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翻訳の話あれこれ(1)




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2009/5/8 翻訳書ができるまで(4)-タイトルが決まる
2009/3/6 オーディオブックのダウンロード
2009/2/13 翻訳書ができるまで(3)-ゲラって何?
2009/1/17 翻訳書ができるまで(2)-リーディング(下
2008/12/7 翻訳書ができるまで(1)-リーディング(上)
2008/11/8 日本語にしにくい英語
2008/10/7 キーボードの上にも15年
2008/9/3 翻訳ことはじめ-初挑戦の巻
2008/8/6 「使える英語」とのなれそめ-ラジオ英会話
2008/7/7 翻訳のビタミン-参考書について
2008/6/11 翻訳機の燃料―辞書の話(3)
2008/5/7 翻訳機の燃料--辞書の話(2)
2008/4/18 翻訳機の燃料--辞書の話(1)
2008/3/22 翻訳の楽しみ




2009年5月8日 翻訳書ができるまで(4) タイトルが決まる


翻訳書のタイトルは翻訳者が決めるわけではありません。
たいていは「○○というタイトルになりました」と編集の方からお知らせをいただいて、「へえっ」と思うわけです。どのようにタイトルが決まるのか、詳しくは知りませんが、出版社の編集や販売にかかわる方々が、いろいろな角度から検討してくださって、話し合いの末決まるのだろうと思っています。その過程で、なにかいい案はありますかときいていただくこともありますし、一応、訳文ができあがったときには、原文タイトルに合わせた仮のタイトルはつけて提出します。でも、わたしの役割はほんのわずかだという気がしています。

わたしの訳書の中で原文タイトルに一番近くて、自分でつけた仮タイトルもそのままだったのは『考えすぎる女たち』(原文タイトル:Women Who Think Too Much)です。この本の場合、内容から言ってもこれしかない、という感じはします。わたしの初の訳書であるジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』(飛田茂雄先生と武舎るみさんとの共訳)も、原題は”Myths To Live By”というのでそのままという感じですが、この「よすがとしての」というのがかっこいいですよね。ちなみに、わたしはこのタイトルにまったく関与していません(笑

釧路川の橋の下で
ひなたぼっこする
らっこ。

(本文とは関係ありません)


でも、原題自体はとてもすてきなのに、訳してしまうとピンとこないというか、かっこ悪くなるものも多いんです。初めて単独の名前で出していただいた『三毛猫の遺伝学』なんかもそうです。原題は”Cats Are Not Peas”っていうんです。とってもいいタイトルだと思います。メンデルがエンドウ豆の実験で遺伝学の偉大な法則を発見したことにひっかけているのです。三毛猫が生まれる理由はそのメンデルの法則にあわないのですが、そういった含みがこのタイトルによくあらわれていて、英語の響きもきれいです。でも『猫はエンドウ豆にあらず』としたらどういう本なのかさっぱりわからないし、売れそうにありませんよね。そこで『三毛猫の遺伝学』。ばしっと決まっています。残念ながら、こちらもわたしたがつけたタイトルじゃありません。

それにしてもタイトルって大切ですよね。まずそこで読者は引きつけられます。大切だからこそ、爆発的な大ヒットが生まれると『○○の品格』、『○○力』みたいに、似たタイトルの本がぞろぞろ出版されます。『話を聞かない男、地図の読めない女』という本が大ヒットしたあとしばらくは、このように対比するふたつのものを並べるタイトルが流行っていました。
タイトルの話は一冊ずつ書いていたらきりがないので、このへんにしますね。当ホームページの翻訳書リストのページには原題も書いてありますので、ご興味のあるかたは見てみてください。


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2009年3月6日 オーディオブックのダウンロード


これから翻訳する予定の本の下読みをしていたら、読み方のよくわからない名前や、英語以外の言葉が出てきて、これはヤバイと思いました。わたしには気軽に教えてもらえる外国人の友人は身近にいません。昔のアメリカの友人や、仕事で多少なりとも縁のある人に頼んで教えてもらうとか、あるいは翻訳会社などを通してネイティブスタッフに有料で問い合わせることも不可能ではありませんが、そういうのは最後の最後の手段にしたい。でも、いまはインターネットがあるので、そういう苦労も前よりは少なくなりました。
 

で、名前の読み方ですが、これは固有名詞辞典みたいのを使っても、ネイティブの人にきいても、正しくないことがあります。映画「スーパーマン・リターンズ」で主役に抜擢された新人俳優のBrandon Routhさんの苗字、わたしは最初ルースだと思っていました。それはアメリカ人も同じだったらしく、彼はインタビューでよく、「Southと同じ読み方でラウスです」と答えていました。


