操縦練習生2期が欠の理由と操縦練習生
の名称の変遷
14.WEB上の国立公文書館に見る特務士官たち
(一)横地慎三郎特務大尉の退職賞与
(二)三浦飛行特務中尉の戦死後の特進と叙位
(三)高松福蔵航空特務少尉と中村正航空兵曹長
の特進
補足(1)高松福蔵兵曹長の初任准士官講習
補足(2)高松福蔵兵曹長と、一緒に初任准士官講
習を受けた横須賀籍兵科准士官31名のその後
補足(3)中村航空兵曹長の殉職と90式2号2〜3
型(水上)偵察機
(四)下士官最初の操縦専修者上野強次郎特務少尉
補足(1)下士官最初の操縦専修者上野強次郎特務
少尉の殉職と操練1期の大久保源三1等水兵
15.操練5期出身の戦闘機乗りたち
16.横須賀鎮守府籍、操練出身の戦闘機乗りたち
17.徴兵出身の飛行科特務士官准士官(横須賀籍)たち
18.昭和20年9月5日、少佐任用の(飛行特務)大尉たち
19.昭和20年5月1日、少佐任用の(飛行特務)大尉たち
20.操練7期首席の寺元宰治郎(飛特)大尉
21.昭和20年以前に少佐に任用された(飛行特務)大尉たち
22.小原理一休職(飛特)大尉
23.海軍義済会会員になれなかった特選少佐
名簿に見る特務士官たち1
濱田二省機関少佐
海軍士官名簿[13]」の極く1部分をコピーで取
り寄せてみました。
機関少佐の末席に濱田二省機関少佐が載って
います。
濱田機関少佐は特務士官出身です。
明治38年(1905)6月1日5等機関兵、大正10年
(1921)11月1日機関特務少尉、昭和5年(1930)12月
1日機関特務大尉、昭和11年(1936)12月1日に機関
特務大尉(軍艦古鷹の分隊長、ホ3002《呉鎮守府籍
の機関科特務士官では2席目》)から機関少佐(初雪
機関長兼分隊長)に特進しています。WEB[13]。
年齢は50歳4カ月です。初雪は駆逐艦ですので軍艦籍
にありません。
所轄長(軍艦の艦長にあたる)は駆逐隊司令です。
WEB[1]の11条に「機関長ハ司令ノ命ヲ承ケ隊ノ機
関ニ関スルコトヲ掌リ各艦艇機関長ノ職務及機関科員ノ
教育訓練ヲ監督シ主管ノ兵備品ヲ整備ス」とありますの
で司令直属の駆逐隊機関長がいます。濱田機関少佐の
機関長とは<<各艦艇機関長>>にあたり軍艦の機関
長とは同格ではありません。
「昭和14年3月1日調 昭和14年水交社員名簿[9] 」では、
既に後任者が数十名になる地位にまで序列が昇進しています。
日中戦争の影響が大きいことが窺われます。
特務士官出身少佐の現役定限年齢(定年)は52歳ですから、
そろそろ定年でしょう。
予備役編入以降も召集され軍務についていたかどうかなどはわかり
ません。
戦歴も初雪機関長兼分隊長以外はわかりません。
住所は呉になっています。呉鎮守府出身なのでしょう。自宅に電話は
無かったようです。
参考文献
WEB[1]「駆逐隊潜水隊砲艦隊海防隊輸送隊水雷隊掃海隊駆潜隊令」、
『参拾壱 頁』。http://homepage2.nifty.com/nishidah/mlk204.htm
WEB[13]補任考課 職課 機関科担当官出張辞令免官(18) (目録)
31画像の1画像目(公文備考 昭和11年 B 人事 巻5)C05034669900
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm
文献[9] 『昭和14年3月1日調昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社
昭和14年4月。
文献[13]『昭和12年1月1日調現役海軍士官名簿』。
(一)予備役編入即日召集された濱田二省機関少佐
前に濱田二省(特選)機関少佐について書かせていただきました。濱田機
関少佐は、(特選)少佐が昇進即日予備役編入という名誉少佐が大部分
だった昭和12年(1937)以前に現役で機関少佐に進級した数少ない一人
です。
このたび初めて防衛研究所図書館を訪れる機会があり、そこで『昭和17
年2月1日調(昭和17、3、16迄異動訂正済)「応召海軍士官名簿」』海軍
省人事局([34])を見ることが出来ました。
[34]の応召機関少佐の2席に濱田二省機関少佐が載っています。やは
り現役定限年齢(定年)が過ぎても予備役編入即日召集という形で軍務
を継続したようです。
濱田機関少佐は明治19年(1886)8月11日生、[13]では明治38年(1905
)6月1日5等機関兵となっていますが[34]では5等木工となっています。
その後の昇進歴は前稿どおり大正10年(1921)11月1日機関特務少尉、
昭和5年(1930)12月1日機関特務大尉、昭和11年(1936)12月1日に機関
少佐に特進しています。年齢は50歳4カ月です。初雪機関長兼分隊長と
あります。電報符はEキ596でした。[13]。
[34]では応召海軍士官名簿というタイトルどおり召集後の軍歴が主にな
っています。S11、12、1の現官(機関少佐)→S16、12、22予備役編入、同
日応召です。特選少佐の現役定限年齢(定年)は戦時でも54歳ですが、な
ぜか満55歳を過ぎても現役だったようです。
職歴は軍艦青葉機関長、大湊防備隊機関長兼分隊長、呉港務部部員兼
分隊長とあります。青葉と大湊防備隊機関長兼分隊長は線で消されてい
ますので昭和17年2月1日調(S17、3、16迄異動訂正済)現在は呉港務部
部員兼分隊長です。推測ですが現役での最後の職は青葉の機関長だった
のではないでしょうか。青葉は重巡でれっきとした軍艦籍にある軍艦です。
(駆逐艦)初雪機関長兼分隊長とはちょっと違います。どちらにしても所轄長
(軍艦艦長)直属の機関長に特選の機関少佐が就任していたことになります。
港務部部員の部員というのも正規士官職です。
電報符はTサ3542−3となっています。Tという略符はわかりませんがサは在
郷のザから濁点を取ったものと思われます。在郷士官の電報符は、応召士
官として軍務に就いた場合でもそのまま同じ電報符の番号だったようです。
ハイフォン付のナンバーは在郷からの応召士官のみならず、予備士官にも
見られるようです。
予備役応召の形ですが、敗戦まで解除がなく応召を継続したとしますと59歳
の少佐ということになります。
[34]の解題によりますと別にS18、10、30調の同名簿が保管されているとあ
りました。その他の資料も含め濱田機関少佐の「その後」を追及してみたい
と思います。中佐に昇進はしていないようです。
文献[13]『昭和12年1月1日調現役海軍士官名簿』。
文献[34]『昭和17年2月1日調(昭和17、3、16迄異動訂正済)「応召海軍士官名簿」』
海軍省人事局 部内限091 (防衛研究所図書館資料請求g@名簿45)。
海軍の『公文備考』 儀制35 巻54 大礼特別観艦式11(WEB[10−1])に濱
田二省機関特務中尉が記載されているのを見つけました。
1930(昭和5)年10月26日、神戸沖での特別大演習観艦式に2等(軽)巡洋艦
鬼怒の乗組として参加したようです。観艦式の後の賜饌者(食事会出席者)名簿
に鬼怒の一員としてリストアップされています。
お召艦は霧島ですが、賜饌者は観艦式関与の海軍士官(奏任官待遇たる各科
候補生を含む)、特務士官、高等文官、海軍以外の観艦式陪観者など合計1万
人以上になります。[10−2]。このような多人数が一同に会せられる軍艦はなく、
戦艦榛名、金剛、比叡、空母赤城に分散して賜饌が行われたようです。鬼怒に
乗組の賜饌者の会場は赤城に割り当てられたようです。
さて、面白いのは各軍艦の賜饌者のリストの順番です。この賜饌者名簿の席次
は日常の各軍艦内の士官の席次を反映しているものと思われます。一般的には
大佐の艦長を筆頭として兵科の少尉まで、次に機関長の中・少佐から機関少尉ま
で、軍医・主計の各科と続き、最後に特務士官をひとまとめにして兵科、機関科、
看護の順に並べ、主計の特務少尉でしめくられるのが1920(大正九)年勅令第十
号海軍武官官階の別表(WEB[10−3])を根拠とするスタンダードだと私は思い
ます。事実、同じく赤城に会場を割り当てられた大艦の空母加賀などは、この序
列に忠実に従った席次の賜饌者名簿になっています。
濱田二省機関特務中尉乗組の鬼怒の賜饌者名簿はチョット変わっています。
艦長大佐が筆頭となっているのは当然なのですが、次席が機関少佐になってい
ます。その後、少佐、少佐、少佐、次に機関大尉、大尉、特務大尉、軍医大尉、
大尉、主計大尉、機関特務中尉(濱田二省)、機関中尉、中尉、中尉、中尉、機
関特務中尉、機関特務中尉、特務少尉、主計特務少尉、少尉の順になっていま
す。濱田機関特務中尉より下位に正規士官の機関中尉、兵科の中尉、などが配
されています。WEB[10−3]の別表の官階順に拠るならば、少なくとも、最末席
の正規の少尉は主計特務少尉や特務少尉より上席になるはずです。これは、
鬼怒の士官の席次を兵科、各科、特務士官を問わず同一階級でのキャリアの
古い順から上席にしていたためと思われます。鬼怒は、WEB[10−3]の別表
の官階順より、艦船職員服務規程(WEB[12])(註1)を根拠とする乗組各士官
の職務のキャリアを優先する席次にしていたようです。他の軍艦は多少の移動
はありますが、おおむね、加賀のようなWEB[10−3]の別表の官階順の席次に
なっています。軍艦内の士官席次はWEB[10−3]の別表の官階順を優先する
か、艦船職員服務規程による職務のキャリアを優先するかは、各軍艦艦長独自
の判断に委ねられていたと思われ、私には大変興味深いものがありました。
なお、軍艦鬼怒は第1次大戦後の1922(大正11)年に進水した長良型の軽(2等)
巡洋艦で川崎神戸の造船ですから、在籍鎮守府は濱田機関特務中尉と同じ呉
なのでしょう。濱田機関特務中尉の担当する機関は重油専焼10缶、石炭専焼2缶、
合計12缶の重油石炭混焼で、3本煙突の軽巡でした。WEB[11]。
註1 艦船職員服務規程の第57条に<<艦長は艦内の配員を適切ならしめ適材
を適所に置き以って乗員をして各其の全能を発揮せしめることを努むべし。(WEB[12])
>>とあります。
WEB[10−1]賜饌者名簿(10) (目録) 50画像の2画像目
(公文備考 儀制35 巻54 大礼特別観艦式11)アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/f_1.htm C04016152000
WEB[10−2] 賜饌者名簿(1) (目録) 50画像の1画像目
(公文備考 儀制35 巻54 大礼特別観艦式11)アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/f_1.htm C04016151100
WEB[10−3]大正九年勅令第十号海軍武官官階ノ件中○大正九年勅
令第十一号海軍兵職階ニ関スル件中ヲ改正ス・(歯科医科新設及航空科
ヲ飛行科ト為スノ (目録) 32画像の19画像目(公文類聚・第六十五編・
昭和十六年・第十四巻・官職十一・官制十一(海軍省))アジア歴史資料
センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm A02030029000
WEB[11]長良級二等巡洋艦『参拾壱頁』http://homepage2.nifty.com/nishidah/index.htm
WEB[12]艦船職員服務規程http://www.asahi-net.or.jp/~zq9j-hys/MKJ.htm
(三)昭和18年11月10日調現在で服役延期中だった濱田二省
少佐
このたび、九段下の昭和館を訪れる機会があり、『応召海軍士官名簿 昭和十八年十
月三十一日調(昭和十八年十一月十日迄異動訂正済)』海軍省極秘第4号[44]を見る
ことが出来ました。コピーも可能でした。
[34]に引き続き、濱田二省少佐の昭和18(1943)年11月10日までの消息を確認するこ
とが出来ます。濱田少佐の現職は[34](S17、3、16迄異動訂正済)と同じ呉港務部員兼
分隊長です。電報符は[34]ではTサ3542−3というハイフォンの付いたナンバーでしたが、
[44]ではTサ2359となっています。ハイフォンは付いていません。Tサは在郷(予・後備、
退役)士官の電報符の略号のようですが、ナンバーが3000番台から2353番に変わった
のは昭和17(1942)年11月1日に機関科と兵科の区別がなくなったため、ナンバーも兵
科と共通の一連番号になったためのようです。それまでは機関科の在郷(予・後備、退役)
士官の電報符はTサ3001から始まっていたのでしょう。濱田少佐の階級も海軍機関少佐の
機関がとれ海軍少佐になっています。Tサ2359という電報符は在郷(予・後備役、退役)士
官の兵科の2359番目という意味でしょう。
在郷より応召した士官の電報符は在郷(予・後備役、退役)士官のナンバーを、そのまま
流用しています。従って[44]での電報符は召集されていない在郷(予・後備役、退役)士官
の分は欠番になっており、一連番号ではありません。
[44]では、昭和11(1936)年12月1日に特選少佐ないしは特選機関少佐に昇進し、現役を
続行、昭和16(1941)年12月22日に予備役転入、即日召集となった特選少佐を兵科出身
4名、濱田少佐を含め機関科出身2名を確認することが出来ます。それ以前に昇進した特選
少佐で現役を続行できた者は、[44]では、一人も確認できません。名誉特選少佐(1日ないし
は、長くても1カ月以内の現役特選少佐で予備役に転入)からの応召者は数人確認できます。
なお、[44]は『応召海軍士官(特務士官、予備士官は含まない)名簿 昭和十八年十月三
十一日調』です。特務大尉出身の特選少佐は正規士官ですので確認できますが、(特務)大
中少尉は記載されていません。かろうじて、昭和十八年十月三十一日調の翌日、昭和18(19
43)年11月1日付けで特選少佐に任用予定の応召(特務)大尉たちが大尉の欄に記載され
ています。ただ、この特選少佐任用予定者は少佐での電報符がこの時点では決まっていなか
ったようで空白です。予備役特務中尉で応召し、特務大尉から特選少佐に昇進した者も確認
でき、予備役でも軍務継続中の者は進級することがわかります。ただ、応召予備役特務大尉
を最低6年ほど勤務しなければ(予備役)特選少佐に任用されなかったようです。
濱田少佐は摘要欄に服役延期中とありますが、[44]は昭和十八年十月三十一日調です。明
治19(1886)年11月1日以前に生まれた満57歳以上の特選少佐(11月1日付特選少佐任用
予定の《特務》大尉も含む)はすべて服役延期中になっています。海軍では応召での服役延
期期間は前例に拠ったようですから、摘要欄の服役延期中とはその前例を更新中の高年齢
といった意味なのでしょう。
いずれにしても、濱田少佐は日本海海戦直後から昭和十八年十一月十日迄、一日も離れる
ことなく海軍に勤務していたことは確認できます。敗戦まで軍務に就いていたかは、私では現
在までのところ確認する術がありませんが、その可能性は充分にありえそうです。
文献[34]『昭和17年2月1日調(S17、3、16迄異動訂正済)「応召海軍士官名簿」』海軍省人事
局 部内限091 (防衛研究所図書館資料請求g@名簿45)。
文献[44]『応召海軍士官名簿 昭和十八年十月三十一日調(昭和十八年十一月十日
迄異動訂正済)』海軍省極秘第4号。
名簿に見る特務士官たち2
濱野喜作(飛行特務)大尉
昭和14年水交社員名簿175ページに濱野喜作航空特務少尉が記載されています。
大正13年(1924)に飛行機に乗りはじめ、大正15年(1926)に偵察練習生を終えたとのことです。
操縦大西大尉 偵察濱野というペアも組んだことがあるようです。海軍のナビゲーターとしては大変なキャリアの持ち主です。
昭和14年の水交社員名簿の航空特務少尉の欄で先任順では最下位から2番目に記載されているので、昭和13年(1938)の11月ころに兵曹長より昇進したほやほやの航空特務少尉だったものとおもわれます。
住所は横須賀市です。[15]によれば「長崎の自宅に復員」とありますが鎮守府籍は佐世保です。当時、少尉では電話はもてなかったようで電話番号は記載されていません。
昭和18年(1943)にはラバウルの251空に所属し夜間戦闘機[月光]の後席(偵察)で中尉でした。司令は後に厚木302空司令として徹底抗戦を叫んだ小園中佐でした。B−17、B−24などの米大型爆撃機迎撃のために月光に20mm斜銃を装備するというアイデアは濱野飛行特務中尉のもので、特務士官の悲しさか小園司令の発明にすりかえられたとする説もあります。
昭和20年(1945)8月濱野大尉は厚木302空(司令小園大佐)の第2飛行隊の分隊長でした。[14]、[15]によれば「徹底抗戦で活動したのは第1飛行隊、第3飛行隊のガンルーム士官が多く。濱野大尉も心動かされますが積極参加せず、8月22日長崎県の自宅に復員」とあります。忸怩たる戦後生活を送ったようです。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[14]『重い飛行機雲』渡辺洋二 文春文庫 2000年。
文献[15]『大空の攻防戦』渡辺洋二 朝日ソノラマ 1992年。
名簿に見る特務士官たち3
瀬戸口藤吉退役軍楽特務少尉
昭和14年水交社員名簿、予備役、後備役、退役特務士官の部339ページに瀬戸口藤吉退役軍楽特務少尉が記載されています。明治元年生まれの瀬戸口退役軍楽特務少尉は昭和14年(1939)3月調の時点では72歳くらいです。とうに後備役も終わり身分としては単なる退役軍楽特務少尉です。奏任官待遇(士官)以上は完全に退役し海軍とはほとんど関係なくなっても終生その官階を名のる事が出来ます。当然水交社を利用できる資格もあります。そのために予後備退役軍楽特務少尉の項の最先任に記載されているものと思われます。
瀬戸口退役軍楽特務少尉は有名な”軍艦マーチ”の作曲者です。明治30年(1897)に作曲したとのことですが、瀬戸口退役軍楽特務少尉はその時点で軍楽師、即ち兵科で言う上等兵曹、大正9年(1920)以降で言えば兵曹長(准士官)でした。明治15年(1882)に海軍軍樂生として海軍に身を投じ、明治27年(1894)に軍樂師に昇進してますから准士官まで丸12年かかっています。
同時代人に旅順口閉塞作戦に参加し軍神広瀬少佐とともに戦死した杉野孫七上等兵曹(准士官)がいます。杉野上等兵曹は慶応2年(1866)生まれで明治19年(1886)浦賀屯営に2等若水兵として入営、明治36年(1903)に上等兵曹(准士官)に昇進しています。入営より17年かかっています。明治37年(1894)戦死後1階級特進し兵曹長(大正9年《1920》以降の特務少中大尉相当)になっています。
瀬戸口退役軍楽特務少尉は明治36年(1903)に軍樂長(大正9年以降の軍楽特務少中大尉相当)に昇進、海軍軍楽隊隊員としては花の配置である東京派遣海軍軍楽隊の隊長を明治末より大正の初めにかけて2回に渡り就任しています。大正6(1917)年11月待命、大正7(1918)年5月に軍樂長で予備役に編入されました。大正6(1917)年に帝国劇場で特別送別演奏会を開催した。[56]。とあります。
大正9年(1920)に旧兵曹長が特務大中少尉に変更された時点で瀬戸口後備役軍楽長も後備役軍楽特務少尉に横滑りしたものと思われます。
北清事変(明治33年《1900年》)時には常備艦隊旗艦の常盤に乗組と有りますから常備艦隊が上海付近を示威航海したときに常備艦隊司令部付きの軍楽隊隊長だったのではないでしょうか。北清事変の従軍記章はもらっていたのではないかと思います。
住所は東京市になっています。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[56]『海軍軍楽隊 花も嵐も・・・・』針尾玄三 編著 近代消防社 2000年。
名簿に見る特務士官たち4
戦艦大和戦没者名簿にみる特務士官たち
私の手持ちの資料の中に戦艦大和乗組員戦没者名簿というのがあります。「男たちの大和 下」 [17]に収録されているものです。
戦艦「大和」沈没後、残務整理にたずさわった石田直義氏の協力を得て作成したとあります。石田氏は大和の下士官乗組員で2番測的手でした。
この名簿は大和を旗艦とした第2艦隊司令部要員も含めて戦死者を階級別、先任順に整理して作成されています。遺族ないし縁故者には階級別は良いとしても、先任順では探すのに苦労します。あいうえお順の方がよりよかったかと思います。
戦死者は全員1階級特進しています。以降この文章では特進前の階級を使用します。
この名簿の中に昭和14年水交社員名簿に記載されている特務士官が8名見出されます。全員が大尉(1名が主計大尉)です。なぜならば昭和14年3月調の時点では大和沈没時での中尉以下は未だ兵曹長以下で水交社員名簿に記載されていないからです。水交社員名簿での8名の明細は特務中尉4名、機関特務中尉1名、特務少尉2名、主計特務少尉1名です。
吉田満氏の「戦艦大和の最期」で有名な臼淵大尉(海兵出身)も特進して少佐でこの戦没者名簿に名を連ねています。同じく少佐に特進した戦没者名簿での特務士官出身者の最先任今村国松大尉よりも2席先任で載っています。年齢は臼淵大尉は24、5歳でしょうか、今村大尉はゆうに40歳は越えています。
臼淵大尉は士官室在籍のまま士官1次室(ガンルーム)の室長(ケプガン)という事ですが、寝るときはどちらで寝ていたのでしょうか、気になります。ケプガンというのは海軍独特の和製英語でキャプテンオブガンルームの略です。オスタップ(ウオッシュタブ洗濯桶)、ワッチ(ウオッチ見張り)など海軍ではこの手のものは多数あったようです。
昭和14年3月調の時点で特務少尉だった坂井保郎大尉は「戦艦大和艦歌」の作詞者だそうです。
特務士官出身の最先任の今村大尉の所属鎮守府は呉のようです。昭和2(1927)年に兵曹長に進級しています。WEB[13]。「戦艦大和艦歌」の作詞者の坂井大尉も呉在籍です。WEB[14]。大和は呉鎮守府籍の軍艦ですが、特務士官以下の乗組員に呉鎮守府在籍者以外もいたようです。
WEB[13] 11月14日 兵曹長 今村 國松 外32名 (目録) 27画像の1画像目(公文備考 昭和9年 B 人事 巻26)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmC05023379400
