夜想曲 5
手紙を郵便受けに入れた日は、珍しく向こうからの手紙が入っていなかった。
どきどきしながら帰ってきたイルカは、ホッとしたような、肩透かしを食ったような気分になったけれど、それでもやはり安堵の気持ちのほうが大きかったのは事実だ。
いつも寄越される手紙の様子から、いますぐにでも逢いたいなどと云われたらどうしようかと不安に思う気持ちもあった。
一応手紙には相手が云って来た通り自分が会うのに都合のいい日にちを、一日だけでは相手の都合もあるだろうから、と三日分まで書いておいた。それだけ候補を上げておけば、どれか一日くらいは互いに都合のつく日があるだろう。
そして、その翌日。
仕事を終えて家に帰ると、果たして郵便受けにはいつものように封筒が入っていた。
家に入り、玄関では開けず卓袱台の前に座って封を切った。
きちんと三つ折りにされた便箋に、すっかり見慣れた丁寧な字が並んでいる。
イルカが上げた候補の日にちのなかの一つ、三日後の夕方に逢いたい、と返事には書かれていた。
『いま関わっている任務の都合から、あまり人目に立つ場所ではお会いできません。どこか適当な場所を選んで頂けませんか。私が選んでもいいけれど、それではあなたを困らせてしまうのではないかと心配なのです』
手紙にはそうも書かれていて、イルカは迷った挙句、アカデミーの第三書庫を選んだ。
第一書庫は授業や任務のときに必要な、よく使う巻物、書物などが収められている。自然、使用頻度も高いし人の出入りも多い。第二書庫はSランク任務や暗部が使うことの多い、特殊で高度な技術が書かれた巻物などを多く保管している場所で、使用頻度は低いものの誰でも好き勝手に出入りできる場所ではない。
引き換え、第三書庫はいまでは殆ど使われなくなった、型の古い術式の巻物や忍具などを収めてある場所だ。木の葉の歴史的には価値のあるものでも他の里に漏れて困るものでもなく、いまでは使う者などいはしない。
捨てるに捨てられない、そんなものばかりをしまってある場所で、アカデミーの職員たちでさえその部屋の存在を忘れていることのほうが多い。
あそこがいい。
疑うわけではないけれど初対面の相手、しかも向こうだけイルカを知っていてイルカは相手を知らないのだ。
多少の警戒は必要かもしれない、と人の通りがまったくないでもないその場所は、相手の希望も叶えていて最適だと思った。
翌日の朝、また前と同じように用件を書いた手紙を自分の郵便受けに入れる。
この間ほど緊張はしなかったが、それでも少し指が震えた。
この手紙を相手が受け取れば、二日後――明後日の、夕刻。
自分は手紙の主と会うことになるのだ。
イルカは、少し早く打つ鼓動を感じながら、アカデミーへと走って行った。
* * * * *
なにかを待っているのは苦手だ。
子供のときから、腰の据わりの悪い子供だとよく叱られた。
手紙の主との会う機会を翌日に控え、イルカは目に見えて落ち着かなくなっている自分を感じていた。
いくらなんでも、これじゃあヤバイだろ。
自分でもそう思うのだが、如何せん緊張してしまうものは仕方がない。
意識してしまえば意識するほど、ぎこちなくなっていく。
「どうした、イルカ。なんかあるのか?」
とうとう斜め前に座る、他のクラスの教師をしている同僚にまで心配そうに声を掛けられてしまった。
「いや、なんでもない」
苦笑交じりに答えて、「――ちょっと、外の空気吸ってくるわ」と席を立つ。
いってらっしゃい、とみんなにお茶を配っていた女性職員の一人が笑いを噛み殺したように送り出してくれた。
イルカは職員室を出て、職員専用出入り口から裏庭へと出た。
あの手紙の相手が、いつどこから見ているとも解からないのに。
会おうと決めたときには、こんなに自分が狼狽えるなんて思ってもみなかった。
