
11 片山潜

片山潜(1859〜1933)
(http://www.town.kumenan.okayama.jp/
PROFILE/senjin/senjin.htm)
(写真前出10参照。)
片山潜 かたやません 1859〜1933 日本の労働運動の先駆者で、国際共産主義運動の指導者。美作(みまさか)国(岡山県)に庄屋の子として生まれる。幼名は藪木(やぶき)菅太郎、のち片山家の養子となる。約11年間の渡米・勉学中にキリスト教徒となり、社会問題や労働運動への関心をもった。帰国後、1897年(明治30)に高野房太郎らと労働組合期成会を結成し、機関誌「労働世界」の編集長をつとめる。
社会主義運動にもくわわって、1901年には日本初の社会主義政党、社会民主党の創立につくした。日露戦争がはじまった04年、アムステルダムでひらかれた第2インターナショナルの大会に日本代表として出席、ロシアの代表プレハーノフと握手をかわして日露戦争反対を世界にうったえた。
大逆事件後ふたたび渡米し、アメリカ共産党の創立などに尽力したあとモスクワにわたる。1922年(大正11)コミンテルン執行委員会幹部会員にえらばれ、日本共産党の創立をはじめ国際反帝同盟の指導、反戦運動に活躍した。日本に帰国することなくモスクワで死去、遺骨はレーニンなどとともにクレムリンの赤い壁にほうむられている。
(『エンカルタ百科事典2001』より)

12 新渡戸稲造

新渡戸稲造(1862〜1933)
(『エンカルタ百科事典2001』より)
新渡戸稲造 ( にとべいなぞう )
農学博士,法学博士,教育者,農政学者,国際的文化人として著名。1862年(文久2)8月3日,南部藩士新渡戸十次郎の三男として岩手県盛岡市に生まれた。祖父傳は十和田湖の水を引いて三本木の原野を開拓した功労者である。札幌農学校(現北大農学部)在学中,内村鑑三,宮部金吾らと相識り,キリスト教徒となる。1884年(明17)渡米,ジョンス・ポプキンス大学にて経済学,史学,文学などを勉学中,札幌農学校助教授に任ぜられ,農政学研究のためドイツに留学した。1891年(明24)旧知のフィラデルフィア市の名家の令嬢メリー・エルキントンと結婚して帰国,札幌農学校教授に就任した。その後,台湾総督府技師,臨時台湾糖務局長を歴任し,台湾糖業の基礎を確立した。ついで京都帝国大学法科大学教授,第一高等学校校長,東京帝国大学法科大学教授として,教育界に清新の空気を導入し門下から幾多の俊才を輩出させた。また柳田国男,石黒忠篤,有馬頼寧(以上別項)らとともに郷土会を毎月自宅で開催し,地方社会の研究に努めた。1920年(大9)国際連盟事務局次長に就任,7年間にわたって文化交流の面などを担当して令名をはせた。協同組合に関しては在任中,1921年(大10),スイスのバーゼルで開かれた国際協同組合同盟(ICA)の総会に国際連盟を代表して列席し,1931年(昭6)には郷里岩手県の産業組合中央会支会長に就任し,さらに翌1932年には賀川豊彦(別項)らと,東京医療利用組合を設立した。一方,貴族院議員,太平洋問題調査会理事長として活躍したが,1933年(昭8)カナダにおける太平洋会議に出席中,病を得てビクトリアの病院で同年10月15日死去した。著書は多く,独文〓ber den Japanischen Grundbesitz(日本土地制度論),『農業論』,英文Bushido『随想録』,英文The Japanese Nationをはじめ,約30冊に及んでいる。(那須 皓)(家の光協会「家の光ネット・データベース」)