さらに、英語以外の外国語、たとえばアイルランドの言葉などは発音がわかりません。それをカタカナ書きにしなければならない場合が以前にあり、いろいろさがしていたら、それと同じ言葉がはいっているアイルランド語の歌をインターネットで試聴することができて、確認がとれました(ほっ)。
 というわけで、読み方がわからないととっても困るんです。でも、いまは、オーディオブック(本文の朗読CD)という便利なものがあって、助かります。以前にも一度お世話になったことがあったので、今回もその翻訳予定の本のオーディオブックをさがしました。そしたら、パソコンかMP3プレイヤー(iPodなど)に直接ダウンロードする方式になってました。自分でCDに焼くことも可能です。しかもCDを買うよりずっとずっと安いんですね! 
今回買った本は、録音時間が9時間ちょっと、省略なしの朗読で、16ドル弱でした(ただし、これはバーゲン価格。本当はもっと高い)。アメリカのアマゾンのAudible.comから購入したのですが、アメリカから本やDVDを買うと送料が高いのに、ダウンロードなので送料も無料。なんて安いんでしょう!!! 便利な世の中です。
 Audibleのホームページで会員登録し、パソコンで聴くためのソフトAudible Managerをダウンロードしてから、オーディオファイルを購入すると、すぐAudible Managerで聴くことができました。CDのときは、どこまで聞いたかわからなくなるので(番号をおぼえておけばいいのですが)、ちょっとめんどうでしたが、Audible Managerは聞いたところでポーズしておけば、次回はそこから始まります。しおりも入れられるみたい。進み具合は時間で示されているので、それを本にメモしておけば、聞き直したいところもすぐわかりそうです。


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2009年2月13日 翻訳書ができるまで(3)-ゲラって何?


翻訳した原稿はいままでの経験ではすべてワードで作成して納品しています。するとそれが、「ゲラ刷り」(通称ゲラ)と呼ば れるものになります。ゲラというのは本のままの印刷形態になったもので、たいてい見開き2ページ分が1枚の紙に印刷されて います。そのゲラを見ながら校正作業をするわけです。
 

いま、この原稿を書いていて、ふと「ゲラ」っていったいどういう意味なんだろうと考えました。いままでは、そういう校正用の印刷物=ゲラという認識しかなかったのですが。そこで広辞苑をひいてみました。ゲラとはgalleyの日本語で、「組み上げた活字版を収める長方形の盤。三方に縁がある」というものだそうです。さらに英和辞書を引くとgalley proofというのがさきほどの「ゲラ刷り(校正刷り)の英語とわかりました。そういえばガリプルーフって言い方も聞きますね。夫が「論文(英文)のガリプルーフがきた」なんてよく言ってます。


さらにゲラ刷りを広辞苑でひくと「組み上げた活字版をゲラに入れたまま校正用に試し刷りしたもの」とあります。いまでも活字を組むのかなあ、それともパソコンでやってしまうのかなあ。パソコンでやってしまうような気がするけど、きいてみたことがないのでわかりません。
 ゲラも初校ゲラ、再校ゲラ・・・と何版かあって、最後が最終ゲラでそれが実際の印刷にまわるようです。翻訳者のわたしが見るのは初校ゲラと再校ゲラです。ゲラの段階では編集担当者、専門の校正者、そして翻訳者が綿密にゲラを検討します。編集や校正担当の方々は、誤字脱字、漢字かなづかい、語句の誤用、事実関係の誤りなどをくわしくチェックしてくださいます。語句の誤用、事実関係の誤りなどは、指摘していただいてほんとによかったーと思うことがたびたびあります。その他、読んでいて「おや?」と思ったところや、差別用語とされるものを使ってしまった場合などもチェックがはいってくるので、それらも検討します。
 漢字かなづかいに関しては、まったく自信がないのでほとんど編集・校正サイドにおまかせです。つまりきちんと統一がなされていないとだめなんです。たとえば「つづく」という言葉を「続く」とするか「つづく」とするか最初に決めたら、その本一冊分はそれを通さなければならないんですが、わたしなんか気をつけているつもりでもぜんぜん統一できてなくて、いつも校正の方に迷惑をかけているなあと申し訳なく思っています。


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2009年1月17日 翻訳書ができるまで(2)-リーディング(下)


 さて、前回からつづいているリーディングのお話です。
翻訳をはじめたばかりのころは、リーディングのみの依頼でレジェメをたくさん書かせていただきました。現在は、版権がとれれば翻訳につながるという形でリーディングをさせていただくケースが多いです。どちらも経験しているわたしの正直な感想は、リーディング専門でリーディングをするのと、翻訳を前提としてリーディングするのとでは大きな違いがあるということです。リーディングだけを依頼された場合、どうしても好意的に書いちゃうんですね(あくまでわたしの場合、ほかのリーダーの方は違うかもしれません)。この本が出版されて、自分に翻訳依頼がきたらいいな、なんてほのかな希望があったせいでしょうか? あるいはあまりけなしてはいけないのかなと遠慮するせいかもしれません。
 しかし、その本を翻訳するかもしれない者としてリーディングするようになると、視点が変わります。一般的にはそれほどお勧めでない本について、自分が翻訳したいからという理由で、好意的なレジェメを書いてしまうと、結局、本は売れず、出版社にも多大な迷惑をかけてしまいます。ですから、第三者的な目で公平に判断しないといけないんです。たとえ自分としては好きでない内容でも、一般読者の心を引くものと考えられれば、それをアピールしなければなりません。何年経っても、リーディング作業には慣れません。ただ本を読むだけなら簡単ですけど、責任をもってリポートを書かなければならないので、いつもこれでいいのかなあ、と悩みます。



