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江戸家のすみちゃん

江戸家のすみちゃん

その2:美しい日本語

  土曜日。今日も江戸家の店先に立つ。今日は社長の自転車はない。東京にでも行ったらしい。店の中にはすみちゃんとおかみの姿は見えず閑散としている。
「いらっしゃい」
と、声が聞こえて来た。厨房の暖簾をかきあげて顔をだしたのは、昼間働いているやよいさんであった。
 私はいつものように日本酒とつまみを頼んだ。一人で静かに飲んでいると、すみちゃんとおかみが同時に店の中へ入って来た。おかみは相変わらず大きな声で、
「先生いらっしゃい。いつもすみませんね」
と言いながら、私のそばに来てお酌をしてくれる。85歳を過ぎていると言うのに元気である。時たま、小走りで店内を歩いている。私の方を見て、
「先生、あまり飲んではだめよ」
と声を掛けるが、めがねの奥で絶えず私を観察し、私の心をお見通しのようで、おかみの前ではあまり落ち着かない。
 すみちゃんが和服に着替えて、鼻の頭に汗を掻きながらカウンターの中に入って来た。急いで来たらしい。私の前でたすきを掛けなおしたあと、早速私に酌をしてくれる。湯豆腐を摘まみながらゆっくりとその酒を飲む。
 次第に店内は混みだし、客はカウンターや奥の座敷に座りだした。すみちゃんは、
「少々お待ち下さいね」
と言いながら、忙しく厨房と客の間を往復し始めた。
 少々お待ち下さい、と言う声を何度も聞きながら、少々としばらくとではどう違うのであろうか、と考えていた。両方とも時間の間隔を言っているものであるが、少々はしばらくよりも時間が短くは感じる。しかし、少々と言う言葉は、少々の塩とか少々の醤油とかの表現を思い出し、言葉の響きに乾いた無機質の印象を受ける。すみちゃんに限らず、最近、どこの(みせ)へ行っても、少々の接頭語を耳にするが、少々は、しばらくとか少しとか(ある)いはちょっととか言うよりも、多少美しい日本語に入ると思われるから使われているのか、或は時間を短く感じさせるから使われているのか、私にはよく分からない。そう言えば、美しい日本語の講座とか美しい日本語の書き方とかいった(たぐい)のものが最近やたらに目に付いている。
 美しい日本語とはどんなものなのか。文法通りに文が整理され、誤字、脱字もなく、副詞や修飾語の使い方も正しく、書かれた内容が読者に感動を与える、そんな文章であろうことは想像できる。しかし方言を入れた口語体でも美しく感じる時はあるし、平仮名(ひらがな)だけの文章でも美しい。
 私の祖母は私が中学を卒業して高校から大学へと下宿生活を始めてから、私にしばしば手紙をよこした。それも平仮名とカタカナの()じったミミズの()ったような字で書かれていた。小学校も満足に出ていない祖母にとっては、無理もないことであるが、自分の意思を私に伝えることは、大変な努力を要したに違いない。修飾語も副詞も使わずに、ただ単刀直入に思いのままを(つづ)ってあった。

 まさひろ。なつヤスミニナッタラスグニカエッテキテクレ。マッテいる。ユビオリカゾエテマッテイル。

と言った調子である。しかし私は手紙を読むたびに泣けて仕方がなかった。祖母の優しい真情が胸に迫って来たからである。美しく感じる日本語とは、このように人の心に率直に語りかけられたものだと思う。
 逆に美しくないと感じる例は、新聞記事とか私も時々書く論文などである。情報を如何(いか)に正確に伝えるかのみで、感情のかけらも感じられない。
 酒のお代わりをする。すみちゃんは微笑(ほほえ)みながらほんの少しの()を置いて、最初の一杯(いっぱい)()いでくれた。
 要するに美しい言葉とか美しい文は、その人の感情が素直に入ったものでなければならず、そのためにはその人自身が純粋で美しい心情でなければならない。そうでなければ、単なる言葉の羅列(られつ)に過ぎず、人に与える感動は少ないと言える。
 そんな取り止めのないことを考えて酒を飲んでいると、社長が入って来た。どこかで飲んで来たらしく顔が少し赤い。家族と食事でもして来たのか、すこぶる機嫌がよい。私の左隣に座り、カウンター越しに、
「すみちゃん。酒をくれ」
と日本酒を注文した。
「少々お待ち下さいね」
 すみちゃんはお絞りを社長に手渡した(あと)小走りで厨房(ちゅうぼう)の中に駆け込んで行った。

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