13 千石興太郎

千石興太郎(1874〜1861)
(毎日フォトバンク)
(千石:向かって2列目右端)
千石興太郎 ( せんごくこうたろう )
1874年(明7)2月7日,東京都千代田区日比谷に生まれた。1895年(明28)札幌農学校(現北大農学部)を卒業,国立農事試験場,県技師,農会技師・幹事などを経て1920年(大9)産業組合中央会(産組中央会)主事,ついで常務理事,副会頭と累進,1939年(昭14)会頭となる。産組中央会に入るに先立ち島根県農会技師・幹事として大日本産業組合中央会島根支会理事を兼ね,初めて協同組合運動に携わり,大いに業績をあげ,のちに中央に出る契機となった。1923年(大12)に全国購買組合連合会(全購連)が創立されるに及んで専務理事に就任した。当初の会長は月田藤三郎(別項)であったが,彼自ら運営の衝に当たり,1941年(昭16)全購連名誉会長に推されるまで約20年間,産組中央会と全購連の会長代理,会長として指導事業と購買事業の発展に尽くした。また1923年(大12)産業組合中央金庫の設立に尽力し,1927年(昭2)大日本生糸販売組合連合会の創立に際し常任相談役に,のち同連合会の会長となった。1931年(昭6)農業恐慌のさなか,全国米穀販売購買組合連合会(全販連)の設立に努め,これまた常任相談役として経営に参画したばかりでなく,1937年(昭12)経営が苦境に陥ったとき,周囲から勧められて会長を引き受けるに至った。このほか,大日本柑橘販売組合連合会会長となって,これを全販連に合併するなど,販売事業でも貢献した。さらに市街地信用組合協会や監査連合会にも関係し,このように指導畑から出て,まず購買事業の確立に,ついで販売事業の礎石を築くなど,島根県時代より起算すれば約40年間,産組中央会に入ってからも25年の長きにわたり農業協同組合(農協)運動の第一線で働き,1930〜31年(昭5〜6)から1941年(昭16)に至る間,信用部門を除くほとんどすべての分野の最高責任者として活躍し,わが国農協運動史上に一時期を画した。彼の業績中とくに注目すべきものは,@1925年(大14)の〈産業組合法〉公布25周年を期しての産業組合振興刷新運動で,各県ごとに産業組合長会議を開いて,組合の営利化,剰余金第一主義,信用事業偏重主義を排し,4種事業の並行的兼営を旗印に志村源太郎(別項)会頭とともに全国を回ったこと,A同じく25周年の記念事業として『家の光』を刊行したこと(もっともこのアイデアは有元英夫〈別項〉の発案に成り,志村会頭の援護のもとに行われた),B1933
年(昭8)を第1年度とする産業組合拡充5か年計画を立て,その実現に努め,これにつづく第2次拡充3か年計画では,産業組合未設置町村の解消を全国的にすすめたことである。また全購連を設立して肥料配給に努め,政府の援助もあったが,今日の購買事業の基礎をつくったこと,このほか,農業者の政治力を結集して国政に反映させるために,全国農村産業組合協会を設立し,その理事長となったこと,また産業組合青年連盟を組織して,組合運動に新風を送ったことなどが注目され,1938年(昭13)貴族院議員に勅選され,1945年(昭20)東久邇宮稔彦内閣の農商務大臣,旬日をおいて農林大臣を短期つとめた。天性明朗快活で,執筆,講演などは彼の好むところであった。著書に『産業組合の陣営より』『我が農村建設』などがある。1950年(昭25)8月22日没。(島田日出夫) (家の光協会「家の光ネット・データベース」)

