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矢を矯める

080.Irrigators lead the water; fletchers fashion the shaft; carpenters carve the wood; the wise discipline themselves.


【080】水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。



修行のプロ

水は、自然のままですとグニャグニャと蛇行して流れます。昔、水道を作るに際して、その水をまっすぐに導いたということです。
水道を作るプロの職人は、水の流れる道をまっすぐにすることに専心していたともいえます。

矢は、自然の木を使いますが、それが曲がっていては用をなしません。矢を矯めるとは、その素材をまっすぐにすると言うことです。
矢を作るプロの職人は、素材をまっすぐにすることに意を尽くしていたといえます。

大工さんもそうです。曲がった木では上手に家が建てられません。プロの職人は、まず、木材をまっすぐに整えることから始めます。

これらと同じように、プロの修行者は、まず、こころをまっすぐに整えることに、専心します。

それぞれ、その道のプロは、基本がしっかりしているわけです。
水道をつくるとか、家を建てるとか、矢をつくるとか、最終目的は、はっきりしていますが、すぐにそっちに向かわないで、まず、そのもとになる基礎となる部分にしっかり力を入れるということです。
そうすることによって、その後の作業が容易にきちんと無駄なくできることを、プロの職人は良く知っているともいえます。

同じように、プロの修行者は、つまり、真剣に修行しようとしている人は、この「基礎」をまず、しっかり、整えてから修行を実践するのが正しいのです。効率的なのです。

それは、何か?
「自己を整える」とお釈迦様は言っています。
自分がグニャグニャ蛇行していたり、曲がっていたり、たわんでいてはいけないということです。
「曲がっていると、修行が効率よく進まないよ」と言っているわけです。
とても、厳しいことばでもありますが、忘れ易いので、お釈迦様が釘を刺して弟子達に言った言葉なのでしょうね。
ありがたい、ことばですね。

もう一度味わってみましょう。

「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。」

修行もその道のプロの職人でなければいけないということです。
本当に、身が引き締まりますね。

「あのー、笑雲先生」
「なんだい、小松茸」
「全然、身が引き締まりませんが」
「はあ?」
「というか、自己を整えるって、何ですか? 修行することでしょ? すると、修行の前に、修行するということですか? 具体的に何をするんですか。全然わかりませんが」
「ああ、なるほど。整えるという言葉が分からないのじゃな」
「そうかもしれません」
「整えるとは、例えば、勉強をしようとしても、部屋が散らかっていては、効率よく勉強できない。だから、集中して勉強しようとしたら、まず、部屋を整理整頓する。整えるということじゃ。すると、気が紛れずに勉強に集中できる。そうじゃないかい」
「そうですね。まず、目に見える部屋とか机とかの自己の周りの整理整頓する」
「そうだね」
「でも、自己を整えるってどういうことですか」
「部屋も片付いて、机の上も片付いて、日常の用事や、案件も片付いて、自分の周りが一応片付いたら、今度は、小松茸の言うとおり、自己を整える。つまり、自分の内面を整えるということじゃな。」
「外面が整ったら、次は内面を整える」
「そうだ」
「では、その内面をどう整えるのですか、笑雲先生。掃除なら、曲がった机や家具をまっすぐにして、ホウキと塵取りをつかって、大きなゴミを除き、今度は、雑巾がけをして小さなホコリを除く。でも、自己の内面はどうやって整えるのですか」
「知らん」
「えっ、知らん? 知らんって、ええっ、ここまで親切に説明しておいて、一気に知らんとは、ええっ、いったいなんですか、笑雲先生」
「あはははは、笑雲は小松茸の心の、どこが、どのようにな状態になっているのか、知らないから、それをどのように整えていいのかも知りようがないと言ったまでじゃ。だから、笑雲は知らん」
「はあ」

「いいかい、小松茸。自分が曲がった心を持っているのは、自分が一番良く知っている。小松茸の部屋が散らかっているのは、目に見えるから笑雲も、掃除を手伝ってやることもできる。
小松茸の机の上が乱雑になっているのを、片付けることもできる。
でも、小松茸の心の中がどんなになっていても、それを外から片付けることはできないよ。どのように散らかっているのか、分かるのは自分だけじゃ。
修行をサボろうとしていたり、怠惰になっていたり、自分の強欲を追いかけていたり、誰かのことを考えて気がそぞろになっていたり、疑いをもっていたり、不要な心配を膨らませていたり、後悔や不満が渦巻いていても、それらは、全部自分の中で思考が動いていることじゃ。だが、他人にははっきりわからない。