WEB[14] 第49号の9 9.12.1 海軍中佐 北浦 豊男 以下11名(2) (目録) 42画像の4画像目(公文備考 昭和10年 B 人事 巻27)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmC05034031500
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[17]『男たちの大和 下』 辺見じゅん 角川書店 昭和59年。
名簿に見る特務士官たち5
特務士官たちに見る空の名人
昭和8年(1933)2月8日に館山航空隊で飛行実験中の90式2号飛行艇が墜落し指揮官の進信蔵少佐(海兵出身)以下2名が殉職するという事故がありました。[2]。
90式2号飛行艇は海軍が英国ショートブラザーズ社から輸入した3発の大型飛行艇です。当時としては最新鋭機だったようです。
この実験飛行に従事していたパイロットは進少佐、空林永治空曹長(航空兵曹長、飛行練習生3期、大正11年12月採用)、林長次郎空曹長(飛行練習生4期、大正12年6月採用)、佐藤宗次2空曹(2等航空兵曹、飛行練習生12期、昭和2年7月採用)らでした。准士官以上のパイロットで殉職したのは進少佐だけです。[2]。
昭和14年水交社員名簿では、空林空曹長は航空特務中尉の末席で、林空曹長は航空特務少尉の第8席になっています。
空林永治空曹長は佐世保市、林長次郎空曹長は横浜市が住所です。[9]。
佐藤2空曹は昭和14年(1949)には未だ空曹長で同名簿には記載されていません。
その後の空林、林の両特務士官については手持ちの資料がなくわかりません。新鋭飛行艇の実験に参加するくらいですから腕の良い優秀なパイロットだと思われます。一概にいえませんがパイロットとしての技量は指揮官進少佐より上だったのではないでしょうか。両名のその後の経歴に興味が湧きます。
佐藤2空曹は、難関の海兵選修学生(2年以上経過した1等下士官及び准士官より選抜し海軍兵学校で士官教育を施す制度。航海中の軍艦の当直将校に立つことが出来た)を経て、飛行艇より中攻(中型陸上攻撃機。要するに魚雷も発射できる爆撃機)に転科、日中戦争、太平洋戦争南方戦線の爆撃行に参加しました。海軍航空本部勤務、教育航空隊の教官を経て終戦時は大尉でした。[3]。
晩年には2冊の著作をあらわしています。
文献[2]『秘話!海兵選修学生』」佐藤宗次 MBC21東京経済 昭和61年。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』」佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
名簿に見る特務士官たち6
高橋東吾少佐
[9]「昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿」175ページ記載の高橋東吾航空特務大尉は操縦練習生制度(大正9年5月第1期採用)設置以前の下士官・兵出身の操縦専修者です。
昭和19年(1944)には少佐(特務士官も少佐になると特務はとれ各鎮守府管轄の特務士官名簿から海軍省管轄の正規の士官名簿に移行する)で在トラックの902空の副長でした。6月に飛行機で日本へ転勤途中サイパンに着水、そのまま玉砕戦死したとの事です。[4]。
住所は茨城県土浦町になっています。昭和14年3月調べの時点では土浦海軍航空隊に勤務していたのでしょう。[9]。
文献[4]『戦争と人間の記録 一海軍特務士官の記録』二藤忠 現代史出版会徳間書店 1978年。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
名簿に見る特務士官たち7
連合艦隊司令部付の特務士官たち
「日本陸海軍総合辞典」[16]に山本五十六司令長官以降の歴代連合艦隊司令部職員の一覧名簿が収録されています。
連合艦隊司令部職員は参謀など高級士官が圧倒的に多いのですが、主計官、特信、暗号、通信、信号、水測、応急、軍楽の各部署、掌気象長、掌通信長、庶務主任などに特務士官の配置が見られます。司令部機能の実務面を担っていたのでしょう。
司令部職員名簿のなかで昭和14年度水交社員名簿に見出される特務士官は6名です。明細は以下の通りです。
()内は昭和14年3月調の時点での階級と昭和16年以降の時点での連合艦隊司令部職員としての在任期間です。主計官土屋貞吉主計少佐(主計特務少尉。19・2・25-19・6・15)、暗号丸山良三階級不詳(特務少尉。19・11・15-20・9・2)、通信本田駒吉階級不詳(特務少尉。-18・3・15)、庶務主任石川義次階級不詳(主計特務少尉。18・8・1-19・2・25)、応急杉浦竹男階級不詳(特務少尉)、軍楽綿引哲三郎郎階級不詳(軍楽特務少尉。17・10・12-18・11・15)です。[9]。他にも特務士官は多数いますが昭和14年3月調では記載がなくその時点では兵曹長以下だったと思われます。
連合艦隊司令部職員名簿の中で司令部在任時の階級がわかるのは司令部主計官の土屋主計少佐だけです。土屋主計少佐は昭和14年調では主計特務少尉です。他の特務士官も昭和14年3月調では本田特務中尉を除き皆少尉です。
土屋主計特務少尉、丸山特務少尉、本田特務中尉、石川主計特務少尉、杉浦特務少尉は横須賀市、綿引軍楽特務少尉は名古屋市が住所です。[9]。いずれも自宅に電話は無かったようです。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
名簿に見る特務士官たち8
操縦練習生首席卒業の特務士官たち
秦郁彦編「日本陸海軍総合辞典」東京大学出版会1994年[16]に各期の操縦練習生(昭和5年以前は飛行練習生)の優等者(首席)氏名が収録されています。38期には有名な大空のサムライ坂井三郎中尉(終戦時)も名を連ねています。
この中で昭和14年度水交社員名簿に見出される操練優等者(首席)卒業者は5期(大正12年12月採用)の藤貞義人航空特務少尉、6期(大正13年6月採用)の三浦竹二航空特務少尉、7期(大正14年2月採用)の寺本宰治郎航空特務少尉の3名です。「昭和7年6月1日調昭和7年度水交社員名簿」[8]では1期(大正9年5月採用)高松福蔵航空特務少尉の記載があります。航空特務少尉の5席になっています。といっても、昭和7年度同名簿では航空特務少尉全員で8名しかいません。[9]。
2期は欠、3期の梶間義孝、4期の中村正の各優等者は両名簿に記載が有りません。
7期首席の寺元航空特務少尉は昭和14年3月調の時点では7期唯一の特務士官のようです。5期首席の藤貞航空特務少尉に1席先任を許しているだけで名簿では並んでいます。先任順下位には3期、4期、5期、6期出身者が多数記載されています。[9]。海兵団新兵入団年次も他と比して比較的古いのかもしれませんが、極めて優秀な人物と言えるのではないでしょうか。8期以降は未だ特務士官昇進者は出ていません。6期首席三浦航空特務少尉も5期藤貞少尉を追い越して15席上席になっていますが、これも海兵団入団年次が古いためだとおもわれます。
「日本陸海軍総合辞典」[16]では2期は欠になっています。私の手持ちの資料でも不完全な初期の飛行練習生名簿があります。「海軍パイロットの証言」[3]に収録されているものです。誤字や脱名が多く先任順でなくあいうえお順であり2期が完全に欠落しています。どうも操練2期はこの期自体が存在しなかったようです。敗戦のドサクサで記録が失われたわけではないようです。偵察練習生も1期〜4期までは期そのものがなかったようです。
したがって、2で触れた濱野喜作大尉(終戦時)は偵察練習生の期の未確立な時代に採用された偵察員と推定されます。
高松航空特務少尉は茨城県土浦町、藤貞航空特務少尉も茨城県土浦町、三浦竹二航空特務少尉は横須賀市、寺本航空特務少尉は呉市が住所です。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
名簿に見る特務士官たち9
兵より中佐への昇進
昭和7年(1932)は第一次上海事変、5・15事件など内憂外患を抱えながらも西中尉(バロン西)などがロサンゼルスオリンピックで活躍する明るい話題もあった年です。まだまだ余裕があったのでしょう。
昭和14年(1939)はナチドイツ軍のポーランド進攻で第二次大戦が始まった年です。日中戦争も3年目に入り、ノモンハン事件で陸軍が惨敗しました。昭和14年度水交社員名簿の紙質の悪さ、版と活字の小ささは昭和7年度に比べ逼迫しつつある事情を明確に反映しています。海軍の規模拡大にともない厚くはなっています。
[18]によれば昭和13年(1938)10月15日に海軍は兵科の特務大尉から16名を特選(註1)少佐に昇進させました。それまでは、毎年1桁しか昇進していませんから大量といえます。しかも16名中15名までが現役少佐で少佐進級即日予備役編入という名誉少佐は1名だけです。[18]。戦争激化による昇進スピードアップの最初の兆候のように見えます。こののち昭和19年(1944)まで毎年10名以上を特選少佐に進級させています。
同年機関科も機関特務大尉より14名の特選機関少佐が昇進していますが意味が重複しますのでここでは触れません。
[19]によれば、昭和19年(1944)に特選少佐の中より3名を中佐に進級させました。特務士官出身の中佐は海軍史上初めてです。これ以降もありません。兵科2名、機関科1名です。壇原袈裟由、三澤千一、酒井常十の3少佐です。
兵科の壇原、三澤の両中佐は7年度並びに14年度で確認できますが、酒井中佐は両名簿で発見できず[8]、[9]、名前の誤植かと思われるのでここでは割愛します。
壇原中佐は昭和13年(1938)10月15日の16名昇進組の一人です。少佐としては昭和14年度名簿が初出です。この16名は昭和7年度名簿で全員特務中尉でした。
壇原中佐の中佐昇進は昭和19年(1944)5月1日です。終戦まで現役です。
三澤中佐は昭和15年(1940)11月15日任少佐、昭和19年(1944)10月15日任中佐、同年12月5日予備役編入即日召集で終戦にいたる。です。昭和14年度で特務大尉、昭和7年度で壇原中佐と同じ特務中尉です。先任順ではもちろん壇原特務中尉がはるか上です。
最後まで現役だった壇原中佐の在籍期間を類推しますと明治40年代の入団と考えられますのでゆうに35年を越えます。海兵出の正規士官では飛行機の酒巻宗孝中将と同世代人かと思われます。長い下積みでしたがそのトップですので海兵出の元帥よりももっと偉大ではないかと思います。
壇原中佐の住所は横須賀市ですが7年度と14年度では所番地が違っています。三澤中佐は呉市が住所で所番地は両年度とも同じです。2人とも電話番号の記載はありません。
(註1)特選とは各鎮守府人事部管轄の特務士官名簿より海軍省人事局管轄の正規士官名簿に移行することを言う。普通は兵科、各科の特務大尉より少佐に昇進した者が特選少佐と呼ばれる。昭和19年(1944)12月に予科練(乙)1期出身などの(飛行特務)大尉が同階級のまま正規士官籍に移行したのも特選と呼ばれた。WEB[2]によれば「昭和十七年十一月 海軍省人事局長申継綴」(防衛研究所戦史室図書館蔵、閲覧要求番号 「8−人事 194」)という海軍の公式書類にも特選少佐という用語の記載があるようで、特選少佐(後に中佐、一部の《飛行特務》大尉も含む)は単なる通称ではなく公式用語だったようである。したがって、公式には 海軍省人事局が管轄する正規士官と同じ待遇、取り扱いではあるが正規士官少佐と特務士官出身少佐には厳然たる区別があったことになる。
WEB[2]『昭和十七年十一月 海軍省人事局長申継綴』(防衛研究所図書館、史料請求番号 「8−人事 194」)、http://www.warbirds.jp/ansqn/ansq07.cgi、584段7 。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』」(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』 (財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[18]『日本海軍史第6巻部門小史(下)』」(財)海軍歴史保存会 第一法規出版 平成7年。
文献[19]『海軍ジョンべラ軍制物語』雨倉孝之 光人社 1989年。
名簿に見る特務士官たち番外
高等商船出身の現役将校 寺本巌少佐
寺本少佐は高等商船出で予備士官より現役将校に転役した特異な経歴をようしますので特に書かせていただきました。
昭和14年水交社員名簿[9]の57ページに寺本巌大尉が掲載されています。寺本大尉は珍しく神戸高等商船学校出身の現役将校です。
東京、神戸などの高等商船学校(後には各地の水産講習所も含む)出身者は海軍の予備士官になる事が義務付けられていました。
しかし、元々、高等商船学校は商船士官を養成する学校です。そこから即ち予備士官より現役の兵科士官(将校)に移行させるのは異例な事です。海軍では現役将校とは海兵出身者を指すのが普通です。予備士官は召集され海軍の実務についても現役ではなく予備大尉など階級の前に予備をつけて呼ばれる存在です。現役を退役した予備役将校とも違います。
予備士官名簿は海軍省人事局が管轄します。特務士官名簿のように各鎮守府の管轄ではありません。
海軍は昭和9年(1934)から10年(1935)にかけ勤務召集された予備士官のなかから志願者を募り選抜試験を経て特別任用海軍士官として現役将校に採用しました。人数は昭和11年(1936)1月10日現在で商船出の現役士官は中尉30名、少尉19名、機関中尉15名、機関少尉21名の計85名でこのうち飛行科将校を29名含んでいました。[21]。 採用の理由としては当時の海運不況救済という名目もあったようです。この後、海軍は1942年(昭和17)12月1日、航空関係予備士官の現役転役まで予備士官よりの現役編入はしていません。[38]。
昭和19年12月25日に寺本巌海軍少佐は回天特別攻撃隊「金剛」隊の回天4基を搭載したイ63潜水艦の艦長として山口県光基地を出撃し昭和20年1月12日に回天を発進させました。このときは何とか帰還しましたが、のちに寺本艦長は潜水学校教官として伊予灘で学生訓練中にグラマンの奇襲を受け戦死したそうです。[20]。
寺本少佐は高等商船学校出身では唯一のイ号潜水艦艦長だったのではないでしょうか。操艦の手な人だったようです。住所は三重県三重郡になっています。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿 』 (財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[20]『兵士の沈黙』土井全二郎 光人社 2001年。
文献[21]『海軍オフイサー軍制物語』雨倉考之 光人社 1997年新装版。 。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
飛行艇の特務士官たち
(一)その後の林長次郎空曹長、空林永治空曹長
名簿に見る特務士官たち5特務士官たちに見る空の名人で昭和8年(1933)2月8日館山航空隊での90式2号3発飛行艇(英国ショートブラザース社製)の事故について書きました。
このほど、そのときのパイロットだった林空曹長、空林空曹長のその後についての新たな資料([22]、[23])を入手できましたので手持ちの資料と併せ調べてみました。また、私の見る事の出来る範囲内の資料でですが、「飛行艇の特務士官たち」と題するものを少し続けて書いてみたいと思います。
[24]に林長次郎航空特務少尉は昭和13年(1938)9月8日、南京より九江に進出した横浜航空隊の参戦組(日中戦争への横浜航空隊派遣隊?)の一員として見出されます。同文献の著者北出大太兵曹(後に少尉)にアメリカのニュース映画カメラマンを同乗させ空より戦場風景を撮影させる飛行任務を命令しています。使用機は91式双発飛行艇です。林飛行特務少尉となっています。名までは書かれてませんが、まず林長次郎航空特務少尉に間違いないでしょう。<<ダルマのように大きな>>とその体格が表現されています。北出兵曹は館山航空隊より昭和11年(1936)開隊の横浜航空隊に転出した初代隊員とあります。林航空特務少尉も初代隊員なのかもしれません。飛行隊長は伊東祐満少佐(海兵出)とあり、これも初代隊長かもしれません。
林長次郎飛行特務中尉は昭和17(1942)年8月27日、サンクリストバル島とサンタクルーズ諸島の海域(ガダルカナルの南東、ショートランド島の123度方向)を新式の2式大艇で偵察飛行中、米海軍フレッチャー中将の61機動部隊(TF61、空母サラトガ、ワスプ)の,サラトガのレーダーにキャッチされ、ワスプの71戦闘機隊(VF71)F4Fワイルドキャット4機の追従を受け1445に撃墜され戦死したとのことです。[22]。
[22]によると、林飛行特務中尉は14航空隊のベテラン機長とされています。1429に敵艦見ゆと発信し、F4Fによって任務遂行が不可能になると鋭い(sharply)左旋回と浅い高速度降下で逃走します。この間、1435に敵機の攻撃を受けると発信しています。71戦闘機隊の4機のF4Fは優速です。スロットル全開で追跡し左右に2機ずつ分かれて接近します。右後方のF4Fの固定機銃の照準があった(軸線が合う)ところできつい(tight)左旋回(turn)で避けます。この左に避けたところがちょうど左側の2機の照準に入ったようで距離800ヤードから攻撃を開始されます。大きな翼の中央部分が銃撃破壊され、胴体部分も銃撃を受け炎上墜落し、F4Fは2式大艇があげる濃い煙の中を通過した。とあります。F4Fのパイロットが林機の尾翼に書かれていたナンバーW-25(実際はW-45)を確認しており林機にまちがいないようです。
大型飛行艇にも関わらずsharply、tightなどと表現されており、辛うじてでしょうが2度の警報も発信しています。超ベテラン林飛行特務中尉の空の名人芸的操縦ぶりを彷彿とさせられます。
右後方のF4Fの照準(軸線)を外すところなどは乗組みのクルーも選びぬかれた人たちらしくチームワークもピッタリだったようです。
シロウト考えですが右後方のF4Fと軸線が合ったところでturn(旋回)ではなく左側へのslip(横スベリ)への選択は出来なかったかと思います。機首方向はそのままに左側に降下を伴うside slip は左側のF4Fの照準にも捉えられない航跡になるかとも思います。坂井中尉の零戦は昭和19年(1944)硫黄島で多数の米軍戦闘機の重囲からこの手で脱出しています。開戦初期にはこのような戦法はまだ普及していなかったのでしょうか。また、飛行艇のような大型機では特に3舵のバランスは重視されていたでしょう。とっさには思いつかなかったとはおもわれます。どちらにしても、4機のF4Fの前に2式大艇では最終的には撃墜されることになるとは思いますが林機は充分にF4Fのパイロットをとまどわせたようです。
写真@ 文献[26] 写真A、写真@の垂直尾翼部分の拡大

トリミングが誠に稚拙ですが、[26]に写真@が掲載されていました。垂直尾翼部分を拡大してみますと、辛うじてWの記号が確認できます。[26]によりますと横浜空は昭和17年(1942)3月のK作戦(2式大艇によるハワイ空襲)に2式大艇3機をヤルート島(マーシャル群島)に準備し2機を出撃させました。2機とも帰還しています。しかし、帰還直後、3月10日のミッドウエイ偵察で1機を失っています。残りの2機の2式大艇はいったん日本へ帰ります。5月にヤルート島に新たに開隊された14航空隊に2機の2式大艇W45、W46号([25])が再び進出します。第2次K作戦のためです。しかし、中継地のフレンチフリゲートが米海軍にパトロールされていて潜水艦による給油が不可能になったため第2次K作戦は中止になります。ミッドウエイ海戦での偵察飛行も実施されなかったようです。[27]。その後、この14空の2機の2式大艇はヤルートよりラバウルに進出しソロモン方面の任務飛行に従事するようになったと思われます。W45は8月27日に撃墜された林機です。写真@、AのWの記号は林機(W45)かW46のどちらかのでしょう。増派のW47という可能性もあります。従来は、8月7日、ツラギの横浜空97式大艇隊は全滅で、そのため、もう1機の2式大艇(W47と推定)がラバウルに増派され、8月20日現在でラバウルの2式大艇は合計3機[26]とされていました。
しかし、[41]の7月26日に、明日使用可能機数 RR(ラバウル)大艇4機、二式大艇3機 とあります。そうすると、ツラギ全滅を待たず、1942(昭和17)年7月28日現在でラバウルの14空に2式大艇は既に3機在籍ということになります。
空林永治空曹長は北出氏の[24]で<<海空軍のエースとよばれる人は 中略 伊東祐満(少佐、海兵出、横浜航空隊初代?飛行隊長)、空林の両氏>>と紹介されています。名、階級とも記載がありません。
「昭和19年5月1日調昭和19年度水交社員名簿」[23]の特務士官の部で空林氏は大尉に昇進しています。この名簿は戦争末期らしく特務士官の大尉だけで約700名記載されています。また、鎮守府別に分類されており空林大尉は佐世保鎮守府籍です。同じ佐世保鎮守府籍の濱野喜作大尉より100席ほど先任になっています。住所は[9]と同じ佐世保市です。佐世保鎮守府の管轄内に飛行艇の教育部門があったはずです。[25]。そこで長く飛行艇教育に携わっていたと推測できない事もありません。空林大尉のその他の履歴は今のところわかりません。
WEB[9−4]「Kawanishi H8K2 "Emily" Flying Boat」 c Michael
McFadyen-DevilfishDivingServiceshttp://www.michaelmcfadyenscuba.info/articles/emily.htm
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[22]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』John B.Lundstrom
.
the United States Naval Institute Press. Annapolis,Maryland . 1994.