14 小平権一・卒業論文

小平権一(1884〜1976)
(http://www.lib.a.u-tokyo.ac.jp/tenji/125/10.html)
小平権一 ( こだいらごんいち )
1884年(明17)1月6日,長野県茅野市(旧諏訪郡米沢村)に生まれた。諏訪中学を経て一高工科に入ったが,途中休学して農科に転じ,1910年(明43)東京帝国大学農科大学を卒業,さらに1914年(大3)法科大学政治科を卒業。農科大学時代の同級生に橋本伝左衛門,木村修三,有馬頼寧(別項)ら,一級下に那須皓(別項),加藤完治らがいた。農商務省に入り,農政課に配属され,産業組合との関係が始まる。農政課小作分室長として石黒忠篤(別項)農政課長とともに小作立法に取り組んだのち,1922年(大11)産業組合の主管課である農務課長に就任,産業組合中央金庫(産組中金)の設立に中心的役割を果たした。産組中金設立とともに参事として出向し,草創期の基礎固めに尽力した。農林省にあってはその後農政課長,米穀課長,蚕糸局長,農務局長,経済更生部長を経て1938年(昭13)次官に就任,翌1939年(昭14)退官。小作立法,産業組合の保護育成,農業保険制度,農業金融の改善充実,農産物の価格安定など農政の主要課題の企画立案に当たった。とりわけ,1932〜38年(昭7〜13)経済更生部長として,農業恐慌にあえぐ農村の再建のため農山漁村経済更生運動を指導し,小農経営を産業組合に結集して農業経営の組織化を唱導し,千石興太郎(別項)を指導者とする産業組合拡充運動と呼応して「協同組合主義農政」を推進した。1943年(昭18)中央農業会副会長,ひきつづき改組後の全国農業会副会長として1946年(昭21)まで,戦中・戦後の混乱期の協同組合組織の最高責任者として尽力した。1944年(昭19)には中央農業会から家の光協会を独立させ会長に就任,戦後は追放解除後の1951〜58年(昭26〜33)農林中央金庫監事,1955〜70年(昭30〜45)協同組合短期大学教授をつとめるなど,ときには監督者として,ときには指導的役員として生涯協同組合運動とかかわりをもった。著書は400点を超え,産組中金在職中に研究を始め,蚕糸局長時代に刊行した『農業金融論』(これによって東大から農学博士の学位を得た)のほか代表作として『農業保険の機能と組織』『農村副業問題』『産業組合論』『農業金融と農家負債整理』『産業組合金融』上・下,『産業組合法』などがある。1976年(昭51)8月1日没。(楠本雅弘)(家の光協会「家の光ネット・データベース」)

15 那須皓・卒業論文

那須皓(1888〜1984)
(http://www.lib.a.u-tokyo.ac.jp/tenji/125/11.html)
那須 皓 ( なすしろし )
農学博士,農政学者,国際的文化人として著名。1888年(明21)6月11日,東京都文京区(旧東京府本郷区)に生まれた。1911年(明44)東京帝国大学(東京帝大,現東大)農科大学農学科卒業,同大学農学部実科講師,農学部助教授を経て,1923年(大12)農学部教授となり,農政学を講ずる。1946年(昭21),第1次吉田茂内閣成立に際し農林大臣就任が内定したが,戦時中南京政府経済顧問であったため公職追放令に該当することになり,大臣就任には至らず,東京帝大教授をも辞任した。以後は財団法人農村更生協会・社団法人国際農友会の各会長,財団法人太平洋問題調査会副理事長,財団法人国際学友会副会長,農林大臣顧問,農業労務者派米協議会副会長などを経て1957〜61年(昭32〜36)には特命全権大使としてインドに派遣された。1968年(昭43)には南米開発株式会社,さらに1970年(昭45)にはイグアス農牧株式会社を設立し,自らその社長となった。その活動は農政問題を中心として,内外両面にわたりきわめて多彩,とくに対外面での活動は単なる農政学者としてのそれを超えて顕著なものがあった。1921年(大10)ジュネーブでの第3回国際労働会議総会に労働者代表委員顧問として出席,小作農民の団結権を主張したのをはじめ,太平洋会議には第2回以降連続5回にわたって日本代表委員として出席し,当時政治的,経済的に非難の高かった日本の立場について国際理解の徹底に努めた。また,1938年(昭13)には北京大学農学院名誉教授としてその運営に参加した。戦後のインド大使時代には救ライ事業に着手し,1962年(昭37)には財団法人アジア救ライ協会を創設し,自ら主宰した。これらの功績により1967年(昭42)にフィリピン国マグサイサイ大統領記念賞を受賞した。晩年,南米開発問題に打ち込んだのも国際的関心の強さによるものであった。国内的には,とくに第1次世界大戦後の階級対立の風潮の高まりのなかで農業問題を文明問題としてとりあげ,その解決は資本主義,社会主義のいずれにも偏らないいわば協同主義によって図るべしとした(『農村問題と社会理想』)。この観点から「公正なる小作料」を主張する一方,ホルマン『デンマーク高等学校論』の翻訳,『国民高等学校と農民文明』の著にあわせて,1926年(大15)には日本国民高等学校協会の設立に参加した。その後石黒忠篤(別項),加藤完治,橋本伝左衛門の諸氏と同志的に協力し,内外の農業問題解決について積極的に推進した。1929年(昭4)の農業恐慌後の農村更生を課題とする農村更生協会会長の職には終生とどまった。直接,協同組合問題をとりあげた著書としては『農業の社会化と協同組合』(東畑精一との共著)があるが,協同組合を中心とする協同主義によって問題の解決を図ろうというものである。その他,農林省経済更生部参与,企画庁参与,全国農業会理事などとして活動した。また,国連食糧農業機関(FAO)第20回理事会(1954年)以降は数次にわたり日本政府代表として出席し,内外両面にわたって協同組合問題についても積極的に発言するなど,めざましい活躍をした。1984年(昭59)3月29日没。(川野重任) (家の光協会「家の光ネット・データベース」)

