290. If by giving up a lesser happiness, one may
behold a greater one, let the wise
man give
up the lesser happiness in consideration
of the greater happiness. 【290】つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。 ■ 広大な楽しみ 「大欲は、無欲に似たり」と言う言葉があります。とても大きな野望をもっていると、小さなことを追いかけませんし、少々の不満は我慢できますから、側からみていると、まるで、無欲のように見えるということです。 今回のお釈迦様の言葉は、これに少し似ています。 「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのである」。そうであるなら、「心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」と言っています。 「笑雲先生」 「なんだい、小松茸。今回は早いね」 「ええ、内容は分かりやすいですからね」 「そうか。分かり易いか? まだ説明し終わっていないのだけど」 「ええ、ばっちり分かりました。内容は分かりましたが、疑問があります」 「なんだい」 「つまらぬ快楽を捨てよ、といわれてもですね、広大な楽しみを得てからなら捨てるのも惜しくないでしょうが、その広大な楽しみとやらをまだ得ていない状態では、なかなか捨てにくいですよ」 「ああ、なるほど」 「つまらぬ快楽は、頑張って捨てた。でも、広大な楽しみがいつまでたっても得られない。というんじゃ、不幸で、惨めですからね。ですから、まず、広大な楽しみが得る。そして、それが得られたられたら、直ちに、つまらない快楽を捨てるというのじゃいけませんか。すると、何も無いという状態が避けられますけど」 「ああ、なるほど、そういうことか? なるほどね」 「ねっ、納得できるでしょ。小松茸の言っていることが」 「いや、そうではなくて、小松茸はそのように考えているから、なかなか修行が進まないのだなぁと、そういうことか、なるほどと、そのことが分かったって言ったのだ。」 「えっ、修行が進まないことと、いったいどう関係があるのですか?」 「いいかい、小松茸。つまらぬ快楽を捨てないでは、広大な楽しみは手に入らないのだ。両手に一杯おもちゃを持っていては、黄金の皿を渡したくても渡せないのだ」 「えっ、なんですか。おもちゃを捨てると、金の皿をくれるんですか? どこにあるんですか? おもちゃはすぐに捨てます。ほら、捨てました。金の皿、金の皿。約束したんだから金の皿をください」 「ああ、そうだね。金の皿ね。では、捨てたおもちゃはどこだい?」 「おもちゃ、ああ、それは、例えばの話です」 「あはははは、金の皿も、例えば、じゃ」 「あはははは、屏風から、トラは出てこなかったか、残念」 「あはははは、でも、とにかく捨てるのが先じゃ。捨てると、手に入るとお釈迦様はおっしゃっておる」 「ほんとうですかねぇ、怪しいですねぇ」 広大な楽しみでも、なんでも、そうですが、何かを得ようとすると、その準備ができていないと、なかなか得られません。古いものがまだ残っていたり、捨ててもよいものを捨てずに持っていると、同種の新しいものは、なかなか自分の方へやってきません。 つまり、捨てないというのは、まだ、新しいものは必要でないと、心の奥の深いところで思っているから、結局、新しいものを得ることができないということになるわけです。 あるいは、新しいものが得られるということに確信がないから、古いものを手放せないのだともいえます。 新しいものを得るには、心の奥底から、きっぱりと、「古いものはもういらない」という「宣言」にも似た心理的な態度が必要なのです。 そして、そうすると、心だけでなく、身体も一緒になって、その新しいもの獲得に動き出します。また、それは、自分の周りの人にもその「意向」が伝わりますから、ますます、新しいものを得ることが容易になってくる。状況によっては、そう「宣言」するだけでとても有効なサポートも得られるということになりやすい訳です。 これは、人生を切り替えるコツでもあります。新しい人生に進みたかったら、新しい人生を得ようとする前に、まず古い人生を綺麗に捨て去ることが必要です。 さて、お釈迦様が、 「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ」 とおっしゃってます。 「笑雲先生」 「なんだい、小松茸」 「つまりですね。小さい快楽を捨てれば、大きな楽しみが得られるんでしょ」 「そうだね」 「でも、小さい快楽を積み足していくと、大きな楽しみになるんじゃないですか」 「ああ、なるほど」 「えっ、違うんですか」 「そうだね。正しい響きがするね。でも、違うのだ」 「どこがどうちがうのですか?」 「いいかい、欲が満足されるのを快楽と言っているのだから、欲がなくなったら、快楽も無くなるわけだ。快楽を感じることもなくなる。でも、その状態になると、広大な楽しみがあるよって言っているわけだ。だから、比較が出来ないのだ。」 「よくわかりませんが・・・・」 「いいかい、マインドは、欲のために働いている。そのマインドが欲を達成したときに感じるものが、快楽だ。だから、快楽を求めてマインドはひたすら働く。それはマインドの特性だ。よく働いている。誉めていいことだ。 だが、それは、マインドが『利己』のために働いているだけじゃ。もちろんそれも大切なのじゃが、『利己』が消えたときの広大な楽しみを知っているわけではない。」 「何ですか? その『利己』が消えたときの広大な楽しみというのは?」 「例えば、『欲』が消えると、『愛』が溢れる。その『愛』が溢れているときに感じる温かい充実感、喜び、ちょっと言葉ではいえないけど、そんなものすごい幸せな気持ち、ああ、生きてるっていいなぁと感謝、感激になっているような感動。それは、マインドが消えて『利己』も消えてしまったときに自動的に起こるものだ。それは小さな快楽とは比べられない。宇宙的だ。広大だ。」 「ああ、ちょっと待ってください。そしたら、つまり、『利己』が消えたらすぐに『広大な楽しみ』が得られるのですか」 「そうだ。得られるというより、覆い隠されていたものが、現れでると言った方が良い。それくらい確かに得られる。すぐに、確実に得られる。得ると言う表現の仕方がおかしい・・・、取り戻すとか、気付くとか」 「ほほーっ、そういうことですか。では、捨てた後、何も無い状態になることを心配することは、全然ないですね」 「そうだね。まったく心配いらないね。単に、つまらぬ快楽を捨てればいいだけだ。そしたら、自動的にそれが見える」 「ほほー、で、どうやって捨てるんですか。笑雲先生」 「えっ、・・・・・」 「どうやって?」 「だからぁ・・・・」 「あはははは、分かってます、分かってます。修行でしょ。修行」 「おお、すごい、小松茸も進歩したもんじゃ。笑雲は嬉しい」 「おかげさまで。でも、わかっちゃいるけど、なかなかできない」 「あはははは」 「あはははは」 --------------------------------- 今回出てきた、ダンマパダのセンテンス 【290】つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。 --------------------------------- ------------------------------------------ 宝彩有菜 宝彩有菜のダンマパダ講話 (home)/(index)/(back) (c) All Copy Rights Reserved by Alina Hosai 2005 |