 長さも、初期に翻訳エージェントを介して依頼されていたころは原稿用紙20枚程度にまとめるよう指示があったのでそうしていましたが、現在はもっと短いです。いたずらに長くして要点が伝わらないのはよくないのではないかと考えるからです。ひとりよがりな考えかもしれないので、初めての編集者の方にレジェメをわたすときに、このようなレジェメでよいでしょうかと一応お聞きすることにしているのですが、いつも問題なく受取っていただけるので、これでいいのかなと思っています。出版社の意向や編集者の方の考え方もさまざまだと思うので、その都度確認するのが一番でしょう。
 さて、レジェメは読書感想文とはちがいます。読書感想文は、はっきり言って、「自分」を見せるために書くものです。その本を読んだことを通して自分が感じたこと、自分の思考の展開、さらには自分の文章力を相手に伝えるものだと思います。でも、レジェメの感想や評価は、なるべく自分の色は出さないほうがいいと思うんです。なので、できる限り、ニュートラルな立場で感想を述べるよう心がけています。とはいえ、どんなに頑張っても自分の狭い視野、限られた読書範囲で書くものですから現実には不可能で、理想的にはそうありたいと願っているだけですけど。
 ほんとうにこの本に出会ってよかった、感動した、面白くてページをめくる手が止まらなかった、というなら個人の感情をストレートに伝えてもかまわないと思います。きっと同じように感じてくださる読者も世間にはたくさんいるでしょうから。ところが、あまり興味がもてないなあ、おもしろくないなあと思った場合が困るんです。思ったとおりに酷評したら、まずいことになるかもしれません。そういうジャンルの本がとても好きという人が世間にはいるかもしれないからです。そこで、自分があまりなじみのない分野の本について依頼されたら、限られた時間内でも少しは類書について調査することにしています。
 先日もある専門的な分野の本のリーディングを依頼され、へえっと思ったら、その分野が静かなブームだということをあとで知りました。わたしの知らないところで(知らないことが多すぎるから困るのですが)、類書が良く売れているらしいんです。そこでネットで調べたり、図書館で借りられるものは何冊も借りてきたりして、下調べをしました。そうしてその原書を読んでみると、また見方が変わるんですね。でも、先入観なしで読んだほうがいい場合もあるかもしれないし、ここらへんも悩みどころです。


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2008年12月7日 翻訳書ができるまで(1)-リーディング(上)


みなさん、翻訳書ってどんなふうにできあがると思いますか? 要するに翻訳者が訳して製本して出版、と言えばそれまでなのですが、じつは、いろいろと一般読者には知られていない作業がたくさんあるんです。わたしだって、たった15年ばかり、出版翻訳とささやかにかかわってきたにすぎないので、何でも知ってますという顔でお話しできるわけではありません。でも、わずかな経験ながら、だいたいの流れはわかるので、これから何回かにわけて、翻訳の舞台裏をみなさんにご紹介しようかと思います。

 ご存じのように著作権というのがあって、勝手に好きな原書を翻訳出版していいわけではありません。ですから、翻訳書を出すには、まず原書を翻訳出版する許可を原書の作者との契約により出版社が取得しなければなりません(詳しいことはよくわからないので、大雑把に説明していますから、微妙に言葉づかいなどが違うかもしれません。ご容赦ください)。でも、ベストセラー作家のものならともかく、無名の作家の作品が売れるかどうかはわかりません。では、出版社はどうやって判断するのか? 担当者がすべての原書を読む暇なんてとうていありません。
 ここで登場してくるのが、リーディングという作業です。翻訳者または、翻訳者予備軍やリーディングを専門にしている人が出版社から依頼を受けて原書を読み、要約や感想を含むリポートを書き上げるのです。このリポートはシノプシスとかレジェメと呼ばれるもので、そうした仕事を一般にリーディングといいます。



 出版社から直接依頼を受けて翻訳者がリーディングをした場合、その本が編集会議で通って、出版社が版権を取得したあかつきには、その翻訳者が依頼を受けて翻訳も行うことになることが多いようです(スケジュールその他の関係で、そうならないこともあるようですが)。ただ、実際の出版点数よりもリーディングする作品はずっと多いので(つまりリーディング段階でふるいにかけられたり、他の出版社に版権をとられてしまったりで)、リーディング専門の人が読むこともよくあるようです。その場合、版権がとれれば出版社がだれか適当な翻訳者を見つけて翻訳を依頼することになります。

 現在わたしは、翻訳を前提にリーディングをさせていただくことが多いですが、昔はリーディングのみの仕事もしていました。リーディングって、時間がかかるわりに報酬は少なめですが、ほとんどの日本人がまだ読んだことのない本を読めるということはとってもエキサイティングですし、認められて翻訳者としてばってきされるかもしれないなんてさもしい下心もちょっぴりあり、依頼をいただくととても嬉しくて、はりきってやりました。結局、そっち方面からのばってきはなかったですが、リーディングはとても勉強になりました。リーディング作業についてのつづきはまた次回に!


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2008年11月8日 日本語にしにくい英語


「ボーン・アイデンティティ」「ボーン・スプレマシー」「ボーン・アルティメイタム」とくればマット・デイモン主演の大人気シリーズのタイトルですね。「スプレマシー」はわたし的にはいまいちかなと思っていましたが、「アルティメイタム」を続けて見ると、うまくつながっていてすごく面白かったです。
ところで、これらのタイトルがもし「ボーンの正体」「ボーンの優越」「ボーンの最後通牒」だったら、あれほどヒットしたのだろうか、と考えたりします。最近ではカタカナ英語がわたしたちの日常にはびこっています。はびこっているどころか、日本語にしてしまうとどうも意味が通じにくいという言葉も多いような気がします。