16 石黒忠篤

石黒忠篤(1884〜1960)
(毎日フォトバンク)
石黒忠篤 ( いしぐろただあつ )
1884年(明17)1月9日,東京都新宿区揚場町(旧牛込区)に生まれた。東京帝国大学法科大学を卒業して農商務省に勤務。1914年(大3)私費でヨーロッパに留学のため約1年間休職。帰国後農務局副業課長,農政課長を経て,1924年(大13)初代の小作課長となり,さらに農務局長となった。翌年,機構改革により農林省農務局長,ついで初代の蚕糸局長を経て,ふたたび農務局長となり,1931年(昭6)農林次官,そして1940年(昭15)第2次近衛文麿内閣の農林大臣となり,また1945年(昭20)鈴木貫太郎終戦内閣の農商務大臣になった。さらに政治面では,1943年(昭18)貴族院議員となり,戦後は参議院議員となって緑風会に所属し,議員総会議長などをつとめた。民間団体関係では,農林次官を退いて翌1935年(昭10),農村更生協会の会長となり,その翌々年には産業組合中央金庫(産組中金)理事長になっている。そのほか,農業報国連盟理事長,満洲移住協会理事長,日本農業研究所理事長,全国農業会会長などにもなった。彼は学生時代にトルストイ(別項)と二宮尊徳(別項)の思想に傾倒して,深くその影響を受けた。大学を出て司法官の道を期待する父の意に反して農商務省入りをしたのも「人が人を裁くことはできない」というトルストイの言葉を信じたからだといわれ,また「自分は百姓になることができなかったから,百姓の世話をすることを志して,今日に至っている」と語る彼の口癖は,まさしく彼の生涯の信条でもあった。そして,大正中期の小作争議頻発時代に農政課長となるや,まず,小作調査委員会の設置を手始めに,早くも小作調停法案や小作法案,〈自作農創設維持補助規則〉などの原案作成にかかり,あるいは農村の振興とその中心となる人材の養成をめざしてデンマークの国民高等学校にならい,茨城県友部(のち内原に移転)に日本国民高等学校を設立して自ら理事長となり,さらに昭和初期からの経済不況に加えて米価の下落により農村恐慌が深刻化するや,農林次官の彼は1932年(昭7)農山漁村経済更生運動の陣頭に立った。産業組合(産組)運動に対しては,農政課長時代にその育成と指導監督との職分の別を明らかにし,「自分はその指導監督の面に徹する」と当時の産業組合中央会(産組中央会)主事千石興太郎(別項)にいったとおり,その方針のもとに悳登代麿(別項)事務官とともに,産組指導に当たった。農務局長時代には補助金を出して産組中央会を援助し,大蔵省預金部から低利資金を出した際にも,産組にはほかより多くを融資させるなど,課長,局長,次官時代から産組中金理事長時代に至るまで,一貫して変わるところがなかった。彼はまた,第2次世界大戦後,インドで開かれた国連食糧農業機関(FAO)アジア極東地域会議に日本政府代表として出席,ひきつづき国際小農同盟の総会に招かれて渡米したり,日本人のブラジル移住50年祭に農業使節団団長として渡航したりして,国外の農民との接触も深かった。1960年(昭35)3月10日没。(小平権一)(家の光協会「家の光ネット・データベース」)