(14航空隊行動調書など日本側の資料からの引用も多い資料である)。
文献[23]『昭和19年5月1日調 昭和19年度水交社員名簿』」(財)東京水交社 昭和19年6月。
文献[24]『奇跡の飛行艇』北出大太 光人社 昭和62年。
文献[25]『最後の飛行艇』日辻常雄 朝日ソノラマ 1994年。
文献[26]『南方作戦の銀翼たち第二巻』秋本実 グリンアロー出版社 平成7年。
文献[27]『最後の二式大艇』碇義郎 文芸春秋 昭和54年。
文献[38]『予科練外史 4』 倉町 秋次 東京:教育図書研究会昭和62年。
文献[39]『高松宮日記 第4巻』中央公論社 1996、345頁。
文献[41]「第25航空戦隊(第五空襲部隊)戦闘概報綴(山田日誌抜粋)昭和17、6−17、8」、防衛研究所図書館 資料D戦闘詳報・戦時日誌87 (資料情報提供NS様)
大正13年(1924)6月採用の操縦練習生6期首席卒業者は三浦竹二飛行特務中尉(戦死時)です。三浦竹二氏も含めて17名が翌大正14年(1925)3月に操練6期を卒業しています。[16]。「昭和14年3月1日調 水交社員名簿」[9]に及川芳雄氏(千葉県館山)ら三浦竹二氏も含めて6名の操練6期出身者が航空特務少尉の欄に見出されます。()内は当時の住所です。
昭和17年2月15日、オーストラリアのポートダーウインを出港しチモール島の防御強化に向かう敵輸送船団への索敵命令が出ます。2番索敵線担当機として三浦飛行特務中尉を機長とする97式大艇がアンボン島から発進します。2030(ママ。1030の誤植?)ころ、ポートダーウインの西100マイルの洋上で西進中の敵輸送船団を発見し、中略 三浦機は「敵戦闘機と交戦中」の緊急電を発したまま、ついに帰らなかった。[25]ということです。
東港空所属97式大艇0-24号は三浦機長以下8名のクルーだったようです。前日に組まれたばかりの即席クルーのようです。午前10時ころに敵船団発見と打電しています。高度4000mで隠密接触する事3時間、帰途の燃料に心配が出てきたところで三浦機はなぜか4000mからの爆撃を敢行します。着弾は不明のようでしたがとにかく敵艦からの猛烈な対空射撃の範囲内よりは脱出したようです。しかし、その時点で(ポートダーウインよりの?)スピットファイア(?)に補足され撃墜されたようです。三浦機長はスピットファイアからの機銃弾に直撃され機上戦死だったとのことです。[28]。
以上が操練6期首席卒業三浦竹二飛行特務中尉の最後の様子です。エンジンの始動がうまくいかず出発が1時間ほど遅れ0400の出発です。1000過ぎに敵艦を発見し、その後、隠密接触する事3時間ですので約9時間余の飛行です。
三浦機のクルーは墜落後、[28]の著者高原希国1飛曹(当時、甲飛2期、電信員)など6名が救命筏にたどり着きます。途中1名が死亡し最終的に5名が5日間の苦闘の末オーストラリア軍の捕虜になったとの事です。[28]。
高原希国氏は三浦機長を飛行艇操縦の神様と書いています。
「昭和14年度水交社員名簿」[9]で三浦飛特中尉と同じ航空特務少尉だった及川芳雄氏は「昭和19年6月1日調横須賀鎮守府籍の現役特務士官准士官のみの名簿」[29]では(飛行特務)大尉で記載されています。Wホ3601から始る横須賀鎮守府籍(飛行特務)大尉の電報符(先任順)ではWホ3633です。33席ということです。横須賀海兵団入団は大正10年(1921)6月1日、大尉昇進は昭和19年(1944)5月1日です。第11航空艦隊司令部付とあります。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[25]『最後の飛行艇』」日辻常雄 朝日ソノラマ 1994年。
文献[28]「ああ、三浦機」高原希国 「『天翔ける若鷲―予科練最前線の記録』 海原会代表長峯良斉編 読売新聞社 昭和55年、104頁-116頁。
文献[29]『昭和19、6、1調 現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
日本海軍は昭和17年(1942)2月5日に2式大艇を正式化します。といって横須賀航空隊で実用試験中の機数は試作機、増加試作機合わせて5機しかありません。そのうちの3、4、5号機をマーシャル群島ヤルート島に派遣、横浜航空隊に配属し第2次ハワイ空襲作戦(K作戦)を企図します。2月16日に3機は横須賀を出発し19日にヤルート島イミエジ基地に到着します。2月末に2機(3、4号機)が前進基地のウオッゼに進出します。3月4日0025に2機はウオッゼを発進します。途中ハワイの西北約480kmのフレンチフリゲートで潜水艦からの給油を受け、何とかハワイ(オアフ島)上空4500mに達します。雲が多く、雲上から爆弾を投下し、5日0900くらいに3号機はウオッゼに4号機はヤルートにそれぞれ帰着しました。米軍側はこの2機をレーダーで捕らえていたようですが、敵味方の識別が遅れたようです。迎撃の戦闘機を発進させますが、雲が多く2機を発見できませんでした。[26]、[27]。
3月10日、71(3)号機橋爪大尉(海兵出)機はウオッゼからミッドウエイ島偵察に発進しますがミッドウエイ付近で米軍戦闘機に撃墜されました。[25]。レーダーに捕捉され待ち受ける戦闘機に迎撃されたものだと思います。これ以降、飛行艇によるミッドウエイ偵察は行われていません。
同じく72(5号)機笹生飛行特務少尉機はジョンストン島偵察にむかいます。11日に偵察任務を成し遂げ無事ウオッゼに帰着しています。[25]。
[39]で2式大艇のヤルート進出からミッドウエイ、ジョンストン島偵察にいたる機数と機番を追ってみました。なお、《》内は私の補足です。
2月19日 四、五《号機》一九日午後クエゼリン着 以下略。
3月5日 三号艇 我燃料残額一○(空白)リットル予定地点ニテ待合ハス余力ナシ。直路帰途ニ就ク、其機ハ速ニ帰レ、ニ一一五(宛四号艇)。
3月6日二式四号艇翼端浮舟工事完了、六日発七日一四○○横《須賀?》着。
3月13日 三月十日 大艇二機ウオッゼ発進、七二号機ハ「ジョンストン」偵察ニ成功、十一日一四四五帰着。七一号機(指揮官橋爪大尉)「ミッドウエイ」偵察 中略 十二日○五三○ニ至ルモ帰還セズ。
[40]では『第一K作戦計画ノ経緯 (八)訓練』で「(1)四号艇ヲ二月十三日以後潜水艦ノ工事完成前ニ空輸 主トシテ潜水艦乗員ニ対スル補給訓練ヲ行フ 三、五号艇ヲ二月二十日頃空輸 後略」とあります。
計画では4号機を2月13日以降に先行させ潜水艦乗員の燃料補給訓練を行う予定でしたが実際に先発したのは3号機のようです。
[39]では4、5号が2月19日にクエゼリン(?)に到着しています。
また、ハワイ空襲に実際に出撃したのは3号と4号であることが[39]の3月5日、ハワイから帰還途中の3号機より4号機宛の電報でわかります。しかし[40]では2月19日イミエジ到着の時点から既に浜空七一、七ニと記録されています。
[39]では翼端フロート損傷の4号機は早々と3月6日ハワイからの帰着翌日に横(須賀?)に向け帰国させていますが[40]にこの件は記録されていません。
「ジョンストン」偵察の72(5号)機は予備機だった5号機で機長笹生(飛特)少尉クルーが乗り換えたようです。「ミッドウエイ」偵察の71号は3号機でしょう。機番の変更は4号機の帰国を擬装するためなのでしょうか。[25]、[27]などに載っている2組以外のクルーもいたと思われます。
4月20日に編集された[40]より毎日軍令部に通いナマ電の写しを取っていた[39]の方が歴史的資料としては説得力があると思います。
このあと、3月17日に笹生機(5《72》号機)は単機で横須賀に帰投します。
文献により笹生中尉としているものも有りますが、昭和17年(1942)11月1日に中尉になっています。[29]。この時期はまだ飛行特務少尉です。
笹生庄助(飛行特務)中尉は大正13年(1924)6月1日横須賀海兵団入団([29])、繰練8期(大正15年5月卒業,15名)出身([3])。特修科練習生(空戦)を卒業しています。[29]。飛行艇操縦に転向するまでかなり長期間、空中戦も出来る水上機の経験を積んでいたことが推測できます。昭和17年(1942)11月1日(飛行特務)中尉、電報符Wホ3640、横須賀鎮守府籍の(飛行特務)中尉では席次2位、大尉も含めた横鎮籍の(飛行特務)士官全体では席次40位ということです。第11航空艦隊司令部付とあります。[29]。住所は横浜市になっています。[23]。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[23]『昭和19年5月1日調 昭和19年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和19年6月。
文献[25]『最後の飛行艇』日辻常雄 朝日ソノラマ 1994年。
文献[26「『南方作戦の銀翼たち第二巻』秋本実 グリンアロー出版社 平成7年。
文献[27]『最後の二式大艇』碇義郎 文芸春秋 昭和54年。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[39]『高松宮日記 第4巻』中央公論社 1996、118頁、157頁、160頁、177頁。
文献[40]「ニ四航戦機密第ニ八号ノ一ニ 昭和十七年四月二十日 五月十日送付 南洋部隊基地航空部隊戦闘詳報第十一号、第二十四航空戦隊戦闘詳報第十一号(自昭和十七年二月十五日至昭和十七年三月十一日K作戦及「ミッドウエー」並「ジョンストン」偵察) 第一K作戦計画ノ経緯 、(八)訓練 」第24航空戦隊司令部、『連合艦隊海空戦戦闘詳報13』末國正雄・秦郁彦監修、アテネ書房 1996年、156頁、160頁。
(四)予科練(乙)1期出身の水倉喜代四飛行特務少尉と遠藤幸男飛行兵曹長
昭和17年(1942)9月13日、ラバウル基地の14航空隊より米海軍機動部隊を求めて索敵飛行に発進した2式大艇(W46と推定できる)がありました。機長(操縦)はずる賢い古手(wily
old hand)とされる水倉喜代四飛行特務少尉(予科練《乙》1期出身[31])です。1110に水倉機のクルーはツラギより南東123度方向345マイル、サンクリストバル島より東のバニコロ島に向かう航路からサンタクルーズ諸島の東海域に向かう空母部隊(61機動部隊、ホーネット、ワスプ)を確認します。ここまで南東になると日本の空母部隊の攻撃範囲外で近藤、南雲両中将の翔鶴、瑞鶴、瑞鳳は出動出来ません。[22]。
しかし、この13日の敵機動部隊発見の報は日本の潜水艦をこの地点に殺到(計8隻)させます。15日1145、列中のイ19潜水艦(木梨鷹一艦長)はワスプに肉薄して全魚雷を発射します。イ19は反撃が激しく命中は確認できないで避退しました。列中のとなりのイ15が1800ころ夕日に映える同空母が沈没するのを確認し全軍に伝えたとのことです。[32]。
水倉機長は予科練(乙)1期の出身です。この時点(S17、9、13)で飛行特務少尉です。(乙)1期の同期生には後に双発戦闘機月光でB29の撃墜王として有名になる遠藤幸男大尉がいます。しかし、遠藤氏の(飛特)少尉昇進は昭和17年(1942)11月1日です。[16]。この時点ではいまだ飛曹長で水倉氏の昇進が早く1階級の差があります。1期の卒業生はわずか78名でそのうち繰偵の搭乗員になったのは60名くらいかと思われます。予科練という新制度出身者でなおかつ少数者なのですが海軍はそれでも進級のスピードに差をつけたようです。
(飛特)中尉進級も水倉氏はS18、6、1ですが遠藤氏は11、1になっており半年の差があります。[29]、[16]。(飛特)大尉進級は遠藤氏はS19、11、1になっています。[16]。水倉氏は[29](S19、6、1調)では(飛特)中尉ですので同じ11月に進級したものと推測できます。ここで遠藤氏がようやく追いつたかに見えます。1944(昭和19)年、12、23に遠藤氏は特務士官籍から特選として正規士官籍に任用されたことは良く知られています。[38]では水倉氏も12月20日、遠藤氏より3日早く正規士官に任用されていたことが確認されます。遠藤氏は戦死後の2階級特進で中佐になるまで水倉氏を抜けなかったようです。[19]では予科練出身者も含む(飛特)大尉の正規士官大尉への任用制度は昭和19年4月に制定されたとあります。その時点で予科練出身の(飛特)大尉進級者はいませんので11月1日の予科練1期(乙)の(飛特)大尉進級を待って12月以降にこの制度が適用されたようです。水倉氏、遠藤氏はその最初の6人だったようです。ちなみに、12月20日に(飛特)大尉より正規大尉に任用されたのは水倉氏も含めて4人です。水倉氏以外の3人は松丸三郎(大正14、6、1入団 偵)、野口克己(昭和5、6、1 1乙飛 偵)、安部安次郎(昭和5、6、1 1乙飛 操《艦》)です。12月23日は遠藤氏の外は金田数正(大正13、6、1入団 偵)です。[38]。
予科練乙1期出身4名、偵察練習生出身2名の合計6名で操縦練習生出身者はいません。
1945(昭和20)年5月頃に(飛行特務)中少尉の正規士官任用も行われたと[19]にはありますが、[38]では触れられていません。
遠藤氏は1等航空兵の時に事故で怪我をし休んだ時期があったようです。[16]。それが進級スピードに影響したのかもしれません。
水倉大尉は昭和20年2月に日本近海で戦死したとのことです。[31]。
遠藤(飛特)中尉は舞鶴鎮守府籍で住所は千葉県館山となっています。[23]。水倉(飛特)中尉(Wホ3681)は横須賀航空隊付教官とあります。[29]。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[19]『海軍ジョンべラ軍制物語』雨倉孝之 光人社 1989年。
文献[22]]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』」John
B.Lundstrom.
the United States Naval Institute Press. Annapolis,Maryland . 1994.
文献[23]『昭和19年5月1日調 昭和19年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和19年6月。
文献[29]『昭和19、6、1調「現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[31]『予科練外史 1』 倉町 秋次 東京:教育図書研究会昭和62年。
文献[32]『伊58帰投せり』橋本以行 学研M文庫 2001年。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
昭和17年(1942)9月13日、ツラギより南東123度方向345マイル、サンクリストバル島より東のバニコロ島に向かう航路からサンタクルーズ諸島の東海域に向かう空母部隊(61機動部隊、ホーネット、ワスプ)を確認し、ワスプ沈没のきっかけを作った水倉大尉(昭和18年(1943)6月1日(飛行特務)中尉、昭和19年(1944)11月頃(飛特)大尉)はいつ内地に帰還したかわかりませんが、昭和19年6月1日調([29])では横須賀航空隊付兼教官でした。
昭和20年(1945)2月16日、2式大艇の輸送機型「晴空」32型で横須賀より川西の鳴尾本工場へ2式大艇の23型(エンジンを「火星」25乙型に換装し翼端フロートを引込式にした新型、H8K4)の領収飛行要員を輸送した帰路に関東に来襲した米海軍58任務部隊、空母ワスプ搭載81戦闘飛行隊のグラマンF6Fに相模灘上空で撃墜された([33])とのことです。米側資料からの引用のようですが、[33]には出典が出ていません。
前述のように先代ワスプ(CV7)はヨークタウン級の空母で昭和17年(1942)9月13日に水倉(飛特)少尉(当時)の偵察による通報からイ19潜水艦の雷撃で沈没させられています。したがってこのときのワスプは次の代のCV18でエセックス級の空母です。この後、3月には沖縄戦で航空攻撃による損傷も受けたようです。戦後まで生き延びベトナム戦にも参加しているはずです。
[22]では水倉(飛特)少尉は「ずる賢い古手(wily old hand)」と評される超ベテランです。Waspは「すずめバチ」の意らしいのですがホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタントにも取れる妙な名前の空母です。妙に縁があったことになります。
水倉大尉は当時横須賀航空隊第4飛行隊(飛行艇)所属、大尉に進級しています。分隊長だったかもしれません。遠藤幸男大尉より3日早く1944(昭和19、12、20)特選大尉で正規士官に任用されています。戦死後少佐に特進しています。[38]。
F6Fに遭遇した原因は離水直後に鳴尾に空襲情報が入り、まだ見える「晴空」と交信できなく、空襲情報を連絡できなかったことにあるようです。現代の感覚では2式大艇のような大型機と近距離交信すらできないとは信じられないことです。
確かに、[33]で見る限り、正副パイロット以外では飛行機搭乗員資格のある同乗者はいなく、2式大艇の通信士席は操縦席とは離れています。したがって無線装置を扱える人は一人もいなかったようです。
文献[22]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』John B.Lundstrom. the United States Naval Institute Press. Annapolis,Maryland . 1994.
文献[29]『昭和19、6、1調 現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[33]『異端の空』渡辺洋二 文春文庫 2000年。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
(六)水倉飛行特務少尉のタウンズビル単機空襲行に同乗した吉田一キャメラマン
(本項は重要な間違いがあることが徐々に判明してきました。部分訂正では適切でないのでタイトルごとの全文を差し替えました。2004/02/14 (土) 00:37)
前に予科練(乙)1期出身水倉喜代四大尉の1942年(昭和17)9月、ツラギ南東300マイル余で米空母ワスプを沈没に至らせしめた偵察飛行と1945年(昭和20)2月の撃墜戦死の模様を書かせていただきました。
このほど、1942年(昭和17)7月下旬、水倉飛特少尉の2式大艇(W46)での3回にわたるラバウルよりオーストラリアのタウンズビル、モスマンへの空襲に関するオーストラリア側資料を見ることが出来ました。この時期の14空ラバウル派遣隊在籍の2式大艇の機数、機番についてと共に、併せて以下に書いてみたいと思います。
1942年(昭和17)7月20日、14航空隊の2機の2式大艇(W45、W46)はヤルート(マーシャル群島)よりラバウルに進出したとあります。[26]。7月25日が1回目のタウンズビル空襲ですから当初はこの作戦が目的でラバウルに進出したとも考えられます。
1942年(昭和17)7月25日1518(東京時間、以下同じ)、 アサイと水倉飛特少尉を機長とする2機の2式大艇(W45,W46)がラバウルを離水しタウンズビルのエアロドローム(飛行場)を目標とする空襲に出発します。WEB[9−1]。1942年(昭和17)7月25日1518(東京時間)に2機はラバウルを離水します。2230目標のタウンズビル付近の防波堤とタウンズビル市街の灯が見える空域にまで到達します。2307サーチライト照射を受けます。2310、4本のサーチライトに捉えられます。2315海上に逃れます。2340防波堤と停泊中の3隻の商船に250kg爆弾15発を投弾します。26日0612にラバウルに2機とも無事帰着します。15時間の飛行とあります。停泊中の2隻の商船に軽微な損害を与えたようです。2機の戦闘機がニューギニアの基地からこの2機の帰路を待ち構える形で、迎撃に離陸したようですが、タイミングが1時間ほど遅すぎて発見できなかったようです。WEB[9−1]。
2回目は7月27日1735に2番着水倉機(W46)は単機でラバウルを離水します。指揮官機は何故か離水できなかったようです。目標は同じくタウンズビルのエアロドロームです。
このタウンズビルに対する2回目の出撃になる水倉機には「サムライ零戦記者」の著者、吉田一氏もアイモ(ニュース映画撮影用の16mmカメラ)を抱えて同乗していました。吉田氏は指揮官機は離水に失敗したと書いています。水倉2番機のみの単独空襲行になってしまったようです。吉田氏は目標は燃料倉庫と書いています。[35]。水倉機クルーのレギュラーの副操縦士の名が記録されています。タケホ タケヤ(Takeho
Takeya)とあります。翌28日0110、目標のタウンズビル空域に到達し、0116にガーバット飛行場(Garbutt
airfield)付近に250kg爆弾8発を投弾しました。このときサーチライト照射と高射砲からの対空射撃を受けます。オーストラリア空軍のレーダーステーションは到達の1時間50分前から水倉機をキャッチし、6機のP39エア(ラ)コブラ戦闘機がガーバット飛行場より離陸し滞空していたようです。オーストラリア側の資料では戦闘機が攻撃したとは書いていません。夜間飛行でP39エア(ラ)コブラが2式大艇を発見するのは難しかったのでしょうか。4000m位の高度で飛んでいたと思われる2式大艇に対するP39エア(ラ)コブラの高空性能も問題があったのかもしれません。0835に水倉機はラバウルに帰着しました。15時間の飛行です。WEB[9−2]。
このほかにWEB[9−4]では水倉機以外の2式大艇W45(W37はWEB[9−4]の誤植でW45と思われる)、W47の2機で、7月28日に3回目のタウンズビル空襲に出撃とあります。最後(3回目)のタウンズビル連続出撃には水倉機は出撃していないようです。連夜にわたる出撃は、さすがに水倉機クルーも機体も、もたなかったのではと思われます。
この出撃でW45は 機体変調ヲ認メ引キ返ス[42]とあります。結局は伊藤機(W47と推定)の単機行動になります。P39エア(ラ)コブラ戦闘機の追従を受けながらも爆弾を投下しています。W47の後部射手席にP39エア(ラ)コブラの37mmキャノン砲が命中したらしく後部射手のコンパートメントは破壊されたようですが、何とかラバウルに帰着しています。WEB[9−4]。吉田氏が2回目は穴だらけになって帰ってきたと書いているのはこの最後(3回目)のタウンズビル空襲のW47の機体のことだと思います。
W47が7月28日にタウンズビル空襲に出撃したということは8月7日のツラギの97大艇全滅以前の7月下旬には既にラバウルの14空には当初のW45、46と新派遣のW47の2式大艇あわせて、合計3機が在籍していたことになります。7月28日現在で14空ラバウル派遣隊の在籍2式大艇は3機だったようです。
[39]では8月7日の日記上欄に、ラバウル 中略 飛行艇七(内2ハU式)。とあります。
しかし、[41]の7月31日 其ノ二 明日使用可能機数 RR(ラバウル) 大艇5機、二式大艇2機
8月3日 二式大艇2機偵察任務ノ為「ツラギ」ニ進撃
二式大艇1機修理ノ為「イメージ」ニ帰投
とあります。
伊藤機(W47と推定)は3回目のタウンズビル攻撃でP39、2機の追従を受け37mmキャノン砲で後部射手席を破壊されWEB[9−4]、方向舵索切断のほか機体10数箇所に損傷を受け[42]ました。したがって、7月31日にラバウルにいたのですが、損傷のために使用可能機に数えられなかったのでしょう。8月3日に修理のためにマーシャル群島のイメージ(イミエジ)の14空本隊に伊藤機(W47と推定)は帰ったようです。[39]の8月7日に14空ラバウル派遣隊の在籍2式大艇は2機というのも辻褄は合います。
水倉機(W46)は7月30日にも目標をケアンズとする空襲に出撃しています。結果的には目標を外し、7月31日0230(東京時間に換算)ケアンズの北約100kmのモスマンより16kmはなれたトウモロコシ農場に投弾しています。女性が一人負傷しました。ケアンズへのこのときの出撃も単機です。0910に水倉機はラバウルに帰着、17時間の飛行としています。WEB[9−3]。ケアンズはタウンズビルよりラバウルに近いのですがタウンズビル空襲行より2時間ほど飛行時間が長いのは0450アバス、サマライ南方方面ノ索敵ニ就ク敵艦艇ヲ見ズ 0610索敵ヲ止メ帰途ニ就ク[42]の為です。
水倉機以外のクルーは翌8月25日に、ラバウルに復帰していたW47 (機長伊藤辰久飛特少尉)、27日にW45(機長林長次郎飛特中尉)がそれぞれ米機動部隊の空母ワスプの艦上機に撃墜されています。[22]。
水倉飛特少尉は1943年(昭和18)1月にショートランドよりニューヘブライズ諸島のエスプリツサント島(ショートランドより片道約1665km)への空襲にも851空(東港空の後身)で参加しています。このときも単機行動のようです。[26]。
水倉大尉は米軍側に「ずる賢い古手(wily old hand)」と呼ばれた、まさに歴戦の超ベテランだったようです。WEB[9−1]〜WEB[9−3]には水倉大尉の飛行服と1種軍装の2枚の写真が掲載されています。
WEB[9−1]The First Japanese Air Raid on Townsville on 25/26July1942、「THE JAPS BOMB TOWNSVILLE」 Peter Dunn
『AUSTRALIA @ WAR』 http://home.st.net.au/~dunn/ozatwar/tvbomb01.htm
WEB[9−2]The Second Japanese Air Raid on Townsville on 27/28 July 1942、「THE JAPS BOMB TOWNSVILLE」 Peter Dunn『AUSTRALIA @WAR』http://home.st.net.au/~dunn/ozatwar/tvbomb02.htm
WEB[9−3] Japanese Air Raid near Mossman on 30/31 July 1942 Peter
Dunn『AUSTRALIA@WAR』http://home.st.net.au/~dunn/ozatwar/mossman.htm
WEB[9−4]「Kawanishi H8K2 "Emily" Flying Boat」 c Michael McFadyen -
Devilfish Diving Services http://www.michaelmcfadyenscuba.info/articles/emily.htm
文献[22]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』JohnB.Lundstrom. the United StatesNaval Institute Press. Annapolis,
文献[26]『南方作戦の銀翼たち第二巻』秋本実 グリンアロー出版社 平成7年。
文献[35]『サムライ零戦記者』吉田一 光人社 昭和62年新装版。
文献[39]『高松宮日記 第4巻』中央公論社 1996、345頁。
文献[41]「第25航空戦隊(第五空襲部隊)戦闘概報綴(山田日誌抜粋)昭和17、6−17、8」、防衛研究所図書館 資料D戦闘詳報・戦時日誌87 (資料情報提供NS様)。
文献[42]「14空飛行機隊戦闘行動調書」0220頁、0224頁、0229頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書128。
補足(1)W47の機長伊藤辰久飛行特務少尉
ヤルート(マーシャル群島)で第2次K作戦(2回目の飛行艇でのハワイ空襲)のために待機していた2機の2式大艇(W45、W46)は給油地のフレンチフリゲートが米海軍の制圧下にあり、結局出撃の機会を得ず、ミッドウェイ偵察も実施されないままラバウルに進出したようです。
1942年(昭和17)7月20日、14航空隊の2機の2式大艇(W45、W46)はヤルート(マーシャル群島)よりラバウルに進出したとあります。[41]。当初の14空ラバウル派遣隊はこの2式大艇2機のみで構成されていました。また、当時、海軍が実戦部隊に投入できた2式大艇はこの2機が全てだったようです。W45の機長は林長次郎飛特中尉《(一)その後の林長次郎空曹長、空林永治空曹長》、W46の機長は水倉喜代四飛特少尉《(六)水倉飛行特務少尉のタウンズビル単機空襲行に同乗した吉田一キャメラマン》です。
7月26日にサイパン経由でW47(機長伊藤辰久飛特少尉)が補充[41]され、14空ラバウル派遣隊所属の2式大艇は3機になります。W47は7月28日に、事実上単機で、オーストラリアのタウンズビル空襲に出撃し、P39、2機の追従を受け37mmキャノン砲で後部射手席を破壊されWEB[9−4]、方向舵索切断のほか機体10数箇所に損傷を受け[42]ました。この行動調書[42]に伊藤飛特少尉は偵察員の欄に記載されていますので同少尉は偵察員出身機長であると思われます。この後、W47は8月3日に、多分、この損傷の修理のためにイミエジ(マーシャル群島ヤルート島の14空本隊)に帰ります。[42]。
W47が、いつ本隊からラバウルに復帰したかは、現在のところ、私ではわかりません。しかし、8月7日の米軍ガダルカナル上陸に伴うツラギの横浜空97式大艇隊全滅で復帰が急がれたとは思われます。遅くとも8月20日までにはラバウルに戻っていたのでしょう。20日のラバウルの2式大艇は3機、とする資料([26])もあります。
8月25日に伊藤機(W47)は米機動部隊索敵に出撃しました。米側の記録([22])では1345(米軍使用現地時間、東京時間はこれよりマイナス2時間。註1)に<<敵味方不明の空母1、巡洋艦2、駆逐艦6、位置ショートランドの110度方向、514マイル>>と打電しています。敵味方不明としていますが、これはまさしく空母ワスプを中心とする米海軍18機動部隊(18TF)です。この約40分後に伊藤機はワスプより発進し、北西の日本の艦船部隊への威力偵察(search/attack)に向かう24機のTBF、SBDの攻撃部隊(71偵察(scout)機隊《VS71》)に12000フィートの高度で3000ヤード以内に接近し過ぎ、発見され、71偵察機隊2区隊の4機のSBDに撃墜されたとのことです。[22]。
現在までのところ、私は伊藤飛特少尉の詳しい軍歴の手がかりをなにひとつ持っていません。在籍鎮守府すらわかりません。ただ、WEB[12]の8画像目に伊藤飛特中尉の名前を発見することができました。これは危篤者賞与(こういう項目のボーナスがあったようで、危篤に陥った日が戦死日になっています。事実上は戦死時のボーナスでしょう)の発表で、特に詳しい軍歴が書いてあるわけではありません。伊藤中尉の海軍在籍年数は13年であったことがわかります。したがって予科練出身ではないようです。昭和5、6、7年ころの偵練出身なのでしょう。名前に辰の字がありますが、辰年生まれでもないようです。ボーナス額は月棒の10分の5以内に勤務年数を乗じた額となっています。伊藤中尉は133円余の月棒で63円に14年を乗じた額883円が支給されています。また、戦死により1階級特進したようで飛行特務中尉になっています。133円余は飛行特務中尉の月棒額なのでしょう。
なお、WEB[12]の4画像目には林長次郎飛行特務中尉ものっていました。同じく戦死による1階級特進で飛行特務大尉になっています。林飛行特務大尉の海軍勤務年数は21年、棒給月額は159円余、79.6円x21年で1672円が危篤者賞与として支給されています。
註1 米軍使用現地時間は東京時間よりマイナス2時間。ルンドストロムの著書[22]ではソロモン付近の米軍使用現地時間をグリニッジ標準時よりマイナス11時間としている。東京時間はグリニッジ標準時よりプラス9時間である。伊藤機(W47)の敵味方不明の空母以下発見を打電したのは[22]では、25日1345としている。[39]の『高松宮日記 第4巻』の451頁では1145とあり、東京時間は米軍使用時間よりマイナス2時間であることが確認できる。
WEB[9−4]「Kawanishi H8K2 "Emily" Flying Boat」 c Michael McFadyen DevilfishDivingServices http://www.michaelmcfadyenscuba.info/articles/emily.htm
WEB[12]海軍大佐横井稔賞与ノ件外二件(海軍特務大尉飯村敏外二十五名賞与ノ件、海軍飛行特務中尉伊藤辰久外十名賞与ノ件) (目録) 9画像の8画像目(公文雑纂・昭和十八年・第二十巻・内閣二十・各庁高等官賞与三(大蔵省・陸軍省・海軍省)) アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm A04018715500
文献[22]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』John B.Lundstrom.