たとえばhug。これを「抱きしめる」とするとなんだか、重すぎる感じがします。親子、きょうだい、友人どうしなど、外国の方はあいさつ代わりにひんぱんにハグしあうけど、日本人はめったにやらないですよね。このごろでは、「ハグする」と堂々と書いてある訳文にお目にかかることがあり、これもありだよなーと思います。とくに読者が若いならそれでいいんじゃないか、なんて。


ビジネス関連書を読むと、それこそカタカナばっかりです。読みなれていない人なら、その日本語全部を翻訳し直してー、と言いたくなるくらい。でも、実際に自分でビジネス関連の文書を訳すとなると、日本語にするのがじつにむずかしいんです。Valueなんて言葉もよく出てきますが、わたしは考えに考えた末、「価値観」かなと思ってそう訳すことが多いですが、微妙に違う感じがする。バリューとカタカナにしてある本もけっこうあります。ロバスト(robust)、コミットメント(commitment)、イニシアチブ(initiative)、アイデンティティ(identity)などなど、例をあげればきりがありません。楽をしたくてカタカナにするんじゃなくて、日本語にするとなんか意味が伝わらない言葉たちです。

ビジネス系は門外漢なのでそんなふうに感じるわたしですが、翻訳をはじめたばかりのころには医学系の本が多かったので、あたりまえと思って、医学用語連発の訳文を書いていました。でも、医学にはなじみが薄い編集者の方々から、わかりにくいと指摘をしていただくことが何度かあり、自分ではふつうの言葉と思っていた言葉が、じつは業界用語で、一般の読者のみなさんにはわかりにくかったんだと気づきました。たとえば、produceを、「抗体を産生する」なんて書くと、「生産」の間違いでは?とコメントがくるといったことです。わたしにとっては、「生産」では、なんか工場でつくられるみたいでかえって変だと思うのですが。そこで最近では一般の方々向けの本では、そういう場合は「つくる」と訳すようにしています。結局は、読者層や世相を考えて訳語は決めなければならないということですね。

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2008年10月7 キーボードの上にも15年


ノンフィクション・ライター野村進さんの「調べる技術・書く技術」(講談社現代新書)に、こんなくだりがあります。野村氏は若いころ、ある方に「自分は作家だと思わないで、『職人』と思ったほうがいいですよ。どんな職人でも一人前になるには最低10年はかかるでしょう。ノンフィクションを書くというのも、年季のいる仕事でね。一人前になるには、15年はかかると覚悟しといたほうがいいんじゃないかな。毎日の仕事を、職人みたいにコツコツと積み重ねていくことですよ」とアドバイスされたそうで、野村氏は「…文章の天才でないかぎり、最初のうちは下手で当たり前なのである」とお書きになっています。

 まったく同感です。わたしの場合はノンフィクションを書くことではなくて、「翻訳」ですけど、ほんとうに、毎日職人みたいにシコシコがんばるしか上達の道はないとしみじみ感じます。また、翻訳は「創作」ではなく、以前に書いたように原文の味わいをなるべくそのまま日本語に置き換えることが仕事の「黒子」のようなものですから、よけいに職人的要素が強い気がします。ちゃんとした仕事ができていれば目立たないけれど、下手な仕事をすれば悪い意味で目立つというところも似ていると思います。

 わたしも翻訳をはじめて約15年。上記の引用からすると、やっと一人前になれたかなってところですが、実際にはようやく翻訳という仕事がつかめてきた程度の段階に達しただけという気がします。いま思えば、初期のころには原稿料をいただいていながら、ひとつひとつの英文と必死に格闘していた気がして、プロというにはあまりにもおそまつでした。熱意だけはたっぷりありましたから、とにかく英語の文章を正確に訳そうとがんばりました。もちろん本人は「読みやすさ」も十分考慮しているつもりでしたが。年月が経っても、英文と格闘することに変わりはありませんが、ひとつの文章だけでなく、全体のストーリーのなかでのその文章の意味を考えられるようにはなってきました。そうすると、おのずと翻訳も変わってくるんですね。

書籍や雑誌記事の場合(実務翻訳はまた別)、英語と日本語を比べればたしかに「正しい訳」だけど、なーんかさっぱり意味が伝わってこない訳、というのは商品としては不足な翻訳だと現在のわたしは考えています。だからといって、好き勝手に訳していいというものではけっしてありません。けれども、その文章の意味やニュアンスがちゃんと読者につたわらなければ、いくら「正しく」ても、理想的な翻訳ではないとも思うのです。でも、「正しい」訳から一歩踏み出すのは、けっこう勇気がいるんです。「正しい」訳の場合、「どの単語の意味もたくさんの辞書をひいて調べ物もばっちりしているから、あっていると思うし、ひとつの単語の抜けもないし、構文の解釈だって間違ってないし・・・」と自分の訳を正当化できますから。それでもなんか、ピンとこない訳になってしまうときには、そこから一歩踏み出して、単語ひとつずつじゃなくて、文章全体をまるごと日本語に置き換える工夫をしなきゃいけない場合もあるとこのごろは思っています。

でも逆に、ふみ出しすぎちゃって余計な言葉を入れたりすると、あとで推敲しているときに「なんか変」と感じる。そしてもう一度原文にもどると、やっぱり原文どおり素直に訳すのが一番と思うこともよくあります。結局、思考錯誤の繰り返しです。これからの15年で、もう一歩職人に近づくことができるのだろうかと、ちょっと楽しみでもあります。