17 賀川豊彦

賀川豊彦(1888〜1960)
(毎日フォトバンク)
賀川豊彦 ( かがわとよひこ )
1888年7月10日,兵庫県神戸市兵庫区島上町に生まれた。5歳のとき両親を失い,父の生家徳島市(旧板野郡堀江村)で少年時代を過ごした。徳島中学時代,アメリカ人宣教師ローガン,マヤス両博士の感化を受け,熱心なクリスチャンとなった。明治学院高等学部神学予科,神戸神学校を経てアメリカのプリンストン神学校,シカゴ大学に学んだ。1909年,神戸葺合新川の貧民窟に住み,貧民救済伝道を始めた。1920年大阪に購買組合共益社を,翌年神戸に神戸消費組合,同年灘購買組合(後年,両者は合併し灘神戸生活協同組合となる)を創設した。1921年神戸の川崎造船所,三菱造船所の大労働争議・・を指導,ついで杉山元治郎,村島帰之,古瀬伝蔵(別項)らと・・日本農民組合を結成し,翌年,大阪労働学校を開設して校長となった。1923年9月1日の関東大震災に・・本所基督教産業青年会を創立して救援活動に奔走した。後日ここを中心として独自の協同組合運動が起こされた。翌年,居を東京都世田谷区に移すとともに全米大学連盟の招きで渡米。1925年には東京にイエスの友大工および家具生産協同組合を,また大阪に農村消費組合協会を設立。翌年安部磯雄,末広厳太郎(1888〜1951)らと東京学生消費組合を設立。1927年東京に江東消費組合を,翌年中ノ郷質庫信用組合を設立。さらに1930年には中国の済南大学で協同組合論を講演し,これを契機に中国に合作社運動が起こった。ついで1931年には農村医療解決のためのモデルとして医師会の反対を押し切り,新渡戸稲造(別項)らと東京医療利用組合設立の運動を起こしたが,これにより全国農村に医療産業組合運動が拡大した。1933年安部磯雄,小野武夫らと日本協同組合学校を東京に開設。翌年,国民健康保険組合法案(未定稿)が発表されるや,これを産業組合事業として実施させることを主張して,法案成立運動の先頭に立った。翌1935年には,第1次世界大戦後のルーズベルト大統領のニューディールの一環として協同組合運動を推進するため,アメリカ政府と全国キリスト教連盟の要請で全米を講演して回り,帰途ヨーロッパを歴訪して伝道のかたわら協同組合,とくに協同組合保険を視察してきた。1941年5回めの渡米では,民間平和使節として4か月間300余回にわたりアメリカ要人に日米平和を説いたが,国内では反戦論者として憲兵隊や警察に拘引留置もされた。そして1945年東久邇宮稔彦内閣に参与,・・日本社会党・・(の)・・顧問・・日本協同組合同盟・・(の)・・会長となり,1951年,全国共済農業協同組合連合会・・(の)・・顧問となっ・・た。その・・平和運動,労働組合,農民組合,漁民組合,協同組合などの幅広い活動は,キリスト者としての友愛,奉仕,協同互助の精神による人間解放運動であり,豊かな新しい社会を地球上に打ち立てる戦いにほかならなかった。・・ほとんどの全著作は『賀川豊彦全集』24巻に収められているが,協同組合に関係あるものとしては,『医療組合論』『経済哲学より見たる産業組合』『組合国家を論じ国家改造に及ぶ』『乳と蜜の流るゝ郷』『農村更生と精神更生』『国民健康保険と産業組合』『保険制度の協同組合化を主張す』『産業組合読本』『漁業組合の理論と実際』『産業組合の本質とその進路』『日本協同組合保険論』『協同組合の理論と実際』『新協同組合要論』などがある。1960年(昭35)4月23日没。(黒川泰一)(家の光協会「家の光ネット・データベース」)