the United States Naval Institute Press. Annapolis,Maryland . 1994.
文献[26]『南方作戦の銀翼たち第二巻』秋本実 グリンアロー出版社 平成7年。
文献[39]『高松宮日記 第4巻』中央公論社 1996、451頁。
文献[41]「第25航空戦隊(第五空襲部隊)戦闘概報綴(山田日誌抜粋)昭和17、6−17、8」、防衛研究所図書館 資料D戦闘詳報・戦時日誌87 (資料情報提供NS様)。
文献[42]「14空飛行機隊戦闘行動調書」0224頁、0236頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書128。
補足(2)W46でも出撃していた機長伊藤辰久飛行特務少尉
7月26日にラバウルに到着したW47(機長伊藤辰久飛特少尉)は早速28日1548([42])に、第3回タウンズビル空襲に事実上、単機で出撃します。タウンズビル上空で迎撃のP39エア(ラ)コブラに追じょうされ、37mmキャノン砲が命中したらしく後部射手席のコンパートメントが破壊されたようです。WEB[9−5]。何とか29日0550([42])にラバウルに帰着しました。この時点で、W47は飛ぶことはできたようですが、作戦飛行は無理だったようです。
従って、<<7月31日 其ノ二 明日使用可能機数 RR(ラバウル) 大艇5機、二式大艇2機。[41]>>という記述になったのでしょう。25航戦(14空ラバウル派遣隊)在籍の2式大艇は3機だが、W47は損傷につき、明日使用可能は2機だよ、という意味なのでしょう。
使用可能機数は2機になりましたが、林中尉、水倉少尉、伊藤少尉の3クルーはフルに出撃したようです。
7月31日0910にW46でのオーストラリアのケアンズ空襲からラバウルに帰ったばかりの水倉クルーはさすがに、同日内の出撃は無理だったようです。同じ日の7月31日2050発進の第2回ホーン島攻撃にW47が使用不可能になった伊藤クルーが水倉クルーに替わってW46に搭乗しました。1番機W45(林クルー)とともにラバウルから第2回ホーン島攻撃に出撃したようです。
W45の林クルーにしても29日1952にラバウル出発、翌30日0630ラバウル帰着の単機での第1回ホーン島攻撃から帰ったばかりでした。[42]。
W45(林クルー)は爆弾投下器の電路が故障し、爆撃できませんでしたが、W46(伊藤クルー)は7発の250kg爆弾をホーン島に投下しました。翌8月1日、2機は分かれて、0910、0950にそれぞれラバウルに帰着しています。[42]。
この後、8月3日に、伊藤クルーは損傷したW47で、多分、修理のためにイミエジ(マーシャル群島ヤルート島の14空本隊)に帰ります。0400ラバウル発進、1310イミエジ帰着とあります。[42]。
ラバウルに残った2機と2クルー、林機(W45)と、水倉機(W46)は同じ3日にツラギに進出します。14空ラバウル派遣隊長(海兵出)も指揮官として林機に同乗していました。[42]。このツラギ進出の発進、到着時間は[42]に書かれていません。
ツラギへの進出はニューカレドニア、ロイヤルテイー、ニューヘブライデス、フイジー方面への長距離偵察に有利な、より近い基地への進出が求められた為のようです。
W45(林機)は3日2245ツラギ基地発進、4日1520同基地帰着。W46(水倉機)は4日0140(ツラギ)基地発進、同日1615同基地帰着。いずれも <<偵察 敵ヲ見ズ([42])>>となっています。指揮官は林中尉でツラギまで来た14空ラバウル派遣隊長は搭乗していません。偵察任務を果たした2機の2式大艇は6日にラバウルに帰りました。[41]。
7日の米軍ツラギ攻撃には巻き込まれないで、間一髪、直前にラバウルに帰ったようです。
ツラギ進出のときに2式大艇2機が運んだ貴重な食料でツラギの横浜空97式大艇隊は6日夜に宴会を開き、気が緩んでいた翌7日朝にワスプの71戦闘機隊(VF71)などに奇襲され、水上機隊も含め横浜空は全滅したと、何かで読んだ記憶があります。
WEB[9−5]The Third Japanese Air Raid on Townsville on 28/29 July
1942http://home.st.net.au/~dunn/ozatwar/tvbomb03.htm
文献[39]『高松宮日記 第4巻』中央公論社 1996、345頁。
文献[41]「第25航空戦隊(第五空襲部隊)戦闘概報綴(山田日誌抜粋)昭和17、6
−17、8」、防衛研究所図書館 資料D戦闘詳報・戦時日誌87 (資料情報提供NS
様)。
文献[42]「14空飛行機隊戦闘行動調書」、0224頁、0227頁、0232頁、0236頁、0240
頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書128。
予科練(乙)5期(昭和9年6月1日入隊)出身の菊地1飛曹は第1次K作戦での2番機笹生少尉機(4号機、5号《72》号機)の副偵察員でした。[25]。
第2次K作戦出撃予定だった2式大艇(W46)水倉クルーでは、当初よりのメイン偵察員だったのでしょう。その後、ラバウルに進出した3機の2式大艇の1機、水倉飛特少尉クルー(W46)のメイン偵察員として菊地吉人1飛曹を確認できます。[42]。1942年(昭和17)7月27日、水倉機のタウンズビルへの2回目の出撃には「サムライ零戦記者」の著者、吉田一氏もアイモ(ニュース映画撮影用の16mmカメラ)を抱えて同乗していました。このときのメイン偵察員も菊地1飛曹です。[42]。菊池1飛曹は1942年(昭和17)7月下旬の3回にわたるラバウルよりオーストラリアのタウンズビル、ケアンズへの空襲、8月3日〜5日のツラギ進出からニューカレドニア、ロイヤルテイー、ニューヘブライデス、フイジー方面への長距離偵察に水倉クルーのメイン偵察員として出撃したようです。8月4日のツラギよりの出撃は、水倉機がどこに向かったかは、行動調書([42]、0239頁)上、必ずしも明確ではありませんが、フイジーのようにも思えます。行動調書([42]、0239頁)では任務欄に、フイジーの文字が最後に大きく書かれています。
昭和17年(1942)9月13日、ワスプを沈没に至らしめた水倉クルー(W46)の偵察飛行([22])の航法も菊地1飛曹が担当したものと思われます。
初期の2式大艇からの、習熟した偵察員だったようです。
菊地1飛曹は昭和17年(1942)10月31日に飛行兵曹長(横須賀、Wホ2944)に進級しました。飛曹長進級後の昭和17年(1942)11月9日に802空から851空へ水倉少尉とともに異動しています。[54]。802空(旧14空)ラバウル派遣(2式大艇)隊の残存クルーが水倉クルー1組になり851空に吸収されたためのようです。
菊地飛曹長は、飛曹長進級で機長になったようです。昭和18年(1943)1月22日にショートランドよりエスプリツサント島への空襲に単機で出撃しています。[53]。このころも、前線の2式大艇は2機で増えてはいないようです。機番などはわかりません。14空ラバウル派遣隊以来の旧W46(水倉機)がそのうちの1機だった可能性もあります。菊地飛曹長は偵察員機長です。水倉少尉がW46の機長兼メインパイロットだったときのサブパイロット竹谷武保1飛曹(旧2飛曹)が菊地クルーのメインパイロットになっています。
昭和18年(1943)2月、ブーゲンビル島の南、ショートランドを基地としていた851空が東港に再編のため引き上げるさい、菊地飛曹長はヤルート(マーシャル群島)に本隊のある、802空に戻り、太平洋の前線に残ったのでしょう。
802空に残った菊地飛曹長クルーは、昭和18年(1943)3月以降にマキン島に進出し、マキン島からカントン島への空襲に出撃しようとして、ポーポイズを起こし2式大艇を大破沈没させられたこともあるようです。[61-2]。私では、そのときのパイロットは、今のところ確認できません。
この事故の後、菊地飛曹長はヤルートへいったん引き上げたものと思われます。
[55]に昭和18年(1943)9月9日に菊地機がF6Fに撃墜され、戦死した、という記載があります。9月9日、菊地機は802空派遣隊が駐屯していたマキン島([4])より発進しましたが、新型のレーダーで誘導され、待ち受ける米海軍F6F隊に撃墜された([55])とのことです。菊地機とされる可能性が高い、この撃墜の模様の記録写真が米側に残っているようです。[55]。
文献[4]『戦争と人間の記録 一海軍特務士官の記録』二藤忠 現代史出版会徳間書店 1978年 170頁。
文献[22]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』」John B.Lundstrom. the
文献[25]『最後の飛行艇』日辻常雄 朝日ソノラマ 1994年。
文献[29]『昭和19、6、1調「現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[42]「14空飛行機隊戦闘行動調書」0215頁、0219頁、0220頁、0239頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書128。
文献[53]「851空飛行機隊戦闘行動調書 自昭和17年11月至昭和18年2月」1227頁、1230頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書314、(資料情報提供NS様)。
文献[54]『昭和17・12・15調 現役海軍特務士官准士官名簿』上巻(横・呉)防衛研究所図書館 資料@名簿28。
文献[55]『零戦燃ゆ 熱闘篇』柳田邦男 文芸春秋 1990年 136〜137頁。
文献[61-2]「綴込長編戦記 されど特命飛行艇非情の空に飛べ」元第14空・海軍飛曹長 石塚猛『丸エキストラ版72 緑陰8月号 』潮書房 昭和55年 1980年 233p。
菊地クルーは昭和18年(1943)9月9日、802空派遣隊が駐屯していたマキン島(ギルバート諸島)より発進しましたが、新型のレーダーで誘導され、待ち受ける米海軍機動部隊の空母搭載F6Fヘルキャット2機に撃墜された([55])とのことです。菊地機とされる可能性が高い、この撃墜の模様の記録写真が米側に残っている。[55]。とされています。
このたび、NARA ( US National Archives and Records Administration )NWCS-Stills〔59〕より、1943年9月、日本の1機の4発飛行艇“2式大艇”が2機のF6Fに撃墜された。どちらか1機のガンカメラで10枚の写真を撮った。とされる写真を入手しました。場所はギルバート諸島(東方)とあります。この10枚の写真は、柳田邦男の著書[55]にある。<<「ギルバート諸島(沖)でF6Fヘルキャット2機により撃墜された日本軍4発飛行艇」>>という米軍側コメントの訳に符号します。柳田が見た菊地機とされる可能性が高い米側に残っている2式大艇撃墜の記録写真は、ほぼこの写真に間違いないものと思われます。
ただ、このNARAからの写真キャプションには日付が9月/1943年としかなく、9月9日の日付が確認できません。
昭和18(1943)年9月2日、4日、9日、レーダーで誘導され、待ち受ける米海軍のF6Fは偵察のためギルバート諸島東方を飛行中の3機の2式大艇を連続撃墜しています。新たに出現した米海軍の新型戦闘機F6Fによる日本軍機撃墜の初戦果です。
2日については、迎撃機は2機/2機のサッチウエーブによる4機です。柳田の文章では、その4機のうちのリチャーズ L・レッシュ(Richards ”Dix” L.・ Loesch Jr)中尉と僚機AW・ナイクイスト(AW・ Nyquist )少尉の2機が2式大艇を撃墜したとあります。[59]では2機で撃墜と書いてあり、迎撃機数にはなにも触れていません。9日(米軍使用時間では8日)という日付が確認されないため、この写真は4機のうちの2機による、2日撃墜の2式大艇のかもしれないという可能性が、わずかながら残ります。しかし、柳田の文章では2日の2式大艇の飛行高度は2100m(7000フィート)とありますが、[59]の写真#1−#2では8000フィート(2400m)とあります。また、2日の2式大艇は、柳田は<<仰向けに近い姿勢で海面にたたきつけられて、爆発した。>>としています。写真#9(〔59〕)をよく見ますと、煙に包まれた2式大艇の左翼端フロートが、正常な位置、すなわち、仰向けでない姿勢であることが、かろうじて確認できます。
4日については[60]に、F6F 3機による撃墜とありますので、2機によるとする[59]の写真は関係ないでしょう。
日付が特定できませんが、この10枚の写真の2式大艇は9日に撃墜された菊地飛曹長機の可能性が高いと思われます。
冒頭のキャプション(〔59〕)
1943年9月
日本の1機の4発飛行艇“2式大艇”が2機のF6Fに撃墜された。どちらか1機のガンカメラで10枚の写真を撮った。
写真#1 (〔59〕) 写真#2(〔59〕)

写真#1〜#4のキャプション(〔59〕)
写真#3(〔59〕) 写真#4(〔59〕)
写真上段左から右、#1−#2はF6Fが中低高度8000フィートで右側方に接近する。写真下段、#3は“2式大艇”が機首を下げスピードをつけ、一直線に距離をつめるF6Fから逃げる努力をしている。#4は右側のエンジンから、F6Fヘルキャットの6丁の50口径マシンガンによる薄い煙を曳いている。
写真#5(〔59〕) 写真#6(〔59〕)

写真#5〜#8のキャプション(〔59〕)
写真#7(〔59〕) 写真#8(〔59〕)
写真上段左から右、#5、高度を失った“2式大艇”の右側エンジンからガソリンを曳いている。F6Fは追越して左前方側面からコックピットをターゲットにしている。#6、“2式大艇”は銃撃を受け、内側のエンジンが火災を起こしていることに注目せよ、ヘルキャットは逃げる“2式大艇”を右側方下位より捕捉している。下段#7―#8、コックピットはガソリンの火炎で、“2式大艇”は水面まじかまで降下している。機内のどのジャップスも、もう生きてはいないだろう。
素人判断ですが、菊地機と思われる2式大艇を撃墜し、この10枚の写真をガンカメラで撮影したF6Fのパイロットも歴戦のベテランのように思えます。また、2式大艇が装備している機首および胴体上部と尾部の20mm動力銃座の威力も良く知られていたのでしょう。後方からはけしてアプローチしていません。すべて巧妙に右側方下位よりのアプローチのように思えます。特に写真#6(〔59〕)は右側方下位よりギリギリまで近づき、絶好な位置から見事に2式大艇を補足し射撃したように思えます。

写真#9〜#10のキャプション(〔59〕)
写真#9(〔59〕) 写真#10(〔59〕)
左から右、#9−#10、2、3秒後に“2式大艇”は水面に衝突し爆発した。水面には、炎上するガソリンのみが残った。巨大な飛行艇は吹き飛ばされ、小さな破片となった。
最後のキャプション(〔59〕)
ギルバート諸島東方を偵察中の“2式大艇”は、新機種で、なおかつ、初めて登場した機動部隊空母掩護の2機のヘルキャットに発見された。発見から“2式大艇”の最期まで、ちょうど5分間だった。
写真#4(〔59〕)に機番が写っています。しかし、鮮明ではなく確実には読みとれません。同じ写真なのですが、CD〔1〕に掲載されている写真は、写真#4(〔59〕)より鮮明で、NI−29という機番がかろうじて読み取れます。川西製(NI)の29号機という意味のようです。1980年に、アメリカより日本に返還された2式大艇の公開用塗装をする前のカラー写真を[61-1]に見ることができます。機番も見ることができ、(N)I−26と読めます。2式大艇11型(H8K1)は試作、量産機含めて16号機位までですから、両機は112機作られたという2式大艇12型(H8K2)の初期製造機なのでしょう。
写真G(CD〔1〕)
写真#4と同じ写真の尾翼部の拡大。同じ写真であるが(CD〔1〕)のほうが鮮明なので使用した。機番がN1-29(川西製の29号機)と読める。
菊地クルーは昭和18年(1943)9月3日に本隊のヤルート島イミエジからメインパイロット竹谷1飛曹を含む10名のクルーでマキン島に(再び)進出([62]《22》頁)しました。802空マキン島派遣隊となったわけです。9月9日、[62]《59》頁の所轄欄に八〇二空(派)とあります。
9月5日にはH区2の索敵にマキン島より発進しています。クルーメンバーはマキン進出のときとまったく同じ10名に、1名の偵察員が増員され、合計11名になっています。0520発進、1245帰着、敵ヲ見ズ([62]《34》頁)、とあります。
9月9日に菊地クルーはH区1の索敵のため0345にマキン島を発進しました(《59》頁)。クルーメンバーは9月5日の偵察行とまったく同じ11名です(《60》頁)。なぜか、0817 敵4発陸上機ト空戦、となっています。被害欄に未帰還1機、11名(《59》頁)、とあります。《60》頁の被害と効果の二つの欄にまたがり、後で書き加えられたと思われる筆跡で未帰還(全員行方不明)ともあります。日本軍側は菊地機は米軍4発大型機と空戦し、撃墜されたと想定したようです。レーダーに捕捉され、誘導された空母搭載の新型戦闘機F6Fに迎撃され、撃墜されたとは予想すらできなかったのでしょう。
戦闘行動の記事と、クルー名簿の二ページに分かれている、この戦闘行動調書[62]の《59》頁、《60》頁で、とにもかくにも、日本側記録としての9月9日の菊地クルーの消息不明が確認できます。この戦闘行動調書[62]には機番号欄もあり、記入もされているのですが、書類上の便宜的なもののようで、垂直尾翼にペイントされていた機番とはまったく違います。
菊地飛曹長は第1次K作戦以来の2式大艇での歴戦のベテラン偵察員(後に機長)でした。[59]は米軍側が記録したリアルな、その最後の写真のようです。
戦死後、菊地飛曹長は少尉に特進し、昭和19(1944)年4月に公示されたという情報もあるようです。
CD〔1〕「728.Gun camera footage of a GrummanF6F Hellcat downing a Kawanishi H8K“Emily” flying boat off the Gilberts (1 of 3). 」『World War II Photo Album Volume 3: Aircraft』Photo Album 3 MERRIAM PRESS 2004. (2500枚に及ぶWWU参戦各国の航空関係写真が収録されている) E-mail: ray@merriam-press.com
文献[22]『The First Team and the Gudalcanal Campaign』」John B.Lundstrom. the United States Naval Institute Press. Annapolis Maryland 1994.