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2008年9月3 翻訳ことはじめ-初挑戦の巻


本(とくに翻訳書)を読むのが好きで、英語も好き(あるいは得意)なので、翻訳をやってみたいなあと考える方はきっと多いはず。わたしもそうでした。ただ、英語は得意だけど、本を読むのはあまり好きでないという人が翻訳でもやろうかなと考える場合もあるみたいです。そんな不心得な人はだめ、と偉そうに言うつもりはありませんが、あまりお勧めできません。翻訳の仕事って、毎日ずっと本を読んでいるようなものですから、本が好きでない人には正直苦痛なんじゃないかなと思うからです。ただし、実務系の翻訳は、けっこう仕事として割り切れるところがあるので、そちらならいいかもしれませんけど。

ところで、英語を読んで意味を理解するのと、翻訳するのとではかなり隔たりがあります。それを実際に感じたのは、まだアメリカにいたころです。カレッジに通っていましたから教科書も読みますし、読書が趣味だったので本も乱読していて、英語の文章を味わって楽しめるようになってきたころです。

Englishのクラスの教科書に、とてもすてきな短編のエッセイが載っていました。短いけれど、非常に感動したので、翻訳して日本にいる母に手紙で送ってあげようと思い立ちました。で、じっさいにやってみたのですが、日本語にしたら実につまらない。というか、まったく原文の味わいが伝わってこないんです。つまり、翻訳が下手だったんですね。それで、そんなものを人に見せてもぜんぜん感動してもらえそうもないと思ったので、母に訳文を送るのはやめました。

その原文と訳したものはもちろん残っていないし、どんな内容だったかも忘れてしまいました。今読み返すことができたらおもしろいのになあと思います。もともとわたしは文章を書くことはきらいじゃなかったので、こんなにへたくそな訳になるとはちょっと意外だったくらいです。たぶん、英語の授業で習ったような訳をつけていたこと、そして日本語の語彙や表現力が不足していたことが理由だったのでしょう。

翻訳ってむずかしいんだなあとそのときしみじみ思いました。少女時代から翻訳書を読むのは好きだったので、英文をすらすらと日本語にし、わたしがまったく知らないことを訳注として書いておられる翻訳家の先生方にいつも尊敬の念を抱いていました。ですから、将来翻訳の仕事をしたいとか、するようになるとは思ってもいなかったので、このときは再度翻訳に挑戦することはありませんでした。翻訳の勉強をはじめたのは、日本に帰って仕事に復帰し、しばらくしてから出産のために休職したことがきっかけでした。


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2008年8月6 「使える英語」とのなれそめ--ラジオ英会話


英日翻訳の仕事にしているからには、きっと学生時代から英語が大好きで、電車の中でも単語帳を見ているような少女だったに違いないと思われるかもしれません。でも実際には、大学生になるまで、英語は必修科目だからしかたなく勉強していたにすぎませんでした。そりゃあ、英語がぺらぺらしゃべれたり、ペーパーバックを辞書なしですいすい読めたりしたらかっこいいだろうなといった程度のミーハー的なあこがれはありましたけど、そのためにまじめに努力するようなことはありませんでした。そもそも、自分と外人さんが英語で話をするなんてありえないと思っていました。外国の方と知り合う機会もないし、たとえ出会えたとしても自分から積極的に話しかけられるようなたちじゃありませんでした。



幼少のころ東京オリンピックが開催され(古!)、実家が駒沢競技場のそばだったので、近所のお豆腐屋さんになぜか外人のオリンピック選手がやってきたのを目撃したことがありました。すでに歴史の教科書に載っているようなウン十年前の話ですから、まさに「未知との遭遇」って感じです。お豆腐屋さんは突然のことに目を白黒させているし、その外人選手もまだトーフなんて見たことがなかったらしく、これは何だと聞いているもようでした。その後、大きくなっても、留学したいとか、外国人の友人をつくりたいなんてことは夢にも思いませんでした。外国文化とのふれあいは、字幕つきの映画や翻訳書で十分満足していました。

ところが、大学5年(歯学部は6年制)の秋、急に英語でも勉強しようかなという気になったのです。それまではクラブがメイン、大学の授業がサブみたいな生活を送っていたのですが、クラブも引退し、いよいよ歯学生として朝から夜まで実習という日々がやってきました。一人前の歯科医師になるためだから仕方がないけど、実習だけの毎日じゃ、なんだか物足りない。資金も乏しかったのでお金がかかることはできません。そこで安くて手軽で時間的負担もないNHKラジオ英会話を聞くことにしたんです。



でも、始めてみて驚きました。文字で見ればかんたんな英語なのに、耳で聞いただけではほとんど聞き取れない! 一度字を見てからなら簡単なんですけどね。ハッキリ言ってショックでした。だって、中学から6年間英語を勉強し、大学受験もして、こんなことってあり?(ちょっと言いわけしておきますが、昔は大学受験にリスニングの試験はなかったんです)。そこで、中学2年レベルの「続基礎英語」というのを聞いてみると、こっちならなんとか聞き取れる。自尊心ずたずたながら、そんなことを半年くらい続けているうちに、「英会話」のほうもテキストなしでだんだん聞き取れるようになり、楽しくなってきました。