ただ手紙に込められた切々と訴えてくる思いに応えたいと思ったのは本当だ。カカシに対する当て付けのような気持ちがまったく無かったとは云えないけれど。尤も、当て付けどころかあれ以来本当に顔も合わせないし、どうやら自宅にも帰っていないらしい。
花街に滞在しているという噂はあの後からは聞かないけれど、任務に必要な書類を渡し忘れた受付の同僚が家まで届けに行ったとき、ここしばらく帰っていないと隣の住人から聞いて帰ってきたことがあった。
好きにすればいい――もう関係ないんだから。
* * * * *
古い扉は滅多に開ける人間もいないためか、建てつけが悪いわけでもないのに、なかなか開かない。
「ん…っ――、っと」
がたがたと煩く軋むのを騙し騙し、身体を横にすると辛うじて通り抜けられるくらいの隙間を作ってなんとか中に入った。
「ふう……」
自分はなんとか入れたけれど、相手はどうだろうか。
女性なら力の加減からあれ以上開けられないかもしれないが、体はイルカよりも小さいだろうからなんとか入れるか、と勝手に納得して開け放したまま部屋の奥に進んだ。
埃と古い紙の混ざった特有の匂い。
少し窓を開けておいたほうがいいだろうか。
窓も開けるのに苦労するだろうと思いきや、意外とすんなりと開いて冬の冷たく乾いた空気がばさばさと積まれた紙をかき鳴らす。
湿気も飛んでいいかもしれないな、暢気にそんなことを思っていると――目の前が急に暗くなった。
「え――、わっ、なんだ…?」
一瞬、なにが起こったのか飲み込めなかった。
忍として恥ずかしい話だけれども、まったく油断していたのだ。
するりと音を立てて、目を覆った柔らかい布が後ろで結ばれる。
そこに手をやって外そうとした手を、柔らかく、けれども強い力で押さえられた。
押さえ込んだ手は、そのままゆっくりとイルカの手を持ち上げ、なにか柔らかい感触に触れさせる――唇だ。
相手の唇に軽くイルカの指を触れるようにさせて、唇の動きを指で読めというのか。
「ごめんなさい」
軽く触れた唇は、そう云った。
「顔を見られるわけにはいかないんです、ごめんなさい。声も知られちゃいけない、だからこんな方法でしか、あなたと逢うことが出来なかった。最初から断っておけば良かったんだろうけれど、そんな怪しい相手と逢ってくれるかどうか自信がありませんでした――ごめんなさい」
一息に、声を出さず唇は語った。
「こんなふうに逢うのは、やっぱり嫌ですか」
訊ねられて、返事に困った。
別に嫌じゃない――嫌じゃないけれども。
風が、音を立てて流れている。
髪が翻弄され、泳いでいるのが解かる。
どんどん体が冷えていくのに、
相手の体が近付いて、吸い寄せられるように熱を持つのは何故だろう。
考えてもみなかった。
手紙を見て、どうして気付かなかったのかと今更になって思う。
丁寧に書かれた字は、読みやすいようにと気を配って書かれた文字ではあったけれど、あれは。
女性の字ではなかった。
見覚えのない字だったのは断言できる。
それでは、わざわざチャクラを練って筆跡を変えていたのか――確かに、彼ならそんなことは造作も無く出来るだろう。
抱きこまれる体。
包むようにされて、息を呑む。
こんなふうに自分を扱う人間を、イルカは一人しかしらない。
「カ――……」
呼びかけようとして、唇に指を当てられた。
しぃっ、と息だけで男は云うとイルカの手を引いて近くにあった椅子に座らせる。
掌を指がなぞり、文字を書く――「なにも云わないで」。
どうして、こんなことを。
なにがしたくて、こんな回りくどいことを。
聞きたいことが山ほどあるのに、目隠しをされ、冷える体に熱を分けるように抱き締められるとなにも云えなくなった。
訳が解からない。
混乱した頭は、ただゆっくりと重ねられる唇に応えるので精一杯だ。
久し振りの感触に、腰が震えた。
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