文献[42]「14空飛行機隊戦闘行動調書」0215頁、0219頁、0220頁、0239頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書128。
文献[53]「851空飛行機隊戦闘行動調書 自昭和17年11月至昭和18年2月」1227頁、1230頁、防衛研究所図書館 資料D行動調書314、(資料情報提供NS様)。
文献[54]『昭和17・12・15調 現役海軍特務士官准士官名簿』上巻(横・呉)防衛研究所図書館 資料@名簿28。
文献[55]『零戦燃ゆ 熱闘篇』柳田邦男 文芸春秋 1990年 136〜137頁。
文献[59]「80-G-80443〜80-G-80452(写真のナンバー)」『NARA ( US National Archives and Records Administration )NWCS-Stills』
文献[60]『Air War Pacific Chronology: America's Air War Against Japan
in East Asia and the Pacific, 1941-1945』by Eric Hammel(資料情報提供NS様)。
文献[61-1]「Extra pin−up 7月下旬の公開を前に、外翼やフロートも取り付けられてほぼ原形に復した二式飛行艇」『丸エキストラ版72 緑陰8月号 』潮書房 昭和55年 1980年。
文献[61-2]「綴込長編戦記 されど特命飛行艇非情の空に飛べ」元第14空・海軍飛曹長 石塚猛『丸エキストラ版72 緑陰8月号 』潮書房 昭和55年 1980年 233p。
文献[62]「802空飛行機隊戦闘行動調書」 昭和18年9月3日(0758《22》頁)、9月5日(0770《34》頁)、9月9日(0795《59》頁、0796《60》頁)、防衛研究所図書館、 資料D行動調書311。
文献〔65〕『日本航空機辞典 明治43年〜昭和20年』モデルアート3月号臨時増刊 1989 244頁。
補足(4-2)米空母プリンストンのアクションリポートに見る、菊地機の最後の日
このたび、NARA ( US National Archives and Records Administration )より、U.S.S PRINCETON(米空母プリンストン)のACTION REPORTS-BAKER ISLAND
OPERATION(ベーカー島作戦の行動報告) 〔63〕を入手しました。
〔63〕は昭和18(1943)年9月2日、4日、9日(東京時間)に連続してギルバート諸島東方で消息を断った、3機の2式大艇に関する米側のACTION
REPORTS(戦闘行動報告)です。9日の菊地クルーも含むF6Fヘルキャットの初戦果、2式大艇3機連続撃墜の米軍側の詳細な記録です。
前稿(補足(4-1)2式大艇NI-29号、菊地飛曹長機の最後)で[59]の写真♯1〜♯10「80−G−80443〜80-G-80452」の10枚の写真は、ほぼ菊地機であろうとしました。ただ、[59]では9月8日(米軍現地使用時間)の日付を確認できず、断定することができませんでした。しかし、〔63−V〕に<<V ACTION OF SEPTEMBER 8、1943−(including
attached photo of intercept officers.plot) 1943年9月8日の行動―(迎撃士官による付属写真、見取り図を含む)>>とあります。3日分のアクションレポート中、写真付なのは9月8日分だけです。8日(米軍現地使用時間)に消息を絶った2式大艇は菊地クルーです。
さらに、高度8000フィート、最初に右側のエンジンに命中弾をヒットさせ、煙とガソリンを漏洩させたこと、F6Fは最初のアプローチを後方からはけしてせず、巧妙に右側方下位(starboard
quarter)よりのアプローチであることなども[59]、 〔63〕の両資料に共通して確認できます。
[59]は第1次K作戦以来の2式大艇での歴戦のベテラン偵察員菊地飛曹長機の米軍側が記録したリアルな、その最後の日の写真と断定して差し支えないでしょう。
〔63−V〕では、F6Fの迎撃の状況、ならびにパイロットについて、以下のように報告されてています。
9月8日1203と1204(ギルバート諸島の東約1100kmのベーカー島、ハウランド島付近にプリンストン、ベローウッドの2空母よりなる11.2Task
Groupが位置していた)に、プリンストンのVF-23所属のF6F2機が戦闘航空パトロールのために発艦しました。パイロットはH.Nファンク大尉(Lt.H.N.Funk)機(F-11)、L.H.カーJr中尉(Lt(jg)
L.H.Kerr,Jr)機(F-32)です。()内はこの、この2機の機番です。2機のF6Fは1317から1323に高度8000フィートで2式大艇を捕捉し攻撃、撃墜しました。1602と1603に帰(着)艦しました。
〔63−V〕の7項Description of Action 戦闘行動の記述では以下のように報告されています。
(あらかじめレーダーで2式大艇をキャッチしていた)プリンストンの戦闘機デイレクターが高度9700フイートでコンパス指度165°から170°の方向への飛行を指示します。高度10500フイートで12時の方向からまっすぐに飛んでくる“エミリー”を発見します。(“エミリー”もこの2機のF6Fを発見したのでしょう)左側に60°の旋回をし15°の降下角度でスピードを上げ2機のF6Fが機体右側方下位(starboard
quarter)へ接近しようとするのから逃がれようとします。しかし、F6Fは右側方下位400から500ヤードに近ずくと、すぐに射撃を開始、最初の命中弾で、2式大艇の右側エンジンより煙とガソリンを漏洩させます。その後、前方より、コックピットに命中弾をヒットさせ、その結果、コックピットの周辺は激しく燃え“エミリー”の防御砲火は止みます。高度500フィートで機体全体が炎に包まれ、水面に激突し、大きな煙の跡になります。(生存者は)一人も観察することは出来ませんでした。
〔63−V〕の報告と〔59〕の写真は攻撃高度、右側方下位(starboard quarter)よりのアプローチなど詳細な部分がほぼ完全に合致します。また、〔63−V〕の報告で、2式大艇に関する戦訓などの総合的情報とレーダーを組み合わせた、F6Fによる米海軍のより具体的で詳細な迎撃システムをかいま見ることが出来ます。
F6Fのパイロット、特にファンク大尉は歴戦のベテランのように思えます。階級も大尉です。2式大艇尾部の20mm動力銃座の威力を良く知っていたのでしょう。けして、尾部銃座の射角に入る後方からの攻撃は避け、右側方下位(starboard
quarter)よりの攻撃をしていたことが良くわかります。
ファンク大尉は1945(昭和20)年7月には少佐(Lt Commander)に昇進しており、護衛空母フアンショウベイ(Fanshaw Bay)のVF-26の隊長になっています。〔64〕。1945(昭和20)年9月2日の戦艦ミズーリでの降伏調印式の日に東京湾上空を祝賀飛行した数百機の米軍飛行機の1機にファンク少佐機も含まれていた可能性があります。
文献[59]「80-G-80443〜80-G-80452(写真のナンバー)」『NARA ( US National
Archives and Records Administration )NWCS-Stills』
文献〔63〕『U.S.S PRINCETON(米空母プリンストン)、ACTION REPORTS-BAKER
ISLAND OPERATION(ベーカー島作戦の行動報告)』Following reports prepared
by Air Combat Information Officer attached to VF-23(以下の報告はVF-23付の航空戦闘情報士官によって用意された)、
文献〔63―T〕「T ACTION OF SEPTEMBER 1、1943−(sketch of “Emily”
attached)1943年9月1日の行動(エミリーのスケッチ付)」、
文献〔63−U〕「U ACTION OF SEPTEMBER 3、1943 1943年9月3日の行動」、
文献〔63―V〕「V ACTION OF SEPTEMBER 8、1943−(including attached
photo of intercept officers.plot) 1943年9月8日の行動―(迎撃士官による付属写真、見取り図を含む)」。
(この資料はNARA のModern Military Records(NWCTM) Textual Archives Services Division より筆者宛にエアーメールで送られたものである)。(日本語は筆者による)。
文献〔64〕『Hellcat The F6F in World WarU』Barrett Tillman Naval InstitutePress Annapolis,MD 1979.245p.
(七)サイパンで戦死していた空林大尉、笹生中尉
(1)空林(飛特)大尉
これまで、昭和8年(1933)2月8日館山航空隊での90式2号3発飛行艇(英国ショートブラザース社製)の事故にかかわっていた林長次郎、空林永治の両空曹長のうち、林空曹長については10.飛行艇の特務士官たち(一)その後の林長次郎空曹長、空林永治空曹長で、戦死の状況を比較的詳しく書くことができました。空林空曹長は、私の当ることのできた資料での記載が極端に少なく、その消息については、今まで、ほとんど解りませんでした。
しかし、このたび、[11]、[46]、[50]などの資料に接することができ、空林大尉の19年7月16日の901空サイパン派遣隊(大艇)の隊長格としての戦死認定を確認できました。
空林大尉は大正7(1918)年6月1日海兵団(佐世保)入団[11]、大正12(1923)年8月操練3期卒業、[3]、昭和16(1941)年10月15日に現官(飛行特務大尉)昇進、専修は操(水上)で、電報符はWホ10096となっています。佐世保籍の飛行科特務士官の電報符は[11]ではWホ10001からはじまります。昭和17(1942)年12月15日以前(註1)に、すでに第11航空艦隊(註2)付[11]です。
横浜空飛行機隊戦闘行動調書(19年4月から5月、[51])の5月31日に飛行艇2機でのラバウル−ツラギ移動及びガダルカナル基地調査の指揮官に空林飛特大尉の記載があります。その後、6月から8月までの調書[52]には記載がありません。空林大尉は、横浜空のラバウルからツラギ進出のころまで同空隊員で、その後、6月〜8月に11航艦付に異動したものと思われます。
[11]の次の特務士官准士官名簿を発行することのできなかった佐世保鎮守府ではオリジナルの表紙の調査実施年月日を削り取ったものに手書きやスタンプで追加事項を書き足して流用しています。空林大尉の欄には19.1のスタンプがあり、同年同月現在でも11航艦付であることを確認したスタンプかもしれません。空林大尉は11航艦付が、長かったようです。
戦争末期に飛行艇の偵察員(ナビゲーター)だった安達氏の戦後、大分たってから書かれた手記([50])に空林大尉らしき901空サイパン派遣隊長が登場します。安達氏は、19年3月初旬、17歳でナビゲーター教育を終え、実施部隊の901空(註3)に転任し、同空サイパン派遣隊に赴任します。サイパンへの米軍上陸は6月15日です。安達氏は6月初旬の機材輸送のための飛行艇に搭乗して間一髪サイパンを離れ内地に帰還しています。安達氏の手記に<<4月中旬サイパン派遣隊長の異動があった。新任の隊長は、兵卒から出身の梅田大尉である。中年肥りの年配者ある。言葉少なく要領を得た挨拶だったので厳しさを感じた>>とあります。901空のサイパン派遣隊(大艇)の中年の兵卒出身の大尉、ということで、この梅田大尉が空林大尉だった可能性が充分にあると思われます。梅田大尉としているのは、戦後35年たってからの手記執筆であり、安達氏の記憶違いだと思われます。梅田大尉が空林大尉だとすれば、19年4月に11航艦付から901空サイパン派遣隊(大艇)隊長に異動したことになります。11航艦付のある時期から空林大尉は飛行艇担当のサイパン基地派遣隊員であったようです。11航艦司令部がラバウルの航空戦力のすべてをトラックに引き上げ、無力化し、ラバウルへの飛行機(艇)の便がほとんどなくなった後でも、11航艦サイパン基地派遣隊はラバウルへは足止めされた格好ですが、活動していたのでしょう。サイパンは太平洋中部、南東方面から日本内地に向かう飛行機(艇)の重要な中継地でした。
空林大尉は11航艦サイパン基地派遣隊隊員から内地に帰らず、直接サイパン島内の移動で901空に転任した可能性もあります。
[11]の空林大尉の欄に17年7月16日の戦死進級(特選少佐に)が手書きで記入されています。
[46]の212ページに、やはり空林大尉が7月16日に戦死と認定されています。所属 901空、 <<殊勲乙 サイパン島ニ於テ敵ト交戦 壮烈ナル戦死ヲ遂グ >>とあります。
16日は、サイパンの消息不明者の戦死認定日のひとつで、どういう情況での戦死だったかは不明なのだと思います。
註1 文献[11]『昭和? 海軍特務士官准士官名簿』(佐世保鎮守府在籍者)海軍省、の表紙の調査実施年月日がなぜか昭和から下が削り取られている。これは、次の特務士官准士官名簿を発行する余裕のなくなった佐世保鎮守府が、[11]に手書きやスタンプで追加事項を書き足し代替としたためのようである。日米開戦以降の特務士官准士官の急増と戦況の逼迫化が窺われるが、横須賀鎮守府人事部は昭和19、6、1の[29]を発行している。なお、[10]には『昭和17・12・15 現役海軍特務士官准士官名簿』上巻(横・呉)とあるので[11]と[10]は合冊であり、[11]は下巻の部分と推測できる。そうすると、[11]の削り取られた調査実施年月日は昭和17・12・15、ないしはこれに近い年月日となる。[11]での空林大尉の現職は第11航空艦隊付と手書き、スタンプではなく、正規の位置に、活字で印刷されている。従って、空林大尉は昭和17・12・15以前に11航艦付だったことが推測される。なお、同名簿の発行者は鎮守府人事部ではなく海軍省である。
註2 第11航空艦隊 11航艦はラバウルの有名な台南空(戦闘機)、14空ラバウル派遣隊(2式大艇)などを擁した25航戦(第5空襲部隊)などの上級部隊である。司令部は17年8月にはテニアンよりラバウルに前進、18年7月にはブインまで進出したが、8月にラバウルに復帰した。19年2月に航空戦力をすべてトラックに引き上げ[49]11航艦は無力化されたが、ラバウルの司令部は敗戦まで存在した。[16]。
註3 901空 <<18年12月10日、901空が新設された。対潜作戦の急務上、18年11月15日に海上護衛総隊が連合艦隊と並列して新編され、対潜護衛作戦に専念することになり、その傘下に第一線機から退いた97式大艇を集結した飛行艇対潜部隊ができたのである。東港、指宿を主基地とした。>>と[25]にある。901空は飛行艇隊のほかに陸攻、水偵の部隊もあった。
文献[10]『昭和17・12・15「現役海軍特務士官准士官名簿』上巻(横・呉) 海軍省、中表紙、索引の1部、437頁、482頁。
文献[11]『昭和? 海軍特務士官准士官名簿』(佐世保鎮守府在籍者)海軍省、10頁。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[25]『最後の飛行艇』日辻常雄 朝日ソノラマ 1994年。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[46]『搭乗員戦死者名簿 1/3 昭和19・7〜19・9』[防衛研究所図書館資料請求g@名簿116](資料情報提供NS様)。
文献[50]「サイパン島に玉砕せし友を偲ぶ」(上飛曹)安達小四郎『翔ぶ―大艇戦士の記録―』九〇一空大艇隊の会編 昭和57年、 72頁、(資料情報提供NS様)。
文献[51]『横浜空飛行機隊戦闘行動調書 自昭和17年4月至昭和17年5月』(防衛研究所図書館 資料D行動調書72)、(資料情報提供NS様)。
文献[52]『横浜空飛行機隊戦闘行動調書 自昭和17年6月至昭和17年8月』、(防衛研究所図書館 資料D行動調書73)、(資料情報提供NS様)。
(2)笹生(飛特)中尉
昭和17(1942)年3月5日のK作戦(2式大艇によるマーシャル群島ヤルートからフレンチフリゲートで潜水艦からの給油を受けての第2次ハワイ空襲)に2番機(2式大艇4号機)として出撃、帰還し、3月10日、単機(2式大艇5《72》号機)でのジョンストン島偵察も成功させた笹生飛特少尉は、3月17日に単機(5《72》号機)で横須賀に帰投します。
笹生飛特少尉は、このあと、横須賀航空隊付が長かった(約2年くらい)のかも知れません。
昭和17年(1942)11月1日に(飛特)中尉に昇進しています。[29]。
笹生中尉が再び太平洋の前線に赴任したのは昭和19(1944)年3月のようです。<<19年3月に横須賀空から四艦隊に転出された>>と書かれた資料([45])があります。ただ、この四艦隊というのは、実際には第11航空艦隊であり、著者の記憶違いかと思われます。昭和19、6、1調の[29]で笹生中尉は11航艦付であったことが確認されます。このころ、四艦隊はトラックに、11航艦はラバウルに司令部がありました。四艦隊は南洋部隊とも通称されていたようで地域的な混同が著者にあったのかもしれません。
笹生中尉は昭和19年(1944)7月8日にサイパンでの戦死が認定されています。[46]。11航艦付のサイパン基地派遣隊の一員でした。機上戦死ではないようです。
サイパンは太平洋東南方面より日本へ向かう飛行艇の重要な中継地でした。従って、ラバウルの11航艦司令部が無力化した後でも、11航艦付は発令され、19年3月に笹生中尉は派遣隊のあるサイパンに赴任したものと思われます。笹生中尉の前任者は空林大尉だったかも知れません。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[45]『二式大艇空戦記 −海軍八〇一空搭乗員の死闘−』長峯五郎 光人社NF文庫1998。
文献[46]『搭乗員戦死者名簿 1/3 昭和19・7〜19・9』[防衛研究所図書館資料請求g@名簿116](資料情報提供NS様)。
(3)サイパンで戦死した初期の操練出身者たち
昭和19年(1944)6月のサイパン戦で戦死した初期の操練出身者は空林大尉(901空サイパン派遣隊(大艇)隊長、操練3期《大正12年8月卒業》)、笹生中尉(11航艦サイパン基地派遣隊、操練8期《大正15年5月卒業》)のほかに、鈴木光由大尉(1021空《輸送航空隊の飛行艇パイロット》、操練12期《昭和3年5月卒業》)、高橋東吾少佐(902空副長で内地転勤の途次サイパンに寄り、そのまま米軍の上陸を迎えた。操練設置以前の操縦専修者)、及川芳雄大尉(11航艦サイパン基地派遣隊の陸攻担当者、操練6期《大正14年3月卒業》)、[46]、などが数えられます。
文献[46]『搭乗員戦死者名簿 1/3 昭和19・7〜19・9』[防衛研究所図書館資料請求g@名簿116](資料情報提供NS様)。
佐藤宗次(飛特)大尉の同年兵、安藤正夫(飛特)大尉
繰練12期(昭和3年5月卒業、16名)の首席卒業は安藤正夫氏です。[16]。
[2]、[3]の著者佐藤宗次氏とは大正14年(1925)6月1日横須賀海兵団入団の同年兵です。繰練12期、海兵選修学生17期も同期生です。[29]。
佐藤(飛特)大尉(最終階級)と繰練採用以降の大きく異なるキャリアとしては艦上攻撃機の操縦で専門が違うことは別として安藤(飛特)大尉が特修科練習生(攻撃)と海兵選修学生を両方卒業していることです。横須賀鎮守府籍の操縦の飛行特務士官で海兵選修学生を卒業しているのは安藤(飛特)大尉以下の席次では佐藤宗次(飛特)中尉しかいません。席次上位でも大正7年(1918)6月1日横須賀海兵団入団、大正12(1923)年8月繰練3期卒業、[9]に航空特務中尉で記載あり、住所は千葉県館山、昭和16年(1941)10月15日飛行特務大尉昇進、[29]ではWホ3607の酒井作松(飛特)大尉(1名のみです。酒井(飛特)大尉も佐藤(飛特)中尉も特修科練習生は出ていません。両方のキャリアを持つのは安藤(飛特)大尉だけです。偵察出身者でも両方のキャリアを持つのは安藤(飛特)大尉より1席先任(Wホ3635)の松丸三郎(飛特)大尉のみでした。[29]。
[29]の調整時点で選修学生出身パイロットが佐藤(飛特)中尉以下1名もいないという事は、選修学生出身というキャリアが旧海軍の特に飛行関係では評価されなくなってかなりの期間がたっていることが窺われます。
[29](昭和19、6、1調)の電報符(先任席次)では佐藤(飛特)中尉はWホ3674です。安藤(飛特)大尉はWホ3635です。差が39席もあります。階級も大尉と中尉で1ランク違います。両者は生年も同じで、海兵団入団(志願)、操縦練習生、選修学生もまったく同じです。多分、横鎮籍の12期繰練出身で選修学生を出たのはこの2人だけでしょう。したがって、航空兵曹長昇進も同時期であったと思われます。安藤(飛特)大尉は繰練首席卒業で特修科も出ていますので席次は上位かと思われますが極めて接近したものだったでしょう。
しかし、安藤(飛特)大尉の大尉昇進は昭和19年(1944)5月1日です。佐藤(飛特)大尉は昭和20年(1945)5月1日で1年の差があります。
佐藤(飛特)大尉の飛行特務少尉への昇進は昭和17年(1942)3月16日です。空曹長昇進は昭和12年末くらいと推定できます。約5年近く准士官だったわけで選修学生出身というキャリアから見ても、日中戦争開始以降の海軍パイロットとしては異例に近いくらい長いと思われます。少尉昇進の時期に安藤(飛特)大尉との席次、階級に差がついたように推測できます。
昭和20年(1945)5月1日、台湾より日本に帰還した佐藤(飛特)中尉は遅まきながら(飛特)大尉に昇進します。それと同時に航空神経症になり自宅療養に入ります。昇進遅れと勝つ見込みのない戦争とで軍人としての役目を事実上放棄したわけです。[2]。自身を充分に優秀だと認識し自信も有った佐藤(飛特)大尉はそれを反映させ得ない海軍に見切りをつけたようです。
自宅に引きこもった佐藤(飛特)大尉は戦争末期では誰も着なくなった大尉の正装(仁丹服)を着た写真をとっています。元々、特務士官には通常礼装までで礼装、正装はありません。WEB[3]。昭和17年(1942)11月1日以降、特務士官の特務という呼称は名目上はなくなっています。特務・准士官の印であった両袖の桜マークもつけないようになっています。服装違反というわけではないのですが、海軍に対するあてつけ、皮肉と取れないこともなく、海軍に絶望した佐藤(飛特)大尉の心象風景の一端を窺える写真かと思われます。
[29](昭和19、6、1調)の時点で佐藤(飛特)中尉は台湾の虎尾航空隊分隊長兼教官とあります。安藤(飛特)大尉は第931航空隊付とあります。[23](昭和19年5月1日調)に安藤(飛特)大尉の住所は茨城県稲敷郡とあります。
WEB[3]「近藤太兵曹長の准士官初任軍装手当」、『准士官以上の初任軍装手当』。http://homepage3.nifty.com/hongo/newpage1.htm
文献[2]『秘話!海兵選修学生』」佐藤宗次 MBC21(東京経済) 昭和61年。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[23]『昭和19年5月1日調 昭和19年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和19年6月。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
名簿に見る特務士官たち12
操縦練習生正規教程設置以前の下士官・兵出身操縦専修者
[3]による繰練正規教程以前の操縦専修者の最初は横地慎三郎氏他1名(計2名)の上等兵曹(大正9年以前の准士官、当時の兵曹長は士官《待遇》)のようです。大正3年(1914)3月卒業の正規士官学生の第3期航空術研究委員と一緒に試験的に操縦教育を受けたようです。([30]に所収の和田秀穂[海兵出、中将、第2期航空術研究委員]著『航空史話』の孫引き)。
横地慎三郎予(後)備役特務大尉は[8]に記載があります。(航空)特務士官が創設される前に予備役に転役したらしく単に特務大尉で記載されています。[3]のリストには横地氏の隣に藤井三郎氏の記載があります。横地氏と試験的に教育を受けたもう1名の上等兵曹は藤井氏の可能性が強いのですが、他の名簿には記載が無く確認できません。
横地予(後)備役特務大尉の住所は東京市外大井町になっています。[8]。中島飛行機会社で働いたと記述されています。[30])。
下士官からの最初の操縦専修者は大正5年(1916)6月下旬から操縦員としての教育を開始した上野強次郎(特技電信)、寺田源治(特技運用)の両2等兵曹(旧)のようです。[30]。
上野、寺田両氏も[3]のリスト以外の名簿に記載が無く以降の経歴の確認は今のところ出来ません。
名簿に見る特務士官6で紹介した特選少佐で902空副長、昭和19年(1944)6月に飛行機で日本へ転勤途中サイパンに着水、そのまま玉砕戦死した高橋東吾少佐は昭和7年度では航空特務中尉で、住所は航空特務大尉で記載がある昭和14年度[9]と同じ茨城県土浦です。
文献[3]『海軍パイロットの証言選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[29]『昭和19、6、1調 現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[30]『日本海軍航空史(2)軍備編』日本海軍航空史編纂委員会(代表山本親雄) 時事通信社 昭和44年。
