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文芸欄 私は今年に入って一滴も酒を飲んでいない。特に嫌いになった訳でもなく、医者に強く止められた訳でもない。いつもたらふく酒を飲んでいた私を知っている知人は、何故止めたのかと聞くが、その時私は格好良く、 「末期の酔いを尽くしたから」 とか言って誤魔化している。要するにただ飽きたのである。酒は美味い。特に日本酒は格別である。しかし如何に美味い物でも飽きるのである。飲めば酔う。私はその酔うことにも飽きてしまった。何時か、すみちゃんに、 「来年から酒を止めるよ」 と言ったら、お酌をしながら、 「寂しくなるね」 と、ひとことポツリと言っていた。 土曜日の夕方、久しぶりに江戸家を覗いて見た。今年初めてである。すみちゃんとおかみが何時ものようににこやかに迎えてくれた。 「先生、酒を止めたんだってね」 おかみは大きな声で問いかけていた。末期の酔いを尽くしたとも言えず、医者の所為にした。すみちゃんに、烏龍茶とライスと猪豚鍋を注文した。 私が、ひとりで食事をしている間、すみちゃんは私の前に立ち、何かと話しかけていたが、ついに何に可笑しくなったのか、口を押さえて笑い出していた。 「何が可笑しいの」 「何時もの先生と違うから」 「何が違うのだい」 「だって、変におとなしいから」 すみちゃんは、笑い声を出さない時は、声を出さないように目を真っ赤にしてこらえていた。いい人だと思った。それからは食事だけでも行くようにしていた。それもすみちゃんの居そうな日にである。何時か、なん日に来るか、と聞いたことがあった。火曜日と水曜日と土曜日。そして最後に、ほかの客に自分の顔を見られないように私を見ながら、 「待っているから」 と、カウンター越しにささやいていた。 しかし酒を止めるとどうしても足が遠のくものである。行く度に烏龍茶一杯と食事だけと言う訳にもいかない。そうこうするうちにふた月が過ぎてしまった。ある日、店の常連客から突然電話があり、 「すみちゃんがとんでもないことをしでかした」 「まったく考えられないことだが、店に働いている男と突然消えてしまった」 私は嘘だろうと思った。夫のいるあのすみちゃんがそんなことをするはずがない。何度問い返してもどうも本当らしかった。そう言えば昨年であったろうか。 夕方五時半頃、彼女の夕食が始まる。店から出された物をカウンターの隅でひっそり食べるのが彼女の勤めの始めである。その日私がひとりで酒を飲んでいると、 「そばに行ってもいい」 と言いながら、お盆に自分の食事を載せて隣に来た。彼女の温もりが伝わってくる距離である。彼女は、私が断るのも構わずに少ない彼女のおかずの中から、焼いた小魚を私の皿に移していた。何を話すこともなく、ふたりはただこぢんまりと座って食事をし、酒を飲んでいた。客は私、ひとり。おかみは相変わらず入り口近くに座って新聞を読んでいる。 「わたしは、突然消えるわ」 「そう、寂しくなるね」 その時私はその言葉の意味もわからずに呟いていた。 すみちゃんはその言葉通りに見事に消えたのである。本当であれば、夫を捨て、新しく出来た恋人と一緒にである。 人間は、善と悪を持っている。善だけの人間はいないし、そうかと言って悪だけの人もいない。時々小さな嘘を言ってみたり、人の悪口を言ってみたり、また時にはお世辞を言ってみたり、これらは善なる物の中にかすめる悪の小さな症状である。そして、私は過去本当に悪しかないのではと言う人に数人出会ったことがあるが、ほとんどの人間は善であるはずだ。他人を殺して懲役の罪になるのは、いっとき余程魔がさしたのであろう。 すみちゃんの心の片隅に小さな悪が芽生えてしまったのか。しかし彼女にとっては、それは善なる物で、そうすればより幸せになれると信じたからこそそうしたまでなのかも知れない。人間の不可解なところである。 紺がすりに赤いを付けて元気で働いているすみちゃんが目に浮かぶ。何時か何処かの居酒屋で彼女と巡り会えたなら、その時は彼女のお酌で思いきり酒を飲むつもりだ。 彼女の白い手や優しい笑みを思い出しながら、土曜日の夕方、もしかしたら、そんな思いで江戸家の店先に立っていた。 何時の間にか、風鈴売りの賑やかな響きが遠ざかっていた。
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