でも、そのように心が曲がっていると、なかなか上手く修行が進まないよ。そもそも修行に入れないよ。とお釈迦様は言っているわけだ」

「でも、笑雲先生、それって、日常ってことでしょ。笑雲先生は、さとりは日常でもできる。山や寺に籠らなくてもできると仰ってるじゃないですか。だったら、それらの日常は日常で、いろいろあってもいいんじゃないですか。そんなことを全部なくしたら、山に籠っているのと同じになりませんか」
「まぁ、そうだね。日常生活を送りながら修行することが大切じゃ。でも、だれでも、一日に24時間しかない。日常に24時間全部使うと、小松茸はいつ修行するんだい」
「だから、その日常をこなしながら・・・」
「蛇行した水がなかなか目的地に進まないように、日常をあちこちしていると、なかなか前に進まないよ。日常のことをまっすぐさっさと進める工夫も必要じゃないかい。まとまった修行の時間が日常ではとれない日があっても、例えば、小刻みに1時間に5分とか、あるいは、20分に1分とか、修行者としての自分に立ち戻ってもいいのではないかい。考えてもあまり意味のないことをあれこれ考え続けるなどは、一番の蛇行だと思うけどねぇ」
「どうして、考えても無駄なことだと、笑雲先生に分かるんですか。ええっ、大切なことや、疑問や、心配や、恋愛感情とかいろいろあるでしょ。なにも考えるなって、それも否定するんですか」
「あはははは、だから何も言ってないよ。小松茸が何をどのように考えているのか、外からはさっぱりわからん。良いことを考えているのか、つまらないことを考えているのか、さっぱりわからん。知らん。だから、自分でそれを見て、自分で整えるしかないね」
「どう、整えるのですか」
「そうか、今度は整え方の問題だね」
「そうです」

「整える前に、まず何がどのように蛇行しているのを発見しなければならないね」
「どう発見するのですか」
「欲があると、思考は蛇行するからね」
「じゃぁ、どうやって、欲があるのを発見するんですか」
「欲があると、マインドは考える、そして、その欲が満たされないと、不満になる」
「そうですね」
「不満があると、気分が悪くなる。だから、一つの発見の方法としては、気分が悪くなったら、それは、どこかに欲があるということじゃ」
「ふんふん、その話なら知ってますよ。そして、その欲を『肉体の欲』と『精神の欲』にわけて考えるってことでしょ」
「そうだね。だから、発見の仕方は簡単だ。自分で自分の欲を見つけるのは、悪い気分を発見すればよいことだ」
「でも、考え続けても気分が悪くならなかったら?」
「ほう、そういう場合もあるね。愛とか、奉仕とかは、欲ではないからね、それを思い続けても、気分は悪くならない。だから、そのような良い思いをしているときは問題はない。
しかし、普通は思考は欲から起動しているから、ほとんどの思考は、考え続けると、強欲であればあるだけ気分が悪くなる。しかし、小松茸の言うように、考えていてもすぐには気分の悪くならないこともあるね。あるいは、気分の悪さに気がつかないってこともある。それは、マインドを鍛えて、強くしすぎると、そうなることがある。少々気分が悪くても我慢ができるようになってくるわけだ。もし、それが行き過ぎているようなら、問題だね」
「はあ」
「それは成長したということで一面良いことなのだが、あまりに成長しすぎて、自分の気分が悪いのさえ無感覚になってしまっている場合は問題だ。マインドが強く成長・発達した人は特にそうなりやすいね。
子どもや赤ちゃんなら泣いて嫌がるような環境でも、我慢して居続けられるようになるわけだ。それは確かに、一つのりっぱな大人としての成長だけど、それが精神的な欲にまで、無意識で拡大していると、自分で自分の気分の悪いことや、心身の不調に気付かないってことにもなってくるね。
一時的ならいいのだが、それが続くと問題だ。精神的な不調を気付かないまま、ずっとマインドが権勢を誇っていると、肉体がやられて今度は、肉体的な不調になることもある」
「病気になるってことですか」
「そうだね。成人病は、自分の精神の歪みに気付かずに、それを長時間歪んだままにしていることによって発生していることが多いね」
「でも、病気になったら修行どころじゃなくなりますよ」
「そうだね」
「じゃぁ、どうすればいいんですか」
「病気にならないようにする」
「それには、精神的な歪みに気付くってことでしょ」
「そうだね。それがまず大切だ」
「では、どうやって、精神的に曲がっているのに気付けるんですか」
「さあ?」
「えっ、それって、分からないから『さぁ』って言っているんですか。それとも、小松茸に考えさせようとして『さぁ』って言っているんですか」
「さあ、どうかな? あはははは」
「あっ、逃げた」
「あはははは。今日はここまで」
「うーん、考えさせようってことか、あはははは」

宝彩有菜
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今回出てきた、ダンマパダのセンテンス

【080】水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は、矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

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