操縦練習生2期が欠の理由と操縦練習生の名称の変遷
大正10年(1921)7月より翌11年(1922)10月まで英国よりセンピル飛行団が来日し講習をしています。それまで飛行機に乗せられているようなものだった([30]に所収の和田秀穂著『航空史話』の孫引き)日本海軍航空隊がこの講習により組織的に整備されたようです。繰練2期の教育期間がちょうどこの時期と合致しており講習にいそがしく2期を採用できず欠期になったようです。[30]
。
なお、操縦練習生の名称は第1期(大正9,5,15〜10、5、16)が名称(操縦練習生?)不明。第3期(大正11、12,8〜12,8,1)が飛行術練習生。第4期(大正12、6,1採用)から第7期(大正14、2,24採用)が航空術練習生。第8期(大正14,9,1採用)から第16期(昭和5、5,31採用)が飛行練習生。第17期(昭和6,6,1採用)以降が操縦練習生と変遷があったようです。[30]。
戦争末期の各種予科練の肥大化により繰練が丙種予科練に名称変更したことはここでは触れません。[29]では繰練・偵練出身の飛行特務・准士官の専修別は全て丙(丙種予科練出身?)とされています。
文献[29]『昭和19、6、1調 現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[30]『日本海軍航空史(2)軍備編』日本海軍航空史編纂委員会(代表山本親雄) 時事通信社 昭和44年。
WEB上の国立公文書館に見る特務士官たち
(一)横地慎三郎特務大尉の退職賞与
国立公文書館の検索システムを横地慎三郎で検索すると
<<件名:海軍特務大尉横地慎三郎同上(陸軍歩兵少佐安岡道助賞与ノ件)ノ件 作成年月日昭和 2年 02月 09日>>WEB[4]と出ます。
横地慎三郎海軍特務大尉は下士官・兵出身者で大正3年、准士官(当時の上等兵曹)のときに最初に飛行機の操縦訓練を受けた人物です。WEB[5]。
国立公文書館の検索システムでは書類のタイトルと書類の年月日しか出てきませんので詳しくはわかりませんがこのWEB[4]は特務大尉で予備役転入(海軍を辞める)の際に支払われた退職金としての賞与に関する書類のようです。金額はわかりません。横地氏の予備役転役の年月日が確認できるわけです。海軍では昭和2年にはまだ航空兵科はなく単に特務大尉とされています。
横地慎三郎氏は予(後)備役特務大尉として文献[8]に記載があり、東京市外の大井町に住まいしていたことはWEB[5]の通りです。文献[9]にも予(後)備役退役特務大尉の部に記載があり住所は東京品川区の中島飛行機内となっています。
WEB[4]には当HPで取り上げた特務士官名が散見されます。タイトルと書類の日付のみですが、このWEBをこれからも活用していきたいと思っています。
WEB[4]「件名:海軍特務大尉横地慎三郎同上(陸軍歩兵少佐安岡道助賞与ノ件)ノ件作成年月日昭和
2年 02月 09日」。http://www2.archives.go.jp/cgi/ipn_mokuroku_keyin.cgi 国立公文書館。
WEB[5]「12 操縦練習生正規教程設置以前の下士官・兵出身操縦専修者」、『名簿に見る特務士官たち』。http://homepage3.nifty.com/hongo/tokumu3.htm#18
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
WEB上の国立公文書館に見る特務士官たち
繰練6期首席卒業の三浦飛特中尉の昭和17年2月15日、97式大艇0-24号での戦死の様子はWEB[6]に書いたとおりです。
WEB[4]に三浦飛特中尉の戦死にともなう叙位と1階級昇進に関する書類が検索されます。
2. [簿冊標題]叙位裁可書・昭和十七年・叙位巻五十二[公 開] [排架場所]本館[請求番号]1-2A-017-00・叙-01853-100[移管省庁]内閣・総理府
[作成部局]内閣[作成年月日]昭和 17年 6月 − 昭和 17年 6月
[件名]海軍飛行特務大尉三浦竹二外五十二名叙位ノ件[公 開]
3. [簿冊標題]任免裁可書・昭和十七年・任免巻百十八[要審査] [排架場所]本館[請求番号]1-2A-021-00・任-B3191-100[移管省庁]内閣・総理府
[作成部局]内閣[作成年月日]昭和 17年 6月 − 昭和 17年 6月
[件名]海軍飛行特務中尉三浦竹二外六十三名任官ノ件[要審査]
叙位は1階級特進した階級に行われるようです。飛特中尉での位階はもっているはずですのでそうなるのでしょう。
同じ時期に戦死、1階級特進し、特進による叙位がともなう階級の陸海軍人が上記人数だけいたということでしょうか。
WEB[4]「海軍飛行特務大尉三浦竹二外五十二名叙位ノ件」、『[簿冊標題]叙位裁可書・昭和十七年・叙位巻五十二』、「海軍飛行特務中尉三浦竹二外六十三名任官ノ件」、『[簿冊標題]任免裁可書・昭和十七年・任免巻百十八 』。http://www2.archives.go.jp/cgi/ipn_mokuroku_keyin.cgi 国立公文書館。
WEB[6]「10.飛行艇の特務士官たち、(二)三浦竹二飛行特務中尉の最後」、『名簿に見る特務士官たち 』。http://homepage3.nifty.com/hongo/tokumu3.htm#18
WEB上の国立公文書館に見る特務士官たち
高松空特少尉は繰練1期、中村空曹長は繰練4期のそれぞれの首席卒業者です。WEB[7]。
高松空特少尉は昭和7年度[8]に空特少尉で記載がありますが、昭和14年度[9]現役、予後備役の部にも記載がありません。
中村空曹長は[8]、[9]ともに記載がありません。
WEB[4-1,2]に以下の書類を見ることが出来ます。
件名:海軍航空特務中尉高松福蔵同上(海軍特務中尉早崎芳太郎外一名賞与ノ件)ノ件
件名番号:134作成部局:内閣 作成年月日:昭和 9年 10月 19日
件名:海軍航空特務中尉高松福蔵叙位ノ件
件名番号:13 作成部局:内閣 作成年月日:昭和 9年 10月 19日
件名:海軍航空特務少尉高松福蔵任官ノ件
件名番号:10作成部局:内閣 作成年月日:昭和 9年 10月 19日
件名:海軍航空特務少尉中村正叙勲ノ件
件名番号:5作成部局:内閣 作成年月日:昭和 9年 05月 01日
件名:海軍航空特務少尉中村正叙位ノ件
件名番号:3作成部局:内閣 作成年月日:昭和 9年 05月 01日
件名:海軍航空兵曹長中村正任官ノ件
件名番号:2作成部局:内閣 作成年月日:昭和 9年 05月 01日
高松空特少尉、中村空曹長ともに1階級の特進になっています。昭和9年は対外的な戦争・事変は無かった年です。この1階級の特進は事故殉職による特進なのではないでしょうか。
したがって、当たり前ですが、中村空曹長は殉職後の空特少尉特進なのでいずれの年度の水交社員名簿にも記載の機会はなかったものと思われます。高松空特少尉も殉職後の、昭和14年度[9]には記載がありません。
高松空特少尉の賞与、叙位、中村空曹長の叙位・叙勲は殉職後1階級特進した階級にたいしてなされたものでしょう。
WEB[4-1] 「件名:海軍航空特務中尉高松福蔵叙位ノ件」 、『件名番号:13 作成部局:内閣
作成年月日:昭和 9年 10月 19日』 。http://www2.archives.go.jp/cgi/ipn_mokuroku_keyin.cgi 国立公文書館。
WEB[4-2]「 件名:海軍航空兵曹長中村正任官ノ件 件名番号:2作成部局:内閣 作成年月日:昭和
9年 05月 01日」。http://www2.archives.go.jp/cgi/ipn_mokuroku_keyin.cgi 国立公文書館。
WEB[7]「8操縦練習生首席卒業の特務士官たち」、『名簿に見る特務士官たち』。http://homepage3.nifty.com/hongo/tokumu3.htm
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
海軍の公文備考(WEB[11])に横須賀、呉の両鎮守府海兵団での昭和2(1927)年度初任准士官講習(准士官特別講習)の詳細と成績表を見ることが出来ました。初任准士官講習とは、初任准士官の職務に必要な軍事学(分隊士、陸戦教練、副直将校、甲板士官、短艇指揮、航海術など)と准士官以上の素養としての普通学(代数、幾何、英語の初歩など)を各鎮守府毎に下士官より進級したばかりの新任准士官を海兵団に集めて、短期講習を行うものです。准士官(兵曹長)以上は勤務だけでなく服装、食事、居住する公(私)室、勤務時間など、それまでの下士官とは、待遇がまるで違います。そのためにも特別講習が必要だったのでしょう。
横須賀では第17回准士官特別講習、呉では第12回准士官特別講習とあります。
講習期間は、正確には横須賀は大正15(1926)年11月10日〜昭和2(1927)年3月10日です。呉は大正15(1926)年11月8日〜昭和2(1927)年3月1日までです。
講習員は、大正15(1926)年11月1日に進級したばかりの、横須賀は准士官兵科32名(内3名は前年進級のもの)、機関科27名です。呉は、兵科20名、機関科25名です。
海兵(海機)選修学生採用者を除く新任准士官全員が講習員です。
横須賀では1名が不健康のため講習員を免ぜられています。次回(翌年)回しになったのでしょう。
普通学の英語と代数については、横須賀では講習員のレベルにちがいがあり、甲乙の2組に分かれています。(WEB[11]の3画像目)。
講習員は横須賀では通勤するようになっています(WEB[11]の3画像目)が、呉では土日、祝祭日以外は海兵団の兵舎に泊まりこみです。(WEB[11]の25画像目)。30代の家庭持ちの講習員が多数だったようです。自習環境に配慮したものでしょう。
WEB[11]は横須賀、呉ともに極めて詳細で達筆な謄写版刷りの報告です。講習日程は呉のほうがより詳しいようです。呉では2月28日の最終日午前中のテーブルマナーの講習(WEB[11]の38画像目)まで記載されていますが、横須賀は省かれています。
普通学の英語の教科書は、横須賀、呉ともに、ニュークラウンリーダーですが、ニューイングリッシュグラマーという英文法の教科書は横須賀には記載されていますが、呉には記載がありません。呉は英文法の時間がなかったのかもしれません。
甲乙の2組に分かれていた横須賀では、ニュークラウンリーダー巻1は甲組は第35課まで、乙組は18課までです。ニューイングリッシュグラマーは甲は8課、乙は6課までです。(WEB[11]の14画像目)。横須賀では英語は50時限、計画されていますが、実施されたのは41.5時限です。(WEB[11]の14画像目)。呉で、英語は44時限、実施されています。(WEB[11]の55画像目)。
操練1期首席卒業の高松福蔵兵曹長が横須賀の講習員に任命されていたことが確認できます。(WEB[11]の17画像目)。高松福蔵兵曹長は大正15(1926)年11月1日、兵曹長(このころはまだ、航空兵科が独立しておらず航空兵曹長ではありません)に進級していたこともわかります。鎮守府籍が横須賀であることも確認できます。
操練1期は、大正10(1921)年5月卒業です。高松兵曹長はパイロット資格を得てから満6年にみたないで准士官(兵曹長)に進級したことになります。年齢は28歳5カ月です。(WEB[11]の17画像目)。優秀な人物だったことは間違いないようですが、パイロットはこのころでも進級が早かったのかもしれません。横須賀の講習員では兵科、機関科を問わず20代での講習員は一人もいません。他は全員30以上です。
高松兵曹長の英語の点数は100点満点での95点です。これはニュークラウンリーダー巻1の35課くらいは楽にクリアーできる学歴(旧制中等学校卒業程度乃至はすくなくとも中退)を経てから海軍に志願したと思えます。
高松兵曹長の講習員としての成績は横須賀の兵科31名中6番です。(WEB[11]の17画像目)。この成績は、多分、そのまま講習終了時点での席次序列になったものと思われます。WEB[11]の17画像目の表の順番では、高松兵曹長は横須賀籍兵科の新兵曹長としては3席です。おそらく、先任2者は前年進級者かと思われ、高松兵曹長は事実上の首席だったのでしょう。それが、講習の結果、6席までダウンしたように思われます。高松兵曹長には欠席が1日あります。
昭和7年度[8]に高松福蔵航空特務少尉を確認できます。このころ、航空特務少尉は8名しかいませんが、その5席です。おそらくは、兵曹長の実役停年、最短の5年で、昭和6(1931)年11月1日に航空特務少尉に進級したのかも知れません。
高松空特少尉は昭和9(1934)年、多分事故によって殉職し、空特中尉に特進しています。
WEB[11]特務士官准士官特別講習報告(公文備考学事1巻26)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm
C04015567500
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
補足(2)高松福蔵兵曹長と、一緒に初任准士官講習を受けた横須賀籍兵科准士官31名のその後
高松福蔵兵曹長と、一緒に初任准士官講習を受けた横須賀籍兵科准士官31名のその後を以下に調べてみました。
最末尾の(例1―3―4)の1行目は横須賀での第17回准士官特別講習(大正15(1926)年11月10日〜昭和2(1927)年3月10日)の終了時点での序列です。3カ月余の短期講習ですが、この成績が新任准士官の席次を構成したようにも思えます。当稿の記載順もそれに沿いました。また、氏名は上位者よりアイウエオ順にしました。2行目は昭和14年度[9]による席次です。3行目は昭和19、6、1調[29]の記載によります。したがって、1行目しかない者は兵曹長で転役したと思われる者、2行目までしかない者は昭和14年度[9]に既に予備役特務少尉で記載がある者です。予備役特務少尉の席次は早く予備役に転入した者を後位としました。3行目が不明とあるのは、昭和14年度[9]に現役特務中少尉で記載がありますが、昭和19、6、1調[29]に記載がなく、戦・病死、殉職、ないしは昭和14年度[9]以降に予備役に転役したと思われる者です。
高松兵曹長を(6−@―殉職)としたのは、ただ一人すでに昭和7年6月1日調[8]に空特少尉で記載がありますので、特に@としました。
電報符とは字義どおりには電報のあて先につける准士官以上の個人の呼び出し符号なのでしょうが、士官の席次番号も兼ねているようです。若い番号のほうが先任になります。昭和19、6、1調[29]の時点では各氏ともWホの1桁、2桁の番号になっています。なお、横須賀籍の整備科特務士官はWホ5001から始まります。
Wホというのは特務士官准士官共通の電報符の最初に着く識別記号です。兵科の正規士官、すなわち将校には識別記号無しの番号のみです。機関科はEキが最初に付きます。Engineと機関の略なのでしょう。WホのWはWarrant
Officer(准士官)の略でしょうが、ホは何の略かはわかりません。
選は海兵選修学生出身者です。高砲、高信、高水、高電信、高運、高機雷、高整(機)とあるのは、それぞれ、砲術、信号、水雷、電信、運用、機雷、整備(機体?)の高等科練習生の出身であることを示します。特空(雷爆)、空特(発)は、それぞれ、航空(雷爆)、(発動機?)の特修科練習生出身を示します。特空と空特が逆転しているのは昭和19、6、1調[29]の誤植で空特が正しいようです。
1、 ア氏 1912(明治45)、6、1(海兵団)入団、高砲、[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語95点、(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(54席)[9]。1941(昭和16)、10,15特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)、大尉(Wホ25)横須賀砲術学校教官兼分隊長[29]。
(1―3―4)
2、 イ氏 1914(大正3)、6、1入団。高信、[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語95点、(WEB[11])。海兵選修学生卒業(以下は選と略)([29])。1939(昭和14)特務中尉(46席)[9]。1940(昭和15)、10,15特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)、大尉(Wホ8)ラバウル運輸部員[29]。
(2−1−1)
3、 ウ氏 1912(明治45)6,1入団。高水。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語95点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(96席)[9]。1942(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ46)土浦航空隊教官兼分隊長[29]。
(3−10−8)
4、 エ氏 1914(大正)3、6、1入団。高電信。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語97点(WEB[11])。選[29]。1939(昭和14)特務中尉(47席)[9]。1940(昭和15)、11,15特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ9)東京通信隊分隊長兼水路部付兼気象部隊付。[29]。
(4−2−2)
5、 オ氏 1911(明治44)、6、1入団 高砲。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語97点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(47席)[9]。1941(昭和16)、10、15特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ27)第89防空隊長。[29]。
(5−8−6)
6、 カ(高松福蔵)氏 操練1期(大正10(1921)年5月、首席卒業)[16]、1926(大正15)、11,1兵曹長進級、英語95点(WEB[11])。1932(昭和7)年、航空特務少尉(8名中の5席)[8]。1934(昭和9)年、殉職、空特中尉に特進。
(6−@―殉職)
7、 キ氏 1912(大正元)、12、1入団(徴兵) 特空(雷爆)。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語95点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(55席)[9]。1941(昭和16)、10、15整備特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)整備大尉(Wホ5005)洲ノ崎航空隊分隊長兼教官(横須賀分遣隊)。[29]。
(7―4−5)
8、 ク氏 1912(明治45)、6、1入団 高水。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語87点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(98席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ47)海上護衛総司令部付。[29]。
(8−12−9)
9、 ケ氏 1913(大正2)、6、1入団 高水。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語89点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(99席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ48)横須賀通信学校教官兼分隊長。[29]。
(9−13−10)
10、 コ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語90点(WEB[11])。
(10)
11、 サ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語69.3点(WEB[11])。1939(昭和14)予備役特務少尉(約361席)[9]。
(11−25)
12、 シ氏 1913(大正2)、6、1入団 高水。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語93点(WEB[11])。選[29]。1939(昭和14)特務中尉 (58席)[9]。1941(昭和16)、10、15特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ13)艦政本部付。[29]。
(12−5−3)
13、 ス氏 1910(明治43)、6、1入団 高砲。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語66点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(108席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ53)艦政本部付。第52警備隊付分隊長[29]。
(13−14−11)
14、 セ氏 1910(明治43)、6、1入団 高運。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語85点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(93席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ41)第701航空隊分隊長。[29]。
(14−9−7)
15、 ソ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語70点(WEB[11])。1939(昭和14)予備役特務少尉(約387席)[9]。
(15−21)
16、 タ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語71点(WEB[11])。1939(昭和14)予備役特務少尉(約363席)[9]。
(16−23)
17、 チ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語64.4点(WEB[11])。1939(昭和14)航空特務中尉(18名中13席)[9]。
(17−6−不明)
18、 ツ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語64.4点(WEB[11])。1939(昭和14)予備役特務少尉(約370席)[9]。
(18−24)
19、 テ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語69.3点(WEB[11])。1939(昭和14)予備役特務少尉(約345席)[9]。
(19−26)
20、 ト氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語67.9点(WEB[11])。1939(昭和14)予備役特務少尉(約373席)[9]。
(20−22)
21、 ナ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語64.2点(WEB[11])。1939(昭和14)特務中尉(97席)[9]。
(21−11−不明)
22、 ニ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語71点(WEB[11])。1939(昭和14)特務少尉(2席)[9]。
(22−15−不明)
23、 ヌ氏 1910(明治43)、6、1入団 高砲。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語86点(WEB[11])。1939(昭和14)特務少尉(3席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ82)横須賀鎮守府付(横須賀防備隊司令承命)。[29]。
(23−16−12)
24、 ネ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語68.6点(WEB[11])。1939(昭和14)特務少尉(9席)[9]。
(24−20−不明)
25、 ノ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語62.3点(WEB[11])。1939(昭和14)特務少尉(8席)[9]。
(25−19−不明)
26、 ハ氏 1911(明治44)、6、1入団 高機雷。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語49点(WEB[11])。1939(昭和14)特務少尉(5席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ84)伊勢防備隊分隊長。[29]。
(26−18−14)