18 東畑精一

東畑精一(1899〜1983)
(http://www.happy.town.ureshino.mie.jp/
TOYOTA/tohata.htm)
東畑精一 ( とうはたせいいち )
文化勲章を受賞した農学博士,農政学者で,経済学者としても著名。1899年(明32)2月2日,三重県一志郡嬉野町(旧豊地村)に生まれた。1922年(大11)東京帝国大学(現東京大学)農学部第2部卒業。同大学助手,法政大学講師,東京帝国大学農学部助教授(1924年)を経て,1933年(昭8)東京帝大農学部教授となり,1959年(昭34)定年退職するまで,農政学を講じた。また,1939年(昭14)いわゆる平賀粛学後経済学部兼任となり,植民政策を講じた。1959年(昭34)アジア経済研究所所長,同会長,同顧問となったが,この間の1964年(昭39)には日本学士院会員になった。その活動は文化勲章受章の理由となったいわゆる近代経済学の手法の農業経済学の領域への導入だけでなく,第2次世界大戦後の日本経済復興の過程で各種研究所,協会などの創設に参加,また各種審議会の長として調整役として多彩な腕をふるった。前者の例としては,農林省農業総合研究所,農民教育協会,農水省農林水産技術会議,農村開発企画委員会,政策科学研究所,財政研究所などがあり,それぞれの長として主宰した。後者の例としては農業復興会議,米価審議会,農政審議会,統計審議会,中央社会保険医療協議会,税制調査会,国際化に対応した農業問題懇談会などがあり,生来の「とりまとめ役」としての評価が高かった。また,1959年(昭34)には農林漁業基本問題調査会会長となり,ついで,1961年(昭36)には戦後農政の一道標としての〈農業基本法〉の制定について推進役を果たした。学界活動としては,中山伊知郎との共訳による一連のシュンペーターの著作の紹介(『経済発展の理論』『経済学史』『資本主義,社会主義,民主主義』)のほか,大著『経済分析の歴史』の全訳も特筆されねばならない。自著としては『日本農業の展開過程』がシュンペーター『経済発展の理論』の手法による分析として最も知られているが,『農産物価格統制』『米』『農村問題の諸相』など農業問題に関するものから,『日本資本主義の形成者』など幅広い教養に裏付けられた知見の卓抜さが注目を集めた。協同組合問題については,『協同組合と農業問題』(1932年,那須皓〈別項〉と共著,のちに独立して同書名として刊行)が,代表的な著作であるが,その株式会社との対比を中心とした周到,緻密な組織原理の研究は今日においても古典的価値をもっている。具体的な協同組合問題についての発言はなかったが,前記農業復興会議議長としては戦後の〈農業協同組合法〉制定について重要な推進役を果たした。また,社団法人家の光協会には1947年(昭22)以来36年間理事として協力,その間,『日本農業年鑑』(農業復興会議で編集発行したものを会議解散後,家の光協会が受け継ぐ),『協同組合事典』(本事典旧版,1966年)の刊行企画,監修に当たった。1968年(昭43)フィリピン国マグサイサイ大統領記念賞を受賞。1983年(昭58)5月6日没。(川野重任)(家の光協会「家の光ネット・データベース」)

