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得がたき主

160. One is one's own guardian. What other guardian could one have? With oneself well disciplined one obtains a rare guardian indeed.


【160】「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよく整えたならば、得がたき主を得る。」




自分が自分の主人である。なんだか当たり前のことですね。他人がどうして自分の主人であろうかなんて、そんな疑問を持つ方が変だと思いますね。昔ならいざ知らず、今は、王様とか、奴隷とかの制度はありませんから、自分が自分の主人です。職業を選択する自由とか、伴侶を決める自由とか、住むところを決める自由とか、憲法にも保証されていますから、あらためて、自分の主は自分であると言わなくてもいいような気がしますね。

と、普通は、そう考えますが、これはお釈迦様の言葉です。普通のことを言っているのではないのですね。修行をしている修行者にさとりのヒントを与えているわけです。

ということは、「自分は普通では、自分は自分の主ではない」と言っているわけです。では、いったい誰が主なのでしょうか?
口うるさい、社長でしょうか? 確かに、生活のためとはいえ、一種会社の奴隷のようになっていますから、社長が自分の主とも言えそうです。あるいは、あれこれ口うるさい、親でしょうか? あるいは、パートナーや、もしかして、子どもってこともあるかもしれません。考えてみれば、誰の奴隷にもなりそうです。

でも、お釈迦様は、そんなことを言っているのでもないのですね。
「他人がどうして(自分の)主であろうか?」と言っています。他人は自分の主にはなれませんよということです。
では、だれが主なのでしょう。
お釈迦様は、「自己をよく整えたならば、得がたき主を得る。」と結んでいます。

「自己をよく整えたら、得がたき主を得ることができる」わけです。

はて? 分からなくなってきました。
誰がどのようにして、得がたき主を得るのでしょう。
もう一度読んでみましょう。

「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよく整えたならば、得がたき主を得る。」

自己と、自分とちょっと紛らわしいですが、使い分けていますね。
自己というのが、「本来の自己」のことで、自分というのが「マインド」だと思えばよく分かります。そのように言い換えてみましょう。

「本来の自己」こそ「マインド」の主である。他人がどうしてマインドの主であろうか? 「本来の自己」をよく整えたなら、得がたき主を得る。

ということですね。
マインドは働き者ですが、マインドには、人生を決定する能力も、人生を楽しむ能力もありません。「本来の自己」がマインドや、手や足をつかって、この世での活動をしているのです。
しかし、あまりにマインドが働きすぎると、「本来の自己」は、自分はマインドと同じだと思ってしまいます。多くの不幸はここからスタートしています。

つまり、もう一度、言いますと、不幸が始まるのは、マインドを自分だと思ったところです。
手を、自分だと思ったり、足を自分だと思うのと一緒です。
手は、自分の手です。足は自分の歩くための道具です。自分の足です。
マインドも単なる考えるための自分の道具です。

そして、マインドは本来道具ですから、「考えること」はものすごく考えますが、最終決定は、常に「主人」に任せようとします。というか、マインドには決定権は本来ないのです。
足に行き先を決定する権利が無いのと同じです。手に、どういう文字や文章を書くかの決定権が無いのと同じです。足は歩くプロですが、行き先は決められない。手は書くプロですが、内容は決められない。
それと同じで、頭は考えるプロですが、決定はできない。

決定は、主人がします。ところが、その頼りになるはずの主人が、「不在」になってしまうと、マインドは誰か他の人に決定をゆだねてしまいます。社長や、親や、親友や、伴侶や、子ども。誰か他人が決定するのであればその責任を取らなくて済むからです。というか、本来道具ですから、決定権はもっていないマインドとしては苦肉の策です。決定しないでいい、考え続けろといわれれば、それは喜んでいつまでも考えるだけです。

もし、だれも決定してくれなければ、過去の学習結果から、一番安全と思える決定を、しかたなく、時間切れでなんとか決定することもあります。そうなると、ですから、まぁ、人生は、あっちにフラフラこっちにフラフラしながらでも、なんとか進んでいきますが、「本来の自己」は、なんだか面白くない人生だなぁという感じになってきます。

ちゃんと居るべき主が不在だとそのようになってしまいます。ですから、本当の主(自己)を、主の居るべき場所に据えなければなりません。その場所を整えて、本来の自己をちゃんと、でーんと据えるということです。すると、マインドは、人生の決定に際して、本来の自己に「どうしましょう」と指示を、仰ぐことができます。

また、マインドが考え過ぎになったり、心配し過ぎになったりした場合も、本来の自己が「良い加減で中止しなさい」と言えますから、不調になるまで、考え続けるということもなくなります。
このような注意を、例えば堂々巡りをして止まれなくなっているマインドに、言ってくれるのは、まことにありがたいことです。ですから、マインドにとっても、とても得がたい主を得たということになるわけです。

「笑雲先生」
「なんだい、小松茸」
「得がたい主を得ることが大切だということは、よく分かりました」
「おお、そうか、それは素晴らしい。なら、この講義はおしまいだ。よかった、よかった。ちゃん、ちゃん」
「ちょっと待ってください。ちゃんちゃんだなんて」
「ん?」
「笑雲先生、どうやって、得がたい主を得ることが出来るんですか」
「ああ、どうやってね」
「自己を良く整えたならば、得がたき主を得るってことでしょ。それって、具体的にはどうするんですか。自己を良く整えるって」
「うーん、なるほど。確かにあいまいだね。よく分からないね。自分というのがマインドで、自己が本来の自己なら、自己ってもともと整っているものだから、いまさら、整えなくてもいいしね。整えるのはマインドの方だからね。この辺りは、訳が悪いのか、伝えられている言葉が長い間に歪曲してしまっているのか、よく分からないが確かに小松茸の言うように、あいまいだね」
「そうでしょ。だから、聞いているんですよ」
「ああ、そうか。だから、聞いているのか。では、小松茸に聞くが、普通、自己を整えるだとか、自分を整えるだとか、お釈迦様がいう場合は、何を言っていると思うかい? ヒント、言っているのはお釈迦様だ」
「ええと、お釈迦様が言っているんだとしたら・・・・」
「そう、お釈迦様が『自己を整えなさい』って言っている、『自分を整えなさい』といったのかもしれないし、別かもしれない。でも、それは具体的には、何をしなさいって言っているのかな?」
「まぁ、それは、言葉の違いは別にして、修行しなさいってことですね」
「あはははは、そうだね。修行に励みなさいってことだ」
「でも、具体的には?」
「だから、具体的に、修行を、自分で実践して励みなさいってことだ」
「あのー、修行ってどうするんですか・・・・なんて、聞くと長くなりますね」
「そうだね。一言ではなかなか言えないね。欲を捨てる、マインドを観照する、プログラムを見直す、瞑想する、欲の動いたのをカウントする・・・・。することは、山ほどあるね」
「あとは、するだけですね」
「そうだね、小松茸の場合は、理論より、実践だね。実践あるのみだね。実践が少し足りない」
「少し?」
「ホンの少し」
「あはははは、実践がまったく足りない」
「あはははは」


宝彩有菜
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今回出てきた、ダンマパダのセンテンス

【160】自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよく整えたならば、得がたき主を得る。


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宝彩有菜

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