27、 ヒ氏 1910(明治43)、6、1入団 高運。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語65.8点(WEB[11])。1939(昭和14)特務少尉(4席)[9]。1941(昭和17)、6、1特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)大尉(Wホ83)。武山海兵団分隊長兼教官[29]。
(27−17−13)
28、 フ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語60点(WEB[11])。
(28)
29、 ヘ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語58点(WEB[11])。
(29)
30、 ホ氏 1912(明治45)、6、1入団 空特(発)高整(機)。[29]。1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語67.9点(WEB[11])。1939(昭和14)整備特務中尉(17席)[9]。1941(昭和17)、6、1整備特務大尉進級。[29]。1944(昭和19)整備大尉(Wホ5017)。高座工廠付[29]。
(30−7−15)
31、 マ氏 1926(大正15)11,1兵曹長進級、英語47.6点(WEB[11])。
(31)
31名中、昭和14年度[9]にまったく記載がなく、兵曹長で転役したと思われるも者4名。昭和14年度[9]の予備役特務少尉欄に、すでに記載がある者6名。現役特務中少尉で昭和14年度[9]に記載があるが、昭和19、6、1調[29]に記載がなく、戦・病死、殉職ないしは昭和14年度[9]以降の予備役転入のいずれかと思われる者は、(昭和7年度[8]に空特少尉で記載のある高松兵曹長を含め)6名です。昭和19、6、1調[29]に記載があり、海兵団入団年月日、専攻、学歴、現官(この場合は特務大尉)昇任年月日、電報符、各鎮守府通しでの兵科特務士官の席次、現職などがわかる者15名となります。1926(大正15)年11月1日に進級した横須賀籍兵科准士官は満州事変、上海事変、日中戦争、対米戦争を迎え、ほとんどが特務少尉以上に進級し、31名中15名が現役で(特務)大尉に進級したわけです。
昭和19、6、1調[29]に記載がある15名の生年は1891(明治24)年〜1897(明治30)年に渡り、年齢は1944(昭和19)年で47歳〜53歳となります。
兵曹長に進級後、海兵選修学生に採用された者が3名いますが、昭和19、6、1調[29]では、その3名が、この15名中の首席、次席、3席を占めています。
WEB[11]特務士官准士官特別講習報告(公文備考学事1巻26)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm
C04015567500
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
補足(3)中村航空兵曹長の殉職と90式2号2〜3型(水上)偵察機![]()
このたび、WEB[15]、[16]で繰練4期(大正13《1924》年5月卒業)首席の中村空曹長の飛行訓練中の事故殉職の様子と、詳細な海軍での経歴を知ることができました。中村航空兵曹長は昭和9(1934)年5月1日、90式2号2型水上偵察機(報国第57号《北海道号》、川西製52号)に搭乗、大湊海軍航空隊南方1500メートルの海上で特殊飛行訓練中、左錐揉みから回復できず、墜落死亡しました。WEB[16]。戦死ではありませんが、公死殉職です。したがって、同日付で海軍航空特務少尉に特進任官、勲7等青色桐葉章(旭7等と略すこともある)を特別叙勲され、正8位に叙位されました。WEB[15]。
海軍航空特務少尉に任官した時点で死亡していますので海軍士官クラブたる水交社には物理的に入社できません。どの年度の水交社員名簿にもその名は記載され得ません。
中村空曹長の経歴は
明治35(1902)年1月9日 札幌生まれ。
大正9(1920)年6月1日 海軍4等水兵ヲ命ス
同年10月30日 海軍3等水兵ヲ命ス
大正10(1921)年12月1日 海軍2等水兵ヲ命ス
大正11(1922)年11月1日 海軍1等水兵ヲ命ス
大正12(1923)年5月24日 第四期航空術練習生ヲ命ス
大正13(1924)年5月1日 任海軍3等兵曹
大正13(1924)年5月24日 第四期航空術練習生教程卒業
同 日 霞ヶ浦海軍航空隊勤務
大正14(1925)年11月1日 任海軍2等兵曹
昭和2(1927)年5月1日 任海軍1等兵曹
6月25日 軍艦長門乗組
昭和3(1928)年12月15日 霞ヶ浦海軍航空隊勤務
12月16日 教員ヲ命ス
昭和5(1930)年1月10日 海軍1等航空兵曹トナル
6月1日 達第73号ニ依リ操縦練習生教程卒業者ト看做サル
11月1日 任海軍航空兵曹長
同 日 横須賀鎮守府付
同 日 横須賀海兵団長承命服務
昭和6(1931)年3月11日 叙勲八等授(ママ)瑞宝章
4月1日 霞ヶ浦海軍航空隊付ヲ命ス
昭和8(1933)年11月1日 大湊海軍航空隊付ヲ命ス
昭和9(1934)年5月1日 任海軍航空特務少尉
同 日 叙正八位
とあります。WEB[15]。
中村空曹長は18歳で海軍に志願入団し、4年に満たない期間で兵の階級をおえ下士官に昇進、下士官の義務服役6年間を半年ほど越えた時点、すなわち、横須賀海兵団入団以来10年半、28歳で兵曹長に昇進しています。中村空曹長は操練(航空術練習生)4期首席卒業の優秀な人物ではあったでしょうが、航空兵科は他科に比較して各段に昇進のスピードが速かったことも窺えます。あまり昇進が早すぎて、普通は1等兵曹位で叙勲される勲8等瑞宝章を兵曹長になってからもらっています。
札幌出身の中村空曹長(ホ725 WEB[19])は、5月4日に小樽で行われる報国57号(北海道号)の命名式に参加予定でした。5月1日は命名式でのデモンストレーションに備え、同機での特殊(スタント《曲技》)飛行訓練中でした。中村空曹長は、それまで経験のない左旋転のきりもみ降下を実施、4旋転目でも回復できず、落下傘での脱出を企図しますが、失敗し墜死しました。同乗の偵察員西橋1空曹(偵練7期 大正14《1925》年5月30日卒業)は高度150メートルから落下傘で、かろうじて脱出し、生還しています。WEB[16]。
90式2号2型水上偵察機の特殊飛行の制令(制限)は<<錐揉以外ハ総テノ特殊飛行ヲ実施シ差支ヘナシ錐揉ハ三旋転以内実施スルコトヲ得 但シ、三回以上実施スベカラズ>>WEB[16]、とあるようです。4旋転目でも水平飛行に回復しない同機からの落下傘脱出はベテラン(飛行時間2161時間 WEB[16])中村空曹長をして、ギリギリの判断だったように思えます。
90式2号2型水上偵察機の原型機はアメリカのチャンス・ボートO2Uコルセア水上観測機です。シンプルな単フロートをはずし車輪を付けた陸上機型が90式2号3型偵察機です。製造権を得て日本で90式2号2〜3型(水上)偵察機として製造されました。陸上機型の同型機新型で座席に風防を付けたタイプのチャンス・ボートV92コルセア偵察機は当時の中国中央軍空軍にも多数機が購入され、対中共地上戦、日中戦争(第2次上海事変)緒戦で活躍しました。西安事変のとき、周恩来が西安より延安への帰途に利用した飛行機も中央軍空軍のチャンス・ボートV92コルセア偵察機でした。周恩来の唯一の飛行服の写真を残しています。WEB[17]。
錐揉みなどには、入れにくい安定した飛行性能と、機体の頑丈さを併せ持つ機種かと思われます。全くの素人判断で恐縮します。敢えて、書かせていただきます。中村空曹長がもう少しスピードをつけて左きりもみからの回復操作を実施したのならば、同機は、あるいは、3旋転以内で水平飛行に回復し得たのではないでしょうか。
5月4日の小樽での命名式は、確認はできませんが、報国57号ではない、違う機体で挙行されたのかもしれません。<<北海道号ハ5月5日命名式挙行ノ予定ナルヲ以ッテ墜落機ハ、オミ(大湊空の略)132号と発表セリ。 WEB[19]>>とあります。とりあえず、報国57号の喪失は伏せられています。
翌昭和10(1935)年1 月31日、雪の大湊海軍航空隊の陸上飛行場に橇付の3型(陸上機型)が墜落しています。 WEB[18]。飛行学生卒業後半年の中尉がパイロットです。離陸直後にエンジンがストップし、飛行場に引き返そうとして墜落したようです。初心者らしい事故のようにも思えます。この事故機もオミ57号報国北海道号(中島第135号)WEB[18]、とされています。報国57号北海道号の献金は1機分しかなかったのでしょう。その機体を命名式前に墜落喪失してしまいました。献金を北海道の献金者に返すわけにも行きません。無理やりに報国献金で購入されたのではない90式2号3型偵察機(中島第135号)をオミ57号報国北海道号として辻褄を合わせたのかもしれません。報国献金で購入されたのではない機体に、さすがに報国57号という一連ナンバーを使うことができず、オミ57号とし、報国北海道号として献金者への体面を保ったのではないでしょうか。あるいは、5月4日の小樽の命名式に、急遽、この機体が参加していたのかも知れません。

写真B川西製九〇式二号水上偵察機二型の1号機(文献[58])

写真C九〇式二号水上偵察機二型を陸上機化した九〇式二号偵察機三型(E4N2-C)(文献[58])

写真D九〇式二号偵察機三型(陸上機タイプ)の同型新型のチャンス・ボートV92コルセア、座席に風防が付き、下翼に爆弾架が付いている。垂直尾翼のストライプは中国中央軍空軍所属を示す (WEB[21])
5月1日に墜落した90式2号2型水上偵察機(報国第57号《北海道号》、川西製52号)は墜落直後、海中から引き上げられ、その大破された機体の写真がWEB[16]に所収されています。翌昭和10年1月31日に雪の大湊飛行場に墜落大破した90式2号3型偵察機(陸上機型橇付 オミ第57号《報国北海道号》、中島第153号)も大破された写真が、WEB[18]に所収されています。アジア歴史資料センター(WEB[16]、[18])へのアクセスは容易だと思われますので、ここでは大破した両機の写真は掲載いたしません。
WEB[15]5月2日 海軍航空特務少尉 中村 正 (目録) 12画像(公文備考 昭和9年 B 人事 巻29)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmC05023390200
WEB[16] 大湊空機密第16号の4 9.5.17 大湊海軍航空隊水上偵察機「報国第57号(北 大湊海軍航空隊水上偵察機「報国第57号(北 (目録) 31画像(公文備考 昭和9年 T 事件・災害 巻7)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmC05023979700
WEB[17]4周恩来と飛行機http://homepage3.nifty.com/hongo/mokuji4.htm
WEB[18]大湊空機密第16号 10.2.13 大湊航空隊90式2号艇偵察機3型墜落事故 (目録) 29画像(公文備考 昭和10年 T 災害事故 巻5止)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmC05034659300
WEB[19]大空機密第55号 9.3.13 89式艦上攻撃機オ-389号遭難概報 (目録) 10画像の9画像目 (公文備考 昭和9年 T 事件・災害 巻7) アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/f_1.htm C05023979600
WEB[21]Early Chinese Aircraft中國飛機 林振榮 http://cwlam2000.0catch.com/index.htm
文献[58]別冊航空情報『日本海軍制式機大鑑』解説・秋元実 酣燈社 平成12年。
WEB上の国立公文書館に見る特務士官たち
(一)WEB[8]で触れた横地特務大尉は准士官(当時の上等兵曹)で正規士官の第3期航空術研究委員と一緒に操縦教育を受けています。現職下士官として最初に操縦教育を受けたのは上野強次郎(特技電信)、寺田源治(特技運用)の両2等兵曹(旧)のようです。WEB[5]。両名とも[8]、[9]に記載は無くその後の確認は出来ませんでした。
しかし、WEB[4]に以下のタイトルを見ることができ、上野強次郎氏のその後の消息の一端を知ることが出来ました。
1. [簿冊標題]叙位裁可書・大正十年・叙位巻二十九[公 開]
[排架場所]本館[請求番号]1-2A-016-00・叙-00688-100[移管省庁]内閣・総理府
[作成部局]内閣[作成年月日]大正 10年 10月 − 大正 10年 10月
[件名]海軍特務少尉上野強次郎叙位ノ件[公 開]
2. [簿冊標題]叙勲裁可書・大正十年・叙勲巻三・内国人三[公 開]
[排架場所]本館[請求番号]1-2A-018-00・勲-00584-100[移管省庁]内閣・総理府
[作成部局]内閣[作成年月日]大正 10年 10月 − 大正 10年 12月
[件名]海軍特務少尉上野強次郎外一名同上(陸軍騎兵少佐高畑春爾外二百七十一名叙勲ノ件)ノ件[公 開]
3. [簿冊標題]任免裁可書・大正十年・任免巻四十五[要審査]
[排架場所]本館[請求番号]1-2A-019-00・任-B1008-100[移管省庁]内閣・総理府
[作成部局]内閣[作成年月日]大正 10年 9月 − 大正 10年 10月
[件名]海軍兵曹長上野強次郎任官ノ件[要審査]
上野氏は大正10年に特務少尉に昇進しそれにともなう叙位・叙勲を受けたことが解ります。しかし、この昇進が退職に伴う名誉特務少尉か事故殉職に伴う特進であるかは確認できません。WEB上の国立公文書館はタイトルのみしか見ることが出来ません。
昭和7年、14年の水交社員名簿の予後備退役特務士官の部に記載はありません。
大正5年に2等兵曹で操縦教育を受けたとあります。[30]。5年で特務少尉昇進というのは当時としては異例に早いことになります。
WEB[4]「件名]海軍兵曹長上野強次郎任官ノ件」、『[簿冊標題]任免裁可書・大正十年・任免巻四十五[要審査]』。http://www2.archives.go.jp/cgi/ipn_mokuroku_keyin.cgi 国立公文書館。
WEB[5]「12操縦練習生正規教程設置以前の下士官・兵出身操縦専修者」、『名簿に見る特務士官たち』http://homepage3.nifty.com/hongo/tokumu3.htm
WEB[8]「14WEB上の国立公文書館に見る特務士官たち(一)横地慎三郎特務大尉の退職賞与」、『名簿に見る特務士官たち』。http://homepage3.nifty.com/hongo/tokumu3.htm#18
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[30]『日本海軍航空史(2)軍備編』日本海軍航空史編纂委員会(代表山本親雄) 時事通信社 昭和44年。
補足(1)下士官最初の操縦専修者上野強次郎特務少尉の殉職と操練1期の大久保源三1等水兵![]()
下士官最初の操縦専修者上野兵曹長は大正10(1921)年9月29日、航空母艦「若宮」乗組で殉職していたことが、WEB[20]でわかります。大正15(1926)年3月、霞ヶ浦神社建設の際、合祀75柱の17柱目、下士官出身パイロットとしては最初の合祀者のようです。上野兵曹長の特務少尉への特進、叙位、叙勲は公死殉職に伴うものであったことが確認できます。
詳細な経歴、事故の様子などを知りたく、[57]の上野特務少尉の部分だけのコピーを国会図書館から取り寄せてみました。以下に[57]による上野特務少尉の経歴の概略を書いてみたいと思います。ただし、[57]は航空殉職者への追悼文であり、故人を美辞麗句で飾らなければいけなかったようです。経歴などは粉飾されているように思え、正確ではないようです。
明治20(1887)年9月 新潟県北蒲原郡新発田町に生れる。
新発田中学卒業
明治42(1909)年3月 上京、海軍兵学校、商船学校受験準備中眼疾に罹り終に採用させられず 同年海軍志願兵となり、横須賀海兵団に入団
明治43(1910)年1月〜3月 第1艦隊所属「肥前」に乗組
水雷学校に入り、無線電信術を専修し卒業
明治44(1911)年1月〜明治45(1912)年3月 軍艦「宗谷」に乗組み、練習艦隊旗艦に属して南洋を巡航す
同年(明治45年?) 3等兵曹に任ぜられ、後再び追浜航空術研究所に入り専ら航空術を研究し、業を卒へて助教授に任ぜられる
大正3(1914)年 母艦「若宮」に乗組み日独戦役に従いて青島を攻撃し、任を終わりて後、其功に7等に叙し青色桐葉章を授けられ、特に金250円を賜はりたり
其間或いは軍艦「敷島」に乗組みて司令官幕僚として北海道、樺太を廻航し、米国艦隊に会合し、或いは最初の長距離飛行を追浜長浜間に試みて任務をはたす等事蹟甚多し。又機上射撃術を浜名湖上に練習して其業を卒る。 爾来専ら追浜に在りて飛行術の教授に従う
大正5(1916)年 「若宮」艦乗組を命ぜられ、6月横須賀を発して青島に航し、8月青島より廻航して豊後佐伯湾に泊して、九州、四国の海上に飛行戦演習中、測らずも奇禍に罹りしなり。
大正10(1921)年9月29日
「若宮」より午後5時40分、2機の水上機(横廠式ロ号112、同114)を放ち、午後6時20分より「若宮」は探照燈その他の燈火を点じて2機の帰還を待ったが、帰還せず、付近海上を捜索、翌日午前8時30分、フロートにつかまり12時間漂流した114号機(2等兵曹横山重吉氏、1等水兵大久保源三氏)の2名は救助されたが、上野機は終に発見できなかった。悪気流に巻き込まれ2機とも不時着水し、上野機は乗員ごと転覆沈没したものと思われる。

写真E上野強次郎特務少尉(文献[57])
上野兵曹長は新発田中学を卒業後、22歳で横須賀海兵団に志願入団しています。新発田中学卒業から22歳までは数年間あったのではないでしょうか。旧制中学卒業後のストレートな海軍志願兵ではないようです。何年か、商船学校、海兵など上級学校への受験を繰り返していたのかも知れません。いずれも、合格せず海兵団志願入団となったように思われます。
明治45年、当時は、海兵団入団よりわずか3年では下士官(3等兵曹)まで昇進は不可能でしょう。最短でも4年半以上は必要だったと思います。また、明治45年では下士官・兵に対する操縦訓練も公式には開始されていません。
[30]では大正5(1916)年に2等兵曹で操縦教育を受けたとあります。
大正3(1914)年に「若宮」で青島に出撃したかもしれませんが、そのときはまだ操縦の訓練を受けていなくパイロットではなかったように思えます。青島戦での「若宮」のパイロットは原則として全員士官以上だったと記憶しています。ただ、無線電信術を専攻した上野氏は「若宮」艦載機が無線電信機を搭載していたとするならば、それに関与し、同乗飛行をしていた可能性はあると思います。
この資料で最悪なのは、大正5(1916)年に「若宮」乗組みを命ぜられてから、文脈でそのまま大正10(1921)年9月29日の佐伯湾の事故殉職に至らしてしまっていることです。これは大正10年を大正5年と誤植して、そのまま訂正せず、文脈での辻褄を合わせてしまったためのようです。大正5(1916)年は上野2曹がパイロットの訓練を開始した年であり、「若宮」にパイロットとして乗組した年ではありません。
<<最初の長距離飛行を追浜長浜間に試みて任務を果たす等事蹟甚多し。又機上射撃術を浜名湖上に練習して其業を卒る。爾来専ら追浜に在りて飛行術の教授に従う>>という事蹟も大正5(1916)年以降、パイロットになってから大正10(1921)年の春に「若宮」に乗組むまでの出来事なのではないでしょうか。勲7等に叙し青色桐葉章を授けられたのもパイロットになってからのことだと思われます。また、この文章からでは上野強次郎氏がいつ兵曹長に昇進したかも定かではありません。
[57]は海軍最初の下士官出身操縦専修者上野特務少尉の正確な経歴を知りたいという意味では期待はずれでした。アジア歴史資料センターなど、私にとって身近なものであるWEB上の資料群の今後の拡大充実に期待したいと思います。
余談になりますが、最近、アジア歴史資料センターでは目録はあるのですが、<<画像情報が存在しません。>>というのが目に付くようになりました。特務士官、准士官、下士官関係にこの種のものが多くちょっと気にかかります。目録があって画像情報がないというのはあり得るのでしょうか。
本論に戻ります。[57]は上野特務少尉に関する歴史的資料としての信頼性に欠けますが、上野特務少尉の肖像写真を得れたこと、遭難機の機種機番が横廠式(ロ号)水上偵察機112号、同114号であったこと、翌朝フロートにつかまり救助された僚機112号の搭乗者の一人が操練1期(大正10《1921》年10月5日卒業)出身の大久保源三1等水兵であったことなどが[57]によりわかりました。
横廠式ロ号甲型は海軍最初の制式機の中の1機で唯一の国産機です。其の制式採用は大正7(1918)年のことのようです。

写真F横廠式(ロ号)水上偵察機(文献[58])
大久保源三1等水兵は[3]の記載が正しいとすれば、事故遭難時には操練1期をまだ正式には卒業していません。
大久保源三氏は昭和2(1927)年11月に兵曹長に昇進しています。WEB[21]。操練1期卒業の翌月大正10(1921)年11月に下士官に昇進したとすれば、下士官の義務服役6年きっかりで下士官を終え兵曹長に昇進したことになります。当時として最短だと思われます。昭和2(1927)年11月〜昭和3(1927)年3月の<<第18回横須賀鎮守府特務士官准士官特務(ママ)講習>>を席次9席でおえています。英語は50点満点の47点です。WEB[21]。この講習はダルトンプランによる教育を施行、とあります。
昭和7(1932)年6月1日調([8])ではまだ航空兵曹長だったのでしょう、記載がありません。昭和14(1939)年3月1日調([9])では航空特務中尉の9席で記載があります。大湊要港部の官舎に住んでいます。昭和19(1944)年6月1日調([29])では、大久保氏は大正6(1917)年6月1日、横須賀海兵団入団、昭和16(1941)年10月15日現官(飛行特務大尉)任官、博多航空隊分隊長兼教官(天草分遣隊)とあります。博多空は練習航空隊です。電報符はWホ3606、横須賀籍の飛行科特務士官では6席ということです。専修は水上とあります。大久保氏は明治32(1899)年生([29])ですので28歳、海兵団入団より10年半での航空兵曹長への昇進です。
昭和20(1945)年5月1日に少佐に特選されています。[38]。
WEB[20]祭粢料並賜物下賜の件(2) (目録) 50画像の43画像目(公文備考 儀制4 巻17)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmC04015066800
WEB[21]第18回横須賀鎮守府特務士官准士官特務講習実施経過成績意見 (目録) 50画像の24画像目(公文備考 兵員3止 巻94)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm C04016355500
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[30]『日本海軍航空史(2)軍備編』日本海軍航空史編纂委員会(代表山本親雄) 時事通信社 昭和44年。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
文献[57]「航空母艦若宮乗組 海軍特務少尉 上野強次郎君」『航空殉職録(海軍編)』浅田禮三・編 航空殉職録刊行会
昭和11年、101p〜106p。
文献[58]別冊航空情報『日本海軍制式機大鑑』解説・秋元実 酣燈社 平成12年。
操練5期出身の戦闘機乗りたち
このほど、[36]を入手することができました。その所収の「繰練生存者名簿」の繰練5期(1923年《大正12年》12月採用)の部分に3名の生存者名が確認できます。
藤貞義人氏は繰練5期の首席卒業者です。[16]。この名簿で専攻が戦闘機だったことがわかります。[9]では航空特務少尉で記載があります。
末松春雄氏は[9]では確認できず昭和14(1939)年3月1日現在では特務士官まで進級していなかったのかも知れません。
中西新一氏は[9]では10席ほど藤貞氏より後任ですが航空特務少尉で記載が確認できます。
[37]の著者,杉野計雄氏は丙飛3期出身の戦闘機パイロットで、敗戦時、93式中間練習機の航空隊だった博多空に所属していました。杉野氏の分隊長が中西(飛特)大尉だったようです。杉野氏によれば大正10(1921)年以前の海兵団入団で杉野氏が生まれたころに海軍に入隊されていた国宝的な人と書いています。[9]で住所は大分市になっています。[23]の現役特務士官の部大尉で記載があり昭和19年5月1日現在で現役であることが確認されます。住所は長崎県の大村になっています。鎮守府籍は佐世保です。
杉野氏は中西分隊長の同僚の分隊長として道地吉之助大尉のことも書いています。[37]。道地(飛特)大尉は操練6期(大正13《1924》年6月採用)([3])出身。[9]では航空特務少尉で中西航空特務少尉よりさらに後任の末席より3席上で記載されています。[36]には記載がありませんので戦闘機専修ではないことがわかります。住所は鎮海要港部の官舎です。[29]にも記載がないので横須賀鎮守府籍ではありません。[23]に記載があり、昭和19年5月1日現在、現役特務士官の中尉であったことが確認できます。杉野氏が書いている1945年(昭和20)には大尉に進級していたのでしょう。鎮守府籍は佐世保です。住所は佐世保市になっています。