それから4年半後にアメリカに渡るまで、早朝のラジオを録音したり、通勤のマイカーの中でラジオを聞いたりしながらラジオ英会話をつづけました。一日たった15分ですけど、こんなに長くつづけられたのは、楽しかったから。いまでもあのちょっとおしゃれなテーマミュージックと東後勝明先生のすてきな声が忘れられません。そして、ちょうどいいタイミングでアメリカに行って英語会話の実地訓練をできたわけですから最高です。


アメリカでは、初心者レベルとしては、けっこう自分の英語が通じたのですっかりうれしくなって、もっと英語がうまくなりたいと真剣に思いました。そして楽しく上達できることをいろいろ試しました。ただし、アメリカ生活で身につけた英会話力は、あくまで友人といろいろな話題について楽しく話せるという程度。文法的に誤りのない、流暢な英語をよどみなく話せるという段階にははるかにおよびませんでした。ペーパーバックは読めるようになったけど、英語ぺらぺらのほうはだめだったわけです。いずれにせよ、あのとき実習の気晴らしにラジオ英会話を聞き始めなかったら、いまこうして翻訳の仕事をしていることはなかったかもしれません。ほんとに、どんなことが自分の人生に影響を与えるのかわからないものですね。

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2008年77 翻訳のビタミン-参考書について


前回まで辞書について書きましたが、今回は自分に刺激を与えて、翻訳意欲を高めてくれるもの、つまり「ビタミン」のようなものについて書こうと思います。

正直に言えば、「誰かに翻訳をほめていただく」ことが最高のビタミンになるのでしょうが、そういうことはめったにありません。実力不足のせいといえばその通りなんですけど、翻訳って本来「うまい」と言っていただくような種類の文章じゃないと思うんです(もちろん、下手ならけなされるし、仕事の依頼も減るんでしょうけど)。原文にぴったり合った、自然で違和感のない訳文をつくれることが一番大切なのじゃないかなとわたしは考えています。翻訳の達人の柴田元幸氏のスピーチを一度聞かせていただいたことがありますが、「翻訳者は黒子だ」というようなことをおっしゃっていました。つまり、翻訳者の存在を読者が忘れるくらいのほうがいいということなのでしょう。でも、上手な訳はやはりほれぼれしますよね!


そこで、さまざまな翻訳者がお書きになった翻訳理論や、翻訳指南書や、こぼれ話のたぐいを集めた本が、わたしにとっては最高のビタミン剤になります。翻訳の始めたばかりのころはいろいろと読みました。初心者にとって、いわゆる「目からウロコ」という記述もたくさんあったし、大いに参考にさせていただいたものです。でも、それから数年は、仕事が軌道に乗り、別の方面の本や参考書を読むことが増えたので、翻訳関連書はほとんど読みませんでした。

ところが昨年、図書館でふと小鷹信光氏の『翻訳という仕事』という本を手にとったことがきっかけで、翻訳書関連書籍に対する興味が再燃しました。十年以上仕事をしてからそういう本を読むと、初心者のころとはまた別の意味でたいへん興味深く、参考になりました。おおいに触発される部分、反省させられる部分、自分の甘さを痛感する部分、そして同業者として共感できる部分など、以前よりもっともっと中身が濃く感じられました。


そこで図書館にある翻訳関連書を借り出し、自分の家にあったものも読み直し、新しいのも何冊か買いました。こういう本を読ませていただいていると、自分なんかまだまだ素人の域だなあと情けなくなります。

この一年で読んだ本の著者とタイトルを列記してみます(順不同です)。どの本も翻訳家のみなさんの個性や翻訳スタイルが反映されていて読み応えがあります。どれもこれもすばらしい本ですが、読まれる方が翻訳勉強中の方なのか、仕事を始めたばかりの方なのか、あるいは翻訳はしたことないけど興味はあるという方なのか、すでに何年も仕事をしている方なのかによって、役立ち具合や感銘度も違ってくると思います。しつこいですが、ほんとうにすぐれた本ばかりです。ほかにもいい本がたくさんあると思いますので、ぜひ自分にとってしっくりくるものをさがしてみてくださいね。

『翻訳の技法』飛田茂雄
『英文翻訳術』安西徹雄
『翻訳のおきて』河野一郎
『翻訳の基本』宮脇孝雄
『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』金原瑞人
『翻訳夜話』村上春樹&柴田元幸
『翻訳してみたいあなたに』徳岡孝夫
『翻訳とは何か――職業として翻訳』山岡洋一
『特盛 SF翻訳講座』大森望
『翻訳のココロ』鴻巣友季子
『翻訳者の仕事部屋』深町真理子
『翻訳家の仕事』岩波新書
『職業としての翻訳』鈴木主悦
『翻訳を学ぶ人のために』安西徹雄、井上健、小林章夫
『翻訳の方法』川本皓嗣、井上健
『翻訳街裏通り』井上健
『翻訳の秘訣 理論と実践』中村保男
『日本語を磨く翻訳術』高橋泰邦
『実況翻訳教室』別宮貞徳

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2008年6月11日 翻訳機の燃料―辞書の話(3)


辞書のことを書いていたら、またまた辞書に関連するエピソードが。今回はちょっと失敗をしてしまいました。前からある分野の専門用語辞典を買おうと思っていました。アマゾンで検索すると何種類かあり、このあたりがいいかなと心に決めた辞書がありました。7000円くらいかな。でも、大型書店に行く機会があったので、現物を見てからにしようと賢明な判断(ホントかなー?)。

