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全てに慎む

362. Restrained of hand, restrained of foot, restrained of speech and restrained in his highest faculty, with his joy turned inwards, his mind still, alone and contented -- that is what they call a bhikkhu.


362】手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、−その人を修行僧と呼ぶ。





礼儀作法をわきまえて、物腰も人付き合いもソツなく、不平不満をいわず、いつも明るく、たとえ、独りで居ても満足している、そんな人になりなさいというのは、道徳的にも、教育的にも正しいことですね。そのような人に成長するのは、人間として、社会人として上等なことだと思います。

でも、これは、お釈迦様が修行の道場で言った言葉ですから、善良な社会人の育成を目指しているではないのですね。修行者に向けて言ったことばです。悟りを目指している人に対しての、教えです。では、いったい何を言っているのでしょう。

修行者は、こうあるべきだ。そうなっていれば、修行者と呼ぼうというわけですから、修行者のあるべき姿を言っているわけですね。
でも、あるべき姿を言われても、どうやってそうなれるのかの具体的な説明がなければ、不親切です。

例えば、「大きな家に住んで、ベンツを乗り回して居る人を、すなわち、お金持ちと呼ぶ。」といわれても、どうやって、大きな家を手に入れるのかそれが分からないと、それは教えとはいえませんね。単にお金持ちの定義をしただけのことです。

お釈迦様の言葉は、修行者の定義をしただけなのでしょうか? そんなことを、わざわざお釈迦様がしているはずはありませんね。と、いうことは、この言葉も、ありがたいお釈迦様の教えなのでしょう。修行者に修行の実践方法を説いているわけです。

では、いったい、どこに教えが隠れているのでしょう?
また、それは、どのような教えなのでしょう?

もう一度読んでみましょう。

「手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、−その人を修行僧と呼ぶ。」

つつしむというのは、乱暴にしないことです。丁寧に慎重にするということです。しかも、最高につつしむ。つまり、それらをけっして無意識でしないということです。
手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしむ。
手も、足も、言葉も、マインドがコントロールしています。ですから、そのマインドが、無意識に何かをすることがないように、常にチェックしなさいということです。

「思わず」手が出る。「思わず」足が出る。「思わず」言葉が出る。
ということがないように、最高に覚めていなさいということです。

また、何か心配事や、大きな問題を抱えていると、マインドは上の空で、いろいろなことをしてしまいます。無意識で食事をとり、無意識で会社に向かい、無意識で改札を抜けます。
また、強欲で自分のことばかり考えていると、無意識で人に対して冷たい言葉や、きつい言葉を投げつけます。それに気がつかないことすらあります。

「そうですね。そのように無意識で何かをするようではいけませんよ。修行者は、常に、覚めていなさいよ。」

と、背後から、すーっと、お釈迦様の登場です。

「いいですか、修行者は、常に修行です」
「はい」

お釈迦様が、講義に来られたようです。
私達も修行者に混じって、一緒にお釈迦様の言葉を聞きましょう。
お釈迦様は、皆の前に座って、そして、ゆっくりと話し始めました。

「いいですか、みなさん。座って瞑想しているときだけが、修行じゃありませんよ。日常の生活からも、修行です。瞑想の時だけ覚めていて、通常は眠っているのではいけませんよ。日常から覚めていなければなりません」
「はぁ」
「そのためには、まず、手がどう動くのか、手の動きに覚める。何が自分の手をどう動かさそうとしているのか、それを充分意識するのですよ。手だけではありませんよ。足も常に意識しているのですよ。手や足だけではありませんよ。言葉も決して無意識で使ってはいけませんよ。最高に覚めている、一瞬も無意識にならないことですよ。
すると、心の中で自分自身を楽しみ、静かに心が安定して、独りだけで、誰にも依存しないで、充分に満ち足りていられますよ。
いいですか、修行は、日常から始まっています。日常の一挙手一投足から始まっています。
もう一度言いますが、常に、覚めていることですよ。そのためには、手や足や、言葉を、決して無意識で使わないってことです。とにかく覚めている。観照を忘れない。
手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一するのですよ。いいですか、わかりましたか」
「はい」

と一同、うやうやしく礼をしました。

「あのー、笑雲先生」
「なんだい、小松茸」
「修行は、日常から始まっているというのは、分かりますが、お釈迦様の言葉にあった、『瞑想の時だけ覚めていて、通常は眠っているのではいけませんよ。』って、反対じゃないですか。通常は、覚めているけど、瞑想の時は眠ってしまう」
「あはははは、あはははは」
「なんですか、大笑いして・・・・」
「瞑想の時に、寝てしまっては、瞑想にならない。それは昼寝だ。瞑想の修行ではなくて、すわったまま昼寝をする習慣をつけているだけじゃ。それは、瞑想ではない。眠る癖をつけるのは良くない。だから、眠りそうになったらすぐに瞑想を中止した方が良い。瞑想中は完全に覚めていなければならない。日常よりもっともっと鋭敏に覚めている。マインドのどんな動きも見逃さないくらい覚めている」
「ああ、そうでしたね」
「でも、マインドが日常、眠っているなんて、可笑しいじゃないですか。日常は覚めてますよ」
「ああ、ここで、お釈迦様が言っているのは、日常の立ち居振舞いや、言葉使い、あるいは、考え方まで、マインドの勝手気ままににさせていませんかってことだ。それでは、とても覚めているとはいえませんよ。うわのそらになっていませんか、本来の自分が眠っていませんかということだ。」
「なるほど」
「そして、その眠りを防ぐ具体的な方法は、こうですよと教えているわけだ」
「それが、つまり、手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしむということですね」
「そうだ。それが最高にできれば、素晴らしい。すると、マインドを取り押さえたことになるから、直ちに心は安定して、静かに、なる。その感覚は素晴らしいものだ。満ち足りて安心して、とても楽しいものだ。」
「そうですか、そんなに簡単にそうなれるのですか」
「そうだよ。仕組みは簡単だ。そして必ず幸せな気分になる。どのような自分のマインドの動きにも覚めていることが出来るとすぐにそうなれる」
「具体的には、どうするんですか?」
「だから、手や足や言葉を、マインドがどう使おうとしていいるのか、それに覚めているということじゃ」
「そんな、最高に覚めていたら、手も足も気楽に動かせませんよ。超ゆっくりにしか動かせませんよ。言葉なんて、どうするんですか」
「あはははは、そうだね。そのようにゆっくりになる。つまり、慎むということになってくるわけじゃ。でも、出来ない、出来ないじゃなくて、やってみてごらん。すぐに、その効果がわかるよ。そして、完全に覚めていたら、例えば、いつもと同じ動作をいつもと同じ速さでしていても、それらの動きが超スローモーションに思えてくる。これはマインドが超高速で動き始めたということなのだが、すると、とてもくつろいでゆったりした気分になる。そして、心はすぐに安定する、お釈迦様の言うとおりじゃ。そんなに難しいことではない。実践すればすぐに分かる。実践あるのみじゃ」

「一挙手一投足、すべて無意識では動かさない」
「無意識で動かさない」
「つまり、修行ですね」
「そうだ、いつも、修行じゃ。修行が大切じゃ」
「他の結論になることは、ないですね」
「あはははは、あたりまえだ。お釈迦様は修行の先生だからね」
「そうですね。あはははは」
「あはははは」

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今回出てきた、ダンマパダのセンテンス

【326】手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、−その人を修行僧と呼ぶ。
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宝彩有菜

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