[36]所収の「繰練戦死殉職者名簿」の繰練5期出身で唯一記載のある田中兼男氏は大正15(1926)年3月26日、霞が浦で死亡とあります。多分、殉職でしょう。したがって[36]以外の手持ちのいずれの名簿にも記載がありません。
繰練5期の卒業者は全部で17名です。[3]。その内、藤貞、末松、中西、田中の各氏、4名が戦闘機専修者として確認できるわけです。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[23]『昭和19年5月1日調 昭和19年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和19年6月。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部
文献[36]『海軍戦闘機搭乗員名簿(海軍戦闘機隊史付録)』零戦搭乗員会 平成元年。
文献[37]『撃墜王の素顔 海軍戦闘機隊エースの回想』杉野計雄 光人社NF文庫 2003年。
名簿に見る特務士官たち16
横須賀鎮守府籍、操練出身の戦闘機乗りたち
このほど入手した[36]と1944年(昭和19)6月1日調[29]を照合してみました。
[29]に記載があり経歴の確認できる横須賀鎮守府籍操練出身戦闘機専修者たちを以下に列記して見ます。
氏名、海兵団入団年月日、1944年(昭和19)6月1日調[29]での現官進級年月日、職名、電報符(横須賀鎮守府籍の飛行科特務士官准士官での先任順席次)、海軍全体の兵科特務士官(准士官にはこの席次の記載が無い)の階級別席次、と続けます。職名の後に(水上)とあるのは水上機専修者です。
[36]の「操練生存者名簿」から書きます。
1期(1920年《大正9》5月採用〜1921年《大正10)》5月卒業、8名。[3])。
越水鹿造 1914年(大正3)6月1日入団 1940年(昭和15)11月15日(飛行特務)大尉 筑城航空隊飛行隊長兼分隊長教官 (水上) Wホ3602(Wホ3601から始まる横須賀鎮守府籍飛行科特務士官で2席)、17席(海軍の兵科特務大尉全体で17席ということです。以下同じ)。
越水大尉は[3]では操練1期以前の採用となっています。
3期(1922年《大正11》12月採用〜1923年《大正12》8月卒業、19名。[3])
田中寅吉 1921年(大正10)6月1日入団 1943年(昭和18)6月1日(飛行特務)大尉 攻撃第702飛行隊分隊長 Wホ3615 298席。
八島四男 1921年(大正10)6月1日入団 1943年(昭和18)11月1日(飛行特務)大尉 第13航空隊分隊長兼教官 Wホ3625 353席。
10期(1926年《大正15》7月採用〜1927年《昭和2》5月卒業。17名。[3])。
加藤敬次郎 1924年(大正13)6月1日入団 1943年(昭和18)4月1日(飛行特務)中尉 大村航空隊分隊長兼教官 Wホ3649 (兵科特務中尉で)227席。
14期(1928年《昭和3》7月採用〜1929年《昭和4》5月卒業。30名。[16])。
柴田峰一 1926年(大正15)6月1日入団 1943年(昭和18)4月1日(飛行特務)中尉 第1081航空隊分隊長 Wホ3655 233席。
20期(1933年《昭和8》2月採用〜昭和8年7月卒業、27名。[16])。
佐藤新禧 1929年(昭和4)6月1日入団 1943年(昭和18)8月1日(飛行特務)中尉 横須賀鎮守府付(水上) Wホ3683 463席。
佐藤氏は20期操練首席卒業[16]です。
25期(1934年《昭和9》6月採用〜昭和9年11月卒業。57名。[16])。
青木恭作 1933年(昭和8)5月1日入団 1943年(昭和18)4月1日飛行兵曹長 神ノ池航空隊付 Wホ3848。
内藤千秋 1933年(昭和8)5月1日入団 1943年(昭和18)4月1日飛行兵曹長 第331航空隊付 Wホ3851。
27期(1935年《昭和10》1月採用〜昭和10年10月卒業、38名。[16])。
乙訓菊枝 1933年(昭和8)5月1日入団 1942年(昭和17)10月31日飛行兵曹長 横須賀鎮守府付 Wホ3837。
28期(1935年《昭和10》2月採用〜昭和10年7月卒業、61名。[16])。
羽切松雄 1932年(昭和7)6月1日入団 1944年(昭和19)5月1日(飛行特務)少尉 横須賀航空隊付兼教官 Wホ3768 668席。
藤原喜平 1933年(昭和8)5月1日入団 1943年(昭和18)4月1日飛行兵曹長 横須賀鎮守府付 Wホ3845。
35期(1936年《昭和11》6月採用〜1937年《昭和12》2月卒業、卒業者数は不明。[16])。
原田要 1933年(昭和8)5月1日入団 1942年(昭和17)10月31日飛行兵曹長 霞ケ浦航空隊付 Wホ3828。
原田氏は35期操練の首席卒業[16]です。
36期(1936年《昭和11》12月採用〜1936年《昭和12》6月卒業、157名。[16])。
澤田万吉 1933年(昭和8)5月1日入団 1943年(昭和18)4月1日飛行兵曹長 戦闘163飛行隊付 Wホ3850。
43期(1938年《昭和13》4月採用〜昭和13年11月卒業、卒業者数は不明。[16])
小平好直 1935年(昭和10)6月1日入団 1943年(昭和18)11月1日飛行兵曹長 戦闘第165飛行隊付 Wホ4027。
本田隆 1935年(昭和10)6月1日入団 1943年(昭和18)11月1日飛行兵曹長 高雄航空隊付 Wホ4083。
[36]「操練生存者名簿」に記載があり、[29]で経歴が確認できる横須賀鎮守府籍の繰練出身戦闘機専修特務・准士官は以上です。
このほかに青木與(9期、1926年《大正15》2月採用[3])、小林巳代次(9期)、森貢(14期)、赤松貞明(17期1931年《昭和6》7月採用[16])、磯崎千利(19期1932年《昭和7》7月採用[16])、半田亘理(19期)、岩本徹三(34期、1936年《昭和11》4月採用[16])、坂井三郎(38期、1937年《昭和12》3月採用、首席[16])など、[36]「操練生存者名簿」には高名な戦闘機パイロットの記載がありますが[29]に記載はありません。横須賀籍ではなくそれぞれの他の鎮守府籍です。
続いて[36]「操練戦死殉職者名簿」と[29]を照合してみます。
[29]は昭和19年6月1日調です。それ以前の戦死殉職者は当然記載されていません。また、[29]は横須賀鎮守府在籍者のみの名簿です。照合できるのは5名のみでした。[36]「操練戦死殉職者名簿」による戦死・殉職年月日、戦死・殉職時の所属・場所も書き加えたいと思います。
18期(1932年《昭和7》5月採用〜昭和7年11月卒業。40名。[16])。
田口光男 1931年(昭和6)6月1日入団 1943年(昭和18)3月15日(飛行特務)中尉 博多航空隊分隊長兼教官 (水上) Wホ3709 781席。
1945年(昭和20)8月15日(戦死・殉職年月日、以下同じ)、302空(戦死・殉職時の所属、以下同じ)、関東(戦死・殉職場所、以下同じ)。
23期(1933年《昭和8》10月採用〜1934年《昭和9年》4月卒業、34名。[16])。
熊谷鉄太郎 1933年(昭和8)5月1日入団 1942年(昭和17)10月31日飛行兵曹長 戦闘第310飛行隊付 Wホ3831。
1944年(昭和19)7月8日、253空、サイパン。
24期 (1934年《昭和9》2月採用〜昭和9年7月卒業。68名。[16])。
山本旭 1933年(昭和8)5月1日入団 1942年(昭和17)10月31日飛行兵曹長 横須賀航空隊付 Wホ3827。
1944年(昭和19)11月24日、横空、千葉。
44期(1938年《昭和13》10月採用〜1939年《昭和14年》1月卒業。卒業者数不明。[16])。
石井鎮 1935年(昭和10)6月1日入団 1943年(昭和18)11月1日飛行兵曹長 大村航空隊付(元山分遣隊) Wホ3957。
1944年10月24日、 601空、 比島。
46期(1939年《昭和14》1月採用〜昭和14年9月卒業。卒業者数は不明。[16])。
柴村実 1936年(昭和11)6月1日入団 1944年(昭和19)5月1日飛行兵曹長 戦闘第402飛行隊付 Wホ4117。
1944年(昭和19)10月24日、341空、比島。
このほか、[36]「操練戦死殉職者名簿」にも日名子留吉(1期、1943年《昭和18》年5月2日、佐世保空、九州)、間瀬平一郎(8期、1937年《昭和12》11月3日、12空、上海)、望月勇(9期、1944年《昭和19》2月6日、281空、ルオット)、黒岩利雄(13期、1944年《昭和19》8月26日、日本航空《民間航空》、マレー)、岡本泰蔵(16期、1943年《昭和18》4月11日、瑞鶴、オロ湾)、古賀清登(16期、1938年《昭和13年》9月16日、横空、横須賀)、虎熊正(20期、1943年《昭和18》4月16日、大村空、九州)、奥山益美(21期、1940年《昭和15》3月11日、空技廠、横須賀)、大木芳男(37期、1943年《昭和18》6月16日、251空、ルンガ)など、そうそうたる戦死・殉職の繰練出身戦闘機パイロットが記載されていますが、当然[29]には記載がありません。
今のところ私ではどこの鎮守府籍かわかりません。
なお、[29]は現役特務士官・准士官の名簿です。繰練初期出身者で予備役になり、応召して軍務に付いた者がいたとして、横須賀籍でも[29]には記載はありません。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』」佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[36]『海軍戦闘機搭乗員名簿(海軍戦闘機隊史付録)』零戦搭乗員会 平成元年。
徴兵出身の飛行科特務士官准士官(横須賀籍)たち
海軍の飛行機搭乗員は操縦・偵察とも広く一般の兵科・各科から募集されたようです。飛行機搭乗員養成専門の予科練ができた後でも、この制度は存続しました。その為か、少数ながら、志願兵出身ではなく、徴兵出身で飛行科特務士官・准士官に累進した人たちがいます。
[38]に1945年(昭和20)年9月5日任用の(飛行特務)大尉出身特選少佐14名を見ることができます。任用の年月日から、一見、ポツダム少佐に見えますが(飛特)大尉全員が少佐に進級したわけではありません。この14名中、海軍入団年月が一番古いのが1913年(大正2)12月1日徴兵で横須賀入団の細田関治郎少佐(偵)です。最も新しいのが1922年(大正11)6月1日志願で呉に入団した藤貞義人少佐(操練5期首席卒業)です。もちろん、1930年(昭和5)年採用の予科練1期(乙)は一人も含まれていません。
徴兵入団者は細田少佐と渡辺有道少佐(偵)の2名です。二人とも偵察専修で横須賀籍でした。
海軍では最初で最後の徴兵出身飛行科特務士官からの特選少佐任用かと思われます。それ以前では1941年(昭和16)10月15日、少佐任用の三浦兵三少佐が1909年(明治42)12月1日入団(横須賀海兵団?)[38]とあり入団月日から徴兵かと推測できるだけで私では確認できません。
三浦少佐は、[8]では航空特務少尉の筆頭で、[9]では航空特務大尉の最末席(といっても5名中の5席)です。住所は横須賀です。1944年(昭和19)12月5日予備役(即日?)応召となっています。[38]。
細田少佐は1913年(大正2)12月1日徴兵で横須賀入団[29]。[9]で航空特務少尉の2席、住所は横須賀市。[29]で(飛特)大尉進級は1942年(昭和17)6月1日、上海航空隊分隊長兼教官、Wホ3613、(兵科特務大尉全体で)139席となっています。
渡辺有道少佐は1917年(大正6)12月1日徴兵で横須賀入団[29]。[9]で航空特務少尉の1席、住所は横須賀市。[29]で(飛特)大尉進級は1942年(昭和17)6月1日、航空本部付、Wホ3611、137席です。細田少佐より2席上です。
Wホ3601からWホ3638までの横須賀籍38名の(飛特)大尉の中で徴兵出身者はこの2名のみです。[29]。操縦専修者は1名もいません。
Wホ3639からWホ3721の82名の横須賀籍(飛特)中尉の中で徴兵出身者は3名です。いずれも操縦専修ですが戦闘機では無いようです。
Wホ3722〜Wホ3797の横須賀籍95名の(飛特)少尉は徴兵出身者3名でいずれも偵察専修です。
Wホ3798〜Wホ4222の横須賀籍飛行兵曹長424名中、徴兵出身者は42名(偵察33名、操縦9名)です。戦闘機専修者はいないようです。徴兵出身者は全体の1割に満たず、ほとんどが偵察専修です。[29]では徴兵出身の戦闘機専修は見つけられません。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』」(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
名簿に見る特務士官たち18
前項で1945年(昭和20)9月5日少佐任用の2名(細田、渡辺両少佐)の徴兵出身飛行特務大尉について書かせていただきました。ここでは、そのほかの志願兵出身の12名について書かせていただきたいと思います。
@少佐深沢友雄 大(正)3(1914)、6,1 横(須賀)入団 艦[38]。航空特務少尉8名中8席、茨城県稲敷郡[8]。航空特務中尉18名中4席、東京市中野区[9]。昭和14(1939)年11月15日航空特務大尉進級、船([38]では艦となっている)、北浦航空隊分隊長、Wホ3601[29]。[3]の操練出身者リストには掲載がありません。Wホ3601とは横須賀鎮守府在籍飛行科特務士官の筆頭であることを示しています。
A少佐安田正夫 大8、6,1 横入団 偵[38]。航空特務少尉45名中4席、千葉県館山[9]。昭和17、6,1(飛特)大尉進級、大井航空隊飛行隊長兼分隊長教官、Wホ3610[38]。
B少佐渡辺有道、Wホ3611、徴兵出身の飛行科特務士官准士官(横須賀籍)たちを参照。
C少佐藤原千代吉 大5、6,1 横入団 偵[38]。航空特務少尉45名中3席、横須賀[9]。昭和17、6,1(飛特)大尉進級、徳島航空隊飛行隊長兼分隊長教官、Wホ3612[38]。
D少佐細田関治郎、Wホ3613、徴兵出身の飛行科特務士官准士官(横須賀籍)たちを参照。
E少佐河野好信 大9、6,1 横入団 操(艦)[38]。操練4期(大13、5卒業、21名)[3]。航空特務少尉45名中6席、千葉県君津郡[9]。昭和17、11,1(飛特)大尉進級、1021航空隊飛行隊長兼分隊長、Wホ3614[38]。操練4期では昭和17、8、27、太平洋南東方面において2式大艇で戦死した林長次郎飛特中尉(飛行艇)と同期です。
F少佐藤貞義人 大11、6,1 呉入団 操(艦)[38]。操練5期(大13、11《首席[16]》卒業、17名)[3]。航空特務少尉45名中28席、茨城県土浦町[9]。操練5期では、敗戦時博多空の分隊長だった中西新一(飛特)大尉(戦闘機)と同期です。
G少佐田中優 大10、6,1 呉入団 偵[38]。航空特務少尉45名中30席、三重県亀山町[9]。
H少佐川上丈吉 大8、6,1 佐(世保)入団 偵[38]。航空特務少尉45名中32席、長崎県東彼杵郡[9]。
I 少佐江島友一 大10、6,1 佐入団 偵[38]。航空特務少尉45名中33席、茨城県土浦町[9]。
J 少佐橋口鶴雄 大9、6,1 佐入団 操(水)上[38]。操練5期(大13、11卒業、17名)[3]。航空特務少尉45名中36席、佐世保市[9]。操練5期では、敗戦時博多空の分隊長だった中西新一(飛特)大尉(戦闘機)、藤貞少佐(戦闘機)、大正15年(1926)霞ヵ浦で殉職した田中兼男氏(戦闘機)らと同期です。
K少佐吉武藤作 大8、6,1 佐入団 偵[38]。航空特務少尉45名中34席、長崎県東彼杵郡[9]。
L少佐遠藤秀司 大9、6,1 舞(鶴)入団 偵 (海兵)選修(学生卒業)[38]。航空特務少尉45名中5席、茨城県宍戸町[9]。
M 少佐棗 豊 大10、6,1 舞入団 偵[38]。航空特務少尉45名中27席、横浜市[9]。
私の調べられるのは今のところココまでです。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
名簿に見る特務士官たち19
[38]では昭和20年(1945)5月1日に少佐に任用された7名の(飛特)大尉も見ることができます。[38]には入団した海兵団名は書いていませんが、いずれも横須賀鎮守府籍の(飛特)大尉(Wホ3602〜Wホ3608)です。
@少佐越水鹿蔵 大3、6、1入団 操(水)上 [38]。操練創設以前の操縦専修[3]。航空特務少尉、8名中7席、茨城県土浦町[8]。航空特務中尉、18名中3席、住所は[8]と同じ、[9]。昭和15、11、15、飛行特務大尉進級、築城航空隊飛行隊長兼分隊長教官、Wホ3602[29]。
A少佐国友梅男 大5、6、1入団 艦 (海兵)選修(学生卒業)[38]。航空特務中尉、18名中3席、津市[9]。[3]には記載がありません。昭和15、11、15、飛行特務大尉進級、鈴鹿航空隊飛行隊長兼分隊長教官、Wホ3603、船となっています[29]。([38]では専修が艦となっています)。
B少佐脇 国太郎 大2、6、1入団 艦[38]。[3]には記載がありません。航空特務少尉、8名中6席、茨城県稲敷郡[8]。航空特務中尉、18名中6席、横須賀市[9]。昭和15、11、15、飛特大尉進級、第381航空隊付、Wホ3604、船となっています[29]。([38]では専修が艦となっています)。
C少佐坂尾照善 大2、6、1入団 操(水)[38]。操練創設以前の操縦専修[3]。航空特務中尉、18名中9席、横浜市[9]。昭和15、11、15、飛特大尉進級、第1航空廠補給部員、Wホ3605[29]。
D少佐大久保源三 大6、6、1入団 操(水)上[38]。操練1期(大10、5卒業、8名)[3]。航空特務中尉、18名中10席、大湊要港部[9]。昭和16、10、15、飛行特務大尉進級、博多航空隊分隊長兼教官(天草分遣隊)、Wホ3606[29]。
操練1期の首席卒業は昭和9年に殉職したと思われる高松福造空特少尉です。
E少佐酒井作松 大7、6、1入団 操(艦) [38]。操練3期(大12、8卒業、19名)[3]。[3]では姓が目黒となっています。航空特務中尉、18名中11席、千葉県館山[9]。昭和16、10、15、飛行特務大尉進級、姫路航空隊飛行隊長兼分隊長教官 Wホ3607[29]。
操練3期出身者には田中寅吉(飛特)大尉(戦闘機)、八島四男(飛特)大尉(戦闘機)、空林永冶(飛特)大尉(飛行艇)などがいます。
F少佐丸山清一郎 大6、6、1入団 偵[38]。航空特務中尉、18名中12席、横浜市[9]。昭和16、10、15、飛行特務大尉進級、横須賀鎮守府付(人事局派遣勤務)、Wホ3608[29]。
[38]に収録されている5月1日任用の少佐はいずれも横須賀鎮守府籍の(飛特)大尉ですが、他の鎮守府でも同じ時期に同じような措置が取られた可能性があります。[38]の収録漏れということも充分にあり得ます。
何故か次期(9月5日)に回された深沢(飛特)大尉([29]ではWホ3601で横須賀在籍飛行科特務士官の筆頭者)を除き、キッチリ席次順に7名が特選少佐に任用されています。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
名簿に見る特務士官たち20
操練7期首席の寺元宰治郎(飛特)大尉
操練7期(大正14年《1925》11月卒業、11名[3])の首席卒業は寺本宰治郎(飛特)大尉です。[16]。
寺元(飛特)大尉は大10、6、1 呉入団、操(水)[38]、[9]では7期操練ただ一人の航空特務少尉、45名中29席[9]でした。操練5期首席卒業の戦闘機乗り藤貞少佐より1席だけ下位です。入団は藤貞少佐より1年早く、同じ呉鎮守府です。
昭和20、4、20死去とあり戦死にはなっていませんが同日付で少佐に任用されています[38]。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[16]『日本陸海軍総合辞典』秦郁彦編 東大出版会 1994年。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
名簿に見る特務士官たち21
昭和14(1939)、11、15に飛行特務大尉から最初に特選少佐に任用されたのは、福本貞祐少佐です。明治38年(1905)6,1入団、(鎮守府は不明)、電信です。[8]では航空特務中尉2名の1席、この時点ではまだ航空特務大尉はいませんので現役飛行科特務士官のトップということになります。ちなみに2名中の2席は高橋東吾空特中尉です。住所は神奈川県田浦町です。[9]では航空特務大尉5名中2席、横浜市となっています。昭和14、12、21に予備役になっています。[38]。一か月余の現役少佐で事実上の名誉少佐かと思われます。
昭和15(1939)、11、15に飛行特務大尉から少佐に任用された高橋東吾少佐[38]は、操練創設以前の操縦専修者です。[3]。明治42年(1909)、6、1入団(入団鎮守府は不明)、専修は操(水)となっています。[38]。[8]では航空特務中尉、2名中の2席です。茨城県新治郡となっています。[9]では航空特務大尉5名中の4席です。茨城県土浦町です。
高橋少佐は昭和19、7、8に転勤途中のサイパンで戦死しました。902空飛行長(副長)でした。[38]。
昭和16(1941)、10、15任用の三浦少佐は17.徴兵出身の飛行科特務士官准士官(横須賀籍)たちに書いたとおりです。徴兵出身の特選少佐かもしれません。
昭和19(1944)、5、1任用の笠原芳男少佐は明治43(1910)、6、1入団(操偵の別、鎮守府は不明)とあります。[38]。[3]に記載はありません。[8]では航空特務少尉8名中の3席、茨城県新治郡土浦町とあります。[9]では、航空特務中尉18名中の1席です。千葉県館山とあります。
[38]に収録されているのはこの4名だけです。収録漏れがあるかも知れませんが昭和19、12、20〜23の予科練1期(乙)出身者を主体とした特選大尉を含めても、昭和20年以前に飛行科特務士官より正規士官に任用されたものが極めて小数に限られていたことが確認できます。高橋、三浦、笠原の3少佐とも現役海軍歴は実に35年以上になんなんとします。
文献[3]『海軍パイロットの証言 選修学生から中支・南方戦線へ』 佐藤宗次 MBC21 平成7年。
文献[8]『昭和7年6月1日調 昭和7年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和7年7月。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
名簿に見る特務士官たち22
敗戦直前の昭和20年(1945)5月1日と敗戦直後の9月5日の2回に別けて、昭和17年(1942)までに(飛特)大尉に進級した横須賀鎮守府在籍(飛特)大尉14名(Wホ3601からWホ3614まで)の内1名を除く13名全員が少佐に任用されました。[38]。
除かれた1名とは小原理一(飛特)大尉(偵、Wホ3609)です。[29]。
小原大尉は大正5年(1916)年6月1日 入団。現官任命年月日(飛特大尉進級)は昭和16、10、15です。現職は休職となっています。[29]。旭5(勲5等旭日章)を持ってますので前線赴任の経験はあると思われます。
[9]では空特中尉で18名中の11席です。昭和20、5、1に少佐任用の酒井作松空特中尉(操練3期)、丸山清一郎空特中尉(偵)の間に挟まれています。住所は茨城県土浦町となっています。
[29]では横須賀籍の全飛行科特務士官中の9席(Wホ3609)なのですが、休職中のため(飛特)大尉に留めおかれたものと思われます。敗戦を待たずに予備役に転役してしまっていたという可能性もあります。
文献[9]『昭和14年3月1日調 昭和14年度水交社員名簿』(財)東京水交社 昭和14年4月。
文献[29]『昭和19、6、1調現役海軍特務士官及准士官名簿』横鎮 横須賀海軍人事部。
文献[38]『海軍空中勤務者(士官)名簿 昭和34年8月調』海空会(資料情報提供NS様)。
海軍義済会会員になれなかった特選少佐
このたび、[43]を見ることができました。明治初めから昭和17年(1942)7月1日調までに任官した海軍(正規)士官(予備士官、特務士官を含まない)全員を収録した『海軍義済会員名簿』の復刻版です。
海軍義済会とは現役正規士官の相互扶助組織のようです。会員は兵科、各科は問われませんが現役の正規士官に限られます。現役の会員が戦死など死亡した場合には家族に一時金、現役を離れる際にも一時金が出るようです。海軍の共済会といったものなのでしょう。
ただ、この名簿には高等商船学校出身の予備士官から現役に採用された寺本巌少佐なども現役に転役した時点で会員として記載されています。しかし、当HPで紹介させていただいた濱田二省機関少佐(昭和11年《1936》12月1日機関少佐任官)、高橋東吾少佐(昭和15《1939》、11、15少佐任官)など特務士官出身少佐(特選少佐)は記載されていません。特選少佐も海軍省の(正規)士官名簿に載るれっきとした正規士官ですが、海軍義済会員にはなれなかったようです。
『日本海軍士官総覧』というタイトルの海軍士官を海軍(正規)士官と解釈した場合でも、重箱の隅をほじくるような書き方をすれば、正確ではないということになります。
文献[43]『日本海軍士官総覧 【復刻版】財団法人海軍義済会編 海軍義済会員名簿(昭和十七年七月一日調)』戸高一成監修 柏書房 2003年。