ここまではよかったんですが、書店で見て、いくつかの辞書を比べたら、「○○
辞典」でも良さそうな気がしてきたんです。その専門分野の辞書はそれほど頻繁に使うわけじゃないし、値段も2000円弱でお手ごろ。

でも、家に帰って使ってみるとなんか物足りない。載っていてほしい語があまり出てないんです。書店でも一応確かめたんですけど、短時間だったのでつめが甘かったようです。それでふと、うしろを見ると、1978年が初版で、何十版も重ねてますが(ということはよく売れているよい辞書だということなんでしょうけど)、30年間一度も改定されてなかったんです! ふだんはどんな辞書を買うときも最新の版を買うようにしているのに、大失敗。アマゾンであたりをつけていた辞書は2005年版でした。今回は買いなおすのはやめますが、みなさんも、辞書をお買いになるときにはくれぐれも気をつけてくださいね。

決して古い辞書が悪いというわけではありません。ただ、言葉は生き物なので、日々進化しています。特にわたしがよく仕事をする科学系分野は数年でずいぶん変わってしまいますから、気をつけないといけないんです。だって、わたしが学生のころには(まだ30年経っていません)、「一遺伝子一酵素説」が主流でしたが、いまではひとつの遺伝子からいろいろなタンパク質ができることがわかっていますもの。

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2008年57 翻訳機の燃料--辞書の話(2)


辞書の話(1)で、辞書は複数もっていたほうが心強いと書きました。たまたま昨日、仕事をしていていい例に遭遇したので、ご紹介します。そんなことぐらい、とっくに知ってらい、という方は読み飛ばしてくださいね。

訳している英文の中にin the zoneという表現が出てきました。文脈からどうやら「集中して」ということのようだなと読み取れます。でも、間違っていたら困るので、リーダーズ(ただし、前の版)、ジーニアス英和大辞典、ランダムハウス、英和活用大辞典などを引いてみました。in the zoneというイディオムや用例はみつかりません。代わりに、いくつかの辞書でin a zone 「《俗》ぼうっとして, 集中できない状態で」というような用例が書かれていました。似てるけど、これでは、まったく意味が逆です。

そこで英辞郎を調べると、「〈話〉完全に集中して」と出ています。やっぱりな、と思いましたが、念のため英英辞典をあたることにしました。LongmanCOEにはそうした用例はありません。でも、Websterにはあったんです。「7 : a temporary state of heightened concentration experienced by a performing athlete that enables peak performance <players in the zone>」と。なるほど、スポーツに関連して浸透してきた口語的表現らしいですね。とにかく、これで安心して訳せます。


さて、ここでの教訓は、もちろん「いろいろな辞書をあたること」なのですが、もうひとつは、その単語やイディオムの意味をあらかじめ類推しておくことも大切だということです。
Apparentlyなんて、「明白にも」と「見かけ上は」というたいへん意味の違う訳語が辞書に書かれています。文脈から意味を読み取らないととても変なことになってしまいます。

ひとつの文を単独で解釈するのではなく、記事や論文や本全体のストーリーの流れをつかんで訳せばそうしたミスは防げます。翻訳をはじめたばかりのかたは、そういうことを頭に入れておくと誤訳が減るかもしれません。ただね、こうだと思い込んでしまうと、せっかくいい訳語が辞書に書いてあるのに読み落としてしまうということも、あるんですが・・・

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2008年4月18日 翻訳機の燃料--辞書の話(1)


前回、「わたし翻訳機」の性能向上の話を書きました。翻訳機というからには、バッテリーとか燃料とかが必要です。それもいろんな種類の。その筆頭が辞書です。辞書というのはほんとうにありがたいもので、足りない知識を補ってくれますから、わたしのような者にとって辞書は手放せません。


翻訳の辞書と言えば、すぐ頭に浮かぶのが一般的な英和辞典。当然ながら、これは必需品です。でも、一種類では心もとないので、たくさんもっています。リーダーズ+リーダーズプラス、ランダムハウス、ジーニアス英和大辞典、研究社の英和活用辞典、それにオンラインで使える三省堂の辞書数冊、ご存じ英辞郎などをひきまくります。ひとつの辞書じゃ確信をもてなかったり、あるいはどれかに「これだ!」と思われる訳語が載っていたりするので。

でも、こんなにたくさんの紙の辞書を机に並べておくことは不可能。そこで、CD-ROM版のあるのはそれを買って、パソコンに大量に入れ、検索ソフトで一括検索しています。検索ソフトは長らくフリーソフトのDDWinというのを使っていましたが、これはVistaに対応していないので、どうしたものかと困っていたらEBWinという便利なものがあるじゃないですか! 使い方もほぼ同じなのでさっそくVista機にインストール。古い電子ブック用の小さなCD-ROMの中には文字を認識しないものもありましたが、大半は問題なく使えました。ただ、画面の文字はDDWinのほうが読みやすかったような気がします。


それから英英辞典。これも英日ではどうもニュアンスがつかめないときに利用しています。手元にある紙版はConcise Oxford English Dictionaryですが、無料でオンラインで使えるLongmanはとても便利です。説明が平易でとてもわかりやすく、イメージがつかみやすい。ぜひお試しあれ! それとオンラインで使えるEncyclopedia Britannicaの年会費を払っているので、Websterなどの辞書やthesaurusも自由に使えます。