19 石黒忠篤・加藤完治・近藤康男

石黒忠篤・加藤完治・近藤康男
(http://www.ruralnet.or.jp/news/kondou/tankou.html)
(石黒:向かって前列左4人目、加藤:同5人目
近藤:中列左5人目)
略伝
〔石黒忠篤〕前出16
〔加藤完治〕
加藤完治 かとうかんじ 1884〜1967 大正〜昭和期の農本主義者、満州(中国東北部)開拓移民(→ 満蒙開拓)の指導者。東京市本所瓦町(江東区亀戸)の旧平戸藩士の家に長男として生まれる。第四高等学校をへて、1906年(明治39)東京帝国大学工科大学応用化学科(現、東京大学工学部)に入学したが、病気休学の後、農科大学に転学した。11年に卒業後、内務省地方局に勤務し、帝国農会嘱託として中小農保護政策調査事務にあたった。
1913年(大正2)山崎延吉(のぶきち)のすすめで、愛知県立安城農林学校に教員として勤務。15年には新設された山形県立自治講習所の所長になった。20年、高根農場や萩野農場の開墾をみずから実践、指導し、独自の教育方針で中堅農業関係者を育成する。これは、筧克彦(かけいかつひこ)の説く古神道にもとづく農本主義思想による農民教育であった。
1922年から1年4カ月間のヨーロッパ視察ののち、石黒忠篤(ただあつ)らのすすめで、26年に茨城県宍戸町(友部町宍戸)に日本国民高等学校を創立し、校長となって農民子弟教育にあたる。ここでさらに独自の農本主義思想を深めた。
満州事変がはじまると、関東軍司令部の東宮鉄男(とうみやかねお)と満州移民をすすめ、32年(昭和7)以降、「満州国」の建国にともない、荒木貞夫陸相らを説得して満州移民の協力をとりつけた。満蒙開拓青少年義勇軍の編成にもかかわり、37年に茨城県下中妻村字内原(内原町内原)へ移転した日本国民高等学校に隣接して、38年、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所(通称、内原訓練所)を設立。39年には同訓練所長となった。その後、移民教育が積極化し、満州におくられた数え年16〜19歳までの少年たちの総数は8万6530人、義勇軍(満州の現地では義勇隊とよばれた)開拓団数243隊にのぼった。
第2次世界大戦後、戦犯としての起訴はまぬがれたものの、一時公職追放をうけ、46年に福島県の甲子高原(かっしこうげん)に入植し、白河報徳開拓農業協同組合長となった。52年に追放解除されると、翌年、日本高等国民学校(日本国民高等学校を改称)の校長に復帰し、のち名誉校長となった。また、旧満州開拓関係団体の要職もつとめている。
(『エンカルタ百科事典2001』より)
〔近藤康男〕後出20