このほかに、自分が得意とする分野の専門用語辞典(わたしの場合なら、医学、生物学、生化学等)。こちらも、できればそれぞれ複数もっていたいし、専門外の辞書(たとえば法律とか)や、他の外国語の辞書も一冊ずつくらいは持っていると心強いです。日本語の辞書も言葉の知識にはあまり自信がないので、普通の国語辞典、類語辞典、慣用句辞典、表現辞典、用字用語集みたいのとか、よさそうなのがあると、ついいろいろと買ってしまいます。

なんか表現がマンネリだなと感じると、自分ではいいのが思いつけないので類語辞典にお世話になりますし、正しい漢字の使い方についてもあやしいほうなので、「朝日新聞の用語の手引き」や共同通信社の「記者ハンドブック」などをよく利用させてもらっています。「辞書はお金で買える能力だ」とどなたかがおっしゃっていましたが、心からうなずいてしまいます。わたしがなんとか仕事として翻訳をしていられるのもすべて、辞書たちのおかげだと思っています。

 

そういうわけで、いまはこのほかにもいろいろな辞書を手元にそろえていますが、決して最初の段階から持っていたわけではありません。仕事を始めたときには、リーダーズとランダムハウスと医学英和辞典だけだったように記憶しています。翻訳料をいただくようになってから、設備投資のつもりで少しずつ買い足してきました。辞書は一冊がけっこう高いし、数年で改訂になるので買いなおさなきゃならないし、かなりの出費ですけど、確定申告するようになると経費として計上できるので、ちょっとは税金対策にもなりますよ!

 

仕事として翻訳をしようと思ったら、とにかく辞書はなくてはならない相棒です。しかも相棒はたくさんいるに越したことはない。有名な翻訳家が以前に話しておられましたが、「知識は海のようなもので、いくらすくってもすくいきれない。でも、たくさんすくえば、それだけ自分の知識の水は増える」のです(と思いたい)。勉強中の方や、翻訳による収入をほとんど得ていない方には厳しい注文のようですが、図書館を利用するなどの方法もあります。ネット検索すれば、簡単にいろいろなことの答えが見つかるような気がするけれど、正しい情報かどうかはわからないこともあるので、やはり信頼できる著者や編集者が作成してくれた辞書を頻繁に使いたいものです。


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2008年322日 翻訳の楽しみ

翻訳の何が楽しいって? 机に向かってひたすら辞書をひき、しこしこと訳文をつくっていく、地味でオタクっぽい感じの仕事だ。しかもすんなり流暢で美しい日本語の文章になってくれればいいけれど、それが一筋縄ではいかないからツライ。


「まだこんなにある、やだなー、たいへんだなー」とぶちぶち文句をいいながら、やっとラフドラフトができ、推敲段階に入ると今度は「なんだこの訳文は! 意味不明、読みにくい!」と自己嫌悪にひたりつつ直していく。とはいえ、推敲も二度目、三度目となり、最終段階になると楽しくなってくる。だんだん文章にリズムができてきて(単なる自己満足?)、うまくいったときには著者と自分が一体化して語っているような気がするときもある(単なる妄想?)。しかし、初校ゲラが出ると、「ここもまずい、あ、あそこも」ということになり、自己満足も妄想もいとも簡単に消滅するのだが。

大の苦手の「あとがき」を書き、再校ゲラをチェックしたら、いよいよ数か月にわたっておつきあいしてきた本が出版される。じつは、この段階にくると「これで本当によかったのかなあ、誤訳はないかな、あそこを直したほうがよかったのでは」と心配になってくるので、触らぬ神にたたりなしで、もう一度しつこく読み直すことはあまりない。資料やメモを片づけ、パソコンから作業用ファイルを削除して次の仕事へ。



こうして書くと、苦しいばっかりで楽しいことはあまりないみたいですね。でも、そこには作品をつくりあげる喜びがあります。原文の良さや楽しさを読者の方々に少しでもうまく伝えられるようになりたくて、工夫したり勉強したりするのも実は好き。
それから、どんな本でも記事でも、訳すときにはいろいろ調べものをするのですが、それもすごく楽しい。

テレビや新聞や本で関連事項にぶつかると、「おう、これだ!」といままで以上に興味をかきたてられます。言葉づかいにも敏感になるので、テレビドラマを見ていても、電車やレストランでも、まわりの人(特に若い人)の話し方や行動に注意がいきます。そう、翻訳のおかげで、世の中を新鮮な目で見られるようになるし、たったひとり部屋で長時間作業していても世界とつながっている気持ちになれるのです。好奇心がどんどん膨らんで毎日が退屈でなくなります。どんなことにも、どんなものにも翻訳のヒントが隠されていると思えるから。

翻訳をただ英語の辞書をこまめにひいて日本語に置き換えていくだけの静的な作業と思ったら大間違い。英語の辞書をひきまくることはあたりまえにしても、第一に想像力、それから理解力、表現力、文章力、調査力(&忍耐力?)などを含めた包括的な力が必要で、そうしたすべてを少しずつでも伸ばしていかなきゃなりません。

翻訳とは、英語の文章を「わたしという翻訳機」に入れることなんじゃないかなと考えています。内容も文章も見事な英語の文書を翻訳機に入れたら、見るも無残な日本語訳になって出てきたというのでは困ります。「わたし翻訳機」がうまく働くように、その性能が少しでも向上するように、毎日進化させていくことも、わたしにとっての「翻訳の楽しみ」の大きな要素のひとつだと思っています。


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