20 近藤康男

近藤康男(1899〜)
(http://www.ruralnet.or.jp/news/kondou/tankou.html)
略歴:1899(明治32)年1月1日、岡崎市井内の農家に生まれ、六ツ美村第2(北部)小学校、愛知2中(現岡崎高校)、八高を経て、1925(大正14)年東大農学部農業経済学科卒。1935年東京高等農林教授、1941年東大教授農政学担当、1943年追放を受けたが1946年復帰。農林省統計局長を兼務、1959年東大定年、1975年まで武蔵大学教授。東大名誉教授、武蔵大学名誉教授。現在農文協名誉会長、(財)農文協図書館理事長。2001年には満102歳を迎えた。
近藤康男 履 歴 1999年12月現在
一、学歴・職歴
明治三二・一・一 愛知県碧海郡糟海村大字井内に生れる
(一八九九年) (現・岡崎市井内町久世八番地)
明治三八年四月 愛知県碧海郡糟海尋常高等小学校入学
明治四四年三月 愛知県碧海郡六ツ美第二尋常高等小学校尋常科卒業
大正 二年三月 愛知県碧海郡六ツ美第二尋常高等小学校高等科卒業
大正 七年三月 愛知県立第二中学校卒業
同 八年四月 第八高等学校理科甲類入学
同 一一年三月 同校卒業
同 一一年四月 東京帝国大学農学部農学科第二部入学
同 一四年三月 同大学卒業(一九二五年)
同 一四年四月 東京帝国大学助手
昭和 六年六月 東京帝国大学助教授(一九三一年)
同 一〇年四月 東京高等農林学校教授兼東京帝国大学助教授
同 一四年二月 農林省統計官兼東京帝国大学助教授、農林省官房統計課長
同 一二年八月 農学博士(東京帝国大学)「煙草専売制度と農民経済」
同 一六年七月 東京帝国大学教授兼農林省統計官、農政学、経済学第二講座担任
同一八年八月 依願免本官並兼官(一九四三年)
同 一九年四月 東亜研究所調査役、第一部長兼自然科学部長(昭二一・三まで)
同 二一年三月 東京帝国大学教授(農政学経済学第二講座担任)(一九四六年)
同 二一年四月 慶応大学経済学部講師(非常勤)
同 二一年一〇月 東京産業大学講師(非常勤)
同 二二年五月 東京大学大学院社会科学研究科委員会委員(昭三四・三まで)
同 二二年六月 農林事務官兼任、農林省統計調査局長(昭二五・四まで)
同 三〇年一一月 九州大学農学部講師併任
同 三二年一一月 東京大学評議員併任(昭三四・一一まで)
同 三三年一〇月 茨城大学農学部兼任講師併任(昭四三・二まで)
同 三三年一〇月 富山大学経済学部兼任講師併任(昭三四・三まで)
同 三四年三月 東京大学定年退職(一九五九年)
同 三四年五月 東京大学名誉教授
同 三四年四月 武蔵大学教授
同 三六年四月 武蔵大学経済学部長(昭三九・一二まで)
同 三六年一〇月 学校法人根津育英会理事(昭四〇・一まで)
同 三六年一一月 九州大学農学部兼任講師(昭三七・三まで)
同 三七年四月 立教大学大学院経済学研究科農業政策論担当兼任講師(昭四六・三まで)
同 四二年一〇月 鹿児島大学農学部兼任講師(昭四三・三まで)
同 四四年四月 武蔵大学大学院経済学研究科修士課程兼任(昭五〇・三まで)
同 五〇年三月 武蔵大学退職(一九七五年)
同 五〇年四月 武蔵大学名誉教授
同 五〇年四月 武蔵大学経済学部兼任講師(昭六〇・三まで)
同 五六年七月 (財)農文協図書館理事長(一九八一年・現在に至る)
(http://www.nazuna.com/100sai/ryakureki.html)

21 片山哲

片山哲(1887〜1978)
(『エンカルタ百科事典2001』より)
片山哲 かたやまてつ 1887〜1978 大正・昭和期の社会運動家・政治家・弁護士。和歌山県に生まれる。1912年(大正元)東京帝国大学を卒業して弁護士を開業。法律相談所をひらいて、民衆の法律相談にあたった。26年(昭和元)社会民衆党の結成に参加して書記長に就任。30年の普通選挙第2回総選挙で初当選した。
第2次世界大戦後、日本社会党の書記長、初代委員長に就任。1947年4月新憲法下ではじめての総選挙で第1党となった社会党は、民主党、国民協同党と連立して片山内閣を組閣。はじめての社会党連立内閣であった。日本国憲法の施行にともない、刑法・民法改正や労働省の設置、内務省・司法省の解体などの行政機構の整備に業績をあげたが、炭鉱国家管理法、再軍備をめぐって党内が対立し、わずか9カ月(1947年6月〜48年2月)の短命内閣となった。60年に民主社会党を結成し最高顧問に就任。敬虔(けいけん)なクリスチャンとして知られ、憲法擁護と日本・中国の文化交流に尽力した。
(『エンカルタ百科事典2001』より)
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